情報倫理とポルノグラフィー

加藤尚武(京都大学)

1998年6月14日


情報倫理学が直面している問題のひとつは、サイバーポルノに対して、規制主 義で臨むか、放任主義で臨むかという問題である。

規制主義は、ポルノ自由化の基礎理論は、他者危害と不快防止原則であって、 ポルノ自由化の条件は、印刷物であること、密室でのみ見られることであり、 サイバースペースはその条件を満たしていないから、規制することは自由主義 の原則(他者危害と不快防止原則)のもとで正当であるという主張となる。また、 ポルノを鑑賞する「愚行権」の行使は「判断能力のある成人」という条件を満 たさねばならず、青少年に対してポルノ鑑賞の機会を提供することは、愚行権 の濫用の機会を与えるものであると主張する。私は、この意味で規制主義に賛 成である。

放任主義の主張は、高度の情報化社会の生みだす最大の危険は、ビッグブラザー の成立であり、この危険に対処するためには個人の表現の自由を守り、自由な 言論の自然淘汰によってのみ、「豚ではなくてソクラテス」という理想が達成 されるべきであるから、ポルノの放任の弊害は、計算されたリスクとして引き 受けるべきものであるという主張である。 この主張のなかで問題になるのは、 第一にビッグブラザーの仮説であり、第二に言論と表現における「市場の成功」 という仮説であり、第三に「計算されたリスク」は放任の利益よりも低いと見 なす功利性成立の仮説である。

第一にビッグブラザーの仮説は、G・オーウエルの『一九八四年』(1949)の主 人公「ビッグブラザー」(スターリンがモデル)を原型にして、T・アドルノの 『シュピーゲル』誌インタービュー(1973年)の基本的な論点を加え、さらに、 ハバーマスの『晩期資本主義の正当化問題』(1973年)や『コミュニケーション 的行為の理論』(1981年)で示された物象化批判をも取り入れた内容になってい る。その中心的な思想は、情報のシステム化のなかに人間の自律性の喪失の可 能性があるというものである。自律性の喪失の非常に通俗的なイメージとして は、チャップリンの『モダンタイムス』における社長--職長--労働者のモデル が、工場ではなくてネットワークで実現するのだと考えてもいいだろう。

現代のネットワーク社会が直面しつつある自律性喪失の危険は、そのなかに 「ビッグブラザー」が隠れていることに成り立つのではなくて、情報の過剰の なかで、個人が自律性を喪失する危険があるということである。人間が何かに よって「操作されている」という危険があるのではなくて、「有効な自己決定 が不可能になる」という危険がある。この二つは同じことではない。そこから 脱却する可能性もまたそのネットワーク情報の有効な利用のなかにある。

フランクフルト学派(アドルノ、ハバーマス)は個人と社会、自由と社会組織を 宿命的な二律背反の構造で捉える趣味があるが、ロマン主義的な自己と目に見 えない社会との間に疎外というムードでつなげるという気分的現状批判がその 特徴であって、彼らの指摘する「関係の存在」はつねに証明不可能なあいまい さの中にある。

独裁制の成立についてのプラトンの描写(『ポリテイア』544-569)によれば、 優秀者の支配という体制は、内部分裂を生みだして軍国主義の支配を生みだし、 軍国主義は金権主義を生みだし、金権主義から大衆社会(民主主義)が生まれ、 大衆社会から独裁制が生まれる。「自由への貪欲、自由以外のものへの無関心 が独裁制を求める」(562c)

われわれが今確立しなければならないものは、自然に対する人間の責任を果た す人類的自律性である。世界全体が平和を保ち、協調と協力の実をあげながら、 貧富の対立を克服し、未来の世代と人間以外の生命に生きる道を保証する責任 ある主体性である。この点ではハバーマスも同意するだろうが、しかし、彼が 気分的ネオ・ファシズム批判の文脈から脱却して「自由への貪欲」を棄てるこ となしに、情報倫理の建設的な主役を演じることはできないだろう。

第二に、ポルノ放任主義者は、言論と表現における「市場の成功」という仮説 を抱き続けている。「自由な言論は真理に接近する有効な手段である」という のが、言論の自由を支える古典的な理論である。自由には道具的な価値 (instrumental value)が認められている。

ここには自由を真理を目的とする手段とみなすという道具的自由観があり、そ れはビッグブラザー仮説の背後にあるフランクルト学派的自由観とは両立でき ないものなのだが、それについてはこれ以上言及しない。

オルテガ・イ・ガセットは言論の自由に対しては熱狂的な支持者であったが、 大衆社会という自由市場の機能については、「市場の失敗」(market failure) を認めていた。

しかし、西欧社会での言論表現の自由は、その道具的な機能の喪失(市場の失 敗)の後でも、正当化を受け続けたのは、言論表現の自由に「内的な価値」 (intrinsic value)が認められたからである。しかし、ポルノに内的な価値が 認められるのではない。したがって、ポルノという表現体の一部を規制するこ とは、内的な価値としての言論表現の自由の侵害にならない。

ポルノ放任論者が、依拠できるのは「ポルノ規制を認めれば全ての言論表現の 規制を認めるようになる」という「滑り坂理論」である。しかし、私はそのよ うな「滑り坂」の存在を認めない。

放任論者の理論には、第三に「計算されたリスク」は放任の利益よりも低いと 見なす功利性成立の仮説がある。つまり「子どもがネットワークでポルノにア クセスできるというデメリットは、ポルノを規制することから発生するデメリッ トよりも少ない」(デメリットとデメリットの比較)がその主張の主要な部分に なると思う。

ここで「子どもにポルノを見せることは精神的な発達にとって有害ではない」 (デメリットの存在否認)の議論、「子どもが自分でポルノの善悪を判断すべき だ」(子どもに責任能力を認める)という議論には立ち入らない。

ポルノをサイバースペースから追放することが、可能であるとしたらそのこと 自体は、デメリットではない。それがデメリットとしてカウントされる理由は 上記の「滑り坂」の存在を抜きにして成り立たない。放任論者は、ポルノ放任 の功利性について立証責任を負っていないように思われる。

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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Last modified: Sun Jun 14 14:50:24 JST 1998