ビジネス・エシックスからみた日本的経営の行方

加藤尚武

京都大学大学院文学研究科教授

これは雑誌『RONZA』1996年6月号に掲載されたものです。


敗戦直後のさまざまな論調のなかに「敬語廃止論」というのがあった。日本が戦争に負けたのは、上下の身分差別のせいだ→身分差別は敬語に現れる→敬語を廃止して日本人の精神を作り変えなればならないというのだ。アメリカ的な経営学を導入しようという動きは、そんな精神状況ではじまった。昭和30年代に「アメリカ詣で」がさかんになり、出版界に「経営学ブーム」が起こったのが昭和37(1962)年である。(注1)

注1、壽永欣三郎、野中いずみ『アメリカ経営管理技法の日本への導入と 変容』、日本経営史4、岩波書店。この問題については、私の判断は主として 兄・加藤尚文から教えられた知識に基づいている。

 補遺:「経営学」導入の中心母体は、日本生産性本部。QCなどのノウハウ とともに、労務管理のノウハウなどの導入がはかられたが、初めから日本の労 務慣行とは異質であり、極めて短期間に「導入不可能」という判断が生まれて いた。しかし、製品の品質管理などの方法は、アメリカを超えてまで厳密に適 用されるようになる。モノの管理は導入し、ヒトの管理は導入しないという使 い分けが行われた。

アメリカ経営学の直輸入などできないという見極めと同時に「日本的経営」 の見直し時代がくるが、これは日米貿易摩擦とほとんど連動している。69年 から71年の線維摩擦のときには、まだ「日本的経営」賛美にはならなかった。 74年から77年の鉄鋼、カラーテレビ摩擦を経て、79年自動車摩擦になる とはっきり「日本的経営の優位」が浮かび上がってくる。

ところが92年宮崎義一『複合不況』の売り上げの延びと平衡して「バブル 崩壊」という言葉が定着していく。そして94年の『経済白書』によれば、日 本の企業のアンケートによると「年功序列制は維持できない」という回答が 78%になる。年功序列、終身雇用、家族的帰属という特色をもつ「日本的経営 の終わり」が始まるのだろうか。護送船団方式が規制緩和という形で終わって 行くとすると、日本の経済と経営の体質は、政治の世界で55年体制が終わっ たのと同様に完全に別のシステムに転換するという結末をを迎えるのだろうか。

阪神大震災、オウム事件で日本の安全神話が崩壊したと言われるが、大和銀 行不正事件、住専処理問題は日本的経営の危機管理能力の弱さをさらけ出す結 果になり、さらにエイズ薬害問題によって日本の官庁の管理能力に対する神話 も崩壊した。

何もかも変わって行くかもしれないという不安を多くの人が感じている。そ れなのに人類の未来を指し示す歴史の指標が、自由主義対社会主義という対立 構造が失われるとともに不在化してしまっている。(注2)

注2、加藤尚武『倫理学で歴史を読む』清流出版で、近代の歴史哲学を総 括して、未来文明を方向付ける方法論の基本線を示した。
[補遺]歴史の認識 論を楯にとって、歴史認識に対して懐疑的な姿勢をとることで、歴史について 沈黙することは、厳密な証明ができないという理由で倫理学を断念するのと同 じ間違いだろう。

こういう時代には、歴史の大きな波と小さな波とを読み違えないようにする ということが、まず大事である。為替レートとか対米貿易黒字額とかのように 短期的な変動要因と、雇用慣行とか企業文化とかの長期的な変動要因を混同し た説明に踊らせれないためには、いくつかの長期的な指標をしっかり見る必要 がある。

たとえば1995年の完全失業率が3.2%という過去最悪の記録であると いうことを、どうみるか。外国の失業率と比べれば明らかに低い。その理由を ポール・オルメロットは次のように説明している。「日本人は、生産性の低い、 民間のサービス産業のコストを文句も言わず払ってきた。ヨーロッパの失業率 が低い国では、最終雇用者の機能を果たしてきたのは公共部門で、そのコスト は個人消費よりも、高率の税金として現れる」(注3)と述べている。しかし、 いわゆる「日本的雇用慣行」(注4)が失業率の低さに現れているという見方 の方がわれわれには実感がある。その雇用慣行、たとえば終身雇用制度がなく なっていくかもしれない。しかし、アメリカの雇用慣行も変わっていく。どち らも景気の変動よりもゆるやかな長期的な変動の波である。

注3、『経済学は死んだ』斎藤精一郎訳、ダイヤモンド社、282頁
[補遺]この書物の本当の面白さは、経済学に対する認識論的な反省である。 一種の実在論を前提にしたとき、「経済法則そのものが歴史的に変化していな いかどうか」という問いの哲学的な含意が問題になる。

注4、 小池和男『日本の雇用システム』東洋経済新報社。小池氏の主張は(1)日本と外国と は人が言うほど大きな違いはない、(2)日本的雇用はすぐれているという二点か らなりたっているが、一方を強調すれば他方の意味がなくなるという構造になっ ている。

アメリカの今後を占うのに、大統領選挙での争点を読むというのは、一種の 定石になっていると思う。いつも大きな争点になるのは、内政問題では失業が 増えるか減るかという点であって、自分の功績を誇るときには、「自分の政策 によってたくさんの仕事を創り出した」と言う。「仕事を創る」(create job) という言葉は日本人にはなじまない。「創る」(create )というのはもとも とは神が天地を創るように「無から有を生ずる」という意味だから、「仕事を 無から創りだす」という語感を含んでいる。

ブキャナンにインタービューしたジャーナリストの質問の焦点が、「企業責 任」(corporate responsibility)をどう見るかという点にあったのは、見逃 すことができない。つまりブキャナン流の保守的な自由主義は、企業責任につ いて甘い路線になるのではないかという問題点をジャーナリストが追求してい るわけである。企業は、利潤の追求以外の社会的な責任を負わないというのが、 保守的な自由主義の原則である。この点をもうすこし掘り下げると「仕事を創 りだすことは、企業責任にふくまれるかどうか」という問題になる。逆に、失 業の発生が企業の責任と見なされるようになれば、資本主義は根本的に質の変 わったものになるかもしれない。

クリントンが得意満面という表情で電気関係の工場見学をしているニュースも あって、あきらかに選挙目当ての自己宣伝だという趣旨の解説がついていた。 その企業では従業員を解雇しないで、売り上げを36%と伸ばしたというのだ が、まるでそれがクリントン政策の勝利の証明のように扱われる。日本でも高 度成長の時には、まるで自民党の政治家のおかげで高度成長が達成されたかの ような話が各地の選挙戦で繰り広げられた。

クリントンの得意満面の蔭には、アメリカ経済と自由主義の未来にとって大 きな問題が隠れている。問題の核心は、一言で言うと「解約任意雇用 (employment at will 略してEAW.)が自由主義の根本原則である」という立 場を、支持するか、それを廃棄するかという問題である。

解約任意雇用の原則というのは、「何人も自分の雇い人を任意に、人数の多 少にかかわりなく、充分な理由があればもちろん、理由がなくても、またたと え道徳的に正しくない理由のためでも、それが法的に不正を犯すことにならな い限り(even for cause morally wrong without being thereby guilty of legal wrong)解雇することができる」という1884年にテネシー州ででた 判決文に表現されている雇用者の任意解雇権の通称である。イギリスには存在 しない、アメリカだけの原則で、雇用者の権利を「恣意的な解雇の権利」にま で拡張しているのが特徴的であるが、しかし、自由主義の原理から引き出され る帰結だと考えている人も多い。景気がよくなったら雇い、不景気になったら 解雇するという企業経営が成り立つための支えだと言ってもいいだろう。この 原則の存続を認めるか、どうか。

クリントンが自分からこの問題をだすとは思えない。それは選挙の争点とし ては大きすぎる。重すぎる。誰も自由主義そのものの本質にまでからまる「解 約任意雇用」(employment at will)の原則の是非を争点に持ち出すほど大胆 ではない。しかし、問題の本質は、まさにこの点にある。日米の雇用慣行のな かでもっとも対照的だとみなされるのもこの点である。

企業責任の範囲に「従業員の雇用の確保」が含まれるかどうか。

ビジネス・エシックスの中心問題は 「企業は利潤追求以外の社会的な責任を負うか」とい う点にある。雇用問題の場面をビジネス・エシックスに置いて、現代の経済と いう社会文化のありかたを考察することができそうである。

1、フリードマンの保守的自由主義

ビジネス・エシックスという学問は、70年代ごろから、アメリカの大学や ビジネス・スクールで教えられるようになった教科で、現在では約半数の高等 教育機関で開講されている。哲学や神学出身の学者が、大学やビジネス・スクー ルに「ビジネス・エシックス」を売り込んで、「仕事創り」(job creation) をして、自分たちのポストを獲得したというのが、一面の事情である。だが、 同時に、さまざまの企業経営上の不正が続出するとか、ウオーターゲート事件、 日本との関連で起こったロッキード事件などの影響のために、倫理性を身につ けた経営者が要求されるという社会的な背景もある。社会の側では「倫理性を 身につけた経営者の養成」のために、「ビジネス・エシックス」の講座を設 けたのだが、ポストを得た哲学者達が、勝手に経営に対する倫理学的な批判を 展開しはじめてしまったという印象も否めない。すると、せっかく「仕事創り」 (job creation)に成功した彼らがふたたび職を失う危険もある。

ビジネス・エシックスが「市場経済のための倫理学」なのか、「市場経済を 批判する倫理学」なのか、どちらの可能性も抱え込んだままで、どちらかとい うと哲学的というようりは、事例研究を中心とする実務的なものに変容しつつ あるという印象を私はもっている。

ビジネス・エシックスの領域で論文や著作を書いているひとびとを大別すると、 (1)「ビジネスに倫理なし」と断定する保守主義的な自由主義者、 (2)「ビジネスに倫理なし」という保守主義的自由主義の立場は否定するが、企業責任を直接 の関係者の範囲で考える立場(宮坂純一『現代企業のモラル行動』千倉書房参照)、 (3)不特定多数の人々のサービスを企業の倫理的行為として推賞する立場 とがある。保守的な自由主義とそれ以外の立場との間の対立が、ビジネス・エ シックスのもっとも基本的な問題であると言ってよい。

その保守的な自由主義を代弁する基本的なテキストは、ミルトン・フリード マンの「企業の社会的な責任はその利益を増大させることである」(注5)と いう主張にある。

注5、The Social Responsibility of Business is to Increse its Profits,1970----私が調べた範囲内では、ビジネス・エシックスの教科書(リー ディングス)にもっとも多く共通して採用されている。

フリードマン根本原則は彼の著作である「資本主義と自由」からの次の引用 文に要約されると言っていいだろう。「いわゆる『社会的責任』という教義を 本気で受け取れば、人間のあらゆる活動の政治的なメカニズムの視野を拡張す るという結果になるだろう。それは哲学としてはもっとも露骨な集団主義の教 義と変わるところがない。これが、私が『資本主義と自由』という書物で、こ のような教義こそは、自由な社会では『根本的に破壊的な教義』と呼んだ理由 なのである。そこで私は次のように述べた。このような社会では、『ビジネス の社会的な責任はたったひとつしかない。手持ちの資源を使って、利益を増大 させるように企画された諸活動を遂行することである。ただし、その営みはゲー ムの規則の範囲内である。つまり、詐欺と欺瞞のない開かれた自由な競争に参 加するということである。』」

But the doctrine of "social responsibility" taken seriously would extend the scope of the political mechanism to every human activity. lt does not differ in philosophy from the most explicitly collectivist doctrine. It differs only by professing to believe that collectivist ends can be attained without collectivist means. That is why, in my book Capitalism and Freedom, I have called it a "fundamentally subversive doctrine" in a free society, and have said that in such a society, "there is one and only one social responsibility of business --to use its resources and engage in activities designed to increase its profits so long as it stays within the rules of the game, which is to say, engages in open and free competition without deception or fraud."
(T. L. Beauchamp, N. E. Bowie: Ethical Theory and Business, 1993 P.60)

経営者が、まるで自分の身銭を切ったような気持になって、慈善運動や文化 活動に大盤ふるまいをすることを「企業の社会的責任である」と誤解するなと いうのが、フリードマンのいちばん言いたいことなのである。雇用を生み出す、 差別を無くす、環境汚染を無くすというようなことまで、フリードマンは、企 業の責任ではないと主張する。すると実質的には、企業行動の規制原理は、(1) 自由競争(強制の禁止)の原理、(2)公正取り引き(欺瞞の禁止)の原理だけだ ということになる。この場合、強制の概念は、ピストルを突きつけて契約書に サインさせるというような直接的な暴力を意味する。たとえば、メキシコから の不法入国者を極端な低賃金で雇うことは、強制にも欺瞞にもならない。しか し、従業員の尿を採取して、薬物や麻薬の濫用者でないかどうかを、当人の同 意を得ないで検査することは、どうだろう。たとえ、環境保護運動のために会 社の利潤から寄付金をだすことはしなくても、フロンガスを合法的に廃棄する ことはどうだろう。

フリードマンは、会社の利益(つまりは株主の利益)を裏切るような「社会 的な責任」という概念を排除しようとした。

論文の「企業の社会的な責任はその利益を増大させることである」というタ イトルは、「責任を果たせば利益が増大する」とか「責任を果たさないと利益 が増大しない」とかいう意味ではなくって、実は「利益の増大にならないよう なことは企業の社会的責任とは言えない」という意味だったのである。

フリードマン論文の問題点は、第一に大尽気取りで慈善運動や文化活動に大 盤ふるまいをすることを「企業の社会的責任である」と誤解するまちがいと、 利益を増大させることという企業の本来の目的との中間に現れてくる、さまざ まの企業行動を切り捨てているということにある。大尽気取りの大盤ふるまい が正当化できないということは、利益を増大させる行為なら何でも正当化され るという意味にはならないはずである。たとえば不法入国者の足下を見て劣悪 な条件で雇用することは許されないが、海外に工場を移して安い労働力で企業 収益を上げることは許されるのはなぜかというような問題を考えてみよう。自 由競争と公正取引という原則だけでは、企業行動の是非の判断がつかないこと が分かる。

このフリードマンの主張についての哲学的な問題を第二に指摘しておこう。 「自由と公正という限度内で利益の追求が許される」と彼はいうが、「なぜ自 由と公正が必要か」と聞かれて、それが「利益を増大させるから」と答えると すると、究極の原理は「利益の増大」だけであることになる。その場合には 「自由と公正を踏みにじって利益を増大させることは、許されるか」という問 題がでてくる。これは功利主義に関して出されている哲学問題と同じである。 フリードマン論文は、この点に深入りしないで、「さしあたり自由と公正をま もる範囲内で利益の増大がゆるされる」という立場をとっている。

第三に、この論文では、株主(stockholder)の利潤追求に奉仕することが経 営者の責務であるという立場がとられているが、どうして株主は企業の利益の 所有権者であるかという問題について、フリードマンは触れていない。つまり、 株主として出資したという理由だけで、どうして企業利潤の所有権者になれる のか。不労所得をなるべく発生させないようにするという倫理とは一致しない だろう。会社の利益の一部を難民救済に使った場合と、配当にまわして株主の 不労所得を増大させた場合とくらべてみて、後者の方が倫理的に「よりよい」 と見なすことのできる理由は何だろう。

古典的な所有権の発生根拠は、神によって与えられた無限の自然資源から働い て得たものは自己の所有物となって、その権利が公共機関によって保証される と言うものである。しかし、所有と経営の分離という株式会社の現実に照らし て見れば、「株を買った金は自分で稼いで得たものだから、その株から生まれ た利益は自分のものだ」という主張は空しい。株主は、タエマエ上では会社の 「所有主」(owner)ではあるが、現実的には資本金を貸した人間に近い。こ の所有についてのタエマエと現実の解離が存在するのに、フリードマン論文で は、まるで株主が古典的な経営者であるかのように描かれている。

日本のように個人株主率が低いところでは、経営者で同時に大株主という例 も、アメリカと比べると相対的に少ない。日本の経営者が利益を株主の配当に 回すことにアメリカほど熱心でないと言われるのは、そのためである。すると 所有と経営の分離はアメリカよりも日本ですすんでいるということになる。 (注6)

注6、青木昌彦「日本企業の諸側面」、 青木昌彦、小池和男、中谷巌著『日本企業の経済学』TBSブリタニカ、247頁

第四の問題点は、社会主義対自由主義の対比である。「企業の経営者 (corporate executive)が株主(stockholder)によって選出されることが認めら れていることの正当化は、もっぱら経営者がその長(principal)の利益に奉仕 する代理人であるということである。この正当化は、企業の経営者が税金を課 して、『社会的な』目的のために収益を使うときには、なりたたなくなってしま う。」つまり、経営者が、社会福祉とか環境保護とかの「社会的な目的」のた めの出費をするならば、それは株主に私的に課税をするのとおなじであって、 そういう場合には、経営者として選出されたことの正当性と一致しないとフリー ドマンは主張する。社会福祉のために企業が出費することは、フリードマンに よれば一種の権力の私物化なのである。「このことが、『社会的な責任』とい う教義に社会主義的な見方が含まれているとみなす理由になる。この見方では、 市場のメカニズムではなくて、政治的なメカニズムが稀少資源を別の利用に差 し向けるような配分を決定する適切な道だと見なされている。」

この言葉は、ありていに言うと、「企業の社会的な責任などということを認め る連中はみな社会主義にいかれている」と言っているのと同じことである。こ の論文の論評を書いたデスジャーディンとマコール(注7)も、「社会主義」 対「自由な社会」というフリードマンの用いた対比が、かなり強いイデオロギー 臭をもっていることを指摘している。フリードマン論文が書かれた1970年 は、アメリカではベトナム反戦デモの大きな波がまだ余波を残したままで、戦 線がカンボジアにまで拡張されたときである。

注7、DesJardins & MacCall: Contemporary Issues in Business Ethics,1990

社会主義対自由主義という対立は、この時代の文脈の中では、東西冷戦の後 の現在とはまったく違った含みをもっている。この冷戦型の対立の文脈では、 社会主義を否定することが、そのまま資本主義を正当化することに結びつく。 フリードマンが、企業の社会的な責任を非常に狭く限定的にしか考えなかった ということの背景には、冷戦型のイデオロギー対立がある。今日では、もっと 冷静に資本主義の倫理学的な吟味が可能になるのではないだろうか。

2、ストックホルダーからステイクホルダーへの視点変換

株主(stockholder)から、利害関係者(stakeholder)へと視点を変えるこ とが、ビジネス・エシックスの主要な方向付けになっている。つまり、企業の 社会的な責任は、株主の利益を最大にすることなのではなくて、従業員とか顧 客とかの利害関係者全体の利益をはかることであるという立場が出てきている。

利害関係者(stakeholder)という言葉は、もともとは「賭け金(stake)を 預かってもっている人」という意味である。企業の目的や責任の範囲を定める 基礎となる利害関係者の範囲がどのように定まるかによって、この視点の意味 もずいぶん変わってくる。

ジェリー・W・アンダーソン Jr.の「企業の社会的責任」(注8)によれ ば、「ステイクホルダー」として挙げられているのは、従業員、株主、消費者、 マイノリティ、女性団体、納入業者、競合他社、地域住民、文化団体、教会組 織、慈善組織、労働組合、環境保護活動団体、金融機関、公益団体、地方自治 体、州および連邦政府、報道機関である。これは確かに企業の社会的な環境を 形づくって、何らかの利害関係があるものという意味でなら、「利害関係者」 である。この定義は、しかし、企業の社会的責任の範囲を定めるという点では 広すぎる。

注8、 ジェリー・W・アンダーソン、Jr.『企業の社会的責任』百瀬恵 夫監訳、伊佐淳、森下正訳、白桃書房、6頁

ビーチャムとボーウィ(注9)によればこうである。「企業の決定によって 影響を受ける個人や団体は、ステイクホルダーではあるが、ほとんどのステイ クホルダーの観点からのアプローチは、ステイクホルダーのなかの、会社の維 持存立にとって不可欠な特定の集団に焦点を当てている。伝統的には、6種の ステイクホルダーの団体が区別される。株主、被雇用者、顧客、管理者、供給 者、地方のコミュニティである。」(注10)しかし、彼らも「ステイクホル ダー」理論がまだ未熟で、理論的な問題点をたくさん残していると断っている。

注9、T. L. Beauchamp, N. E. Bowie: Ethical Theory and Business, 1993---- 私はこれがビジネス・エシックスの全体像をつかむのにもっとも適切な、標準 的な書物だと判断している。注10、同上p.54

V.E.ヘンダーソン『有徳企業の条件』(松尾光晏訳、清流出版)は、実 務的に「ステイクホルダー」理論の実際例を示している。開かれている、変化 に対応できるということをヘンダーソンは特に強調している。「経営者が学ば なければならないのは、…すべての利害関係者を包括することである。…何が 倫理的かの認識は一晩で変わり、何週間か何か月間かで違法になる。」 (注11)

注11、同書、195頁

この理論の先駆者と言われるエヴァンとフリーマン(注12)によると、倫 理的な核心はカント主義である。「それぞれの利害関係者の集団は特定の目的 の手段として取り扱われないという権利をもつ。ゆえに、彼らが利害を有する 会社の将来の方向についての決定に参加すべきである。」

注12、W. M. Evan and R. E. Freeman, in T. L. Beauchamp, N. E. Bowie: Ethical Theory and Business,1993 p.76

カントの元の言葉はこうである。「汝の人格およびあらゆる他人の人格の内 にある人間性をつねに同時に目的として取り扱い、けっして単に手段としての み取り扱わないように行為せよ。」(注「道徳の形而上学の基礎づけ」篠田英 雄訳、岩波文庫103頁)人間が例外なしに崇高だとはいえないが、どんなに ダメな人間のなかにもかならず人間性は存在する。その人間性を、もっぱら手 段として利用するという関係は絶対に許容できない。他人のなかにある人間性 を、つねに、同格の主体として尊重しなくてはならない。すなわち、他人の人 格を所有する主人と自己の身体を所有しない奴隷という関係、および本質的に 同じであるような支配ー被支配の関係の成立は許容されない。

この言葉を尺度として、解約任意雇用(employment at will)制度を評価す れば、「正当化不可能」という結論が導かれる。解約任意雇用が、私的所有の 権利によって正当化されるとすると、おなじ事柄が人格権からは否認されるこ とになる。「解約任意雇用の原則は、道徳的権利の平等を保証する原理として も、また功利主義的な理由からも擁護できない。この原則は、人格を物件の形 として取り扱うことを当然のことだと主張している。この原則は平等な自由を 避けて通る。被雇用者の不正な不利益をもたらす。」(注13)

解約任意雇用の原則は、ステイクホルダー・アプローチと「カント主義」を 背景として、倫理的にはきびしい批判にさらされているが、現実的な労働判例 の歴史を追っていくと、この原則が強化されていくのではなくて、制限され、 骨抜きにされ、衰退に向かっているという実情がある。つまりタテマエの上で は、解約任意雇用の原則がうたわれていても、不正解雇についての規制が多角 的にすすんでいると形で、この原則が「腐食」(erosion)しつつある。


注13、T.L.Beauchamp,N.E.Bowie:Ethical Theory and Business,1993 p.270-- カント主義の観点からの資本主義批判は、かつてのオーストリア・マルクス主 義の立場と非常に近い。その主たる著作は、Max Adler:Kant und der Marxismus,1925 Berlinである。この本には岩波文庫の翻訳があるが、現在で は絶版になっている。
[補遺]自分の正当性が資本主義への倫理的批判である という自己規定をマルクス主義の「正統派」は認めなかった。この点にこそマ ルクス主義の根本問題がひそんでいるのではないだろうか。

そのような制限の始まったのが、1959年の判例だと言うから、日本の労 働基準法(1947年)よりも遅い。会社の有利になるように議会で偽証する ように強いられて拒絶した従業員の解雇を不当とした判例(注14)である。 内容的には当然の判決だと思うが、解約任意雇用の原則に含まれる「道徳的に 正しくない理由で解雇してもいい」という趣旨からすれば、解雇の権利が会社 側にあることになる。この判決のような事例を積み重ねて、実質的には解約任 意雇用の原則が骨抜きになっていると言われる。

注14、竹内規浩「アメリカの雇用と法」一粒社、36頁
この点についてやや勇ましすぎると思われる発言があるので引用しておこう。 「不正解雇という概念の歴史と発展と現状を見ると、解約任意雇用というアメ リカの規則が急速に腐食しているという結論が導かれる。この原則に依拠する 雇用者はますますリスクにさらされるようになる。経営側で最近の社会的なト レンドに気付く必要がある。それだけではなく、経営側で雇用者と被雇用者双 方の正当な期待を満たすような内部政策を採用し開発するための情報を利用す る必要がある。これを怠った場合の費用は、任意雇用者が解雇された場合でも、 不正解雇訴訟の潜在的な脅威に直面するというということになる。」(注15)

注15、D.A.Arvanites and B.T.Ward"Employment at Will" in DesJardins & MacCall:Contemporary Issues in Business Ethics,1990 p.153
この文章を書いた人は、解約任意雇用の原則が崩壊しているという事実報告 をしているというよりは、「崩壊するぞ」と脅しを掛けている。

3、マルクス主義なきあとの資本主義批判

アメリカには雇用者の恣意的な権利を制限しようとする傾向がある。日本で は逆に雇用者の解雇権を解放しなければならないのではないかという声が上がっ ている。日米経済摩擦の背後にある構造的なギャップが、労賃というコストを 比較的自由に操作することのできるアメリカ的な経営と、どんなに不況になっ ても労賃は固定的である日本の経営との体質の差にあるとすれば、そのギャッ プは縮まる傾向にあるといえるかもしれない。経済のボーダーレス化=規制緩 和(自由化)=雇用形態のアメリカ化という見方は、長期的な展望としてはちょっ と修正を要するだろう。

「日本からくる自動車やビデオがアメリカに失業を生み出す」というアメリ カ側の言い分に対して、「解約任意雇用の原則から終身雇用制度への移行を促 進しなさい」と勧めるという手もある。アメリカのビジネス・エシックスのま あ大家と言ってもいいディジョージがこう述べている。「日本では、大企業の 仕事は、単に製品を作ることばかりでなく、従業員の面倒を見ること、事実上 終身雇用を保証することが含まれる。日本ではパターナリズムもビジネスの仕 事の一部となっている。」(注16)

注16、R. T. ディジョージ「ビジネス・エシックス」永安幸正、山田経三 監訳、明石書店、二九頁[補遺]このパターナリズムの代表例は、「終身雇用」 (その反面としての「企業内失業」)とか「OJT」(On-the-job-training 企業内訓練)を指すと考えていいだろう。もしも日本的な雇用の美点が「帰属 感を保証すること」にあるとしたら、帰属感という価値がどのような質と重み をもつかが問題になる。

もう一人援軍を探すと「スモール・イズ・ビューティフル」のシュマッハー である。彼はその本のなかで「仏教経済学」という章を立ててこう語っている。 「仏教的な観点からすると、仕事の役割というものは少なくとも三つある。人 間にその能力を発揮・向上させる場を与えること、一つの仕事を他の人たちと ともにすることを通じて自己中心的な態度を棄てさせること、そして最後に、 まっとうな生活に必要な財とサービスを造り出すことである。」(注17)

注17、「スモール・イズ・ビューティフル」小島慶三、酒井懋訳、講談 社学術文庫、71頁[補遺]重要なのは、「はたらく」ということの意味を、 「金を稼ぐ」ということからしか考えないという習慣を止めることである。人 はなぜはたらくか。はたらくことには (1)自分や家族が生存するため、 (2)健康で文化的な生活を営むため、 (3)自分の力量・度量を発揮し、自己の存在感を確認するため、 (4)社会的に承認された役割のなかに自己を位置づけることによるアイデンティティの確立、 (5)人間と自然の歴史のなかのひとときを生きることの 意味の確認というようなさまざまの意味がある。その意味が、資本主義社会で は、「労働力の商品化」と言う水準でしか評価されていないという点に問題が ある。

逆に言うと失業の問題は、生活水準の維持が不可能になる人がいるという問 題なのかどうか。失業がもたらす「誇りの感情を失った賎民の発生」こそが、 本質的な問題なのではないか。ヘーゲルには、そのような視点がある。

しかし、アメリカ側ではこう言うかもしれない。「アメリカで解約任意雇用 の原則が崩壊しつつあるからと言って、それは日本的パターナリズムに近づく ことを意味しない。日本こそ、アメリカの新しい方向付けに向けて雇用を慣行 を変化させるべきだ。」

これからあらゆる労働がコンピュータ化され、単純な作業部門は海外移転が 行われるようになると、日本の雇用慣行がそのままであり続けることは不可能 だろう。まるで家族のような同一企業内で、学歴・性別・年齢・勤続・職務・ 職能・職階というようなさまざまな要因で給与が決定されるのだが、だいたい は能力とか格付けとか当人の満足度とかに我慢できる程度に一致している内は いい。ポストがない。企業の新しい環境に適応できない。というような悪条件 がだんだんひどくなっていくだろう。

たとえば終身雇用制度が、企業にとっても有利であり、従業員にとっても必 要だという条件が重なりあっていれば、その制度自体がアメリカ人の目でみて 「あまりにも非個人主義的」に見えようと、韓国人からみて「あまりにも情緒 的」に見えようとも、構わないはずである。先に引用したヘンダーソンの強調 する立場だが、ある制度や慣行が、ステイクホルダーのバランスのよい支持を 得ているならば、それはよい制度・慣行というべきだろう。問題は、それがス テイクホルダーのバランスのよい同意を保つ形で変化に耐えられるかどうか。

今から10年後に年功序列制度が廃止されて、逆年功序列制度が導入されると する。これから20年勤続するつもりで就職する若い人は、最初の10年間は 「若い」という理由で不利な給与に甘んじ、終わりの10年間は「高齢だ」とい う理由で不利な給与に甘んじなくてはならなくなる。この人は、制度の変革に 反対するだろう。年功型の賃金体系は、若いときの損を年とって返して貰うと いう全生涯で採算が合う仕組みだから、制度の変革をすれば必ず不公正な結果 になる。

だから年功型賃金体系の変革はずるずると引き延ばされ、最悪の形態で新し い制度に移行するという結果になるだろう。問題は、ステイクホルダーの一人 にとって、その全職業生活にわたるような長期的な制度の変更にともなう合意 形成の可能性にある。その可能性は、雇う立場と雇われる立場の利害の一致の 可能性だとも言えるだろう。ストックホルダー(株主)アプローチでは、その 可能性がない。ステイクホルダー・アプローチにすれば、可能性が成り立つの かどうか。むしろ雇用という関係では、両者の利害が極端に対立することが避 けられないのではないだろうか。

マルクスは「労働力が商品化される」という点に資本主義の矛盾の核心を見 いだしていた。彼の指摘は、未だに正しい。間違っていたのは、社会主義とい う新しい制度を作ると問題が解決するかのような幻想をふりまいたことだ。マ ルクスのいう労働の使用価値と交換価値の間の差額が搾取されるという理論が 正しくなかったとしても、労働力の商品化(雇用)の場合には、雇う人と雇わ れる人の立場が、カント主義的な人格の平等に一致しないということは、相変 わらず真理である。

マルクスは「生産の社会的な性格と所有の私的性格との矛盾」が、資本主義 的なさまざまの矛盾の根源であると指摘した。たとえば過剰生産恐慌は、社会 的な総需要と無関係に生産される商品によって引き起こされると説明された。 ミルトン・フリードマンの立場をマルクスの言葉で表現すれば、資本主義の活 力は、社会的な規模での財の生産を行う企業が、私的な個人の利潤追求と同じ 程度の責任を引き受けるだけで充分だという条件によって成り立つのだとなる だろう。しかし、ビジネス・エシックスが注目しているのは、たとえば企業の 環境保護への責任のように、企業にその社会的な影響力にふさわしい責任を負 わせようとする試みであるように思われる。その試みが成功したときに、資本 主義企業の活力が奪われる結果になるのかどうか。

ビジネス・エシックスは、マルクス主義なきあとの資本主義批判という作業 にいつのまにかとりかかっているようだ。

[補遺]マルクス主義を再評価する 視点は、「歴史と社会改革については間違った展望を示したが、資本主義に対 する倫理的批判として、もっともすぐれた業績となっている」という点にある のではないだろうか。


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Last modified: Sun May 26 16:07:18 JST 1996