21世紀にも刑罰は存在するか

加藤尚武

2000年10月25日


まえがき

 刑務所に勤めている人々に配布されるある雑誌から寄稿の依頼を受けたのだが、一度は「多忙である」という理由でお断り した。一年ほどして再び寄稿の依頼を受けたので、今度はお断りすることは礼を失すると判断して、執筆したが編集部から 「内容的に刺激が強すぎて掲載できないから原稿料だけ払う」と伝えてきた。私は「原稿料は要らない」と丁寧に断った。し かし、刑の根拠(応報刑、教育刑)、量刑の根拠(例えば犯罪抑止に十分な最小限+同一事例同一処理の原則)と並んで、刑 の方法の根拠が問われるべきであると思う。この原稿にはまだ注記すべき多くの点が残っているが、時間がないので敢えて最 初の原稿をそのままホームページに掲載する。

加藤尚武2000年10月24日


 普通の人間なら、殺人事件はテレビか新聞で知る。殺人の現場を経験することはない。犯人が捕まって、殺人の動機や方法 が明らかにされる。

 たとえば、こんな記事がある。「東京・六本木のクラブで働いていたカナダ人女性(23)が酒を飲まされ、わいせつ行為 をされた事件で、貸ビル会社代表、織原(おばら)城二容疑者(48)=準強制わいせつ容疑で逮捕=が神奈川県三浦市三崎 町にマンションを所有していることが新たに分かり、警視庁捜査1課と麻布署は14日、このマンションや周辺の海岸などを 捜索した。マンション内にセメントのようなものを持ち込んだ不審な跡があるため、同課は今年7月から失跡している英国人 女性、ルーシー・ブラックマンさん(22)との関連がないか捜査している。」やがて、いつかは犯人が懲役何年の刑を言い 渡されたという記事がでると、「一件落着だな」とふつうの人は思う。

 その犯人が刑務所で、どのような生活をして、出所後どうやって暮らしているかには普通は関心がもたれない。われわれの 普通の関心は、犯罪を犯したものが刑罰を逃れてはいないかという点にある。しかし、本当の問題は、刑罰は人間の改善に成 功しているかという点にあるのではないだろうか。

 刑法の書物を読めば、刑の根拠について書いてある。量刑の根拠についても書いてある。しかし、どのような刑罰が最善で あるかについて刑法はほとんど語っていない。たとえば「刑罰は、生命刑、身体刑、自由刑、財産刑、名誉刑に分けることが できる」と書いてあるが、どうして生命刑、自由刑、財産刑がわが国で行われているのか、生命刑は応報的、自由刑は教育 的、財産刑は賠償的というような性格づけをしていいのだろうか。

 現代の刑罰の形態を決めるのに決定的な役割を果たしたのはベンサム(1748-1832)の理論だと思う。ベンサムの考えた理 想的刑務所は「パノプチコン」という名前だが、これば「全部」(パン)と「見る」(オプチ)とを組み合わせた合成語で、 一人の看守の回りに円形に独房を配置すれば、多数の囚人が同時に監視できるというアイデアである。かれは「パノプチコ ン」のことを「より多くの安全と節約をもって囚人を守るため、同時に、囚人の善行を確保し、その増加に従って彼らの生存 に備える新しい手段でもって、彼らの道徳的改革を行なうため、提案される施設」(J・ベンサム著、E・デュモン編、長谷 川正安訳、勁草書房、715頁)と呼んでいる。  それを管理する規則案に彼の構想の狙いが見て取れる。

「1、柔和の規則。長期間の強制労働と断罪された囚人の通常の状態は、その健康か生命に有害あるいは危険な肉体的苦痛を 伴うべきではない。
2、厳格の規則。生命、健康、および肉体的安らぎに帰すべき諸点を除いて、もっとも貧困な階級の個人による他ほとんど犯 されることのない違法行為にふさわしい刑罰に服している囚人を、罪のない、自由な状態で生活している同じ階級の個人の状 態より良い状態にすべきではない。
3、経済の規則。生命、健康、肉体的安らぎ、不可欠の教育、囚人の将来の資産に帰すべきことは除いて、経済が、管理に関 するあらゆることの中、第一順位の考慮に値すべきである。厳格あるいは寛大という動機で、いかなる公的費用も認められる べきでないし、いかなる利益も排斥されるべきでない。」(同、726頁)

 公費を掛けない、囚人を働かせ教育する、社会を守るという一石三鳥のアイデアだというのである。1、柔和の規則は、囚 人を不潔な状態にしたり、身体的な苦痛を与えたりしてはいけないという趣旨である。2、厳格の規則は、犯罪者は普通の人 よりも楽な生活をするべきではないということである。3、経済の規則では、最低生活の保証を除いて、囚人は自力で経済負 担をすべきだということである。

ベンサムのもっとも強調している点は、一人の看守が多くの囚人を監視できるという点である。そのために円形の建築で その円周の側に房を配置して、中央に看守がいるという構造を発明してベンサムは得意になっていたようだ。「絶えず監視人 の監視下にあることは、事実上悪をなす力を失うことであり、ほとんど悪をなす思考を失うことである」(718頁)とベン サムは述べている。

 ベンサム自身は、たいへん内気で優しい人柄だった。そういう人間だから、人は監視されていれば悪いことをする気になら ないと考えたのである。だから監視されて規則正しく労働しながら性格していれば犯罪者はおのずと改善されると考えた。

刑の目的は、応報と矯正(特殊予防)と「みせしめ」(一般予防)だと刑法の教科書に書いてあるが、ほんとうに応報と 矯正(特殊予防)と「みせしめ」(一般予防)の効果をあげているのかどうかということが問題である。

 応報は被害者の感情に救いをもたらすにはほど遠く、矯正は刑務所でかえって人間が悪くなる例も考えにいれると成功して いるとはいいがたく、「みせしめ」の効果はほんのすこしというのが現実なのではないかという気がする。

 刑罰には、犯人を道徳的に非難し「悪い」と評価する(社会的評価)、犯人自身に自分の行為に対して後悔させる(犯人の 自己評価)、犯人に罪をつぐなわせて共同体の一員として復帰させる(贖罪)、犯人以外の人に警告し犯罪を予防する(みせ しめ)、犯人に罪をつぐなわせて人間性を回復させる(教育)、危険な犯人を社会から一時的に隔離する(隔離)というよう な理由がある。しかし、実際の刑務所では、多数の犯罪者を少数の看守が安全に管理することが精いっぱいで、映画「うな ぎ」にも表現されていたように、社会復帰のための準備というよりは、社会に適応できるだけの自律性を奪う制度になってい る。現行の刑の制度は、「犯罪は許さないぞ」という社会的評価と隔離の機能を果たしているだけで、それ以外の機能は実際 には果たされていない。

私が、まず疑問に思うのは多数の囚人を一カ所に集めることが最善かということである。多数の犯罪者を集めて共同生活 をさせれば全体としては非常に悪い効果を及ぼすのではないだろうか。一人の犯罪者をたくさんの善良な人々が監視し、矯正 するという方式は考えられないのだろうか。

 あるとき京都の名刹を訪ねたとき、そこの高僧に「犯罪者をお寺であずかって人間を鍛え直すことはできませんか」と尋ね たら、「とんでもない犯罪者や不良少年の面倒はみられません」という答だった。犯罪者に手段生活をさせるということに現 代の刑務所制度の最大の過ちがあるのではないだろうか。

 現代では電子装置の開発が盛んであるから、囚人の身体にセンサーを取り付けて、自動車工場のそとに出られないように なっているが、回りの人間は責任者以外には誰も彼が囚人であることは分からないようにすることはできるだろう。図書館で 貸し出しの手続きをしないで館外に持ち出そうとするとブザーがなるという仕組みがある。おなじ仕組みを囚人に取り付けれ ばいい。

 孫悟空の頭の鉢にまいた輪のように悪いことをすると頭を締め付けるという仕組みも作ろうと思えば作れるだろう。たとえ ば少年の犯罪者に少年院にはいって他の犯罪少年と共同生活をすることを選ぶか、それとも孫悟空装置をひそかに付けて普通 の社会生活をするのとどちらがいいかと選択させたら、たいていのひとは少年院を避けるという選択をするのではないだろう か。

 刑務所を壁で囲って作るのは、それ以外に犯罪者を隔離する技術的な方法がなかったからである。現代ではさまざまな技術 が開発可能であるのに、犯罪者の扱い方だけが、19世紀以降進歩していない。

現代の刑務所制度でおかしいと思うのは、だいたい一定の期間、服役すると仮出所できるという形で運営されていること である。犯罪者から一定期間の自由を制限することが、自動的に矯正の効果を上げるわけではない。矯正の成果が上がったか らと言う理由で仮釈放ができるとすれば、もしも矯正の効果があがっていなければ永遠に刑務所にいてもおかしくないはずで ある。つまり定期刑制度に矛盾があるということである。

 刑法の教科書をみれば罪刑法定主義を守るためには絶対的な不定期刑は禁止されなくてはならないというが、量刑の限界が あらかじめ提示されていなくても、判決で場合によっては絶対的な不定期刑もあると明記することにしたらどうだろう。

 少年で凶悪な犯罪を犯したものの場合、25年間治療すれば必ず人格が改善されると想定することはできないはずである。 また累犯をくり返すような犯罪者の場合もそうである。不定期刑という考え方をもっと強めて、機械的に一定期間の懲役をう ければ放免になるという現行のありかたを変えた方がいいと思う。

 反対に非常に短い期間でも矯正が成功する可能性は否定できない。自分の犯した犯罪を心から悔いて、二度と行わないとい うケースもあるのでないだろうか。それは犯罪が被害者に与えた被害の程度とは無関係であるかもしれない。つまり窃盗犯な ら改悛する可能性が高く、殺人犯なら改悛の可能性が低いということはない。殺人犯でも、犯したとたんに後悔し、二度と罪 を犯す可能性がないという場合もかんがえられるだろう。

 刑法の教科書ではヘーゲルは応報刑主義者に祭り上げられているが、彼の刑法理論の中心にあるのは、犯罪者が自己を否定 して、共同体という自己の本来的な存在との同化を回復することである。たしかにヘーゲルは刑罰の本質が応報であることを 明確に語っているが、ヘーゲル的な意味での応報は自己の本来性である共同性の回復という意味をもつのだから実質的には教 育刑の意味をもっていた。

 犯罪者が大地に身を投げて後悔するとき、根元的な生命が犯罪者を救い上げるというのがヘーゲル的な意味での刑罰であ る。しかし、そうような刑罰理論をもってしても、どうしたら魂の根源からの悔悟が生まれるのかということへの答はでてこ ない。

 「心を入れ替える」という言葉があるが、本当の意味で「心を入れ替える」ことはあるのだろうか。雷に打たれたような経 験をして、精神的に生まれ変わるという経験をすることは極めてまれである。誰にでも起こることではない。それなのに刑罰 制度は、まるで「心を入れ替える」ことが可能であるかのような錯覚の上に組み立てられているのではないだろうか。

 哲学者の中には、自分自身の死に直面することなしに自分の全存在を反省するということは起こらないのだと主張する人々 がいる。それも一理はある。そこでこういう刑罰制度はどうだろう。たとえば殺人を犯した者には「一年の刑」を言い渡す。 犯人は一年間の内に償いの仕事をして遺族から赦しをもらわないと死刑になってしまう。死ぬという思いを真剣に受けとめた うえで改悛の可能性への道を拓いてやるのである。殺人だけではなくてすべての刑罰を「・・・年以内に贖罪の実績を挙げな い限り死刑」という形にしたらどうだろう。本当の意味で「心を入れ替える」ことを刑罰制度が追求するとしたら、こんな突 飛な制度になるかもしれない。

 すると結局、刑罰制度は「心を入れ替える」ことは実際には不可能だという前提で組み立てるべきなのではないだろうか。 最近では少年法の議論が盛んであるが、この場合にも「年少者は可塑性に富むので刑罰を科さない」と考えられているが、年 少者ほど「心を入れ替える」ことがたやすいと考えられていることになる。

本当だろうか。少年凶悪犯の中にはまったく可塑性がなくて残虐な犯罪をくり返した例がある。アリス・ミラー『魂の殺 人』(山下公子訳、新曜社)に紹介されている例であるが、ユルゲン・バルチュは 1946生まれだが、母親は子どもを病院に 置き去りして、まもなく死亡。戦後の混乱期で、病院にはおしめが不足しており、生後11月でバルチュはおむつをはずされ る。そして中部ドイツの小都市エッセン市の肉屋の養子となる。夫人は「そうじキチガイ」で、バルチュは病院では自分で排 泄できたのに、養母のもとでは排泄習慣が赤ちゃん返りしてしまう。ほとんどつねに身体に内出血の跡をのこす。両親は養子 であることを隠すために、子どもを監禁。

10歳、ライヘンバッハ市の児童寄宿学校に移される。
12歳、カトリック学校「マリーエンハウゼン」で虐待をうけ、脱走。
16-20歳、4人の少年を殺害。100人未遂。死体を刻み、4番目の殺人では生きたまま刻み殺す。「1962年(16歳)までは服 を脱がせて触るとか、まあそのくらいのところですんでいました。でもその後殺しまでやるようになると、割合すぐに切断も やり始めました」と告白している。

このバルチュに「年少であるが故に可塑性に富む」という判断を下すことはできない。するとまったく可塑性がないため に年少で犯罪者になったという例もあるということになる。一般的な意味で「年少であるが故に可塑性に富む」とは言えない はずである。

 それならばすべての犯罪者を、可塑的犯罪者と非可塑的犯罪者に分類して刑罰を決めるという制度はどうだろう。このアイ デアは刑法学者からは相手にしてもらえないだろうが、現代の刑法の基礎にある人間観察もさまざまな技術も現実からずれて いる例があるということを指摘したまでである。(了)

(かとう ひさたけ kato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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KATO Hisatake <kato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed October 25 01:53:48 JST 2000