美術館の倫理学

加藤尚武

(2000年2月3日、全国美術館会議学芸員研修会、於東京都美術館)


1. 公共財の経済学

美術館の倫理学とはまず公共財の倫理学である。公共財の理論は最近では経済 学や法哲学ではやりの領域になっている。なぜ公共財の領域が重要になってき たのか。今まで私たちは建前上は市場経済の私経済の世界に生きているといわ れてきた。実質的には我々の社会の中では私的経済の領域は後退している。日 本経済では全体として60%が公共経済で40%が私経済である。

スティグリッツの『公共経済学』(藪下史郎訳、東洋経済新報社、上、3頁) に は、こんなことが書いてある。「我々の人生は、生まれたときから死に至るま で数知れず政府活動の影響を受けている」ということで、公共の病院、学校、 徴兵、住宅ローン、鉄道、水道、裁判所などが挙げられている。

特に最近では環境問題の絡みで公共財が取り上げられるようになった。たくさ んの言葉が使われていて「Public Goods」、「Commons」、「Common Goods」、 「Common Property Resources」、「Communal Resources」など英語でも7つか 8つぐらいの言葉が飛び交っている。自動車の経済負担問題で有名な宇沢弘文 の論文「社会的共通資本の概念」(宇沢弘文茂木愛一郎編『社会的共通資本』、 東京大学出版会、15頁)には、最低限の経済的な配分を維持するのに市場経済 は失敗する可能性があるので、それを補うために公共財はどうしても必要だと いう趣旨のことが書いてある。これは「市場の失敗」(market failure)といい、 現代の経済学や公共政策論では基本的な前提になる。個人個人が全部エゴイス ティックな利益追求をすれば、見えざる神の手が働いてすべてはうまくいくと いうアダム・スミスが考えた自由経済論は、市場の成功説である。ところが、 実際には市場の失敗が非常に大きく、現在では市場の失敗の最大の結果は環境 破壊であるといわれている。

そこで公共財を見直そうとする経済学側からの動きが非常に盛んである。経済 企画庁総合計画局『日本の社会資本』(東洋経済新報社)は、さすがにお役人は 秀才が集まっているという本で、公共経済についてのすべての経済学説が最初 のページで表にまとまっている。

その中で世界じゅうの経済学者の学説からさらに要約したものが次の3項目である。
1. 間接的に生産資本の生産力を高める社会資本、
2. 不可欠な財であるが、共同消費性、非排除性のために市場に期待できない財、
この「非排除性」がキーワードで、皆さんがもし博物館の倫理学の試験問題を つくるとしたら、これは必ず出題項目になるので暗記カードをつくっていただ きたいワードである。皆さんの美術館は料金を取るが、イギリスの美術館のよ うにただで入れるわけではない。しかし、だれかが入ってはいけないというこ とはない。(公共)料金を払えば、だれでも自由に入ることができる。それを 「非排除性」と言う。「非排除性」には本来、排除してはならないという含み もある。だから、水道料金が払えない人は水道をとめることにはなっているが、 本当に水道をとめられたら生きていけないから生活扶助をもらって水道を出し てもらう。結局は水道の水が飲めるようになっている。だから、そのようにだ れかを排除しないことが公共財の重要な条件である。
3.が所有主体で「公共主体によって整備される財」ということがいわれる。

このように考えると、美術館には第1の条件の「間接的に生産資本の生産力を 高める社会資本」という特性がない。この「間接的に生産資本の生産力を高め る」というので一番よくいわれるのは道路、港湾、鉄道とかであり、道路を私 有財産でつくって通行税を一人一人取っても、別にそれでうまくいかないとい うことは必ずしもないが、道路は共有にして、みんなが自由にただで走ったほ うがいいだろうというのが基本になる。

ライン川下りをやると、ライン川には大体数百メートルおきにお城が建ち並ん でいる。昔、泥棒貴族というのが岸辺にいて、山賊貴族ともいわれているが、 「この土地は俺のものだ」と勝手に宣言し、船の通行税を取っていた。泥棒貴 族をやめさせて、ライン川を自由航行にしてライン同盟ができる。これによっ て、ドイツはライン川を公共財として処理できる体制をつくっていったという 歴史がある。それで貴族はみんな没落してしまったので、お城はみんな廃墟に なり、ローレライの歌が歌われるようになった。近代的な経済には公共財化し たほうがふさわしい。ライン川もそういった例である。

しかし、このようにすると具合の悪いこともある。例えば、みんなが自由に牛 を放って牛を育ててもよろしいという牧草地をつくったとしる。牧草地をただ で使えるからなるべくたくさん牛を放ったほうが得だということになり、牛を ものすごくたくさん放つ結果になる。井戸の周りから砂漠化が始まったという ので、その当時、朝日新聞にいた東大教授の石弘之さんが調べに行った。

なぜ井戸の周りから砂漠化が起こるか。井戸をつくるとその周辺に住んでいる 家畜とか野獣が全員そこへ集まって水を飲むので、その周辺の草地が全部踏み つぶされて枯れてしまう。そして枯れる範囲はどんどん広がっていくけれど、 水はどんどん出るので、そこに牛がどんどん集まっていく。この乾燥地におい て緑地が維持される条件はすべての緑地が均等に踏みつぶされなければならな いことである。だから井戸という偏った地域システムをつくれば均等に踏みつ ぶされるという条件がなくなるので砂漠化してしまう。つまり遊牧民のように 少しずつ少しずつ草を食べ、少しずつ少しずつわずかな水を飲んで移動しなが らでなければ緑地が維持できないという、集中によってキャリアビリティが失 われる例だと石さんが調べて報告した。

みんなが勝手に自由にただで使える場所には自滅する危険がある。これが有名 な「コモンズの悲劇」(共有地、入会地の悲劇)とかいわれる事態である。ハー ディンは「だから私有化したほうがいい」という結論を導くのに非常に大きな 役目を果たした。もう一つ、ハーディンは「だから適切な公共料金を設定しろ」 ともいった。美術館が踏みつぶされるほど人が集まってくるなら、皆さんの美 術館は多分黒字になるので美術館で共有地の悲劇が起こる心配はないわけだが (笑)、共有地全般に対しては適切な公共料金を設定することによって過少や過 剰、大き過ぎる・少な過ぎるという弊害をなくすのが基本的な考え方になって いる。

公共財を経済的な効率性という観点のみで評価した場合にそれでいいのかとい う問題が起こる。日本ではこの間、京都大学を定年退官でお辞めになった池上 惇先生の「文化経済学」が大変有名だが、この文化経済学の一番もとになって いるのはラスキンの『この最後の者にも』という論文である。これはジョン・ スチュアート・ミルなどの古典派経済学者を向こうに回し、美しさ、美という ものの経済的な価値を訴えた有名な文章である。ラスキンはウイリアム・モリ スの友だちであり、ラスキンとウイリアム・モリスは思想的な友人関係という か、ある意味で同一の思想を共有していた仲間であり、またその仲間の中にラ ファエル前派の画家たちもつながっている。

ラスキンの考え方の一番基本は、美術館のようなものを経済性がないからつぶ すというのは本末転倒だということである。なぜかというと、例えば法学部を 民営化してロー・スクールの形にし、一般市民からお金を取って黒字財政にもっ ていくことができるならやったほうがいいだろう。文学部には黒字になりそう な先生はいないからみんな飢え死にするが、例えば黒字になったとする。では、 黒字になったカネをどこで使うかというと、それは美術館で使うべきである。 美術館はどこかで稼いだカネを最も有効に使う場所なのに、まず美術館を民営 化しろというのは本末転倒だというのが京都大学経済研究所長の佐和隆光さん の意見である。実は佐和さんは有名な仏像学者の佐和隆研先生の息子さんだか ら、多分美術については特別な思い入れがあるのではないかと思う。しかし、 佐和さんのその意見は正論だということで、佐和さんの最近の経済学の論文集 などにもそういう意見が載録されておる。

佐和さんの「本末転倒だ」という意見を経済学説史上、最初に述べたのはラス キンであった。ラスキン曰く「経済学の究極の目的は、良い消費の方法と多量 の消費を学びとることである。いいかえれば、あらゆるものを用い、しかもそ れを立派に用いることである」とある。この「立派に用いること」という最終 消費が重要である。これに対して何かをつくることが何か別のものをつくる手 段である場合(生産的消費)がある。私がハンマーを買うときは、女房を殺すた めに買うのではなく、普通は家具を直すために買う。陰里先生のように缶詰の 空き缶に木の枝を入れてクロッキー用の木炭をつくるのは美術作品をつくるた めである。すると何かのため、何かのため、何かのためといって最後のものは 一体何か。最後のものは役に立たないものということになる。すると、我々人 間のあらゆる行為は目的と手段という関係になっていて、あらゆる中間にある もの(生産的消費)は目的であると同時に手段である。しかし、我々は最後には 何ら手段となることなく、それ自体目的であるような目的に到達する。これを 「自己目的」または「intrinsic value」という。

経済活動は普通は手段的な価値で評価されるから、道路をつくったけれどだれ も来ないとか、山の中に飛行場をつくって農産物を運ぶための補助金を何百億 円と出したのだが、だれも農産物を運ばなかったというのもある。こういうも のを「無駄だ」と言って非難するのは当然である。なぜなら、本来それは手段 的な生産財であり、本来の生産活動を高めるための手段的な価値として評価さ れるものだからである。だれも使わない飛行場と美術館をいっしょにしてはい けない。

ラスキンのいう生活の中の美とはつぎのようなものである。「どんな景色も、 常時飽くことなく愛でられるものではないが、喜びに満ちた人間の労働によっ て豊かにされる。田畑はなだらかに、庭園は美しく、果樹は実り、清楚な心あ たたまる家屋敷の点在、生きものの声があざやかに響き渡るのである。音のし ない大気に快いものはない。それが快いのは、小鳥の高声、昆虫のうなり声や 鳴き声、人間の太い調子のことば、子どもの気ままなかん高い声など……低い 流れに満ちているときだけである。生活の術が学ばれるにつれて、あらゆる美 しいものもまた必要であることが、ついには理解されるであろう」(ジョン・ ラスキン『この最後の者にも』(1860)第4論文「価値に従って」飯塚一郎訳、 世界の名著52「ラスキン モリス」中央公論社)

最終的な消費の目標は生活の美しさであるというのがラスキンの経済学上の主 張であった。ウイリアム・モリスは工場をつくってお金ももうかったようだし、 生活の役に立つような美しさをつくり出していこうと考えたわけであり、そし てここに引用した極めて田園的な性格の強い美しい生活空間が実際にイギリス にあるといっていい。

私はイギリスで学会があった時に旅行した。エディンバラのホテルのおじさん に「これからネス湖まで自動車を飛ばしていくんだけれど、どういう道で行っ たらいいだろうか」と聞いたら、「これは普通、観光コースに載っていないけ れど、この道を行きなさい」と教えてくれた。ちょうどネス湖の観光客がゼロ になるという冬の始まりの時期であり、牧草地に霜が積もったりしていたが、 すばらしい眺めで、美しい田園風景が目の前に次から次へと広がっていくのに 本当に驚いた。イギリスの田園風景にはこのラスキンの書いた文章の場面がそ のまま生き残っている。

ウイリアム・モリスは純粋芸術よりは日本の民芸運動の原型になったような生 活の中の美を求めたわけであり、ラスキンのいっている「美」も美術館の中で 収蔵されているタブローというよりはもっと大きな生活空間全体の美しさであっ た。文化経済学の本を見ると、必ずラスキンのこの言葉が引用してあり、「だ から美術館にカネを出せ」という話が書いてある。モリスやラスキンの考えた 美術は本当に美術館の中に置かれているタブローであるかとなると、問題が残っ ている。


2. ゴッホの絵の所有者にはゴッホの絵を燃やす権利があるか

最近、世界的に話題になっているジョセフ・ラズ(法哲学者)が書いたものの中 に「ゴッホの絵の所有者にはゴッホの絵を燃やす権利があるか」という文章が ある。大昭和製紙元会長の斉藤了英氏が83億円で買ったゴッホの「アイリス」 の絵をみんなから文句を言われたら、「自分が死ぬときは棺の中にこの絵を入 れて燃やしてくれ」と遺言したという話を多分ラズは日本に来て聞いたのでは ないかと思う。ラズは日本に全部で3回以上来ていると思う。幸いに斉藤了英 氏とその周りの人々は借金が払えなくなったので、ゴッホの「アイリス」の絵 は銀行に差し押さえられ、現在は銀行の金庫の中で無事に眠っているそうであ る。

安田火災海上の後藤さんは53億円でゴッホの絵を買い、ゴッホの絵を買い取る ときのスリルに満ちた気持ちをよくしゃべってくれるのだが、「欲しい」と思っ た途端に幾らかかってもいいという気持ちになったと言っている。すると、や はり料金を取って何百年展示しても採算が合わないのではないかと思う。私は 「こんなにたくさんゴッホの作品にカネを使うくらいなら、ゴッホの生きてい るうちにカネをくれてやればよかったのに」と言うのだが、さすがの安田さん も「それはどうしようもない」とお話しになっている。

ゴッホの絵を持っている人は、法律上、ゴッホの絵を燃やす権利が存在するか という極めて難しい問題に対してどういう答えを出すか。ラズ曰く「私がヴァ ン・ゴッホ作の絵画を所有していると想像していただきたい。したがって、私 はその絵画を破壊する権利を持っている。…絵画を保存する義務を私はいかな る人に対しても負っていないけれども、私は絵画を保存する義務の下にある」、 この言い方がひどく曖昧模糊としてわからない。私は最初はこう思った。もし 斉藤了英氏が亡くなり、本当にゴッホの絵を燃やすという話が持ち上がったら、 誰かが、ともかくそれは絶対に許せないから、緊急に裁判所の命令でゴッホの 絵を燃やすことは仮差押でも何でもして差しとめにしてもらいたいという訴訟 を起こすだろう。

訴訟を起こすと、一個人であるところの私なり大嶋さんなりがゴッホの絵の所 有権について発言する権利を持つことになる。すると斉藤了英氏と大嶋さんと が張り合ったとき、こっちは持ち主、こっちはサラリーマンというので勝ち目 がない。個人が個人に対して負う義務としてゴッホの絵を燃やしてはならない ということは言えない。だから個人と個人との権利関係から言うならば、斉藤 了英氏が絵を燃やすといったときに指をしゃぶって見ているよりしようがない とラズはいう。

しかし、そういう権利がそもそも斉藤了英氏にあるかといえば、「ない」とラ ズはいう。つまり、この議論は権利というものが個人の持っている利害関係の 最大限の集約だ、もとは全部個人の利益なんだと考えたのでは斉藤了英氏を差 しとめすることはできない。そうではなく、もっと大きな意味での公共的な利 害の中にゴッホの絵が位置づけられると考えたときに差しとめができる。

次に「内的な価値」について、ラズは「芸術が自分のいかなる利益にも適って いないような人について考察しよう」という。つまり斉藤了英さんは絵が大変 好きでゴッホの「アイリス」をどうしても欲しいと思っていたそうだけれど、 彼はもっぱら投機のために絵を買ったのであり、芸術については全然関心がな かったと仮定する。「そのような人でさえ芸術を尊重するべきである。…この 要求は、他者の利益に基づいた要求が内面化されたに過ぎないものではない」、 この「他者の利益に基づいた要求」は例えば大嶋さんだけでなくあらゆる人が 潜在的に差しとめ訴訟をするということである。「…各人の目標や嗜好は普遍 的価値の例となっており、普遍的価値は、その全体で価値ある社会生活をつくっ ているモザイクの一部を形成しているからである」。まずすべての人の趣味と か芸術愛などを保護するという公共的な価値があり、その片割れがゴッホの絵 の価値になる。だから、作品としての「アイリス」それ自体は最終的には個人 所有ではなく、究極的には公共財である。(ラズ『自由と権利』森際康友編、 勁草書房、1996)

「各人は…他の人々の価値に余地を与えなければならない」、だから私のもの であっても「ゴッホの絵を見たい」という人に対して見せないとか燃やしてし まうとかという意地悪をする権利はない。「他の人々の価値に余地を与えなけ ればならない。ヴァン・ゴッホ作の絵画を保存する責務を私が承認するとすれ ば、それは、この責務を承認することによって、芸術がもつ価値の承認を私が 表明しているからであり」、私がゴッホは嫌いでも、ともかく芸術の価値は認 めている以上はゴッホを焼く権利がなくなってしまう。「また承認を表明する ことを通じて、選ぶに値する選択肢のいくつかを承認することになるからであ る。これらの選択肢は、たとえ私がその選択肢を追求しなかったとしても」、 ゴッホは嫌いだと言ったとしても、「私の自律がそれらに依存しているような 選択肢である」、つまり私はゴッホが嫌いだからゴッホの絵は要らないと言っ ても、他人がゴッホを愛するなら、それを尊重する気持ちを持って初めて私は 独立した人格だと言える。もしそれが守れないようなら、おまえはまともな人 格ではないとラズは言う。

「自律」とは「オートノミー」という言葉だが、大体は大人になることはオー トノミーを確立することで、自己決定権が発生するといってもいい。本来の意 味での人格はオートノミーを持った存在である。

しかし、このラズの議論はちょっと気になる。オウム真理教が同じことを言っ ていると想定しよう。宗教とはそれこそ価値のある選択肢の一つなのであり、 したがってゴッホの絵を守る義務があるのと同じように、あなたがたとえオウ ム真理教の信者にならなかったとしてもオウム真理教を守る義務がある。「他 人の選択肢を承認することはあなたの自律のよりどころである」という議論を もってするなら、加藤教授はオウム真理教を弾圧する公安調査庁の動きに対し て抵抗すべきである。ラズはなぜ芸術については公共財としての内在的な価値 (intrinsic value)を認め、宗教については内在的な価値を認めなかったのか。

美術館が必要であるなら、宗教館も必要であることになるだろうか。各県ごと に県立オウム宗教館とか県立伊勢神宮神道館とか公立宗教団体をつくるべきだ という結論にはならない。これは、ヨーロッパが多数の宗教の争いによって多 くの血を流してきた結果、国家的なものから宗教色を排除しましょう、宗教色 はあくまでもプライベートな領域に置きましょうという文化が定着した結果で ある。宗教は公共的な保護を得られないけれど、芸術は公共的な保護を得られ るべきだという議論をする上では、「それは歴史的な偶然だ」というのが正解 かもしれない。だから、やがて芸術もピカソ党と岡本太郎党が血で血を洗う争 いを演じることになれば、「やはり芸術を保護すると危ない、世界の平和は維 持できないから、美術館はすべて民営にしよう」ということになるかもしれな い。今、美術館を民営化するという動きがあるが、そういう理由で起こってき ているわけではない。


3. ボーモルとボーエンの指摘

美術館を経済的に援助するという考え方については、ボーモルとボーエンの著 作が大変有名である。この場合は必ずしも美術館だけではなく、オペラの上演 とかバレエの上演も公共的な支援の対象となる。ヨーロッパではオペラの上演 は85%以上が公共的な支援で成り立っているといわれるが、アメリカでは5% 程度が公共的な支援でオペラの上演が成り立っている。オペラの上演の場合、 アメリカとヨーロッパでは公共的な支援の度合いが極端に違っていて、これが なぜかということも大変問題である。ボーモルとボーエンは芸術についての経 済的な条件を実証的に調べ、公共的に支援したほうがいいという結論を出して いる。そういうデータはこの本を見ればよく出ている。
「(1)文化活動の支援にあたっては、芸術創造活動を公共機関が助成して、少 なくとも公演の機会を与え、市場テスト、すなわち、大衆による評価の機会を つくること。
(2)鑑賞者が市場で優れた芸術作品を選択する機会を均等に保証すること。
(3)未成年者の教育によって国民の享受能力を高めること。」
(池上惇、山田浩之編『文化経済学をまなぶ人のために』世界思想社、 1993、20-21頁)

極めて穏当な、だれも納得がいきそうな理由が並べられてあるが、皆さんがぎ くりとするようなところもある。美術館は赤字でも運営しろといっているので はなく、黒字に恵まれないような作家がいても、幾ら料金を払ってもらえるか、 そういう人の作品を展示してみてごらんなさいと書いてある。市場経済方式が 成立しないから美術館で展示しなさいといっているのではなく、市場価格がど のぐらいになるかテストのために展示してみなさいといっている。

これは妥協策としていっているので、本音はお金を出しなさいということかも しれない。そうすることによって多くの人々の目に触れる機会をつくり、市場 テストのチャンスをつくってあげるべきだという議論である。だから、皆さん の美術館で何億円かお金をかけてお客さんがだれも来なかった場合にも、その ようにしてチャンスをつくったという意味があり、それを一般の市民や地元の 人々が受けつけなかったとしても、それは市場テストをしたという意味がある のだから、黒字でなかったからといって、それが無意味であったとは言えない という言いわけを第1項目からすることができる(笑)。

第2項目の中で非常に心配になることは「均等に保証すること」で、これがよ くわからない。「鑑賞者が市場で優れた芸術作品を選択する機会を均等に保証 すること」、これは「鑑賞者に対して均等に保証すること」と考えれば、お金 のない人にもピカソが見られるようにすべきであるとか、車いすでなければ美 術館に入れない人でも美術館に入れるようにするとかということである。私が 北海道の本郷新の彫刻美術館に入ろうとしたら、足の悪い人が車を自分の手で 回して美術館に入ってきて「中を見せてくれ」と言ったので、私は体力に自信 があるから「もしだれもいなければ俺が担いでやるよ」と言ったのだが、美術 館の係員が出てきて「私は剣道8段だから、あなたのご心配には及びません」 と言って担ぎ上げた。しかし、中に入ったらわざと段差がつくってある。彫刻 作品を鑑賞しやすくするために段差をつくったのかどうかわからない。

そんなことを考えると「均等に保証する」のは例えば鑑賞者に対して均等にと いう意味なのか、作品に対して均等にという意味なのか。これはどちらにもと れる。どちらの意味も含めたほうがいい。世の中の駄作という駄作を全部美術 館に並べろといわれたら、皆さんも辟易なさるのではないかと思う。だけど、 時々地方を旅行していて、私が全然名前を知らなかった人のすばらしい作品な どに出会うと実にいい気分がする。いつか福岡で高野三十郎という人の作品の 展示をやっていたが、実にすばらしい発見だなという感じがした。栃木県立美 術館の「清水登之展」など、今まで全く知らなかったけれど、こんなすばらし い作品があるのかという経験をくれることは非常にいいことなので、私とすれ ばこの「均等に」というのを両方の意味にかけて理解したい。

第一にラスキンの問題はカネを稼ぐことにあるのではなく、カネを使うことに ある。そして美しさにカネを使うことは最高の使い道である。第二にラズの 「ゴッホの絵画を守れ」という意見を取り入れ、ゴッホの絵画の価値を認める 人がいる以上は、その絵画を保存する義務がある。第三に、ボーモルとボーエ ンの意見を取り入れ、それに対しては均等の機会をつくるように税金を使って もいいという観点を採用する。これだけ理論武装をすれば、美術館予算を削減 しようとする、いかなるお役人もたたき伏せることができるので、皆さんぜひ 頑張っていただきたい(笑)。


4. ピェール・ブルデューの階級的視点

予算削減派のお役人がさらに上手をいって「しかし大嶋さん、そうはいっても ピェール・ブルデューの美術館論を見ると、美術館にカネを出すのは階級差別 の擁護だということになるし、美術館にカネを出してはいけないという結論に なる」と言ってきたらどう対抗するか。ピェール・ブルデューの『美術愛好』 (ピェール・ブルデュー他『美術愛好』山下雅之訳、木鐸社、1994)という本は 美術館についての社会学の統計調査を含んだ書物で、非常にすぐれた統計デー タがたくさん入っている。

ブルデューという人は私と同じ左翼崩れだが、芸術創作についての社会学的な 分析をやっているという点で非常にすぐれた成果を上げていると評価されてい る。ブルデューの論点の一つは、あらゆる芸術を享受する可能性は、子どもの ときから訓練を受けていなければ身に付かないと言う。ボーモルとボーエンの 挙げた理由でいえば「青少年に教育をして享受能力を高めること」といっても いいけれど、ブルデューは「親が子どもの手を引いて博物館や美術館に連れて いくことが決定的だ」という。私もそう思う。私の父親は敗戦間際の焼け土だ らけのところで私の手を引っ張って上野の美術館へ連れてきて、自分では絵に 対する関心が全然ないものだから退屈しきった顔をしていたが、私は幸いにし て美術館ファンになった。そういう幼児体験の積み重ねがなければ、実際の芸 術愛好は成り立ちにくい。

啓蒙主義はそういう特有の幼児体験を持った特権的な美術享受能力を持った人々 の能力が、特権的な能力ではなく、あたかも人類の普遍的な能力であるかのよ うに考えるという欺瞞性を持っているとブルデューは分析する。たしかにブル デューの統計はものすごくおもしろい。美術館に来て感心した人のアンケート をとり、その人の美術鑑賞歴とか学歴とかの統計をとってその相関度をとる。 すると、美術館をよく利用している人は学歴も収入も高く、美術館というのは カネを使えば使うほど高学歴・高収入の人の生活を高めるのに寄与しているこ とが露骨にわかってしまう。

私自身にもおぼえがある。いつかロンドンでテート・ギャラリーに行ったとき、 ちょうど「ヌード芸術の表現」という展示をやっていた。多分「ヌード芸術の 表現」という看板を見て、やくざのお兄さんみたいな人たちが3〜4人集まって 非常に無礼な振る舞いをしながら美術館の中にどやどやと入ってきた。彼らは、 一つ一つ作品を見るたびに見る見るうちに失望の色を示していき、全然エロティ シズムでも何でもないヌード表現を見てがっかりして、まるでたばこをそこら に投げ捨てんばかりの凄まじい勢いで出ていった。ブルデューの社会学からみ れば「それは当然でしょう」ということになる。

ブルデューの社会学は美的経験の幼児体験依存を実在的な根拠として、美的体 験の階級制を暴いて見せているが、この議論はマルクス主義もどきであるが、 幼児体験依存を説くあたりが実証主義的でもある。ブルデューは最近ではフラ ンス政府の文化政策に協力的な姿勢も見せているようだが、すべての子どもに 美的体験の基礎を与えたならば、啓蒙主義的普遍性が実践的に獲得できるとい う反論を突きつけて見たい気がする。ブルデューの美術館の社会学を逆手にとっ て、「だからこそ義務教育としての美術体験が必要です」という論陣を張るこ とができる。

美術とは本当に普遍的人類的な価値を持つものであるかどうか。美術が古典主 義の時代には普遍的な価値を持っていたけれど、ロマン派以降、特に最近の現 代美術は普遍的な価値というよりは、むしろ人間性の腐敗を表現している、い わば人類の精神的な堕落を表現しているのではないかという芸術批判論も出て きている。


5. 「ヘーゲル」の芸術終焉論

ゲオルク・ガダマー『真理と方法』(Wahrheit and Methode)という書物が出て、 アメリカの文芸批評などに非常に大きな影響を与え、現代における芸術解釈論 の一つの原点になっている。ガダマーには、ヘーゲルが「芸術終焉論」を唱え たことについて報告した文章(神林恒道監訳『芸術の終焉・芸術の未来』勁草 書房、1989)があり、そこから最近はヘーゲルの「芸術終焉論」が大流行になっ ている。最近の美学論文で話のまくらに芸術終焉論が書いてない本はほとんど ない。ヘーゲルは芸術作品がこの地上から消えてしまうといったのではなく、 その時代、時代ごとに精神の中心的な表現部分がどこかにあり、そして、かつ ては確かに芸術が時代精神の典型的な表現であったかもしれないけれど、芸術 が時代精神の中心になるような時代は必ず終わる。実はヘーゲルをよく読むと 宗教がそういう役目を果たしていた時代も必ず終わる。ではどういう時代が来 るかというと哲学の時代だという手前みその話である。

ガダマーはヘーゲルの「その時代の最高の精神の自己表現であるという座を、 芸術が別のものに譲り渡してしまう」という芸術終焉論の予言が的中している のは現在のキッチュであるという見方をした。ガダマーの芸術終焉論では、必 ずしも美術領域の中にあらわれてきたキッチュだけを例に挙げてヘーゲルの芸 術終焉論の予言が当たっていると述べているのではなく、そのほかにパウル・ ツェランの詩なども例に挙げられている。

実はヘーゲルの本音はまだよくわかっていない。ガダマーが読んだときにはヘー ゲルの美学はホトーというお弟子さんの編纂した書物だけであり、昨年、ヘー ゲルの美学講義の学生のノートが初めて出版されたが、芸術終焉論はどこにも 書いてない。だから、ヘーゲルから芸術終焉論を引っ張り出すのはうそではな いかという可能性もある。

ヘーゲルはウィンケルマンの影響を受けている。ギリシアの古典文化のように 宗教的な祝祭と芸術上の祝祭が一緒になり、悲劇の上演が芸術的であると同時 に宗教的でもあり、それが国民統合の象徴であり、また同時にすべての人が同 じ精神を共有しているという、精神の共有を体験するギリシア的な形態であっ たというのが一つの原型だった。ただ、そうなるとキリスト教は全然だめとい う話になるから、ヘーゲルとしては何とかキリスト教と渡りをつけようと苦労 していた。ヘーゲルは最初はゲーテやシラーのような作品の中にギリシア的な 総合性、統合性あるいは理想の表現が見られるのではないかと思っていた。と ころが、ロマン派の芸術が登場してきて、例えば小説でいうと「ルツィンデ」 という次から次へと女たらしをしていった記録みたいな作品が出てくる。

ヘーゲル自身は芸術美と自然美については絶対的な芸術美主義者だった。とこ ろが、ボアスレーという収集家がいて、オランダの絵画をドイツに紹介した功 績を担う先駆者だが、ボアスレーはヘーゲルの友だちで、ヘーゲルはオランダ の風景絵画や市民的風俗画を非常に愛好していた。ヘーゲルは非常に古典的な 完成度の高い理想美を認めていたが、同時にワインをかなりきこめして、オペ ラ劇場へ行って俗悪なオペレッタをしょっちゅう見ていた。「おまえにはバッ ハがわからないのか」と非難され、講義の最中に「バッハばかりがすぐれてい るわけではない、俺だってバッハのよさはわかる」と弁明している場面がある。 ヘーゲルの個人的な趣味はかなり俗悪だった。マイヤーベーアとかオーベール、 ロッシーニが好きで、マイヤーベールとロッシーニの違いなどはあまり意識し ていなかった。後でお弟子さんがヘーゲルの趣味を高めるためにいい作品を芸 術哲学の中にたくさん書き込んでしまったので、本当の趣味がわからなくなっ てしまった。

完成していた芸術が実は歴史的に見るともう崩壊過程にあったのだという感覚 をヘーゲルがどこかで持っていたのではないかと思う。それがガダマーによる と、現代芸術こそはまさにヘーゲルの感じていた芸術の崩壊感覚の極限にまで 来つつあるところだという。ガダマーはそれで絶望するのではなく、その崩壊 の後で本当の芸術が登場するかもしれないという。

確かに芸術は公共的な支援に値するものであるかもしれない。しかし、芸術が 公共的な支援に値するのは、ヘーゲル的な感覚から非常に俗悪にいえば、健全 な理想美を追求したものこそが公共的な支援に値するが、現代芸術がヘーゲル の考えたような意味での健全な理想美をもう一度復活させることになるかどう かは疑問である。もしそういう「健全な」芸術だけを公共的な支援に値する芸 術だというなら、それはあまりにも狭い見方であるといわざるを得ない。


6. 美のさまざまの選択肢

ヘーゲルの芸術終焉論に至るまでの芸術論争史を考えてみた。まず「美」とい う項目があり、それが自然美と人工美(芸術美)に分かれる。ヨーロッパは自然 美にいつ目覚めたとかという話がある。この間のクロード・ロランの展覧会 (西洋美術館)はあまりにも空いていて、日本人は本当は自然美が嫌いなのでは ないかと思ったりした(笑)。最近の世田谷美術館や栃木県立美術館でやってい た環境芸術を見ると、近代美術が発展したときの人工と自然との関係、この議 論がいわば作品という形で蒸し返されたのではないかという感じもする。

人工美について新旧どちらがすぐれているかという論争がある。新旧論争その ものは非常に古くて、12世紀のキリスト教学者であるシャルトルのベルナール (Bernard de Chartres ?-c.1130)が「われわれは巨人の肩にのったこびとのよ うなものだ」述べたのが新旧論争の始まりになっている。新しいキリスト教文 化は古いギリシャ文化の上に立っているが、実は古いギリシャ文化の方がすぐ れていたのではないかという反語である。17世紀になると詩、音楽、演劇の形 式について古典様式と近代様式ではどちらがいいかとか、古典近代論争が続い ていく。

ヘーゲルは精神の進歩を認めているのに、ウィンケルマン『絵画および彫刻に おけるギリシャの作品の模倣に関する考察』(1755)が屈折を与えている。ウィ ンケルマンは芸術進歩説とは反対の方向で、ギリシア模倣説を主張した。芸術 はギリシアで完成していて、あとはそれを模倣すべきだという見方をした。ウィ ンケルマンは本当は右下がり路線だったのだが、ヘーゲルは全体としては右上 がり路線で精神の発展を考えていた。

新旧論争の中から今度は生活美タイプと純粋美タイプという考え方が出てきて、 先ほど述べたラスキン、モリスなどは生活美タイプの側につく。純粋美路線の 中から、抽象芸術が出てきた。

ガダマーは「芸術終焉論」の最後の締めくくりに「伝統の破壊を通じて最終的 にはまた新しい古典美が成立するのではないか」なんて書いているけれど、ガ ダマーは本当はずぶずぶの伝統主義者だと思う。ガダマーは近代文化の特質は 伝統破壊の伝統だという。だからデカルトあたりから始まった近代文化そのも のが、そもそも本性的に伝統を破壊するという特質を持っていて、例えばキッ チュも、近代文化全体が伝統破壊性を持っていたことの最終的な極限的な形態 だと見ていると思う。伝統破壊派の中でも、あくまでも新しい美を追求すると いう動きから、さらには美というものを否定する動きまで出てきた。例えば昨 年の冬にニューヨークに行ったときにグッゲンハイム美術館でフランシス・ク レメンスの回顧展をやっていた。フランシス・クレメンスの中には芸術性その ものに対する否定性を突きつけていく契機がある。

芸術が芸術性そのものを否定するまでに至ったのに、我々は芸術の普遍性とい うコンセプトを一生懸命守って、その上に美術館活動を展開している。本当は、 むしろ現代芸術に到達するまでに捨ててきたさまざまな選択肢(自然美、古典 美、生活美)を全体として見直す中で、もっと新しい美しさを再建する方向性 を追求するという、内容面での真の美しさを考えていく可能性を美術館が実現 することの中に美術館が公共的な使命を果たす道があるのではないかというの が私の今日の結論である。だから、キッチュに見られるような、袋小路に入っ た近代美術を一般国民に押しつけるのが美術館の役目なのではなく、もっと広 い意味で美術全体に視野を向け、自然美、古典美、生活美という選択肢を正当 に評価できるバランス感覚を再開発していくのが美術館の現代的な使命ではな いかと思う(了)。

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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Last modified: Fri Dec 17 11:32:37 JST 1999