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臓器移植法案の可決

加藤尚武


自民党の中山太郎氏らの提案する臓器移植法案が、一九九七年四月二四日、衆議院で三二〇票対一四八票という比較的おおきな票差で可決された。共産党を除く各党は、党議で議員に可否の拘束をしないという決定をして議決に臨んだ。アメリカの議会では、議員が党議に拘束されない票決をすることが、しばしばあるが、日本ではほとんど前例がない。政党と議員との関係の問題としても、議論のまとになるだろう。

実は「臓器移植法案」は国会の会期切れになるという経緯で九四年と九六年に流産している。どの政党が与党になるかという政党間の駆け引きの方が、優先されたためで、臓器移植によってしか生き延びる機会をえられない患者の生存権に基づく医療を受ける権利(医療アクセス権)の侵害という事態が続いていたことに政治というものが鈍感だという印象を与えていた。

しびれを切らせた日本移植学会は、昨年九月二八日に、脳死臓器移植を認める法の成立を待たず、独自に脳死移植を実施することを決めた。これはいわば臓器移植の見切り発車宣言である。臓器移植法案が国会解散で廃案となったためである。

法案が廃案になったから法律の制定をまたずに脳死者からの臓器移植を実行するというのなら、そのそも何のための立法だったのかという問題がでるだろう。移植学会が「法律ができるのをまって移植する」という声明をだしたのが、昨年10月のことで、もともと法律が成立しなければ脳死者からの移植は違法となるのかどうかという点があいまいだった。

この問題を掘り下げれば、脳死者からの臓器移植という医療技術の恩恵を受ける権利(医療アクセス権)は、どうような条件で成立するかという問題にぶつかる。個人主義の立場では、医療技術が生まれた時点で、患者は生存権と幸福追求権に包括されるものとして、その技術のアクセス権をもつ。しかし、社会性を重視する立場では、社会的なコンセンサスが法律という形で成立した時点で、患者のアクセス権が成立する。代理母とか性転換とかについては、社会的なコンセンサスが必要だと主張する人が、脳死者からの心臓移植についてはアクセス権の個人主義的成立説を採用している場合がある。つまりアクセス権の成立条件をどちらにするかという点を曖昧にしたままで立法化の動きが始まった。

社会的なコンセンサスが脳死臨調の答申で成立したと考えている人もいる。脳死臨調の報告をコンセンサスの不成立を意味すると解釈する人もいる。脳死臨調の評価という点も曖昧にしたままで「法案が成立すれば問題はなくなる」とタカをくくっていたところが、政争の余波で法案が流れてしまった。


検死問題

そもそも臓器移植法という法律がなければ、臓器移植は違法になるのかどうかということがあいまいなままに国会に提案されていた。

法律が必要だという判断に多くの関係者が達した直接の理由は、検死問題である。92年1月にオートバイ事故の被害者から脳死状態で臓器の摘出をしようとしたら、大阪府警が「検死ができない」と異議を出した。93年10月にも同じく大阪の千里救命センターで脳死状態の人からの移植が試みられたが、大阪府警からの異議で「心臓停止後の摘出」という形で肝臓移植が行われたが、レシピエントの患者は94年1月4日に死亡している。これらの事件以後、脳死者の検死体制をとれるように法的裏付けを与えるために法案が出されたのである。

それならどうして検死についての法的規定(刑事訴訟法など)を改正しなかったのか。それは脳死と臓器移植という問題について、国民の世論が安心できるような判断の枠を誰も示していなかったから、その不安を一掃するために臓器移植法という形が必要になったのだと思う。

和田移植事件(六八年八月)は、脳死判定の密室化を防げと言う世論を喚起した。

立花隆の脳死論(八五年)は、脳の機能の停止が永久の回復不可能性の証明になるのかという問題を出した。

脳死臨調での梅原猛の異論(九二年)はそもそも死について決定する権限が誰かにあるのかという問題を投げかけた。

今回の国会で議論になったのは、「脳死を人の死と認めるか」という議論だった。中山案はそれを認め、金田案はその問題を回避する形になっている。議論の筋道がはっきりしなままで議決にもちこまれたという印象がする。

ある意見では、「自分や近親者の死という個人の内面にかかわるデリケートな問題に法律が口をだすべきではない。個人の内面をまもるために議決は控えるべきだ。脳死=死かどうかは個人の自己決定にゆだねるべきだ」と主張される。「法律が個人の感情問題に土足で踏み込む」というような表現をする人もいる。

デリケートな個人の内面と法律を対比させるなら、結婚届けもも死亡届も出産届けもできないことになる。死の問題が個人にとってデリケートであるということから、法律的な規定をすべきではないという帰結を引き出すことはできないだろう。問題は、「脳死を法律的な意味での死と認めて良いか、どうか」の決定は個人の感情問題ではないということである。脳死状態の人を法律的な評価として死者として扱うか否かが問題なのであって、十年前に死んだ妻に毎日語り掛けている人に、「お前の妻は死者だから語りかけてはならない」と命じているわけではない。その妻が「草葉の陰にいる」と思うか、「天国にいる」と思うか、「帰らぬ旅に出た」と思うかは個人の自由にゆだねられる。

法律的な意味での「死者」であれば、臓器の摘出は殺人ではない。臓器の摘出について、遺族に摘出の拒否権を認めるのは、「臓器の摘出がすでに殺人ではない」ことが前提されて成り立つことであって、遺族が摘出を拒めば、脳死者はまだ死者ではないのだから、摘出が殺人になるのではない。

「個人の感情的な内面に法律が介入する」という言葉が一人歩きして、臓器移植法案ができると、本来は個人の感情の領域であったものが、法律によって画一的・機械的に決定されてしまうというイメージを多くの人がもつ。「本来は個人の感情の領域であったものが、法律によって画一的・機械的に決定される」てしまうというイメージを多くの人がもつが、しかし、このイメージのような状況は全く存在しないだろう。 

科学的に明確に決定できる問題について、国会で議決することは科学的な真理の決定権を国会がもつような印象を与えるという人もある。「脳死は人の死である」ことは、科学的な事実であるから、それについて国会で議決をしなくても、その真理に変わりはないという意見である。だから、国会で議決などすべきではないという。

しかし、国会は脳死状態の人の法律的な評価を決定したのであって、脳死状態の科学的真理について決定を下したのではない。たしかに「脳死は死である」という科学的真理を承認することと、「脳死者は死者である」という法律的な評価をすることは、事実上同じことではあっても、その意味は違う。

脳死=死はすでに社会的コンセンサスを得ているという人もいる。脳死臨調の回答が、社会的コンセンサスだというのである。立法過程とは、法的な評価を決定することである。その前提となる科学的事実、決定の内容等についての事前の了解がついているという状態が、「コンセンサスが成立している」という事態であろう。事実上、多数派が形成されているという状態が「コンセンサスが成立している」という意味ではない。議決は、コンセンサスの追認ではなくて、国民としての正式の意志決定であるから、議決前の多数世論と反対の議決をする資格が国会にはある。しかし、脳死臨調は、多数派が形成されているという意味でコンセンサスの形成になっていないばかりでなく、国会の議決の前提となる相互理解が成立しているという意味でのコンセンサスにもなっていなかった。

個人(内面的感情と自己決定権)と社会(議決と法律)と学問(医学と生理学)と、三つの発言権が、どこで境目になるのかわからないままに議論が進んでいた。

法律論としては、死の時間認定が勝手に変えられるのは困るという法律家の意見もあった。アメリカなどすでに臓器移植を行っている国の事例を参照すべきであって、カルバーとガートの論文が、心臓死と脳死とことなる判定基準が用いられても、法律的には整合的であることを論じているが、実際に、どのような問題が起こっているかを調べるべきで、素人考えと同じレベルで「死の時間認定が勝手に変えられる」ということはできないだろう。同一の死者について、脳死時間を採用するか、心臓死時間を採用するか勝手に選べるという前提がこの発言にはあるが、そのような事実は起こらない。また、従来の判定方法で、死亡時間が恣意的に変えられなかったという事実もないのであって、主治医に死亡診断書を書く権利を与えているのは、従来、死の判定が必ずしも厳密に決定できないという事実上の事情を反映している。「脳死」を採用すると、「従来は一義的に決定できた死亡時刻が、今度は一義的に決定できなくなる」というのは事実に反する。

移植を肯定すれば末期の患者の治療がおろそかになると主張する人もいた。「早く臓器を摘出したいという動機が働くから」というのである。相続制度と生命保険は、瀕死の人に対する家族の看護をおろそかにすると、同じ理由で主張することもできる。実際に、遺産相続や保険金目当ての殺人は起こる。問題は、そのような犯罪を防ぐ方法が、臓器移植、遺産増続、生命保険を廃止する以外にないのかどうか。臓器移植の利益よりも、早期摘出の危険の方が大きく、臓器移植を禁止する以外に、早期摘出を防止する方法がないかどうかである。「移植を肯定すれば末期の患者の治療がおろそかになる」という危険が、あっったとしても、その危険を防ぐ手段が存在し、移植の利益があるなら法律は成立させるべきである。立法のためのリスク評価という視点の抜けた、単なる素人の憶測に過ぎない「移植を肯定すれば末期の患者の治療がおろそかになる」という指摘が、生命倫理の専門家による倫理的問題点として、ジャーナリズムであつかわれると言う点にこそ問題がある。

これらの議論は、きちんとした筋道を立てて、時間をかけて議論すれば、かなりはっきりした結論が出てくると思う。本当ならば、脳死臨調がそうした論点の整理を行って、国会では何を決めてよいか、個人の自己決定の範囲はどこにあるのか、学問的な帰結という美名のもとに価値判断の押しつけがされていないかどうか。あらかじめ論点を整理しておくべきだった思う。時間の限られた国会の審議が、脳死臨調のしりぬぐいをさせられてしまった。その結果、まだ議論が生煮えのままで議決が出された。その決定ですらも臓器移植をまつ患者の人権という観点から見れば遅すぎた。

まだ参議院での審議が続くだろうが、議論の筋道そのものを建て直す時間はないかもしれない。むしろ、この臓器移植法のもとで、臓器移植が移植が行われた場合の問題点をはっきりさせることを、参議院に期待したい。

まもなく日本での脳死者からの臓器移植の第一例が生まれるだろう。そのとき関係者が、疑問の余地を残すような前例を作るなら、日本での移植医療はふたたび和田移植事件の悪夢を繰り返すことになる。だれが見ても納得のいく、胸のつかえを下ろすような第一号の事例が誕生することを期待したい。(了)


KATO Hisatake <kato@socio.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Mon May 12 JST 1997