本書は、これからの情報化社会において、あらゆる階層の人々にIT/ICT(情報技術/情報とコミュニケーションの技術力)を身につけた人材を育成すべく企画された「情報がひらく新しい世界」シリーズの第3巻として刊行されたものであるが、情報倫理とはどのようなもので、どのような事柄を対象とするのかという問題に対し、極めて身近な問題を取り上げ論じられている。
本書の構成は、第1章「情報化社会の到来」、第2章「知的所有権とプライバシー」、第3章「情報倫理」、第4章「情報危機管理」、第5章「ケーススタディ」、付録A「学校における情報危機管理と情報倫理教育」、それと巻末にある「文献ガイド」からなるが、以下では情報倫理が中心的なテーマとなっている第3章を取り上げ、紹介していく。
著者は、情報倫理の対象がなんであるのか、あるいはその定義はどのようなものなのかといったことは依然としてはっきりしていないということを冒頭において指摘した上で、現在情報倫理として扱われている様々な対象を紹介し、それがどのような経緯で「情報倫理の問題」と呼ばれるようになったのか、さらに、問題点の解決には何が必要なのかを考え、これらの対象が問題とするものが、どのようになっているのかを明らかにしていく。
情報倫理はどうして「倫理」なのだろうか。ここで筆者は、「倫理」という言葉を「一面的な善悪の基準では矛盾するときに、どうやって考えるか、導くべきかを考えること」と定義し、「『大原則』としての情報倫理」と「『規約』としての情報倫理」について論じる。前者においては、情報倫理を「人間の生活習慣、マナー、規約などを作る上での大原則」といった倫理的立場から考えるものであり、筆者は黄金律を元に「自分に対するのと同じように他人に対せよ」というのを大原則と呼び、ここから「他者の通信を邪魔しないように通信せよ」や「受信者が解読できるように送信せよ」といった具体的な原則を導き出してくる。
「『規約』としての情報倫理」では、倫理を「倫理網領」や「倫理規定」のような「詳細な行動規範が並んでいる規約集」として捉える。この立場から情報倫理を、「情報ネットワーク社会や情報ネットワークの存在を前提とした社会におけるルール集」とする。
次に、善悪と法律的な強弱について検討される。たとえば、教育目的で著作物の利用は認められているが、それは「無制限、無許可、無表象で著作者の利益を害するような著作物の利用」までは認めていない。ここで、ある人が「学校で使うんだからちょっとぐらい構わない」だろうと考えたとする。すると、本人は「善」と判断して行動していても、法律的には「弱い」立場に立つといったことになる。情報倫理を考えるにあたっては、「善悪と強弱は独立の概念である」と認識することが必要なのである。
「原則」とは、さまざまな現象を記述するにあたって、例外なく成立している明文化された規則のことであるが、情報ネットワーク社会においても、何を「是」として考えるべきかをはっきりさせて、そのことについての共通認識をもつことで、情報ネットワーク社会や情報化社会における判断体系を議論することができる。そのことについて、本書では情報化社会において守るべき原則として、具体的に「自由」「公平」「公正」を取り上げて論じている。
情報ネットワーク社会における自由とは、たとえば「電子メールの内容はこうでなければならない」といったような規制を持たないことであるが、自由には当然責任がともなうものであり、情報ネットワーク社会においてもそうでなければならない。
情報ネットワーク社会では、公平性がほぼ保たれている。たとえば、ある小学生が出したパケットと大統領の出したパケットの扱われ方が等しいという点で、公平であるということができる。
情報ネットワークにおける公正とは、ネットワーク機器が定められたとおりに動作するという保証にほかならない。たとえば、ある銀行のコンピュータ上での預金データが変わることと、現実社会における預金のデータとは対応していなければならない。
情報化社会においては社会常識も異なってくるが、このことを理解するためには、単に「人間社会を生きる根本原理」だけでなく、「発達した情報ネットワークを前提とした根本原理」を理解する必要がある。
例えば、「壁のスイッチを触ると部屋の電灯がつく仕組み」をきちんと理解することは「必要な知識」の一部分である。私たちは、「スイッチの状態」と「電灯の点灯と消灯の状態」を経験的には知っているが、その原理がどうなっているのか、因果関係がどうなっているのかという仕組みは「必要な知識」なしには説明できない。因果関係を理解することは、この「仕組みの存在」を意識することであるが、現在私たちが暮らす社会においては、因果関係を理解することは難しくなってきている。というのも、ラジオを分解してもいくつかのLSIがつながっているだけであるし、アナログレコードの針のかわりに紙の角をあてると、紙から音がしたといったことは現在のCDでは再現できないからである。
プログラムについての知識も必要なことである。プログラムとは何か、コンピュータの動作を制御するとは具体的にどういうことなのか、ということを知るのはコンピュータウイルスがどのようなものであり、どのようにして広まっていくかという知識を持ち、どのような行為をしてはいけないかを判断するために必要な知識である。
また、コンピュータに指示を出すときには、「コンピュータの処理速度はいったいどのようにして決まり、それはどのようなものなのか」という計算量の感覚が必要であるし、「キロ」「メガ」「ギガ」「テラ」といった単位が何を指しているのかを理解できないと、情報ネットワークの世界の話を理解することは難しくなってくるだろう。
さらに、情報ネットワーク社会で適切な判断を下すためには、ネットワークにおけるパケット転送の仕組みを理解する必要もある。
情報ネットワーク社会での知識として、ISOやIEEE、JISといった情報処理技術の規格を知る必要もあるだろう。インターネットの世界ではこれらの工業技術に加えて、RFC(Request For Comment)という要請が明文化されており、RFCは電子メールのあて先や送信者のメールアドレスの記法、メール本体に用いてよい文字のコードの種類や、ネットニュースやWWWでの通信の決まりなどを定めている。
技術的な知識だけではなく、文化的な違いについても知る必要がある。インターネットなどの情報ネットワークを使うことにより、世界規模でのコミュニケーションが可能になるが、まさに文化の違いの理解は世界規模まで押し広げられている。法律などの規則もネットワーク利用者が知っておくべき知識であるし、応用倫理的な立場として「生産者倫理」と「消費者倫理」というものが存在するということ、いろいろな倫理的立場についての考え方に関する知識をもっておくことが望ましい。
情報ネットワークを利用するときの判断として、大きく「法的判断」、「技術的判断」、「習慣、文化、常識的判断」、「政治的、宗教的判断」を考えることができるが、情報ネットワークを利用するにあたり、どのような判断が必要とされているのであろうか。
たとえば、情報ネットワーク社会における法とは必ずしも技術的な判断だけではなく、他者とのコミュニケーションを円滑にするための非技術的な規約も含んでおり、以下に挙げる技術的規格としてのRFC1855「ネチケットガイドライン」というものも法ということができるし、習慣や文化についての斐技術的な規約も法ということができる。
ネットワークを維持するために、その参加者が守るべき「技術的規格」というものが存在するが、その一つに先に述べたようなRFCというものがあり、たとえばRFCの文書番号822番は、電子メールのヘッダに関する細かい定義がしてあり、私たちは規格の仕組みや意味を理解していなくても、それらの規格に従ったソフトウェアを私用している限り技術的な面においては安心して通信ができる。
24bitフルカラーで保存された大きな写真を自分のWebページに挿入していいのかどうかという問題などについては規格がないが、そういった場合には、そのときの技術的な環境を十分考慮して、(技術的な)判断を下す必要がある。したがって、Webページに画像ファイルを添付してよいかどうかというのは規格のない技術的判断である。
情報ネットワーク社会においては、習慣的、文化的、そして常識的な判断が求められる。それは、通信で使う文字コード体系の決定や、Web掲示板でどのような内容なら書いてよいのかという判断をする際に問題になってくるし、今後、携帯電話やPHSについても、なんらかの判断が求められてくる。
電子メールの送受信などの情報ネットワーク社会におけるコミュニケーションでは、政治的、宗教的問題にも慎重でなければならない。相手の事情が自分とは異なるということを十分配慮した上で、政治的、宗教的判断をする必要がある。
ある事柄について倫理が問題にされる場合、例えば情報倫理というのもその一つであるが、その場合の倫理には倫理学的な側面と、実践的・技術的な側面があり、それぞれの側から当該の問題について考える必要がある。倫理学的な側面では、問題について専門的な見地から、倫理学説を適用したときにどのような判断が導き出されるかということを扱い、実践的・技術的な側面では、その問題を法的・技術的見地から見たときにどのような判断が結果として導き出されるかということを扱うといってよいだろう。
本書では技術者の立場から情報ネットワーク社会におけるさまざまな問題を取り上げ、情報倫理について論じられている。これは私たちがまさにその問題に直面したときに、大変有効なガイドラインになるであろうし、そのための指針を与えてくれている。その意味で、本書は情報倫理の入門書といってもよいだろう。ただ、目まぐるしく変化しつづけるこの情報化社会において、私たちが新たな問題へと直面したときに、どのように対処すべきかということは重要かつ深刻な問題であり、その問いに対処し答えていくためには、倫理として問題にされる事柄の本質的な要素を理解しておく必要があるし、なぜそれが倫理として問題にされるのか、あるいはそもそもなぜ我々は倫理的にふるまうべきなのかといった倫理学に固有の問題を理解する必要があり、そのためには倫理学としての情報倫理もまた視野に入れていかなければならない。
先にも述べたとおり、本書は情報倫理の入門書として大変優れたものであるが、情報倫理の根底にある原理的な問題については、なんらの解決法も提示されておらず、著者が冒頭において述べているような、「情報倫理の『倫理』の部分」というのは本書のどこを探しても全く見出すことができない。そういう意味においては、倫理学としての情報倫理を学ぼうとする読者にとっては妥当なものとは言い難く、今後そのような本が多く出版され、読者に読まれるようになることを期待する。