情報内容と情報媒体

加藤尚武(京都大学)

1998年5月26日


生命と情報はどこが違うかという問題と本質的に同じ哲学的な問いは、「脳と コンピュータはどこが違うか」というのである。ジョン・サールが「心・脳・ 科学」(土屋俊訳、岩波書店)でだした答えは、媒体が違うというもので、そ れを聞いて多くの人がきつねにつままれたような気がした。典型的なばかげた 解答だと思った人もいる。なぜなら「脳とコンピュータはどこが違うか」とい う問いは、媒体が違うことを当然の前提として、機能としてどこが違うかとい う問いであったからである。サールの解答では、「脳とコンピュータは機能が 同一である」とか、「脳と同一の機能をもつコンピュータは原理的に可能であ る」という判断を排除できないように思われる。サールは、情報媒体が異なる なら、当然、情報内容も異なるという前提を持っているのだろう。

情報は媒体に依存しないが、生命は媒体に依存する。つまり、情報にはもとも と、「異なる媒体で同一の情報が表現できる」という特色がある。だから、コ ンピュータは違う媒体で同じ機能のものが作れる。「ゼロと一」に対応する物 理的存在は、大きさにも材質にも制限がない。だから、情報とはことなる媒体 でも、コピイできるものだと言ってもいい。生命という情報は、核酸塩基とい う媒体に依存的で、もしも、塩基のなかの窒素を別の元素に置き換えたら、そ れは別のものであって、コピイではない。情報技術の開発の限界と生命操作技 術の開発の限界とはまったく違っている。

情報は本質的にコピイであって媒体の同一性を要求しないからである。情報の 媒体は中国の西安にある石の図書館のように石に刻まれた文字でもよい。紙に 書かれた文字、印刷された文字、レコード盤、テープ、ラジオ、テレビ、イン ターネットはすべて同一の情報の媒体となることができる。

情報に要求されるのはそのオリジナルよりも伝達速度が早いということである。 マラトンの走者は帰還する軍勢よりも早くアテナイに到着したから情報伝達者 の役目を果たしたのである。ライオンが走って私に近づいてくるとき、その視 覚情報はライオンよりも早く私に伝達される。

情報はインタレストをもつ。情報がそれ自体価値があるということは、情報を 得る・知ること自体に充足・満足があることを意味する。音楽、絵画、ポルノ グラフィーや隣家の不倫のように情報がそれ自体として興味深く価値をもつ場 合もあるが、情報の多くは宝島の地図のように、その情報を使うことによって 利益を得たり、危険を回避したりすることができる。軍事機密、ノウハウ、DM のアドレス、株式情報は宝島の地図と同じ価値がある。

情報は媒体から自由なので、伝達速度の速い媒体にコピイして、それを別の媒 体に再現しても、情報の同一性は損なわれない。

生命は、媒体から自由な情報に還元することができない。ところが、このよう な情報と生命の特性の違いが分からなくなってしまっている人々がいる。

たとえば、クローン人間は作ってよいかという議論のなかの代表的なものは、 「同一の人格が複数存在することになれば、人間の尊厳を犯すことになるので、 クローン人間を作ることは、憲法違反である」というのである。つまり「DNA 同一=身体同一=人格同一」というものとしてクローン人間を理解している。

この等式の中にはDNA同一=脳内の情報同一=人格同一という判断が含まれて いる。つまり、クローン人間を作れば、同じ精神をもつ人間を人工的に作り出 すと信じ込んでいる人がいる。情報の媒体となる媒体の配列が同じであれば、 その内容も同じであるはずだという過ちは、なかなか気づかれない。

木田盈四郎「遺伝子と生命」(菜根出版)には、オウム真理教の教祖の血を飲む とDNAが伝達されるという「輪廻転生」に対して、どう解釈したらいいかとい う話が出ている。ある評論家が「記憶をつかさどるDNAの転写」と解釈したと いうのだが、ここにはまずDNAの「転写」をそっくりコピイすること誤解して いるという間違いがあると指摘している。もう一つの間違いは「記憶は脳細胞 の電気的働きですから、脳細胞のDNAが転写されてできるのは脳細胞で、記憶 はその働きのことです。テレビという機械とビデオの映像の区別がつかない方 のようです」(37頁)と見事に評論家氏を論駁している。こういう話題について、 プロの遺伝学者が素人にわかる本格的な話をしてくれるというのが、ありがた い。ついでに言えば、この本には普通の教科書などに「間違いだらけの遺伝学」 が書かれていると指摘されている。

ふたつのテープレコダーがまったく同一だとしても、そこに録音されている内 容まで同一であるとは言えない。テレビが同じだからといって、同一の画像が 映るわけではない。

この木田氏の本には「DNA同一=身体同一」ではないということの証明になる 事実も書いてある。サリドマイドを服用した母親から手足の短い赤ちゃんが産 まれたことについて、それが遺伝ではなくて外部からの要因によることがどう やって証明されたかという問題である。引用すると「遺伝性疾患であるかどう かを確かめるために、イエルゲンセンらは、母親が妊娠初期にサリドマイドを 服用したことが証明されたふたご49組を対象にして、その奇形の卵性診断をし ました。49組中一卵性ふたごは七組、二卵性ふたごは26組、卵生不明16組で、 ともに症状がみられたものは、順に86%、81%、94%で、卵性による差がない ことがわかりました」と書いてある。一卵性ふたごの86%に同じ症状が出たと いうことは、14%には同じ症状は出なかったということである。これは、つま り一卵性であっても完全に身体が同じとは言えないというデータとしても読め る。

DNAが同じ一卵性双生児でも、一方はサリドマイドの影響を身体に残すか残さ ないかの違いをもっている。だからクローン人間は、身体が完全に同じだとは 言えない。身体がたとえ同じだとしても、その身体に記憶される情報は違って いる。

すると情報と生命については、その同一性の意味が違っていると言ってよいだ ろう。DNA同一は身体同一ではなく、身体同一は人格同一ではないということ は、「同一」にさまざまな意味があるということである。

同一人格である条件となると、非常に複雑である。たとえば私が記憶喪失に陥っ たとすると、それは加藤尚武が記憶を失ったのであって、加藤尚武が加藤尚武 でなくなったのではない。私が生命を失うときには、大脳が機能しなくなって いるが、そのまえに脳の記憶内容をすべて別の脳に移したとしても、その移さ れた人は加藤尚武ではない。情報と生命の関係は、人格という場面では、非常 に込み入った、普通とは違う関係になる。人格には、その経歴が含まれるから、 人格はコピイ不可能であると言える。私の脳の記憶をコピイした人格は、私の 経歴とは違う経歴を持つことにならざるをえない。

オウム真理教の麻原は、林という医師に「彼の記憶を消去せよ」と命じ、林は 脳に電流を通して、かなりの程度まで記憶の消去に成功したそうである。そこ で私の脳をフォーマットして別の人の記憶を入力したとしよう。その人は「か つて加藤尚武であったが、現在は記憶を入れ替えた人」であって、加藤尚武で はない。つまり、人格の同一性は、記憶の同一性だけでは成立しない。記憶の 同一性は人格同一性の成立条件の一部である。

私がアルツハイマー病になって、自分の過去や家族の同一性にかかわる記憶を すべて失ったとしても、人格の同一性が認められるのは、精神に断絶があれば 身体の連続性が、人格的同一性の認識根拠になるからである。しかし、記憶の 同一性を人格同一性の必要条件と見なすなら、その記憶を失った人は、私と同 一人格ではない。

すると生命でありながら異なる媒体にコピイ可能な人工生命は、生命ではない のかという問題が出されるかも知れない。しかし、私がここで提案している 「情報は本来コピイできる」という尺度にしたがえば、人工生命は生命のコピ イであって、したがって生命ではない。 情報と情報媒体を混同することによって、疑似問題を作り上げてしまった最悪 の例は、パーフィット(Derek Parfit)である。脳を切断することによって、一 つの人格を二つの人格にすることができるとしたら、人格の同一性の概念はど のように変容されるべきかというのが彼の問いである。つまり、霊魂の単純性 に含まれる永遠に不可分であるような自己同一という観念形態を揺るがすため に、脳の切断や融合が、人格の分割や融合になるという想定を持ち出して議論 を進めるが、「脳」を物質名詞で示されるような可分的なものと想定して、そ の脳と人格が同一だという想定をしている。つまり、この想定そのもに人格を 可分的なものとみなすという前提が含まれているので、パーフィットの問いは、 偽装されたトートロジーにすぎない。

つまり、パーフィトは「人格の不可分性・自己同一性は疑いうる」という主張 をするために、脳が可分的である以上は人格も可分的だという想定で作られた 「問い」を提示する。

パーフィットは、脳という情報媒体と人格という情報内容を混同している。し かも、人格の座は脳に局在する、人格は情報の内容ではなくて、情報を統合す るシステムであるという点もまた無視している。したがって、パーフィットの 問いから、「哲学的に正しい部分」を切り出してこようとしても、どうしても それができない。

オウム真理教で、クローン論議で、パーフィットの人格論で、情報内容と情報 媒体の混同という過ちにもとづく議論の花盛りである。それなのにクローン論 議のなかのある種の意見では、それらが混同されているとしか思えない。生命 の中核が有限な要素に還元可能な記号的な性格を持つと言うことはたしかであ る。記号的な組み合わせという一面から、情報内容と情報媒体を同一視する誤 りは避けたいものだ。

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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Last modified: Tue May 26 17:06:22 JST 1998