関西倫理学会シンポジウム発言要旨

功利主義の問題点--選好とその表現

加藤尚武(京都大学文学部)

               

 健康保険による治療費を月額で一五三四万円、年間で一億八四〇八万円使った人がいる。医療技術が発達すると概して高額化していき、その傾向は止まらない。他方、医療費は国民総生産の七%に抑えるという目安がある。すると厚生省ではつねにどこで保健支給を停止するかという判断をしていなくてはならない。いま、高額治療者に対する保健支給を停止するか、初診料の一律値上げをするか、どちらかの選択に迫られたとする。第一の答え、総額で収支が同じになるのだから功利主義的にはどちらでもいい(決定不可能である)。第二の答え、万一、自分が高額治療をうける場合の選好の強さを考慮すれば、功利主義的に高額治療への支給停止には反対。(もちろん、高額治療者という弱者に不利益な決定は許されないという平等主義的な理由で、一律値上げに賛成という答えもある。)第三の答え、高額治療は費用対効果の効率が悪いから、高額治療の打ち切りという政策が功利主義的に正しい。

 功利主義が社会的な決疑論として有効であるためには、上の問題について分かりやすい答えを用意すべきだと思う。どの答えも功利主義的に正当化できるとしたら、功利主義は決疑論としては無効であることになる。

 功利主義者が、この三つの解答の中からもっとも功利主義的に正しい選択を決定することができるためには、もっとも正しい「最大多数の最大幸福」の算定方式は何かという、功利主義に突きつけられる古典的な難問に答えなくてはならない。功利性の個人間比較と個人内比較の可能性があるのかという問いである。ここには二つの道がある。心理的な功利主義と経済学的な功利主義とである。

 心理主義的な功利主義者は、選好の強さの順序だけ決定すれば良く、選好の強さの度数まで決定しなくてもいいという最小限比較という戦略をとる。具体的には一番弱い推移律の成立だけを認めれば、功利性の最大は算定可能だという立場をとる。

 経済学的な功利主義者は、限界効用の集計としての市場価格を通じて表現される功利性の最大を算定するという戦略を選ぶ。そこに待ちかまえるのはアローの一般不可能性定理である。その不可能性の成立条件には推移律が含まれる。そこで推移律を基軸に功利主義の吟味をする。


I.さまざまの功利主義

(1.帰結主義と動機主義)

 功利主義の中心テーゼは、「人間の行為はただその帰結によってのみ評価されるのであってそれ自体で正あるいは不正なのではない」と表現されることがある。これは帰結主義のテーゼであるとともに、行為に価値が内在しないことを主張してもいる。ベンサムによれは、問題となる行為の正・不正を決定する方法は、自己自身に次のように問うことである。すなわち、この行為は結局のところそれによって影響される人々に対して、自分に可能である他のいかなる行為よりも多くの快を惹き起こすであろうか、と。この場合、行為の帰結とは、行為の一部分(殺人罪)なのか、行為から発生した因果的な帰結(放火によって類焼)という問題がありうる。

 功利主義の批判者は、行為の正・不正がその実際の帰結によってではなくしばしばその動機や意図によって評価されるという。功利主義者は、答えて、たとえ仁愛の動機からなされた行為の結果がある特定の場合には良くないことであったとしても、一般に良い動機からなされた行為は、十分に長い尺度では、良い結果を生むと言うだろう。実際、行為をなすことではなくその結果が善であるならばその行為は称讃されるべきである、ということは功利主義の一帰結である。

 帰結主義か動機主義か。この問題そのものが、どの文脈で成り立つかが問われる。刑事裁判では、動機を無視しないが、これは刑事政策的に見た功利性から正当化できる。逆に、行為を評価は本質的に動機主義であるべきであり、それは行為の存在に価値が内在するからだという立場から見て、行為の結果は動機を推測するもっとも重要な批評であるという観点から、結果主義が正当化される可能性がある。

(2.最大幸福主義)

 しかし、普通の場合、功利主義という言葉でふつう指し示されるのは、18世紀にエルヴェシウスやベンサムと彼の継承者たち(哲学的急進派)によって唱道された「すべての行為の正しさは最大多数の最大幸福という単一の規準によって決定される」という主張を指している。

(3.日常的道義感覚の理論化)

 功利主義者たちはしばしば、功利主義は一般的に受容されている道徳的ルールに暗黙のうちに含まれているものを述べているにすぎないと主張する。別の言い方をすると、われわれが直観的に「道徳的だ」と見なしている観念は功利主義で説明されると言うのである。彼らの主張によれば、「日常的な道徳的推論は功利主義の原則を支えとしている」。ヘアの倫理学も、日常的な道義感覚は、普遍化可能性、直観と理論のダブルコーディング、選好の強度の最大という道具立てで説明できるというものである。

(4.十分に長期的な尺度)

 この考え方は、ときに「十分に長期的見通しをもつなら、利己主義者は功利主義的原則を採るであろう」とも言い換えられる。「正義とは十分長期にわたる時間尺度でのエゴイズムの共同的な達成方法である」と言い換えることもできる。

 この「十分に長期的な見通し」という観点を、さらに規則の次元にまで高めると規則功利主義が導かれる。バークリーは「自然の一般法則をつくりあげる際には、我々は我々自身の日常生活における道徳的行動においてではなく、まったくもって人類の公共善によって導かれねばならないということが認められよう。そのようなルールは、もし普遍的に遵守されるならば、事物の本性からして人類の一般的福祉を向上させるのに必要な適合性を有するのであるから、それは自然の法である。これは正しい推論である。しかし、我々が仮に、当該の行為がこの場合人類に対して多くの善を生み出し何らの害悪をも生み出さないのであるからそれは法に適っていると言うならば、これは誤った推論である。ルールは人類の公共善に関して形成されている。しかし、他方、我々の日常生活は常にルールによって速やかに形づくられなければならない」(Works, ed. Luce and Jessup, 6, 34)。

(5.二つの段階・規則功利主義・普遍化→ダブルコーディング)

 約束を破ることによっても少ししか利益を得ることができない場合には、約束を守る義務がまず優先される。ベンサムはこのことを、第一段階の悪と第二段階の悪とを区別することによって説明した。第一段階の悪とは、特定の個々人に惹き起こされる苦痛であり、第二段階の悪とは、例えば約束を構成する制度に対する公共の確信を粉砕することなどにより一般に共同体にもたらされる害悪である。

 ミルやその他の功利主義者たちが「二次的原則」に強調点を置き、また、「知性ある行為者が次のことを自覚しないというのは彼にふさわしくないであろう。すなわち、ある行為が一般的に行われれば広汎に害を及ぼす類のものであるとすれば、そのことはその行為を避ける義務の根拠となるのである」(op. cit., p. 18)と述べるときには、彼らは単にベンサムの言う第二段階の悪を説明しているだけであり、行為功利主義から離れているわけではない。

 もし規則功利主義が行為功利主義からはっきりと区別されるものであるとすれば、前者はおそらく、規則に従うことはそれ自体として善であって手段としてだけ善なのではない、と主張するであろう。批判者ははそれを嘲笑して「規則崇拝」と呼ぶ。

(6.ラディカリズム)

 合理的なエゴイストの挌律は功利主義である。ウィリアム・ゴドウィンは自己の道徳理論を次の二つの文に要約している。「徳の目的は快を得ることのできる感覚の総和を増加させることである。徳の指針であるとともにそれを規制するものは公平性であるが、それは個人の快の獲得に向けて発揮されるものではなく、多数の人々の快の獲得において用いられるものなのである」(Enquiry Concerning Political Justice, 3rd. ed., Vol. II, p. 493)。ゴドウィンは、約束遵守の徳を否認し、--もし約束された行為が一般的な幸福を促進するのであれば、人はその行為を約束したか否かを問わずそれをなすべきであり、また、もしその行為が一般的な幸福を損なうのであれば、たとえその行為を約束したとしても人はそれをなすべきではない。したがって、約束は道徳とまったく関係がないか、あるいはそれに敵対するものなのである--と論じた。

 しかし、ゴドウィンの立場が、普通の意味でのエゴイズムと一致するとは言えないだろう。彼は、もし、燃えさかる建物から救えるのはたった一人だけであり、そして救うべきはその人自身の母親か、それとも人類の幸福にいっそう貢献しそうな偉大な人物かをある人が選択しなければならないとすれば、その人は後者を救うべきである、と述べてもいる。これは親しさの遠近感とは一致しない。そこでゴドウィンの立場からは、「一般的幸福の見地からすれば我々はあらゆる一般的ルールを無視することができ、したがってまた法や慣行、さらには友情や親への尊敬などのあらゆる情愛をも無視することができる」という結論になると非難された。  

(7.心理学的自然主義)

 「功利の原則」が、「ある行為が正しいのはそれが行為者に可能である他の行為よりも大きな一般的幸福に寄与するときのみである」と述べるとき、第一に、人間には、本能的にかあるいは社会的条件づけの結果として、あらゆる考慮を一般的幸福に従属させる傾向があるという心理的事実を記述しているのかもしれないし、自然主義的な主張をしているのかもしれない。第二に、「人間が実際上そうしているか否かに関わりなくとにかくそうすべきである」という直観によって知られる事実を確認しているのかもしれないし、直観主義的な主張をしているのかもしれない。功利主義(ベンサム)は、自分こそは道徳の客観的規準をもっていると主張して、功利主義を心理学的快楽主義によって基礎づけようと試みた。この考え方によれば、苦を避け快を得るという欲求は人間についての心理学的事実にほかならず、そして道徳はそこから導かれるのであるから、特別な道徳的事実についての直観など必要ではないということになる。

 しかし、心理学的快楽主義は、功利主義にではなく利己的な快楽主義(豚の倫理)に結びつくものである。自然が我々に追求するよう命ずるのは我々自身の快であって、他人の快ではない。どうしたらソクラテスになれるか。

(8.質的、量的、順序数的、基数的)

 この問いに答えるにあたってベンサムとミルとは袂を分かつ。ベンサムは、快の次元を考慮に入れるならば高次の快と低次の快との差は結局のところ量的な差である、と主張する。しかし、ミルはこのような立場をとらない。ミルによれば、「ある種類の快は他のものよりも望ましく、また価値のあるものであるという事実を認識することは、功利の原理とまったく両立しうるものである」(『功利主義論』)。ミルは暗黙のうちに、快とは異なったそれ以外の内在的な善である何ものかの存在を認めてしまっている。この質的功利主義は、理想的功利主義とどのくらい違うのだろう。

 量的か質的か、基数的か、順序数的か、選好の強さと順位かそれとも程度かというような、功利性の評価尺度の問題は、どのような順序を用いるにせよ、その順序が量的な比較を含意するかどうかということだけが問題である。つまり、遷移律を充足するか否かという形で考えなければならない。

(9.豚とソクラテス)

 理想的功利主義(Ideal Utilitarianism)、が以前の快楽主義的功利主義者と異なっていたのは、快と幸福以外のもの(とりわけ真理、美、愛など)もまた、それ自体として善であると主張したことである。ここから彼らは、功利主義の公式を「最大多数の最大善」ヘと変更した。もっとも、彼らも、行為の評価はその帰結、すなわち善なる状態を生み出すための効力によるとする点では快楽主義者に同意していた。さらに道徳的完全性を善の項目に加える者もいるが、そうすることは功利主義の特徴を捨ててしまうことになる。

 正義の原理が幸福の最大化の原理からは導きえないとすれば、ここでは二つの可能性が残されている。一つは、正義とは幸福(あるいは善)の最大化よりもむしろ平等な分配に関わるとすることであろう。この場合我々は、二つの功利主義的原則の衝突に直面することになり、当然それらを調和させる方法を見つける必要が生ずる。他の一つは、功利主義の批判者たちが常に述べているように、正義はその帰結のいかんにまったく関わりなく正しいものであるとすることであろう。


II.公共選択論の視点(社会的決疑論)

 公共選択論は、ブラッドリーがシジウィックを軽蔑して述べたと呼ばれる実践的決疑論であるが、ルソーの「普遍意志」という「実体」(ヘーゲル)の手続き化だとも言える。しかし、アロー、センなどの「民主主義のパラドックス」、「一般不可能性の定理」は、その試みの合理化の限界を示している。

 市場経済と限界効用の関連に着目して、ジェヴォンズは功利主義のモデルに対応する「最大幸福」の経済学的な規定を目指したが、その方法の不可能性が明らかになった今、効用の最大量の評価の、あまり厳密でない可能性がもっとも重要な理論的問題となる。


III.効用の個人間の比較可能性

 ベンサムは当該の行為によって当該の人間に惹き起こされた快苦の単位について語ることは可能だと考えているものの、実際にはそのような単位は存在しない。功利主義の批判者たちは、快は通約不可能であると主張している。

 功利主義の哲学的問題の一つの焦点は、「価値は本質的に量的構造をもつか」という問題である。個人間の効用の比較可能性の問題とも言われる。

 弱い意味では、われわれが比較不可能なものを比較していることは確かである。ワインを麻布と交換するとき、われわれは、ある快苦と他の快苦とを比較考量している。また、判決文が「1日の収監か、もしくは1万ドルの罰金か、被告人はどちらを選んでも良い」と言うとき、2種類の苦痛はまったく通約不可能だというわけではない。日常生活において、我々は実際さまざまな行為の可能性について常に選択を行っている。しばしば我々は自分自身に、ある行為のために他のものを諦める価値があるかどうかを問う。我々はある種類の快は他の種類の快よりもいっそう価値があると考えている。このことは、より価値ある快がより多くの快を生み出すということと同じではない。

 功利主義に向けられた比較可能性批判の多くは、シジウィックの功利主義にも理想的功利主義にも共にあてはまる。また、功利主義者は幸福を増進することと悲惨な状態を救済することとを同等に考えているが、後者は多くの人々にとってより強固な義務である、という批判である。理想的功利主義にとって幸福は善であるし、また類似の問題は醜や誤りの除去と対照をなす美や真理という理想にも起こってくる。功利主義者たちはしばしば、これらの批判と幸福の平等な配分に関する批判とについて、経済学者の言う限界効用の原理を援用することで答えようとしてきた。

 強い意味での量化可能性の立場は、「すべての価値は本質的に量的であり、その量は遷移律を充足する」と表現することができるだろう。ここで遷移律とは、「A>Bで、なおかつB>CであるならA>C」と表現される代数の公理である。選好の際の「辞書的な順序」(lexical order)は、遷移律の充足する範囲に含まれる。

 遷移律を満たさない選好が存在することは確かであろう。私が結婚相手として、アンナをバルバラよりも選好し、バルバラをクリスチーヌよりも選好するからと言って、必然的にアンナをクリスチーヌよりも選好するとは限らない。したがって量化可能性の立場が、この最強の形で成り立つとは考えにくい。

 これに対して量化不可能性の立場は「すべての価値は本質的に量的ではなく、遷移律を充足しない」と述べることができる。一見、量的な比較によって、快の最大と苦痛の最小という尺度に一致するように見える選好でも、その本質は量的ではないという主張になる。

 しかし、まったく同じ商品を百円で買うか二百円で買うかという選好が量的でないためには、「遷移律を満たしてはならない条件がその選好で決定的である」ということを証明しなくてはならない。これは困難であろう。したがって量化不可能性の立場が、この最強の形で成り立つとは考えにくい。

 この二つの立場に対して、量化可能な価値と量化不可能な価値の両方が存在すると考えるさまざまの中間形態が存在する。たとえば、「個人の世俗的、幸福主義的な価値を結果主義的に評価する長期的で平均的な選好の地平に量化可能性は成り立つが、正義、当為、人格の尊厳、宗教的な価値など、比較不可能な、ある意味で絶対的な、またほぼ同じ意味で無限の価値や尊厳をもつ、内在的な価値(intrinsic value)の領域では、不合理な根源的な決断、心情主義的先行判断、先存在論的存在了解、内面的な良心が選好を決定し、量化可能性がなりたたない」とする立場もある。

 理論的なさまざまの争いは、この第三の中間形態の内部で、主要な価値判断を量化可能な形式で正当化するか、量化不可能な形式で正当化するかという形態をとっている。正義、「義務を超える自己犠牲」(supererogation)は、「行為功利主義」(rule utilitarianism)によって正当化できるという議論は、その代表的なものである。逆にいうと「義務を超える自己犠牲」でも社会的にみて有用でないものは正当化できない。ただし「社会的にみて有用でない」ことの証明が量化可能な形式でのみ可能であるかどうかは別の問題となる。

 古典的な功利主義者は「快を求め、苦を避ける」という形式はすべて量化可能な形式であると想定していた。快と苦はまるで一本の直線の上のプラス方向とマイナス方向であるかのように考えられている。快の増大は苦の減少である。そして逆もまた真である。そうであれば遷移律の成立は容易になる。


IV.遷移律の成立条件

 功利主義の立場の倫理学者だけでなく、効用はやはり基数的に測定しうるのだ、そのことを証明することができるのだという希望を、経済学者たちは決して棄ててはいなかった。むしろ、効用の測定可能性を追求すれば、倫理学が経済学にシフトせざるを得なかった。フランク・P.ラムジー(1926)とモルゲンシュテルン=フォン・ノイマン(1944)は、相互に独立に、効用の基数的尺度の決定を意図した。彼らは、ベルヌーイとは反対に、「一個人が賭への参加を決意するのに過不足のない勝ち目(odds)の大きさから彼の効用関数を決定することを提唱した。彼らは次のように論じた。ある人が、2枚に1枚の割合で12ドルの当たりをもたらす1枚のくじ札に最大限5ドルを支払うことに同意したとすれば、彼にとって、当たりが出た場合に得ることになる純益7ドルの効用は、支払い損になるかもしれない5ドルの効用に等しいに違いない」(ジョルジェスク=レージェン「効用と価値」)と考えた。

 われわれに基数的効用尺度を作ることができるかという当然の疑問を尻目に 効用の温度計を作るという構想は熱狂的に迎えられた。最も疑わしいのは「現に手中にしている1ドルとその獲得が見込まれるだけの10ドルに関して、個人が完全に無差別でありうる」という仮定である。「この仮定は、リスクが他の何ものかには還元不可能な、新たな次元を人間の選択に付け加える、という事実を看過している」(ジョルジェスク=レージェン、1954a)。

 効用は序数的にすら測定可能でない、というのが、選択過程への最近のひとつのアプローチから得られる結論である(ジョルジェスク=レージェン、1954a)。ジョルジェスク=レージェンの新しいアプローチでは、「ヒエラルヒーの根底には最も切実な欲求が存在し、これらの欲求は、人間の生物としての本性に根差すがゆえに、人類すべてに共通するやり方で順序づけられていること」に注目する。ようするに必需品と贅沢品の区別を導入するのである。

 このようなアイデアはビジネス・エシックスの領域でも出てきている。

Thomas Donaldson has proposed a minimal list of fundamental rights.(T.L.Beauchamp, N. E. Bowie: Ethical Theory and Business,1993 p.534)

  1. The right to freedom of physical movement
  2. The right to ownership of property
  3. The right to freedom from torture
  4. The right to a fair trial
  5. The right to nondiscriminatory treatment (freedom from discrimination on the basis of such characteristics as race or sex.)
  6. The right to physical security
  7. The right to freedom of speech and associa-tion
  8. The right to minimal education
  9. The right to political participation
  10. The right to subsistence

 権利について必需性の高い順番が想定されている。これは国際間、とくに南北間の権利関係が発生したとき、権利の調整に役立てようという考えである。

 ジョルジェスク=レージェンの場合には、生物学的な欲求に社会的欲求が続き、それらは同一文化に属するすべての人々に共通の順序を持ち、最後に個人的欲求があり、これらは、一個人から他の個人へと不規則に変化する。

 文化的欲求と食糧への欲求では選択の構造が違う。「十分な食べ物を持たない者が、もっと多くのシャツを着ることで自分の飢えを満たすことはできない。われわれの枠組みにおいては、選択は、最終的に、所与の状況下で満たされうる重要性の最も少ない欲求によって決定される。例えば、十分な食物を持たない者は最大の栄養価を持った食料バスケットを選好するだろう。しかし、同一の栄養価を持った二つのバスケットの間では、味のより良い食物の入ったバスケットを選択するだろう。かくして、この場合には、味わいが重要性の最も少ない欲求ということになる。仮に二つのバスケットが、栄養価においても味わいにおいても同一で、例えば、包装に関してのみ異なっていたとしたら、さらに次の欲求が役割を演ずることになるだろう。われわれの場合には、選択はあらゆる可能なバスケットを完全に順序付けはするが、互いに完全に無差別な二つの異なったバスケットというものは存在しない、その結果、選択はもはや無差別曲線を生成させることはない。」

 必需品と贅沢品では遷移律の成立状況が違ってくる。遷移律の成立しやすさの目安として次のような順番も考えられる。

transitive
↓(food,security,pain,resource to survive)
↓(health,amenity,pleasure,job,environment)
↓(utility,intelligence,politics,science,)
↓(friendship,school,community)
↓(music,art,gourmet,amusement,fashion)
↓(religion,opinion,nationality)
nontransitive

 これは必需品と奢侈品の区別という、限界効用説が否定した視点の復活を意味する。たしかに、この段階の区別に客観性はないと批判されるかもしれない。しかし、社会政策。国際政策という観点からは「福祉の個人間比較のための正当で客観的な基礎」が必要になる。

 「そうした基礎なしには、課税政策も全く恣意的な操作に留まらざるをえないことになる。それはまた、例えば、賃金財と奢侈財との区別のような有用な分析道具の理論的正当化にも役立つのである。以上のような消費者選択の描像は、ゴッセン、ジェヴォンズ、ヴァルラスによって始められた効用理論のそれとは全く異質である。この理論は、飢えの描像の代わりに、商品間の完全代替可能性の仮定に同等な、欲求の完全還元可能性の思想を核として瞠目すべき数学的兵器廠を築き上げた。兵器廠の最終生産物の特徴を大いに強調しておく必要がある。即ち、近代効用理論は、ありとあらゆる欲求を、「効用」と呼ばれる、ただ一つの一般的かつ抽象的な欲求へと還元してしまうのである。こうした還元に従えば、われわれは、「これらの人々はもっと多くの靴を必要としている」と言う必要はなく、その代わりに、「これらの人々はもっと多くの効用を必要としている」とだけ言えばよいのである」(ジョルジェスク=レージェン)

 これは環境経済学の確立、南北経済の理論の確立にとって不可欠の前提である。


V.経済法則の存在問題(失業率についての法則性が存在するか)

 これまで経済法則と呼ばれてきたものが、実は先進国に固有の余剰を前提しなければ成立しなかったことがわかってきている。

 効用の個人間比較にはどのような客観的基礎もないという限界効用説の成立についても、「主観的選択への還元」という還元主義が関与している。還元の妥当性は、近代効用理論の建設者が生きていた経済の特殊な性格に帰せられる。彼らの生きていた経済とは、万人が、低所得のゆえに、自らの眼差しを基礎的欲求の充足に釘付けにせざるを得ないような経済ではなかった。選択の可能性が大きい豊かな社会だった。大部分の人々が贅沢な個人的欲求をすら満足させることができるような、豊かな経済であった。近代効用理論は、比較的十分な所得に恵まれ、その経済選択に当たっては、さまざまな商品の数量の多寡にだけ気を配ってことを行えばすむような、そうした消費者についての理論なのである。

 その場面での経済学的客観性の条件の問題を、社会科学の方法論における「存在問題」と呼んで見たい。最近の経済学書で、その「存在問題」を失業統計を素材として突きつけてくる興味深い例が、ポール・オルメロットの「経済学は死んだ」(斎藤精一郎訳、ダイヤモンド社)である。まずデータについての要約的な部分を引用してみよう。

 「第一に、経済システムは、長期間にわたってかなり規則的な変動を続けることがありうる。そうした期間には、データの変動が起きるが、ある変動から次の変動までの間隔はすべて同一ではないが似ており、また完全な周期の最中にはそれぞれがまったく同一ではないが、互いに似た上下運動を示す。」(同、234頁)

 変化と規則性とは矛盾概念ではない。規則性は変化の特徴を集約する形式である。ところが長期の変動を見ると、その中に規則性が成立する期間と成立しない期間がある。これと似た話は、トマス・クーンの「科学革命の構造」の中にもある。科学史は、比較的長期の通常科学の期間の間に短期間の科学革命が挟まった形になるという。クーンの場合には、長期の安定期を支えているのは、パラダイムの支配が科学者集団のなかで安定的に支えられているという事態である。

 オルメロットは、変化の姿そのものを克明にスケッチしようとする。

 「データはショックに敏感で、ある時期に辿る経路や、落ち着く運動の形状は、大幅にかつ急激にシフトすることがある。こういうショックの後の失業率は、たとえば両大戦間を例にとると、何年も不規則な推移を辿ってから、ようやく再び一つのパターンに落ち着く。新たなパターンが確立するのに必要な時間はそれぞれ異なる。一九七三午から七四年の石油価格上昇の後、ドイツ経済は早くも七七年、七八年には新たなパターンに落ち着き始めたが、フランスで規則的パターンが現れ出したのはようやく八○年代半ばになってからだった。」(同、235頁)

 観察者(統計学者)の目には、規則性が崩壊したり、回復されたりするという経緯が見える。規則性の崩壊と再生そのものを予見させるような規則もあるかもしれない。

 「失業率の推移のこうした重要な特性は、他の学問でも、つまり生物学が研究するデータの多くにも見られる。たとえば疫学では、はしかや風疹などの流行がかなり定期的な周期で起きるが、流行の度合いは時期によって様々で、各周期の間にもっと不定期な変動が挟まる。」(同、235頁)

 インフレと失業との有名な相関関係(フィリップス曲線)は、オルメロットによれば1950年代と60年代には妥当するが、70年代にはもう妥当しない。いわゆる環境トリレンマ構造のなかの中心的な連関がこのフィリップス曲線で示される失業率と物価上昇率の相関関係である。フィリップス曲線が、ほとんど無条件に成立するという前提が成り立たないならば、環境トリレンマと言う問題の設定は無意味になる。

 たとえば日本では超低金利政策がとられ、財政赤字・国債累積という犠牲をはらって経済成長刺激政策が採用されている。超低金利政策の犠牲者は、高齢の年金生活者である。景気刺激策で直接に恩恵を受けるのは、たとえば建設業者である。すると高齢の年金生活者の犠牲の上に建設業界に恩恵を施すという政策になっている。ロールズを持ち出すまでもなく、この限りでは、この政策は倫理的に正当化できない。しかし、弁明の理由があるとしたら失業率を減らすと言う点にあるだろう。ところがオルメロットの示す関係が日本にも妥当するとすれば、景気刺激政策は失業率の低下に寄与しない。景気刺激策は、直接的には高齢者を犠牲にし、納税者の負担によって一部の業界に利益を誘導する以外の効果を持たないことになる。しかし、総選挙を控えた政界では「有効な景気刺激策を行った」という「実績」で自分の政党を売り込もうとする動きがある。

 日本における環境破壊の最大の要因は、公共投資による土木建設工事である。そして環境保護が叫ばれるようになると、今度は環境復元のための投資が行われる。業界にとっては、環境破壊でも環境保護でも、注文がくればどちらでもいい。

 景気刺激政策という考え方をささえている社会科学の法則そのものに、問題がある。「環境を守れば失業者が増える」という現実が存在するかもしれないが、その現実そのものは、まちがった社会科学に根ざしているかもしれない。


VI.数字で語ることのできない要因

 オルメロットが失業率の変化という例で経済学の可能性を問題にしたのは適切だったのだろうか。失業率は厳密な意味で客観的な与件といえるのだろうか。たとえば彼は失業率が日本で低い理由として、「生産性の低い、民間のサービス部門」で労働力が吸収されているからだという理由を挙げている。彼は、天文学的に高額なレストランの勘定書もそれで正当化されるといわんばかりのジョークを飛ばしているが、日本の雇用慣行に「終身雇用制度」が根強く定着しているという与件と無関係に「サービス部門での吸収」という判断を下すのは間違いだろう。つまり、オルメロットは、日本にもアメリカ経済の自由主義の体質を決定づける「解約任意雇用」(employment at will 略してEAW.)が妥当していると想定しているのだろう。

 解約任意雇用の原則というのは、「何人も自分の雇い人を任意に、人数の多少にかかわりなく、充分な理由があればもちろん、理由がなくても、またたとえ道徳的に正しくない理由のためでも、それが法的に不正を犯すことにならない限り(even for cause morally wrong without being thereby guilty of legal wrong)解雇することができる」という一八八四年にテネシー州ででた判決文に表現されている雇用者の任意解雇権の通称である。

 失業率は、雇用慣行と関係しているから、日本での変動のデータをアメリカでの変動のデータと比較することは意味がないだろう。

 失業率の変動構造そのものが、西欧の社会で歴史的に変わってきていることの説明として、労働者にたいする基本的な政策の変化を指摘する必要もあるだろう。イーサン・カプスタイン(外交問題評議会研究部長)の「労働者と世界経済」(「世界的失業増大に政策協調をという見出しで、「中央公論」一九九六年七月号に掲載)によると、一九四四年のブレトンウッズの国際会議が大きな転換点であって、そこで労働者の冷遇策から、労働者の保護策に転換することを先進国の指導者が合意したのだそうだ。

 「戦後の指導者たちは、世界経済の立て直しにコミットしていたが、今回はかなり違う手法を用いた。前回のグローバル化[一九世紀の金本位制の導入]の際には、各国政府はそれが引き起こす悪影響から労働者を積極的に守ろうとはせず、こうした間違いが革命と戦争という代価を課したのだ。この体験から学んだ政治家たちは、平等と成長がともに促進されるように政府が積極的な国内的な役割を担う、リベラルな世界経済の見取り図を描いた。」(同、三七七頁)

 ここで「リベラル」とは、ここでは社会福祉政策を重視するという意味である。しかし、このブレトンウッズ体制は高い経済成長率を必要としたために長持ちしなかった。七三・七四年と七八・七九年と二度にわたる石油危機があり、また資本が自由に移動できるようになると先進国の非熟練労働力が余ってしまうという事態になった。失業という与件には政策が連動している。

 ブレトンウッズ体制を今日の目で見返すとき、次のような視点もまた無視できなくなっている。

 「一九四四年七月、世界中から集まった約七○○人が、ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズのマウント・ワシントン・ホテルで会議を開いた。目的は、第二次世界大戦後の新しい国際秩序をつくることである。彼らのビジョンは、自分たちがいま設立しようとしている機関--国際復興開発銀行(世界銀行)国際通貨基金(IMF)--が設立されれば、国際経済協力にって世界全体の生活水準を向上させ、いっそうの平和の実現に役立つというものであった。米国財務長官へソリー・モーゲンソーは開会演説で、この会議の精神を表現した。『すべての国のが、平和裡に潜在的可能性を実現することができ……自然の無限の豊かさに恵まれた地球において、物質的進歩の成果をますます享受することができる、ダイナミックな世界経済の創出を』というのがそれである。彼はこう語りかけた。『われわれの前にある好機は、血であがなわれたものである。お互いに信頼をもって、われわれが自由を勝ち取るために戦った共通の未来を信じて、この好機に対処しようではないか』。
五○年を経たいま、ブレトン・ウッズにあったこの楽観主義はしだいに去った。そのとき創設された機関は、一九五○年から現在までに世界経済が達成した産出量の五倍の成長と、国際貿易の十二倍の増加に少なからず貢献した。しかし、ブレトン・ウッズの二つの機関は、物質的福祉と平和の使者として拍手喝禾を浴びるというよりも、世界の貧困を減少させることに失敗した経済開発モデルの推進者として、ますます攻撃されるようになっている。さらに、地球が自然の無限の豊かさに恵まれているというモーゲンソーの信念は、地球の生態学的悪化という深刻な現実に直面した。これらの機関は、環境破壊と闘う機関としてではなく、環境破壊の代理人として行動することがきわめて多かった。」 (レスター・ブラウン編著「地球白書1994-5」澤村宏監訳、ダイヤモンド社、272頁)

 近代経済学は、自分には市場に価格として表現されるもの以外の要素を省略する権利があると信じている学問である。しかし、いまや近代経済学が何を省略したかがきびしく問われなければならない。

 オルメロットも結論の部分で「道徳的価値」を経済学に持ち込む必要を認めている。「科学的分析を通じて人類の運命を改善できるという考えこそ、偉人な古典派経済学者の動機だった。……だがおそらくもっとも重要な点は、基本的には数学ともつながっているのだが、言葉で言い表すべきだろう。それは道徳的価値の問題だからだ。」(ポール・オルメロットの「経済学は死んだ」(斎藤精一郎訳、ダイヤモンド社、292頁)

 数字で表現できない道徳的価値が、経済学のデータに食い込んでくる。それがどのような価値であるのか。彼は語らず、ただ次のように言う。「一九八○年代の自由市場哲学が流布させた、社会などというものは存在しないという考え方は、存続を許しておけば、どんな経済政策を行っても完全雇用を実現させることはない、という考え方に通じる。体系全体としての運動は、個々の構成分子の活動の単純な合計から類推できはしない。」(同、292頁)

 経済学者で「社会などというものは存在しないという考え方」を抱いていたのは、新古典主義者と呼ばれる人々だけではないだろう。方法論的な個人主義の立場がすべて「集合的な全体は存在しない、存在するのは個体のみである」という立場をとっていた。この経済学の方法論としての個人主義は、同時に、倫理的な個人主義とつながっていた。
「何の束縛も受けない、自信に満ち溢れた競争的人間こそが人類の福祉を最大にするという考えを押し進めることは、人は誰もが参加できる、本当に豊かで結束の強い社会をいつか作れるという可能性を、大きく損なってしまう。」(同、292頁)経済学上の個人主義は、要するに強者の思想だったのであり、強者と弱者の共生の思想ではなかったのだ。


VII.豊かさと平等

 ある倫理的価値が実現するために、社会的な豊かさが必要条件になることは確かである。しかし、だからと言って、倫理的価値が経済的な豊かさに還元されて良いものかどうか。

 平等という価値を考えてみる。十人の人間が共同生活をしていて、生存のための基礎的な資源(たとえば食糧)がつねに不足していると仮定すると、その社会で「平等な配分」は全員の死滅をもたらすだろう。もしこの社会が生き残るとしたら、生き残る人々と彼らのために犠牲になる人々が別れて、支配と被支配の関係を形成することだろう。

 たとえば狼は餌を食べる順番ともなる厳格なヒエラルキーを作っている。狼の社会では生き残る順位がつねに明示されている。このシステムは、ある条件下では狼が絶滅しないための最適のシステムであるにちがいない。

 人間にも部分的には似たような状況になっている。

 「貧しい国々では、資本の成長率が人口増加率になかなか追いついていかない。原因はたくさんあるが、たとえば、投資可能な余剰資本が、(1)海外の投資家に吸い上げられたり、(2)地元のエリートたちのぜいたくに費やされてしまったり、(3)あるいは債務の返済や、(4)法外な軍備に消えてしまうのもその一つだろう。……そうした地域は、人びとが豊かになることなく、人口ばかりが膨れ上がるというパターンに陥っている。」(メドウス『限界を超えて』茅陽一監訳、ダイヤモンド社、47頁)

 ここでは貧しさが貧しさを生む、すなわち貧しさが人口増加を加速するという悪循環が繰り返される。だからある限度以下の貧しさにまで一般的な生活水準が低下すると、そこからは低下の一途をたどる可能性がある。

 「世界システムが最も一般的に示す行動パターンは、『富む者は富を得、貧しい者は子どもを得る』という古い諺に表現されるパターンであるが、これは、決して偶然に生じる行動ではなく、人口と資本を結びつけるシステムがそうした行動を生むような構造になっているのだ。したがって、意図的に構造を変えない限り、その行動様式は今後も続いていくだろう。」(同、47頁)

 トップダウン方式の強力な人口抑制政策がしかれるか。それとも人口抑制の効果を上げるようなボトムアップ方式の政策が展開されるか。この場合には、最初に経済成長と女性の地位向上が実現し、その結果として人口抑制が効果的になるというシナリオになる。現実に人口の圧力が経済成長そのものを抑制しているという状況では、ボトムアップ方式の政策を選択することのできる可能性は極めて限られている。

 「人口の増加は工業資本の成長を減速させる。それは、人口が増えることによって学校、病院、資源、基礎的消費への需要が高まり、工業生産が工業投資に結びつかなくなるからである。また、貧困ゆえに、人びとは教育、保健システム、家族計画、選択の機会を得られず、子どもの収入や労働力に頼らなければ貧困から抜け出せないために、子どもを多く産んで大家族を形成しようとする。こうしていつまでも人口増加が続くのである。」(同、47頁)

 貧しいから子どもを作って、労働力として使うという現実では、大人と子どもの関係という正当化されている不平等が、絶対的な窮乏下での少数者の生き残り戦略と同じ機能を発揮する。


VIII.豊かさと自由

 選択の自由が、どの程度の豊かさを条件とするかは、単純なモデルで理解することができる。十人の人にちょうど十人分の食糧がある場合、誰かが最初に選択の権利を発揮すれば、後からの誰かは選択の自由を失うだろう。だから「選択の権利の平等」は成り立たない。

 四種類の食べ物があり、すべての人が同じだけの選択肢から選択する完全に平等な自由を実現するためには、四十人分の食糧が必要になる。すると、十人の人に対して十人分から四十人分の食糧が提供されるという条件が、かろうじて自由の成立する条件だということになる。そして供給される食糧が四十人分にちかづくにつれて、自由が平等なチャンスになる。

 自由市場が可能であるためには、ある程度以上の豊かさが必要である。その同じ限度が、自由市場における価格形成というモデルが可能になる条件でもあるだろう。すると市場経済の正当性という問題は、この市場経済の成立条件と不可分であるように思われる。もしも充分に豊かでない社会が、自由市場を形成するなら、その社会は同時に平等を実現することは不可能になる。

 ドイツの経済倫理学者ペーター・コスロフスキーがこう述べている。

 「市場メカニズムに関する……道徳的な不満感は、出発点における分配上の不平等、すなわち、相続財産がもつより大きな選択可能性だけによっては、説明できない。市場で選好が実現されることが道徳的であり、また、国民経済が生産可能性曲線上の点で実現する経済全体の財の合成が理に適ったものであるためには、需要に現われる欲求が倫理的で理性的であることが必要である。けれども、市場における選択決定が完全に倫理的であるとか理性的であるとは、誰も主張できないだろう。現実には、必要なもの、美しいもの、有意味なものと同じように、あまりにも多くの無意味なもの、悪趣味なもの、そして過剰な賛沢が存在している。」(ペーター・コスロフスキー「資本主義の倫理」鬼塚雄丞他訳、並びに寄稿、新世社、77頁)

 しかし、このような道徳的な判断を市場における選好にもちこむことは、自由主義の倫理とはまったく相反する。自由主義の原則によれば、他者に危害を加えず、不快をもたらさないならば、「無意味なもの、悪趣味なもの、そして過剰な賛沢」が、そうした倫理的な理由で非難されることはありえない。この論文にたいするブキャナンの論評でもこの点に「異議あり」と述べている。たしかにコスロフスキーは、自由市場にたいする単なる独特主義的な非難とその構造的な問題とを混同している。生活と生存に関する基礎的な資源の決定的な不足という全体状況が見えてきたときに、単なる道徳主義的な非難と構造的な問題との違いもまた見えてくるのではないだろうか。南北問題、環境問題という文脈では、このブキャナンの「異議」にたいする異議もまた可能となるだろう。

 必需品と贅沢品の区別という古典経済学では許された区別が、限界効用説以後はなりたたなくなったという常識が、この論文ではまるで価値概念の正統派的観念の神経を逆撫でするような言葉で表現されている。

「あらかじめ与えられた選好が調整されたり、生産諸要索の流れが需要された財の生産に向けられるだけでなく、市場においては、潜在的な欲求も呼び覚まされる。経済システムは、欲求を形成し、変形し、創造しさえする。経済システムの倫理を検討するためには、ある一時点に存在する欲求を扱うと同時に、経済システムが生み出したり助長するような欲求の種類は何かという問題を考察しなければならない。多くの無意味な欲求に対する道徳的な責任は、新しい財を提供しようとする大企業にのみ負わされるものではなく、消費者の模倣衝動と威信願望にも負わされるべきである。」(同、78頁)

 自由な選好とみなされているものが、実は資本主義的に管理され、販売政策でコントロールされた「自由」を、本物の自由とみなす錯覚で支えられた自由だという批判は、その立証根拠がどこにあるかが問題になる危険な批判ではある。

「資本主義の長所は、社会的経済的な諸過程の目的論化を放棄することによって市場が担いうる限りでのさまざまな価値や目的を許容できる点にある。しかしこのことは、市場によっては十分に供給されない諸価値があると考える人々の目には、資本主義の短所と映る。これに対してわれわれは、次のように答えなければならない。すなわち、どのような順位づけと選好の強度をもって経済の諸目的を実現させるべきか、という問題を解決する基準を、われわれは意のままに使うことができないのだ、と。」(同、80頁)

 資本主義市場での強者にとっては正しく、弱者にとっては不正なシステムだという批判は、強者にとっての自由が弱者にとっての自由ではないと言い換えることもできるだろう。

 「自由は、社会が守らなければならない唯一の価値といったものではない。われわれは、配分メカニズムを道徳的なものとして説明することはできない。マルサスが書いたように、『人は、労働によっても必需品がまったく購買できないようなときには、生存権を否定する』からである。経済の非目的論化が正当化されるのは、発展した富裕な国においてであり、生存に必要な二一ズが確保される場合だけにすぎない。」(同、80頁)

 このマルサスの引用文は「人は、労働によっても必需品がまったく購買できないようなときには、他人の生存権を否定する」と書いた方が正確であるかもしれない。自由な市場によって必要なエネルギー資源を購買することができないときに、独立した主権国家である開発途上国が、誰の生存権を否定する結果になるのかという応用問題が、われわれに課せられてくるかもしれない。地球全体で自由な市場経済がなりたつほど、われわれの地球は豊かであるのか、どうか。

 「この数年、一人当たり食糧生産動向が思いもよらない唐突さで下降線をたどり始めた。一九九三年までに、一人当たり漁獲量は史上最高を記録した八九年の水準から約七%減少した。穀物生産の伸びは八四年を境に突然鈍化し、人口増加率を下回るようになった。その結果、八四牛から九三年のあいだに一人当たり穀物生産は二%減少した。歴史家はきっと一九八四年という年を、食糧生産の急成長時代から低成長時代への移行の分岐点として特筆することだろう。」(レスター・ブラウン編著「地球白書1994-5」澤村宏監訳、ダイヤモンド社、308頁)


 

IX.歴史の逆行の可能性

 この意味で「生存に必要な二一ズが確保される場合」が世界的に拡張され、資本主義の正当化可能な領域が、地球全体に拡張し、普遍化されるかどうかという点について、われわれはあまり楽観的にはなれない。

1、人間が必要不可欠な資源を消費し、汚染物質を産出する速度は、多くの場合すでに物理的に持続可能な速度を超えてしまった。物質およびエネルギーのフローを大幅に削減しない限り、一人当たりの食糧生産量、およびエネルギー消費量、工業生産量は、何十年か後にはもはや制御できないようなかたちで減少するだろう。

2、しかしこうした減少も避けられないわけではない。ただし、そのためには二つの変化が要求される。まず、物質の消費や人口を増大させるような政策や慣行を広範にわたって改めること。次に、原料やエネルギーの利用効率を速やかに、かつ大幅に改善することである。

3、持続可能な社会は、技術的にも経済的にもまだ実現可能である。持続可能な社会は、絶えず拡大することによって種々の問題を解決しようとする社会よりも、はるかに望ましい社会かもしれない。持続可能な社会へ移行するためには、長期目標と短期目標のバランスを慎重にとる必要がある。また、産出量の多少よりも、十分さや公平さ、生活の質などを重視しなければならない。それには、生産性や技術以上のもの、つまり、成熟、憐れみの心、知慧といった要素が要求されるだろう。 (メドウス『限界を超えて』茅陽一監訳、ダイヤモンド社、はしがき)

 「生存に必要な二一ズが確保される場合」が成立しなくなる危険な限界点を、人類は一部分で超えはじめているが、まだ「絶対的に間に合わない」という限界を超えたわけはない。もしも世界で有効な対策が立てられないならば、その限界をも人類が超えていくことは、時間の問題なのである。

 経済法則の存在の問題の特質は、倫理性を離れて存在が定義されるわけではないという点にある。新古典主義の認める「自由な市場経済」では、自由な選好によって決定される価格が支配的になる。限界効用が価格の決定方式となるためには、その社会は、「無意味なもの、悪趣味なもの、そして過剰な賛沢」の選択をゆるすほどまでに豊かでなくてはならない。しかし、自由な選択が、その社会の多くの住民にとって餓死や奴隷的な状態を意味するなら、自由な選好のシステムに代わって武力の支配が登場するだろう。

 このような可能性を前にして、今夜のディナーはチキンにするかフォアグラにするかという選好と、生き残るために食糧を選ぶか医薬品を選ぶかという選好を区別することのできないという特質に存在理由をもつ経済学が耐えうるのかどうか、私は疑う。この経済学は、曲がりなりにも最低生活の保証が維持できている自由市場社会でしか使えないだろう。環境問題が提起する歴史的な戦略決定では、市場経済方式の採用条件が問題になり、そして必需品の供給という最低生活の保証という条件の上にオプションとして自由主義が可能になるという構造をとるだろう。歴史的に非常に限定された条件で、また倫理的にかなり偏った正当化条件で成立する「市場経済」に固有のカテゴリーに拘束された経済学が、地球の未来の設計の任に耐えられるだろうか。

 「経済学者は、あらゆる専門職業人のなかで最もオポチュニストである。…経済学者たちが過去百年間にもわたってある一つの特殊な観念、すなわち新古典派の創始者達の思考方向を支配した機械論的な認識に、頑固なまでに執着してきたというのは奇妙なことなのである。経済学者みずからが誇らしげに認めるところによれば、これら先駆者達の大望は、力学のモデルにならって、W.スタンレー・ジェボンズの言葉によれば「効用と利己心の力学」として経済学を打ち立てることであった。」(ジョルジェスク=レージェン「経済学の神話」小出他編訳、東洋経済新報社、57頁)

(了)


KATO Hisatake <kato@socio.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Feb 1 21:00:00 JST 1997