KRITIK DER PHAENOMENOLOGIE

現象学批判

加藤尚武(京都大学文学部)


 現象学者と呼ばれる哲学者が何かを書いたり語ったりする。だいたいは彼らの仕事 は文字で書かれる。たとえば「リアルな存在者であれ、イデア的な存在者であれ、あら ゆる種類の存在者そのものが、<まさに能作によって構成される、超越論的主観性の 形成物>として理解される」(フッサール『デカルト的省察』I、118)という文章を書く。 「物は意識によって形づくられる」という趣旨だと思う。この文章を書くときフッサールは 、物(存在者)とそれを構成する能作との関係を、もしかすると記述している積もりであ ろう。しかし、記述されると見なされている能作と構成物の関係は、フッサール自身の 経験から取られたにちがいない。すると、実際には自分が過去に経験したことを想い 出して書くか、あるいは現在フッサールが経験していることを書くかするのだろう。意識 が対象を構成する作業そのものを、われわれは足場を組み立てている鳶職の人たち を離れて眺めるようにして見ることはできない。すると、この文章は、意識の経験を直 接に記述したものとは言えないだろう。フッサールは、ひとつの物語を作り上げたので ある。その物語の内容「意識が対象を構成する」はどこにも見えない。

 ヘーゲルは、このことを良く知っていた。主観と客観という二つのものを観察する反省 という構図が、作り話であることを良く知っていた。だから、この構図そのものを何か意 識に対する根源的な所与であるかのようにして、哲学的記述を組み立てることはでき ないのであって、主観と客観というような構図そのものの成立が説明されなくてはなら ない。この構図そのものは真でも偽でもないのであって、ただ意識の経験の全体を体 系的に描くことが全体として成功しているなら、その構図は真理の展開の一つの段階 に組み込まれるのである。

 どんな構図でもいい。能作でも、志向性でも、構成でも。意識の構造はそれをどのよ うに描こうとも、その描かれたものは、直接的な所与ではない。現象学者の記述を裏 付ける直接の証拠(明証)が存在すると信ずる現象学者の信念は安全なのだろうか。

 フッサールの新しいマヌスクリプトが発見される度ごとに、現象学者は、まるで鬼が目 をつぶっている間だけ身体を動かすことが許されている子どもの遊びを演じるようにし て、すこしずつ立場を変えていく。彼らの記述がもしも額面通りの「現象学的記述」であ るならば、フッサールの遺稿の情報に従ってその内容がジリジリと変容していくというこ とはありえない。今では現象学のなかに無い物はない。昔は断固たる独在論の方法 論的優位を語っていた現象学者が、今では他社性の根源的否定的現れについて一席 弁じ立てているだろう。昔、意識の内在領域に定位することの根源性を説いて止まな かった現象学者は、いま顕現の可能性を支える顕現性の否定の地平を説いていると いう具合である。


1、直観主義の可能性

 フッサールの講義録には「現象学者は何よりもまず現象学的に直観することを学ば ねばならない」と書かれているそうだが、現象学らしい態度というものを抽出すると次 のようになる。

  1. 現象学者は、直観の本原的な諸源泉を、内的精神的に直観し観察する。
  2. 直観の中で本原的に、その生身のありありとした現実性において自らを呈示するも のをすべて、それが自らを与えているがままに、しかもそれが現に自らを与えている限 界内においてのみ、端的に受け取る。
  3. その直観があらゆる理性的認識と主張の究極的な正当性の源泉であるから、哲学 研究の真の方法は現象学の直観主義である。

 要するに、1.究極の根源的な源泉を、2.ありのままに正確に受けとめることが、3.あらゆる真理の源泉となるという考え方である。源泉の根源性、過程の正当性が、成り立 てば真理に達する方法となるという表象は、源泉→過程→到達型の方法と呼んでい いだろう。

 問題は、第一に、何が、究極の源泉、根源的なもの、原的な所与であるかを判定す る方法があるのかどうかである。現象学者は直観によってと答える。第二に、正しい過 程で知るというときの、過程の正しさが何によって分かるかということである。これにも 現象学者は直観によってと答える。第三に、到達するとは何に到達することであるかと いう問題がある。言語によって表現され、概念・判断・推論の形式をもち、真であるす べての判断を包括することという目標を現象学者は掲げないらしい。それどころか「言 語によって表現される」という目標すらもはっきりとは掲げられていない。第三の問いに 対する現象学者の答えは、「直観的にあきらかになることが到達点だ」ということにな るのではないだろうか。

 現象学は、直観的に根源的だと思われるところから出発して、生きた体験の流れを ありのままに記述したと直観的に信じられる過程を経て、理解が可能になったと直観 的に思われる境地に到達する。

 現象学者は、次のような前提を認めていることになる。「どのような意識であっても、 その意識を意識する反省は、元の意識に対して直観的という関係のなかにある。」し かし、これは自明の前提であるとは言えないだろう。

 次のような想定もあり得る。対象に関わる意識は、自己自身について「対象意識」と いう姿勢で関わることができない。対象意識を意識する反省意識はもはや対象意識と 直観的に関わっているわけではない。反省意識はより次元の高い意識である。第n次 元の意識の真理は第(n+1)次元の意識に知られる。ここから生み出される無限の継 起(Succesion)こそ意識の現象の場である。この無限の継起を終了させることのえき る特殊な条件をもった意識を「絶対的な知」とか「絶対的な精神」と呼ぶ。反省がいか にして可能かという問題は、無限の継起をどのようにして絶対知で終了させることがで きるかという問題と同じである。


2、根源だということをどうやって見極めるか

 現象学者に「貴方が根源的だと信じていることが、どうして根源的だと言えるのです か」と質問すると、たいていのばあい実証主義、心理学主義、自然主義などの批判を 展開し始める。そのどれもが二十世紀初頭の図書館の書庫で眠っているような学者 の思想であって、現象学的根源性の証明にはならないのだが、「彼らが間違っている 以上、私は正しい」と言いたいらしい。

 たとえば新田さんからの引用、「現象学が同時代の他の立場に対して下した容赦な き批判、とりわけに対する批判---たとえば『論理学研究』の批判、『イデーン』期の批 判など---は、実証主義がすでに実在を特定の見方で解釈し、暗黙のうちに素朴な断 定を下していることへの批判であり、経験への還帰が十分な意味で行なわれていない ことへの批判となっている。経験の根源性ということは、単に感覚与件の直接性にある のでなく、経験のなかに知の基本構造そのものが備わっていることにある。経験が知 の全体的な組織を支える地盤性格をもっということもそこから理解さるべさである。この 意味で現象学は、次の点で、同時代の哲学に対して卓越的な洞察に達したといえる。 」(新田義弘「世界のパースペクティヴと知の最終審」新田岩波講座現代思想1、「思想 としての20世紀」9頁)

 要旨は次のようにまとめられる。

  1. 実証主義、自然主義は、感覚与件の直接性を根源性だと素朴な断定を下したので 間違っている。
  2. 経験の根源性は、経験のなかに知の基本構造そのものが備わっていることにある。 経験が知の全体的な組織を支える地盤性格をもつことから理解される。

 ここでは、「現象学だけが知の根源性を知っている」と主張されている。しかし、何が 根源的であるかということは「知の基本構造そのものが備わっている」、「知の全体的 な組織を支える地盤性格をもつ」と表現されているのであって、これは「根源的=基本 構造=地盤性格」と述べているだけで、要するに根源的=根源的というトートロジーを 述べているにすぎない。「現象学的記述に構造的に一致する直観内容を根源的と言う 。ゆえに現象学的記述は根源的な所与そのもののの記述である」と言いたいのが、現 象学者のホンネなのではないかと思う。


3、内なる意味充実化と外への認識

 意識の現象を記述するということは、もともと言葉で与えられているのでない事柄(た とえば志向性や時間)を、言葉(「志向性」「時間性の構造」)で表現することであると私 は思う。しかし、この「言葉にもたらすこと」の正しさを現象学は直観的に確認するつも りでいるし、それ以外に確認の方法がないことを告白しているように思われる。

「私が認識の本質を明晰にすることができるのは、私が認識そのものを直視し、認識 自身が直観の内にありのままに私に与えられている場合に限られることは明らかであ る。私は認識を内在的に純粋直観的に純粋現象の内部、純粋意識の内部で研究しな ければならない。」『現象学の理念』(HII46)

志向性を「志向性」と表現することも、雪が白いことを「雪が白い」と表現することも、 そのただしさは、「純粋意識の内部で研究」されなければならないとフッサールは言う。

 私は「認識自身が直観の内にありのままに私に与えられている」ことはあり得ない思 う。だから「認識そのものを直視」することはできない。私は自分の意識状態を直視し たような積もりになることはできる。文学者として「意識の流れの記述」をした積もりに なることはできる。「私は私の認識そのものを直視するのであって、認識という心理現 象を観察するのではない」という表現が意味を持つのは、それを理解することができる からである。しかし、理解できることとそれが真理であることとは無関係である。思いを 凝らして「意味のイデア的複合を十全に捉える」、「表現の意味を理解するとは意味を 所有する」、「意味志向の作用を具えている対象を直観する」というような表現があれ ば、それを理解することは可能である。

 私が眠っている猫を見て「あの猫はエジプトのピラミッドの上でネズミと遊ぶ夢を見て いる」と述べたとすれば、それを理解することは誰にでもできる。「猫の夢の中のネズミ の大きさは猫自身と同じくらいである」とか、 「夢の中のネズミの大きさを猫が直視する」という文を理解することができるのは、私が フッサールの「私が認識の本質を明晰にすることができるのは、私が認識そのものを 直視し、認識自身が直観の内にありのままに私に与えられている場合に限られること は明らかである。」という文を理解できるのと同じ機構のためである。

 「主観ー意味ー対象」という三項関係が頭に浮かぶが、「主観と意味との関係」がどう して「主観と対象との関係」(認識)となるかという認識論の定石となる疑問がでてくる。

 現象学者は、おおむねつぎのようなことを述べる。

  1. 表現は、意味志向の作用を具えており、意味を所有することである。
  2. 表現は、その意味を介して対象に関係する。この対象的関係を実現するのが、直観 的表象に基づいて成就される意味充実化の作用である。
  3. 直観によって意味志向を充実することと、対象を認識することとは、同じである。

 表現には、「意味志向の作用」、「意味を所有すること」、「直観的表象に基づいて成 就される意味充実化の作用」、「直観によって意味志向を充実すること」がある。それ が結局は「対象を認識することと同じ」だというのなら、表現と認識はどこが違うのだろ う。主観と客観の関係を観察する反省する主観(哲学者)という認識論的な構図、言語 とその意味(Bedeutung)の関係を記述するメタ言語という意味論的な構図、意識内の 認識についてその主観側の契機と客観側の契機を直視する現象学的構図という三つ の構図を比べてみよう。

 認識論的な構図と現象学的構図には、基本的に二つの関係がある、主観・客観、言 語・意味という対応説型の内外関係と、主観と主観、意識内の二つの契機の明証説型 の内内関係とである。問題は対応説型の内外関係を明証説型の内内関係に還元する ことができるかどうかということである。

 「雪が白い」と認識することは「雪が白い」と表現することである。しかし、「烏が白い」 と表現することは、「烏が白い」と認識することではないだろう。

 そんな単純なことを言ったのではなくて、「意味志向を充実すること」と「意味を通じて 対象に関係する」ことの間に、非常に深い関係があるという気持であるのだと、現象学 者は弁明するかもしれない。

 「主観と意味」との内内関係は、「主観と対象」との内外関係と同じで、意味と対象は 同一であるとまでは現象学者は言わない。

 現象学の立場が、次のように語られるとしよう。

  1. 表現は、その意味を介して対象に関係する。
  2. 認識の目的は、意味を介して対象を認識することにある。
  3. .認識体験と意味と対象の相関関係こそが、認識の可能性の源泉である。

 ここにいは「表現--意味--対象」とか、「認識--意味--対象」とかの三項関係が出てく る。私が知りたいのは、現象学記述に三項関係が可能かということである。記述の可 能性が、その「直観であること」にあるとするなら、直観的である限りで、三項関係は現 象学的記述に含まれないというべきだろう。三項関係は、記述とその記述された関係 への反省との混合形態であり、本来の記述を導く作業仮説の役目を終えたら、取り外 さなくてはならないと現象学者は考えているのだろうか。

 私は初期のフッサールは、認識そのものを直観するという二項関係だけが真理の源 泉であると考えて、哲学の可能性はこの二項関係への還元可能性にかかっていると 信じていたのだと思う。晩年のフッサールは、この意味での二項関係への還元が不可 能であることの直観が成立するという立場をとった。二人のフッサールがいる。現象学 者は、この二人のフッサールを二枚のカードにして手に持っている。初期フッサールの 旗色が悪くなると晩年フッサールというカードを使う。晩年フッサールの形勢不利とみ るや初期フッサールというカードを使う。


4、志向性というモデル

 「志向性」という概念は、意識のモデルとしては、カメラと対象のような遠隔モデル(カ ントのテキストのいくつかの場面などにみられる主観と客観の二元論)、因果的近接作 用モデル(主としてフィヒテの知識論がこだわった自我と非我が限界を形づくって相互 に関係するというモデル)に対して、遠隔的と因果的という両方の図柄を含んでいる。 遠隔モデルでは「外なる対象と内なる作用という二つの関係項」(二元論)となるのに 対して、志向性では、近接モデルのメリット「最初から両項を内に取込んでいる相関関 係」を生かすことができる。その上「方位的」ということで本質志向性(カテゴリーの作図 )とか、「場面形成的」ということで「生命的な連関」を取り込むこともできるかもしれない 。

 「あるものへ向けられている」という矢印の比喩形態をどこまで都合良く拡張できるか ということが、現象学者の腐心するところである。

 カント、フィヒテに対してシェリングは「超越論的観念論の体系」で、意識の基本図式 としての生命体モデルを導入し、その意識論モデルの継起的構成と、自然のなかの物 理世界、化学反応世界、有機世界という構成を対応させて「同一哲学」も目的を達成 するという構成を考える。ここで意識のモデルの多様性のメニュが出そろったと言える だろう。ヘーゲルには、シェリングのように自然の存在そのものの中に精神の自発性 の根拠を読みとることが怖かった。シェリングはこうしてショーペンハウエルの意志、実 存、フロイト的リビドへの道を開いたが、ヘーゲルはそれを閉ざそうとした。そして自然 を論理の疎外態に追いやるという戦略を立てた。そうなれば、カテゴリーは自然の継 起と精神の継起の同一性という場に成り立つのではなくて、真空になりたつ水晶宮と ならざるをえない。

 それにフィヒテやシェリングと違って、ヘーゲルには意識論の基本的なモデルを常に 一貫した形式で保つという思索の一貫性が維持できなかった。彼はいつも意識が勝手 にドラマトュルギーを演じてしまうことに魅せられてしまう。主人と奴隷、男の国家意識 と女の存在感覚、不幸な自意識と絶対者などなど、最後のま とめは中身のない図式に追い込んでしまう。

 だから志向性という概念を持ち出せば、意識の記述が整合的でまとまったものとなる という期待はできそうだ。ヘーゲルの意識論が取り込んだ多様な形態の中には、志向 性に該当するものがある。もちろんフィヒテたシェリングの「活動性」(Taetigkeit)の概 念にすでに意識が対象に対して能動的であるというあり方は十分にとらえれていた。 同時にそれが意識の経験の中で対象に本質を付与する機能という理解がされ、また 論理学で本質という概念がつかわれるときに、意識の活動性、能動性が対象にもたら したものという含意を汲み取ることができる。

 しかし、これは厄介な問題を生み出す。対象のなかにあらかじめ措定しておいた本 質を意識が対象のなかに見いだすとしよう。意識は対象に二度かかわっていることに なる。第一回では、対象に本質を措定し、第二回では対象の中に本質を見いだす。も しも、この構造がつねに働いているのだとすると、意識は直接的に対象に係わることで 、対象の直接的なあり方を経験しているのか、あらかじめ措定したものを経験している のか分からない。だから、当の意識には、経験の文脈が見えないということになる。

 ヘーゲルの現象学では、経験する意識は自己が前もって措定(前提)したものを(そ うとは知らずに)目の前に見いだす(vorfinden)する。それが先行する経験の結果であ ることは、「観察する哲学者」には分かるが、当の意識には分からない。

 現象学者が、志向性という概念をまるでフッサールに固有であるか、あるいはフッサ ールの独創性が強く発揮されたものと見なすのは、非常に滑稽であるが、 志向性をもとにすると、知の多層性が見えてきて、意識作用の分類(たとえば知覚、想 起、想像、判断などの区別)が可能となると言うのは真っ赤なウソである。知の多層性 とか分類をさばくのに、志向性が顔を出すかもしれないが、もともと志向性というのは「 多層性音痴」の概念である。志向しつつある意識にとっては、対象だけが見えている のであって、その対象を現前していない他の対象と比較して分類したり、知の多層性 が見えて来る筈がない。志向性ではうまくさばききれないで困っている現象学者が、正 直に困っていると言えばいいのに、「志向性から多層性と分類が可能になればいいな あ」と空しい願望を掲げている。

 ドイツ観念論では、ひとまず経験する意識と反省する意識を二つの別次元にある意 識としておいて、究極的にその二つの次元が重なる場面(絶対知)を先の方に設定し ておくのだが、現象学者はこのやり方が気に入らないらしく、経験する意識と反省する 意識のひとり二役を意識にむりやり演じさせようとする

 論理学の対象はそれに相関する固有の意識作用との関係でのみ成り立つので、独 自の理念性格を実在的な心理体験に還元して説く心理学主義は誤りであるというの は、現象学のジャーゴンの典型的なもので、このジャーゴンが語れないと、現象学者の 仲間入りがさせてもらえない。ドイツ観念論の流儀だと、目くじら立てて心理学主義を 批判する必要はない。本質が実在に内在して見えるということは意識の経験の不可欠 の一契機であり、それを意識が反省的に考察することができなかったとしても、その間 違いを反省レベルでの判断の間違いと一緒にすることはできない。論理(倫理でもいい )の基礎づけの心理学主義を批判したことを、鬼の首をとったように自慢するのが現象 学者の常だが、要するに論敵におとなしく「心理学主義という誤り」という志向性の裏 番組に収まっていて欲しいという願望にすぎない。


5.先反省的な出来事

「世界の現われ方が「わたくしが世界のなかに現に在る」という原事実性に根本的に 制約されているが、そのことは世界が地盤として与えられる仕方に最も顕著に現われ ている。世界は時間と空間の原形式として、一切のヒュレーを「同時的な共在性」と「前 後の継起性」という根源的秩序に組み込み、現実性の連関を形成する。さらに意味の 受動的総合とよばれる、原連合の働きによって、意味(与件)が相互に、等質的である か異質的であるかによって、融合を起こしたり対照を形づくったりして構造化を行なう のであり、それがそのまま自我への触発となり、自我の対向を促すのである。それゆ え地平の指示連関もすでにこの段階で受動的にその素地が作られているのであり、感 性的世界のロゴスによって経験が成立するということは、とりもなさず、世界が己れを 意味として整えつつ贈ってくるということである。こうした世界の原初の与えられ方は、 与えられ方というよりも、意識にふりかかってくる原初の出来事なのであり、反省にとっ て回収不可能な先反省的出来事であり、反省が哲学的原理としてもっていた絶対的明 証性の神話はここで崩壊しはじめるのである。」(前掲、新田20頁)

要旨摘録

  1. 世界の現われ方が「わたくしが世界のなかに現に在る」という原事実性に根本的に 制約されている。
  2. 世界は時間と空間の原形式として、一切のヒュレーを「同時的な共在性」と「前後の 継起性」という根源的秩序に組み込み、現実性の連関を形成する。
  3. 意味の受動的総合とよばれる、原連合の働きによって、意味(与件)が相互に、等 質的であるか異質的であるかによって、融合・対照という構造化を行なう。
  4. 構造化が、自我への触発となり、自我の対向を促す。
  5. 地平の指示連関もすでにこの段階で受動的にその素地が作られている。
  6. 感性的世界のロゴスによって経験が成立することは、世界が己れを意味として整え つつ贈ってくることである。
  7. 世界の原初の与えられ方は、意識にふりかかってくる原初の出来事なのであり、反 省にとって回収不可能な先反省的出来事であり、反省が哲学的原理としてもっていた 絶対的明証性の神話はここで崩壊しはじめる。

批評

1.「わたくしが世界のなかに現に在る」ことを原事実とみなす必然性はなく、「世界が 私に現前するかぎり、私はその世界に属していない」と想定することが可能であること は既に述べた。これは「私が意識野を持つ限りで、その意識野を存在させている存在 、つまり私はその意識野に帰属しない」と言ってもいい。「わたくしが世界のなかに現に 在る」ということは、「知覚する私の身体は知覚されるものと、同じ時間空間に属する」 と言い換えられないのだろうか。私の世界内存在性とは、私の原事実性なのだろうか 。原という肩書きのつかない事実性と、この肩書きがついた事実性はどう違うのだろう 。

2.世界は時間と空間の原形式として、一切のヒュレーを「同時的な共在性」と「前後 の継起性」という根源的秩序に組み込み、現実性の連関を形成する---という文章を 分解すると、無数の文章に分かれる。とても全部は示せない。 1.世界自身が、時間と空間である。2.時間と空間は、原形式である。3.世界が、一切の ヒュレーを時間と空間の文脈に入れる。4.世界が、ヒュレーを同時的な共在性(空間)と 前後の継起性(時間)という根源的秩序に組み込む。5.世界が、現実性の連関を形成 する。----こうした内容が、「意識が時間・空間というアプリオリの形式を用いて、ヒュレ ーを構造化する」という表現とどう違うのか。あるいは、こうした表現のどちらが正しい のか。判定する、根拠がない。

3.意味の受動的総合とよばれる、原連合の働きによって、意味(与件)が相互に、等 質的であるか異質的であるかによって、融合・対照という構造化を行なう----これも分 解できるが、そのままにして置こう。この文意を翻訳して「同じとか違うとかいう区別を 積み重ねて、類とか、種とかの概念が作られる」と表現しては間違いになるのだろうか 。「原連合」という働きが、本当に存在するといえるのかどうか。

4.構造化が、自我への触発となり、自我の対向を促す----とは「対象が分節的に構 造化されると、自我が逆に浮かび上がってくる」という趣旨だろう。「対象がはっきり見 えれば見えるほど自我の存在は確かになる」と言ってもいいだろう。「自我への触発」 が、対象の側の構造化で起こるというべきか、自我が対象を触発して構造化するとい うべきか。答えはありえない。構造化という対象の構成が、自我意識の成立という反省 の可能になる契機・きっかけ・触発になるという論旨が含まれている。つまり、第一次 的対象意識の側での運動が第二次的反省意識を触発する。

5.地平の指示連関もすでにこの段階で受動的にその素地が作られている----と言う ことによって、いわば「原地平性」のようなものが想定される。現象学者が、そのジャー ゴンの共有者でない人に説明できないような「原…」を想定し、その想定を理解できな いという点に、現象学に加担しない立場の限界があると主張するようになると、現象学 は哲学的な病気に近づいてくる。もしも友人が「あなた方に私が理解できない以上、私 が正しい」と述べ始めたら要注意である。「原…想定病」は現象学的自閉症の一種で、 患者自身が治療を拒む点に病状の特色がある。

6.感性的世界のロゴスによって経験が成立することは、世界が己れを意味として整 えつつ贈ってくることであるーーとは珍しく詩的な表現で、朝日を浴びた現象学者が、 意味を贈りつけてくれる世界に向かって、<汝の意味をさらに贈り賜え>と祈りを上げ ているみたいだ。「感性的世界のロゴスによって経験が成立する」ということは、リンゴ がリンゴだと分かるとか、雲が出てきて嵐になるだろうと判断できるとか、すべての日 常的な経験の成立のことを語っているのだろう。それが「世界が己れを意味として整え つつ贈ってくることである」と受けとめられると言うことが、経験の「原…」のレベルに成 立する「原体験」に根ざしていると新田さんは言いたいのかもしれない。「物自体」でカ ントが語ろうとしたこと、「非我」という不細工な言葉でフィヒテが獲得したがった真理、 シェリングがそれ自身実在論をとりこんだ形になる観念論を構想することのなかに込 められた自然の沈黙への畏怖、「対象への意識」というヘーゲルの概念の含意----こ うしたものはすべて「原…」から排除するという根拠のない独善によってしか、 「原…」 の想定の現象学者にとっての価値はない。

7.世界の原初の与えられ方は、意識にふりかかってくる原初の出来事なのであり、反 省にとって回収不可能な先反省的出来事であり、反省が哲学的原理としてもっていた 絶対的明証性の神話はここで崩壊しはじめる----と語って、新田さんは、誰にとっての 明証性のことを言っているのだろう。

 「世界の原初の与えられ方」という言葉の意味と、「意識にふりかかってくる原初の出 来事」という言葉の意味とは、ほとんど同義である。だから、思い入れたっぷりに「世界 の原初の与えられ方は、意識にふりかかってくる原初の出来事なのであり」と語りだし て、そこから「反省にとって回収不可能な先反省的出来事であり」と、少しは違った意 味内容が出てくるが、「反省にとって回収不可能」と「先反省的出来事」というのが、こ れまたほとんど同義なのである。するとこの文は、一見すると何かの理由を挙げて、結 論を引き出す文章のように見えるが、「私の祖母はおばあさんなので年寄りであり、高 齢者であるからしたがって既に多くの経験を積んでいる」というような見かけ倒しの説 明文なのである。

 「原…」の根源性が、一見するとほとんどトートロジーにしか見えない表現の積み重 ねでかろうじて伝達されるような、伝達の隘路を形成するなどと、現象学者はオダを上 げたくなるのだろうか。 

 「反省が哲学的原理としてもっていた絶対的明証性の神話はここで崩壊しはじめる」 というのは、「分からないことが目の前に出てくると分からなくなる」と述べているのとほ とんど実質が変わらない。「絶対的…の神話が崩壊する」という表現は、「誤って絶対 化したから、当然の報いで自滅する」という趣旨なのか、「人々にとって絶対的であるこ とが当然認められて良かったものが、絶対的でないと判明する」という意味なのか。下 手なミステリーの末尾の文章を読まされているようで、要するに私の役目は「すごい! 」とうなって青ざめて見せることなのだろうか。この徹底的に無意味な文章に対して。

 この新田さんの文章が明瞭に示していることは、現象学という知は存在しない、現象 学という文体が存在するだけであるということである。

(以上)


KATO Hisatake <kato@socio.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu July 31 16:14 JST 1997