大蔵省の汚職事件とその対策

加藤尚武

産経新聞朝刊1998年2月掲載予定の原稿に多少加筆したもの。(1998年1月28日)


大蔵省金融検査室の室長(53)と課長補佐(49)があさひ、第一勧業、三和な どの銀行から接待を受けていた容疑で逮捕され、二七日には三塚大蔵大臣が辞 任した。そのまえ一九日には大蔵省OBの日本道路公団理事(49)が、野村証券 接待を受けていた容疑で逮捕されている。贈収賄どちらのがわからも「これま での慣行であった」という言い訳の声がでている。銀行側にはMOF(モフ) 担当という接待係が決まっていたと言うから、三塚氏が蔵相になる以前から永 年にわたって申し送りで継承されてきた慣行であるにちがいない。三塚氏はい わば無過失責任をとらされた形になっている。これらの被疑者たちは、すでに 出来上がっている接待の体制のなかへ、そのポストにつくと同時に、ほぼ自動 的に巻き込まれていったと考えるべきであろう。

日本経済のバブルがはじけるまえにアメリカで金融破綻が起こったとき、「日 本は大丈夫か」という質問に大蔵省関係者は胸をはって日本にはしっかりした 検査システムが働いているから大丈夫だと答えていた。ところが肝心のリスク を回避するシステムが腐敗していたということが判明した。政治がダメでも官 僚がしっかりしているから日本は大丈夫という信頼の壁が大蔵省という中枢部 分で崩壊した。日本の官僚のなかでも特にプライドが高いと思われていた大蔵 官僚が、新宿のノーパンしゃぶしゃぶの店での接待を要求したという関連ニュー スを見ると、そこにはもうプライドの影もないのだという印象を受ける。

マックス・ウエーバーの『官僚制』(阿閉吉男、脇圭平訳、厚生社恒星閣七十 四頁)によれば、「騎士的、または禁欲的、中国におけるように読書人的、ま たはギリシャにおけるように体育的、音楽的な教養を施され、あるいは因習的 なアングロサクソン的なジェントルマンとしての教養を身につけた人格」から、 「職業人」、「専門家」へと官僚像が変わっていく。しかし、この職業人には Sachlichkeitの訓育がなされるという。日本語の訳では「即物性」であるが、 「感情を交えずに使命・職務を忠実な献身的に遂行する態度」という意味で、 ヘーゲルの『精神現象学』に登場するSache selbst(金子訳では「ことそのも の」)も同じ意味である。しかし、ウエーバーはそこで汚職の可能性について 何も触れてはいない。

丸山学派、大塚学派では、東洋的家産官僚という類型が持ち出され、そういう 精神的な張りのある類型が想定されるだろうが、そうしたものがいわゆる「儒 教的エートス」に支えられて存在していたと言えるのだろうか。むしろ東洋の 資本主義は、その近代化の当初から国家指導型の富国強兵と結びついて行われ ており、官僚と財界との腐敗した癒着関係が伝統的な形であったというべきで はないだろうか。 この癒着構造を襲ったのが超近代的な金融ブローカーだったのは興味深い。ア ジアの経済危機は政府高官の近代以前的な腐敗に目を付けた国際的な投機筋が 信用の崩壊を当て込んでウリに出たことから起こっている。タイ、インドネシ ア、マレーシア、韓国といずれも官僚の腐敗と過剰投資が結びついている。国 際的な投機筋の手口は株の仕手戦に似ているが、世界の貿易決済に必要な額の 二〇倍(一説では百倍)の投機資金が毎日一兆ドル(一説では二兆ドル)の規模で 動いている。この巨額な資金力のまえには一国の財政ですら買い支えることが できない。

もしも日本の与党の政治家がこの汚職対策を国内問題として受けとめるなら、 日本の経済にとってもっと大きな危険を招くだろう。彼らは三塚辞任でまず国 内世論を鎮めて、つぎに新立法で世論を丸め込めば済むと考えているかもしれ ない。そうなると「日本は汚職をして政府機関に取り入らないと経済活動がで きない国だ」という評価がますます強く定着して、国際的に見た日本のカント リー・リスクを大きくして、経済の足を奪ってしまう。

さっそく「公務員倫理法」の制定が話題になっているが、刑法第一九七条を初 めとして証券取引法から競馬法にいたるまで汚職防止を謳った法律はすでに四〇 ほどある(飛田清弘、佐藤道夫『賄賂』立花書房十一頁、山中一郎『官僚制と 犯罪』学文社、一〇五頁)。これ以上法律の文言をいじっても日本の国際的な 信用を回復するのに十分ではあるまい。本当の意味で画期的な内容となるので ないなら、新立法は国内的な気休めに終わり、国際的には日本の評価を低下さ せるだろう。

第一に社交的な儀礼としての物品の授受とどこでけじめをつけるかという問題 がある。これについて日本の判例は「中元歳暮の形をとっても公務員の職務に 関して行われた時には賄賂となる」ということを何度も明言(飛田、佐藤『賄 賂』一九一頁)しており、ゴルフの接待、株式の新規発行の際の便宜提供、住 宅ローンでの有利な条件の提供など法的な抜け道になると、今回の事件の関係 者が信じていたということはありえない。彼ら法学部出身の秀才たちは明確に その接待が違法だと知っていたはずである。だから、職務行為と対価関係にあ る「可能性」があれば賄賂と認定できるという程度にまで厳しくし、「賄賂と 知らずに受け取った」という言い逃れを封じるのでないと賄賂の防止には役立 たない。つまり、賄賂でないという立証責任を、贈賄、収賄の両当事者に負わ せる体制を作るべきだ。

第二に罰則の強化であるが、賄賂の事件では執行猶予になる率が高いと言われ て(飛田、佐藤『賄賂』三二頁)いる。また罰金の額が実質的な意味をもつよう に訂正するということも指摘されるが、これはすでに実行に移されている(平 成十年「犯罪白書」)。

最大の問題は、不正に金銭を得た人間が摘発されて名誉は失っても、その金銭 はそっくりふところにいれたままという不合理性だろう。英米では実際の損失 額の二倍、三倍の金額を「懲罰的罰金」として課することが認められていて、、 民間と民間の間に懲罰的罰金をみとめるとアメリカ型の巨額の懲罰的罰金を目 当てにした訴訟が増えるという弊害が起こる。公共の利益を傷つけた官民の間 の賄賂については懲罰的な罰金を導入してもいい。

英米では歴史的に重罪人にたいして「私権剥奪」(attainder)という刑があり 子孫永遠に累がおよぶように全財産を没収するということが行われていた。こ れがあまりに過酷だという理由でイギリスでは一八七〇年に正式に廃止し、ア メリカでは一八世紀末までに消滅した。

しかし、多少の刑罰を受けても巨額の金銭を得る方がいいという麻薬販売者な どの犯罪がでてくると、うさんくさい利益をえている人間をゆるすなという声 も当然あがってくる。アメリカの包括犯罪規制法(一九八三年)、イギリスの薬 物取り引き規制法(一九八六年)、オーストラリアの犯罪収入規制法(一九八九 年)によって、犯罪によって得た利益を没収して国庫に入れるという道が開か れた(渥美東洋『罪と罰を考える』有斐閣、一〇一頁)。警察に捕まって名誉は 失ったが自宅の金庫には金塊や現金や証券類がぎっしりという不正をだまって 見ている必要はない。

汚職の防止のために「罰則の強化」をうたって厳しい対処すると口先でいうに とどまらず、不正によって得た利益を没収するというところまで踏み込んだ立 法をするかどうかが問われるだろう。

第三に贈賄側について、監査部門の独立化を確立しなくてはならない。今回の 接待費がどのような名目で支出されているにせよ、総会屋に渡す金と同じよう に、正常な会計監査を通過することのないような金銭処理をしている。使途不 明金の扱いなど不明朗な支出が不可能になるような体制を作る必要があるが、 その第一歩は監査部門の独立化だろう。

株式会社の監査部門については、法律の上では、ドイツやフランスの二層構造 会社の場合のように監査部門を独立させるというやり方と、英米とフランスの 一層構造会社のように取締役会が担当する場合がある。その基本精神はどちら の制度でも、監査の独立性を保証するという点にあるが、そのための実効性を どのように保証するかが悩みのタネになる。

日本では社長が監査役を任命することができる。法律の上では、株主総会が取 締役、監査役の任免権を持っているのだが、実際に会社の重役会を掌握すれば、 すべてが内々でことを運ぶことができるという「家族的結合」の体質がつよい。 だから総会屋に金を渡して株主総会の決定権を骨抜きにし、取締役社長を家長 とする家族的結合のなかで誰からも批判や吟味を受けずに会社を経営するのが よいとされている。形式に近代化しても実質的に近代以前の体質を保っている。

総会屋問題と監査の独立性の不在とは循環構造をなしている。総会を骨抜きに して会社を社長と重役会のために私物化するという体質があり、この「家族的 結合」を守るためには、総会屋を沈黙させる必要がある。

この執行する部門と監査する部門が独立していないという組織体質は日本の社 会全体に行き渡っている。原子力発電の業務を担当する役所が同時にその廃棄 物を監督する役所でもある。原発で事故が起こって報告書の改竄ができるとい う体質は、そうした「家族的結合」にある。たとえば廃棄物についての監査業 務は環境庁にするというような実行と監査の分離が必要である。ところが、大 蔵省の銀行関連の業務とその監査との間の分業化もまた今度の事件が妨げになっ て実行されない可能性があるという。

外からのまなざしを避けて内々のなあなあでことを決するという日本的な組 織体質を具体的に変革する原理は、「どろぼうに縄を作らせてはいけない」、 つまり、広い意味での外部性の導入である。現在、日本で外部性の導入が明文 化されている例は「航空事故調査委員会設置法」(昭和四八年)のようにきわめ て少ない。しかし、グローバル・スタンダードの時代に耐えるリスク防止のシ ステムとして外部性の導入が不可欠なのである。


KATO Hisatake <kato@bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Jan 29 01:06:21 JST 1998