日本には個人を尊重する思想が不在なので、日本には伝記文学がとぼしいと いうお話を聞いたことがあるが、私はもしかすると日本は世界でもっとも書か れた伝記の数の多い国ではないかと思う。「往生伝」という文学形式が存在す るからである。それは個人が死んだときに記念のために書かれた文章を集めた ものという体裁をとっているが、生の記録(bio-graphy)であるとともに死の 記録(necro-graphy)ともなっている。
『日本往生極楽記』は慶慈保胤(慶の保胤 よしのやすたね)によって10世 紀にできた「往生伝」の日本でのさきがけであるが、42伝をおさめている。 いちばん短い第40番を引用する。
近江の国、坂田郡の女人、姓は『おきながの』氏なり。年ごとに筑摩の江の 蓮花を採りて、弥陀の仏に供養したてまつり、ひとえに極楽を期せり。かくの ごとくすること数多の年、命おわるの時、紫雲身に纏わりぬ。(「日本思想 体系」7巻、40頁)
慶慈保胤は、この本の序文につぎのようなことを書いている。
自分は、40歳のころから、阿弥陀の信仰に深く志し、…出家者と被出家 者を問わず、また男女を問わず、極楽に志しあり、往生を願う者には、かなら ずかかわり合いを持った。中国の浄土論にも、往生した人二十名の伝記を記載 しているものがある。それは非常にすぐれた[往生の]証拠となる。人々の智 恵が浅くて、浄土教の原理の理解が十分ではない。もしも往生した人のことを ありありと描写しないならば、人々の気持ちを十分に納得させることはできな いだろうと[中国の書物で]言われている。中国で唐の時代に書かれた往生伝 には、四十数人の人の伝記が記載されているが、この中には牛を殺す仕事をす る者もあれば、鶏を売る仕事をする者もいる。仏教の僧侶と出会って、十種類 の念仏を唱えるという仕方で往生した。…さまざまの歴史や伝記を見ると、往 生の時に不思議な出来事が起こっていることがある。また経験を積んだ老人に 相談したら、四十数名の事例を手に入れた。感動して、また心に留めて、その 行いを記録するが、その書物の名を日本往生極楽記と呼ぶ。後で、この書物を 読む者は疑いを抱いてはならない。できれば、私はすべての人々とともに、極 楽浄土に往生したい。幸福とは何か。この著者にたずねれば、「極楽往生」という答えが出てくる。 死ぬこと自体が歓喜となり、そして死後に極楽の生が保証されている。そのよ うな死に方=生き方をすることが最高の幸福だというのである。永年、極楽往 生を心がけて来たが、生涯の終わり近く、生きている内に不思議な出来事が起 こって、その「奇跡」の発生と同時に入滅するが、その奇跡が極楽往生の証拠 になるというストーリーが圧倒的に多い。
たとえば『日本往生極楽記』の四一番も短いものである。
伊勢の国にある老婦がいた。常に香を買って、近くの寺に供えていた。春 秋には、花を折って香に加え、いつも塩、米、木の実、野菜などを僧たちに与 えていた。この老婦が病気になったときに、家族が飲み物を与えようとして、 助け起こした。すると、身につけていた衣服が自然に抜け落ちた。そして左の 手に、蓮の花を持っていた。花びらの広さが7、8寸で、この世の花とは違っ ている。輝く色彩があざやかで、香りをはなっている。看病している人が「こ の花はどこから来たのですか」ときくと、「私を迎える人が、もともとこの花 を持っていたのだ」と答えた。その瞬間に彼女は入滅した。人々で随喜しない ものはいなかった。
この話のリライト版がある。嘉永四年出版された「日本往生伝和解」と言う 本である。序文によると「慶の保胤の日本往生極楽記、江の匡房(えのまさふ さ)の続本朝往生伝、三善の為康(みよしのためやす)の拾遺往生伝、治斎 (はるとき)の古今往生略伝、勇大(ゆうたい)の扶桑往生伝などから選んで、 緇素(しそ)老少の読みやすいようにする」というのである。「緇」というの は黒い衣のことであり、「素」というのは白い衣のことである。緇素とは、僧 と俗人、出家と在家の総称である。このリライト版の伊勢の国の老婦の話では、 衣服が抜け落ちたという場面を省略している。この同じ話が、今昔物語集に採 録されたときには、この衣服の脱落が不可解だとして「この世の汚れをさる」 という意味だと注記されている。全体に分かりにくい細部が削られて話がスト レートになるのはリライトの常である。また原文では「我を迎ふるの人、本こ の花を持ちたり」と述べているのに、リライト版では「我を迎ひる仏、この花 を持たせ給いし」となっている。
「迎える人」が「迎える仏」に変わっている。意味は同じである。元の往生 伝が「我を迎える人」と表現することで、それが仏であることが自ずと分かる という表現形態であったのに対して、後の時代のリライトでは種明かしが済ん だ形で表現されている。これらは民衆文学の伝承ではよくあることである。中 のモチーフはまったく変わらない。
幸福とは極楽往生だ。幸福な往生とは「臨終正念」、すなわち心にまよいな く阿弥陀仏の来迎を仰ぎ、眠るように息たえることとされる。
「死んで極楽に行くこと」と定義してよいが、しかし、「極楽往生」と言っ たときに日本人の多くは「極楽のような往生」、「幸福な死に方」という意味 を込めてこの言葉を理解するだろう。つまり、「往生」という死に至る経過、 過程そのものが至福に満ちている。往生というのは、「生命を尽くす」という 意味だから、どちらかというと「彼岸に到達する」という意味を語源的には含 んでいない。往生それ自体は、日本人は死に対して此岸での出来事と受けとめ るだろう。その往生という過程が、彼岸からの花で彩られる。音楽で、香りで 美しく飾られる。その美しさが、この往生(死dying)が、極楽への旅立ちであ るということを告げている。「極楽往生」という言葉の「極楽」には、二つの 機能が働いていて、一つは、往生の過程そのもの(dying)を形容しており、も う一つは、その往生の結末(death)が極楽への到着であることを示している。
阿弥陀信仰のありかたとして、臨終のときに生の意味が完成するという思想 を拒否するタイプもある。たとえば、一遍知真は「念々臨終なり、念々往生な り」といって、つねに生そのものに「往生」が存在している。一念一念となえ ることに往生がある。こうして親鴬も一遍知真も、臨終とときの来迎を強調し ていない。
浄土真宗や時宗では念仏したそのときが往生であるという、平生業成(へ いせいごうじょう)を説いており、また親鴬は臨終正念を自力の念仏であると いう理由で否定しているため、浄土真宗の東西本願寺系や時宗には往生伝は存 在しない。往生伝があるのは臨終来迎を認めている宗派(浄土宗、西山浄土宗、 浄土真宗の仏光寺派、高田派)にかぎられている。これに対して本願寺系でつ くられたものが「妙好人伝」である。しかし、どちらにしても、信仰をもつ人 が極楽往生をとげるというストーリーになっている。
「幸福とは何か」という問いへの手がかりを、この「極楽往生」という観念 のなかに求めるとき、第一に、「その人の生の全体を集約するような意味であ る」という答えが出てくる。しかし、その意味は「棺をを覆って事(人の値打 ち)は定まる」という中国の諺(晋書、劉毅伝)、ソロンが語ったとアリスト テレスが伝えている「その終焉を見とどけなければならない」(ニコマコス倫 理学、1卷10章、1110a)という視点でなりたつものではない。ある人の一 生の価値を、評価するためには、その人の終焉を見なければならないとすると、 その故人の生の意味は他人にとってしか意味を持たなくなる。そうではなくて、 生きている人に経験されるものでなければならないとアリストテレスは主張し ている。その主張は正しい。しかし、それならば、人間の全体の意味の集約は、 その人には経験できないものなのかという疑問が残る。
ハイデガーならば、生の全体的な意味は「死に先駆ける」決意性に成り立つ というだろう。しかし、その決意性は孤独な内面でしか、支えられないように 思われる。往生伝の思想では、幸福とは、第二に「その人の生の意味の集約で あって、その当人にとっても、周囲の人間にとても、明らかさがなりたつもの」 という意味になる。それを往生伝では、「験記」(げんき、げんぎ)と表現し ている。「験」は明らかになった証拠という意味であり、「記」は記載という 意味である。往生伝という時の「伝」も、記述一般をさす言葉だが、「他人に 伝える」とか、「後世に伝える」とかの気持があるのだと思う。日本の往生伝 では、先の『日本往生極楽記』に続くものに、『大日本国法華経験記』という 著作がある。日本の、法華経の、あらわな現れの記載という意味である。『現 証往生伝』(三巻、桂鳳編纂、天明5年-1785)の示す「現証」という言葉も、 「たしかな証拠」という意味である。
この「験」の思想、つまり信仰に極楽往生という報いがあるという因果の思 想が、もっと俗悪な現世利益の形をとると「利益伝」(りやくでん)という形 になる。念仏をとなえたことによって、この世で病気が治ったり、長寿をえた という現世の利益、すなわち幸福をもたらした念仏者のすがたを書いたのが利 益伝である。
利益伝として時期的に早く成立したものは、室町町代に近江国金勝(こんぜ) 阿弥陀寺の隆尭の撰述した『称名念仏奇特現証集』である。江戸時代になると 無能(むのう)が享保五年(1720)『近代奥羽念仏験記』をあらわし、宝 洲は元文二年(1737)『貞伝上人東域念仏利益伝』を編纂した。祐海は自 分の師である祐天の現世利益の事績をあつめて『祐天大僧正利益記』を編纂し た。
これにたいして往生伝の特徴は、現世的な利益とはまったく無関係な幸福の おとづれを記している点にある。往生は彼岸から来る美で彩られている。聖徳 太子夫妻は同時に亡くなったとされているが、「顔は生きているようで、身体 が軽いことは衣のようであり、香気が部屋に満ちた」とされる。「男は天仙の すがた、女は天女のかたち」とか、「音楽が空から聞こえる」、「紫の雲や煙 が立ち登る」とかの類型的な表現が多い。
その他にも、「瑞華(天華)が降り落ちる」、「不思議な香がする」、「空 中に光明が輝き白昼のようになる」、「五色の光明があらわれる」、「往生人 の姿があらわれ、円光を放つ」、「阿弥陀仏が来迎する」、「阿弥陀三尊が来 迎する」、「二十五菩薩が来迎する」、「観音菩薩が来迎する」、「本尊から 光を放つ」というような幻想的なイメージが代表的なものである。
もっと現実感覚に近い「証拠」としては、死後に特別の文字が現れる、親類、 友人、師が夢を見て故人が浄土に往生したことを告げる、眠るように安らかに 往生する、称名の声とともに往生する、往生後の遺体がやわらかで臭くない、 五色(白色)の舎利が出現する、茶毘の灰が雪のように白い、茶毘のとき舌根だ けが焼けのこる、等々のような「証拠」がある。このような事象の表現の類型 性については、柳宗悦の言葉が参考になる。
「プロテスタントでは説教者が偉い話し手となるが、真宗の方では信徒が偉 い聴き手だともいえる。だがこれだけが真宗の説教の特色ではない。もっと異 彩をはなっている点がある。それは真宗の説教は、話が高潮してくると、いつ も韻律をおびて来て、節附けになることである。つまり説教節とでもいうもの になってくる。説教が一種の音楽的な調子を帯びてくるのは何故であろうか。 これはキリスト教でも聖書の朗読や祈祷が、一種の調子を帯びてくるのと同じ 法則があるといえよう。神事でも祝詞を読む時、一種の節附がおのずから行わ れて、決してただの朗読ではなくなる。なぜこんな結果になるのであろうか。 考えると、ものが個人的でなく公のものになる時、かかる節附が必然に招かれ てくるのである。つまり様式化され、客観化される場合、個人的な語り方でな く、非個人的な表現を帯びてくる。我々はこれを言葉の「模様化」と呼んでい るが、韻律の世界はかかる模様化の要請によるのである。ところで説教は、そ れが個人的な自由な性質でなく、正脈の教えを説く場合、公的な客観的な性質 を要求する故、許り方も様式化されてくるのてある。その様式化が節附となる のである。特に真宗の説教は前にも述べた如く、説教者の個人的特色に依存し ないから、つまりどんな説教者をも、より好みせぬ性質があるので、ますます 話し方が客観的なるを要する。この要請が必然に話し方の様式化、つまり韻律 化に納まってくるのである。それ故、説教は節附の技術にうつり、話術になる。それ故、真宗では、深い 思索者、熱意ある宣教者が必要でないわけではないが、それより上手な節附で 正統の教えを語り得る人が、一番説教者としての資格者になってくるのである。 説教というより節語りとでもいおうか。だから聞く人は理屈を聞きに行くのが 目的ではない。近頃の人は、こういう節附説教を、古くさい田舎じみた過去の 方法だと軽蔑しがちであるが、決しててそうでなく、これには必然的な意味が 多いにあると思える。」(「妙好人論集」岩波文庫、84頁)
類型的な表現は、リフレインの効果と同じものを持っていて、「語る主体」 (speaking subject)というあり方から、人間を誘い出して、「言葉が語る」 という境地へといざなう。つまり、類型化は、分かりやすいとか、通俗的であ るとかの特徴を持つが、往生伝のなかの「紫の雲」とか、「蓮の花」とかが、 非常にリアルに個性的に描写されてほしいという期待感が成立していない。
『日本往生極楽記』にしばらく遅れて中国にも、往生伝が数多く書かれて いる。それが鎌倉時代に日本に伝えられて、仏教の説話文学に影響を及ぼし、 「今昔物語集」の材料になったりしている。
ニセの往生伝も書かれた。つまり、ノンフィクションからフィクションへの 発展の要素がそこには含まれていたはずであって、文学形式のひとつの成立事 情として考えてみることができるだろう。もっと掘り下げて考えれば、この種 の文学に、フィクションとノンフィクションの区別が本来的に成立するかどう かが、問題になる。
『拾遺往生伝』(三善為康)、『後拾遺往生伝』(三善為康)、『三外往生 記』(沙弥蓮禅)、『本朝新修往生伝」(藤原宗友)、『高野山往生伝』(沙 門如寂)というように、往生伝の編集は、一時はおとろえるが江戸時代をへて 明治の中期までめんめんと続いている。『大日本国法華経験記』(沙門鎮源、 11世紀)には129伝、大江匡房『続本朝往生伝』(11世紀)には42 伝、同『本朝神仙伝』には37伝、面倒なので途中を抜かして『近世往生伝』 (1695年)には48伝、江戸末期の『妙好人伝』には153伝、『明治 往生伝』(1882年)には45伝がおさめられている。往生伝のすべてを 合計して全部で何人の伝記が残されているか、まだ誰も数え上げてはいないと 思う。
明治時代に出された往生伝や妙好人伝のなかに、すぐれた精神的な価値のあ るものが多いことは、鈴木大拙や柳宗悦の仕事で良く伝えられているが、しか し、精神性のとぼしい記述に終わっている例も多いのではないかと思う。
明治18年に出版された「三河往生験記」から一例を引用してみたい。
蓮応清安信士ーー信士。俗名は清吉。額田郡岡崎能見町、源空寺門前の 農夫なり。生得(しょうとく)極めて愚直なるものにて、老年に及び、朝暮れ の勤行唯念仏のほか他事なく、平生格別に参詣すということもなく、説法聴聞 等もなければ、唯常々思い出[づ]るままに、よく念仏しけり。安政六年未 (ひつじ)年一二月中旬の頃より、老病の体にて、追々さし重り、平臥なれど も、さしたる苦痛もなし。困窮に取り紛れ医薬のことも申し出ださず。その侭 に捨て置きぬ。家内それぞれ産業にのみ貪[頓]着して、等閑(なおざり)に 過せしは、親子の情愛もなく、いと心なきことどもなりけり。しかるに万延元 申年六月二十日、正九ツごろ、孫清次郎(十六歳なり)なるものを呼びて申す るは、仏のご来迎なり、有り難し。早く水々と申したれば、手水盥に水を汲み 入れて与えければ、病者みずから手洗い、口漱ぎ、直ちに西方に向ひ高声念仏 数十返[遍]へて、しきりに落涙す。その内、妻、いま女帰宅せしを呼びよせ、 ただ今われ極楽へまゐるなれども、今、しばしは延引すべし。其の方もよく念 仏して往生すべしと。眼病の娘と孫清次郎両人は、若年のことなれば両三年世 話いたし、跡につづきてかならず一蓮同生すべし。相待つべし。我は明日こそ 極楽往生に疑ひなし。みなみな安堵すべしと遺属(ゆいぞく)いたし、その余、 念仏の声たえず、案の如く明くる二一日。朝五ツ時よりは言語不通(ごんごふ つう)、辰の中刻眠るが如く息絶えにけりとなん。
この往生伝は、典型的なストーリーとくらべると、いくつか違っている点がある。
まず第一に主人公は、あまり熱心な信者ではない。「平生格別に参詣すとい うこともなく、説法聴聞等もなければ」というような程度にしか、信心をして いないのだから、教訓物語としては、説得力に欠ける。
第二に、病気の治療を充分にしなかった理由が違う。ふつうの往生伝の定石 では、「周囲の人々が治療を受けるように勧めたが、当人は治療をはっきりと 断った」というストーリーになる。「平臥なれども、さしたる苦痛もなし。困 窮に取り紛れ医薬のことも申し出ださず。その侭に捨て置きぬ。」この記述は ありのままに書いたのでそうなったのかもしれない。しかし、典型的なストー リーの場合に、医薬品が自由に入手できたが、それを断ったのか、それとも高 価で医薬品が手に入らなかったのか、あるいは、さほど苦痛が激しくなかった のかというような事実問題は。重要ではなかったのではないだろうか。
たとばストア主義の哲学者の伝記を見ると、「自ら呼吸を断って死んだ」と か、「自ら食を断って死んだ」というような記述がある。しかし、実際は呼吸 ができなくなったのかもしれない。食欲もなくなったのかもしれない。しかし、 そのような自然の成りゆきさえも、ストアの哲学者の列伝のなかでは、「自発 的な断念」という意志的な性格の強い物語に変えられてしまう。そのような物 語的な場の力が働いているということが重要なのである。上に引用した例には、 その物語化(神話化)の力が希薄になってきている。
第三に家族との関係である。われわれだって、友人の葬儀に出たときに、家 族が仕事に忙しくて、この主人公をなおざりにしたとか、親子の情愛がないと かいうことは、たとえ、それが本当だとしても、口には出さない。ましてや、 これは往生伝である。この記述の冷たさは、筆者の物語性の喪失という次元だ けではなくて、「家内それぞれ産業にのみ貪[頓]着して、等閑(なおざり)に過 せしは、親子の情愛もなく、いと心なきことどもなりけり」と書くのは、イン フォーマントになった人の言葉をそのまま書いてしまったという機械的な作業 の進め方のせいなのではないかと、疑われる。往生伝の基本となるモラリティ が平安時代では「善人往生」であり、鎌倉時代になると「悪人往生」になった と言われるが、奇跡物語の性格は残されている。しかし、この明治期の記述を みると単なる日常人の伝記という形に近づいてくる。
これらは、もちろん仏教の伝道の手段として用いられたのであるが、有名無 名貴賎を問わず、一つの命を文字に写して版に刻み世に残すという営みのなか に、その個人のかけがえのなさへの思いがないはずはない。
これら往生伝のいくつかが鈴木大拙『日本的霊性』に用いられているが、有 名な浅原才市についての記述は、そのまま往生伝の一節のようにも読める。
「妙好人才市のことを西谷啓治君からきいて、その人の歌を見たいと思った のは、もう一昨年にもなるか知らん。今年になってから藤秀 師の『大乗相応 の地』という本を貰った。才市の歌がたくさん載せてあるので、折にふれて読 んだ。…藤師によると、才市妙好人は、浅原才市というので、石見の国、迩摩郡大浜 村字小浜の人、八十三歳で、昭和八年一月に往生している。五十歳頃までは舟 大工であったが、履物屋に転職して死ぬるまで、下駄つくりならびにその仕入 れをやった。…才市が仕事のあいまにかんな屑に書きつけた歌は大分の数にの ぼったものらしい。法悦三昧、念仏三昧の中に仕事をやりつつ、ふと心に浮か ぶ感想を不器用に書いたものである。しかし、彼はこれがためにその仕事を怠 ることは断じてなかった。」(鈴木大拙全集、第八巻、一八二頁)
往生伝の世界と比較してみたいのは、ドイツの敬虔主義(Pietismus)の宗教 運動とその参加者たちが書き残した自叙伝のかずかずである。敬虔主義は、中 世的な神秘主義と啓蒙主義の中間にある研究領域として、魅力的でもあり、重 要でもあるのだが、資料の収集にも閲読にも大きな困難があり、いままではほ とんどその姿が知られていなかった。幸いにして伊藤利男『敬虔主義と自己証 明の文学』(人文書院)が出て、敬虔主義の思想と文学の全貌がきわめて詳細な 形でわれわれの前に示されるにいたった。
敬虔主義の最初期の思想家であるヨーハン・アルント(1555-1621) の言葉に「キリストが私たちのうちに生き、私たちがキリストのうちに生きる」 というのがある。実は順番を逆にした「私たちがキリストのうちに生き、キリ ストが私たちのうちに生きる」という言葉もある。これについて筆者の伊藤利 男はつぎのように書いている。「私たちがキリストのうちに生きるのが先か、 それとも、キリストが私たちのうちに生きるのが先か、その順序はさして重要 ではない、というよりも、むしろ、この二つは同時に始まり同時に進行する事 象である。ありは、表裏一体の関係にある、と見るべきであろう。そしてそれ は、人間がキリストと合一した状態、と呼ぶことができよう。」(同、84頁)
しかし人間=キリストなのではない。人間はキリストではない。その人間がう ちなるキリストにめざめるということは、「後悔する、打ち砕かれた、罪を贖 おうとする、敬虔な心によって捉えられる」(同、83頁)ということである。そ の時、人間とキリストは、同じであって、同じでない。
才市の歌につぎのようなのがある。
なむ仏は、さいち(才市)が仏で、さいちなり。
さいちが悟りをひらく、なむぶつ。
これをもろ(貰)たが、なむあみだぶつ。
ここでは才市と仏が、同じであって、同じであない。大拙は「才市は仏であ る。仏は才市である」と解説しながら、同時に「才市即仏または仏即才市では ない」とも言う。これが仏教の敬虔主義である。
どちらの場合にも、自分というものを捨てて、捨てて、捨て切ったところで、 超越者とひとつになった自分が、死んで生まれ変わったようにして出てくる。 それは、近代的自我とか、超越論的統覚とかいうものとはちがう。
「生まれ変わった、この私を見て下さい」という気持が、ドイツでは自叙伝 という文学形式になる。「信仰一途に生きた姿を見守ってあげましょう」とい う気持が、日本では往生伝という文学形式になる。この二つの形を、単純に違 うとも、同じだとも言うことはできない。ドイツに往生伝と同じ形のものもあ る。しかし、とくに自叙伝という形を多くみせたドイツの敬虔主義が、そこか らいわゆる近代的な自我の生まれてくる場を生み出していったという経緯は、 伊藤氏の著作の第二部に紹介された一連の自叙伝の系列に読みとることができ るように思われるが、現在、イギリスでの伝記文学の形成史など、興味深い研 究が静かに進んでいて、いつかそれらを広い視野で見渡すような仕事ができる ようになってから、慎重な比較を試みるのが適切であろう。
伊藤氏が詳細に紹介してくれた自叙伝のそれぞれから特徴的な記述をひろい だしてみることにする。
シュペーナー(1635-1705年)は、敬虔主義の理論をきずいた人だが、 その『身上書』(1705年)は「故人が三人称で言い表わされる当時の通常の 身上書」(つまりドイツ式の往生伝)と同じ記述形式で書かれている。「誕生、 両親の紹介、洗礼、初等教育…中等教育、大学時代、教養旅行、就職、職業活 動、結婚、家族、病気、そして死の模様と順次記して、故人の生涯に示された 神の恩寵と故人の遺徳をたたえ、また故人の人生に影響を及ぼした人々の名前 を挙げることも忘れなかった」(一五四頁)というのが、通常の身上書だそうで ある。しかし、自叙伝に固有の内面の描写が現われてくる。
主人公がシュトラスブルグで教会と大学で職を得ていたときに、フランクフ ルト市から有利な地位の提供があった。その時のことを彼はこう記している。
「この件において神のご意志がどのようなものであるか、私の心情には十分な 確信がなく、…私はひたすら受け身の姿勢をたもって両市に私自身に関して折 り合いをつけてもらおうと決心し、また私自身からはそれぞれのがわに決定へ のどんな動機も与えないよう自戒し、賛成と反対の両方の理由を書面にしてシュ トラスブルグ市に手交し、そして同市が私を最もよく知っているがゆえに、同 市に決定を要請しました。」(同、167頁)
ここに敬虔主義者の内面的な態度がはっきりと出ている。まず、すべては神 が決定する。神の意志に確信が持てないときは、公正な第三者の決定にゆだね、 自分は厳正に中立を守るのである。自己決定の完全な放棄こそが、もっともあ るべき姿勢なのである。
シュペーナーの高弟でハレ市で活躍したフランケ(1663-1727)の 『履歴書』(1690-91年)は『回心の発端と経緯』という題名でも世に知 られている著作で、信仰を一度失った後での回心の経験を描いている。「聖書 だって神の言葉であるかどうか分かったものではない」という疑問にとりつか れる。そして知人に自分の無信仰を告白した後で、「これまでどおりの行いを 続け、そしてまた私自身の心を最大限に否認しながら熱心に祈り続けた」。
その翌日の日曜日「まだ知らない、信じてもいない神に対して、もしどなた か本当の神様がいらっしゃったならば、この悲惨からお救いくださいと叫んだ。」 するとそのとき「神は私の願いを即座に聴きいれたもうたのである。たちまち のまに私のあらゆる疑問は消え失せ、私の心の奥底からイエス・キリストにお ける神の恩寵を確信したのである。」(211頁)この回心は彼の自我の作用で はない。「信仰は私たちの内部で行なわれる神のわざ」(ルター)なのである。
私が信じるということが、私でない者のわざであるという構造は、たとえば 一遍上人のつぎのような思想にも見て取れる。
ほとんど永遠に近い「十劫の昔」、法蔵菩薩は悟りを得て衆生をすくうこと ができなければ、仏にならないと誓った。その結果、仏となったのが阿弥陀仏 である。彼が仏になったからには、衆生がすくわれることが前提になっている。 信じるも信じないもない。ただ一返「南無阿弥陀仏」と唱えた真剣な気持(一 念)だけで往生は約束される。阿弥陀仏の名を唱えただけで往生は約束される。 したがって、臨終を迎えなければ往生できないというわけではない。平生にも 往生がなりたつ。「臨終即平生」、「臨平一致」といって、瞬間瞬間の「今」 が死の深淵にさしかかっている。その「只今」の瞬間の一念で、この身体その ままのすがたで往生できる。こを「即便往生」とよぶ。
このような精神状態を、一遍智真は、つぎのように述べている。
「南無阿弥陀仏と一度正直に帰命(きみょう)せし一念の後は、我も我にあ らず。故に、心も阿弥陀仏の御心、身の振舞も阿弥陀仏の御振舞、ことばも阿 弥陀仏の御言なれば、生きたる命も阿弥陀仏の御命なり。しかれば昔の十悪・ 五悪ながら請け取りて、今の一念,十念に滅したまふ有難き慈悲の本願に帰し ぬれば、いよいよ三界・六道の果報も故なくおぼえて、善悪ふたつながらもの うくして、唯仏智よりはからひてあてられたる南無阿弥陀仏ばかり所詮たるべ しとおもひさだめて、名号を唱へ息たえ命終る。これを臨終正念往生極楽とい ふなりo(『一遍上人語録』巻上)
阿弥陀仏の名号をひとたび素直にとなえて、仏に全身全霊をささげたならは、 自分の身でありながら、その私が実は私ではない。私は阿弥陀仏と同体である。 同体であるから心も身の振舞いも、ことばも命も一挙手一投足が阿弥陀仏の行 為そのものとなる。十悪・五逆というような父を殺し母を殺し仏をそしった罪 悪人であっても、念仏をとなえることで、悪をおかしたことにより、さまざま の世界におち、流転することはありえない。一念一念をつみかさね、命が終る ときまで念仏せよと勧めている。
往生伝や妙好人伝の主人公達と、ドイツのピエティズム文献のなかの伝記の 主人公達と比べてみると、ずいぶん、良く似ている。その似ている点のもっと も中心的な要素は、自我の中心部分が、心の内に神やイエスや阿弥陀の存在を 感じとるという点、そして本当の意味で自分のことを決定できるのは、そのよ うな意味での他者であるという自己了解、すなわち、日本的な言い方をすれば 「他力」の態度が共通している。
もちろん、違う点もある。日本では、自叙伝という形のものがなくて、ドイ ツでは自叙伝が中心になるという点、日本では文字を書くことのできない人も 往生伝や妙好人伝には登場するが、一般的にいうとドイツの敬虔主義の文学の 作者はレベルの高い教養人であるようだ。日本のこの種の伝記にもっとも多く 登場するのは聖徳太子だが、まったくの下層民も登場する。
内容的に見ると、日本の伝記では、非常に美しく彩られた死の瞬間に幸福の 絶頂がおとづれ、往生が生涯の願望(本望)の達成になり、当人も周囲の人々も 随喜の涙を流すというストーリーになっている。幸福感が満ちあふれていると いう点にもっとも大きな違いがあるように思われる。
しかし、ことなる文化のなかに置かれた文化的な作品について、比較をする ということ自体に非常に大きな困難がある。たとえばゲーテの自伝的な作品と 文字の読めない日本人の伝記を比較して、ドイツ人は知識が豊かで、日本人は 知識が貧しいという結論を下すことはできない。それではゲーテと日本の有名 な知識人を比較すれば公正な比較になるかといえば、その公正が何によって保 証されるかということについての、明確な回答はないだろう。
日本の阿弥陀信仰を背景とした伝記の集成と、ドイツの敬虔主義の文化に芽 生えた自伝の数々とは、比較して興味のある結論を得易い資料であるように思 われるが、いずれにせよ、さらに詳細な資料上の吟味が必要になるだろう。
(以上)