悪の哲学誌

加藤尚武

(1999年12月14日、日本学術会議公開シンポジウム発言要旨)


悪はどこから、どのようにして発生するのか。悪は、人間性そのものに由来す るのか。また、悪魔的な人間が、存在するとしたら、その性質は何らかの程度 ですべての人間に共有されているのではないか。「悪の哲学誌」という表題の もとに、特定の宗教の教義を離れて、人間の一般的な特質としての悪が、どの ように考察されてきたかを、西洋哲学のなかに見られる主要な言葉を集めるこ とによって、一つの構造的な問題を明らかにして見たい。


1. 善悪以前と善悪の彼岸との間

赤ちゃんが悪を行うとは考えられない。子どもはしばしば「汚れのないもの」 と見なされる。子どもの行為の結果が害悪ではあっても悪意がないと見なされ るからである。善悪を問うことのできない物質はいつから善悪を問うことので きる精神となるか。おそらくチンパンジーには悪が存在する。結果としての害 悪、害悪を意図的に引き起こすという手段による行為、自己目的としての悪に 充足をもとめる悪意というような段階があるように思われる。

このような悪が成立するには意志の存在が不可欠だが、植物状態、脳死、「対 応能力」など、人間の自然的ありかたと人格的ありかたの限界が問われる事例 が多くなっている。たとえば約束する能力は、道徳的な存在の徴表と言えるか もしれない。「約束する権利をもった動物を飼育すること---これは人間に関 して自然が自らに課した逆説的な課題ではないだろうか。これこそ人間に関す る真の問題ではないだろうか」(ニーチェ「道徳の系譜」2-1)という問いの 投げかけるものが、問題であるとも言えるだろう。

全く精神性のない物質には善悪はないとして、精神性の最高の境地までの心身 の連続的なあり方を想定すると、最高の精神性においても、善悪は消滅してい る。善悪以前と善悪の彼岸との中間に、善悪の成立する領域が存在することに なる。

「賞賛ないし非難の向けられるのは、これら情念や行為が随意的なものである 場合に限られる」(ニコマコス倫理学1109b30)というアリストテレスの言葉が、 この善悪の成立する範囲を、ほぼ正確に規定している。

悪の分類としては、ライプニッツによる形而上学的悪、物理的悪、道徳的悪と いう分類(「弁神論」ライプニッツ著作集、6巻138頁)を修正して、災害や病気 のような自然悪、犯罪や過失という行為悪、人口爆発、環境破壊などの社会悪、 原罪と呼ばれる形而上学的悪(宗教的悪)の4種をあげておいてよいと思われる が、これらの間に混同や交錯が存在するということが悪の本質的な構造である。 神への罪の贖いによって救済が生まれるという観念形態では、宗教的な悪と自 然悪との交錯が中心的な観念を形成している。自然災害は神の怒りという観念 では、自然悪が行為悪や宗教的な悪への神の報復であると考えられる。

現代では、個人の行為としては必ずしも悪意の基づくものではないが、その集 積の結果などによって巨大な悪が発生する社会悪が重要である。たとえば「会 計係が社長の命令で粉飾決算をする」という場合には個人の随意性そのものが 社会的な拘束と絡まってくる。小さな心の弱さが大きな悪を生み出す。

すべての拷問者が、体質的なサディストであるわけではない。社会的な状況の なかで、拷問者という主体が成立する。「公害」のように誰も悪意なしに行為 した結果が被害者を生み出すこともあるので「社会悪」を独立項目として置か ざるをえない。

最大の社会悪は戦争である。1914-1918年の第一次世界大戦で2600万人の戦死 者がでたが、1939-1945年の第二次世界大戦では53547000人の戦死者が出て、 非戦闘員の犠牲率も上昇している。1986年核弾頭の保有数約7万でピークとなっ て、減少しつつあるように、世界の軍事化は全体としては弱まっているが、死 者の数が減るかどうかは、別問題である。


2. ソクラテスのパラドックス

意志がすべて善を目指すとすれば、すべての悪人は望まずして悪人である。 「われわれが歩く場合には、善を求めて歩くのであって、歩く方が善いと思う から歩くのである。・・・善いことをわれわれは望んでいるのであって、良く も悪くもないことは望まないし、まして悪いことを望むということもない。」 (プラトン「ゴルギアス」468b-c) ここには法律的な言い方をすれば故意と過失 の問題が含まれている。「僕が人を悪化させているとしても、それは僕の本意 ではない。・・・このような不本意の誤りに対しては、法廷へなど引き出した りしないで、個人的に会って諭すのが法だ。」(ソクラテスの弁明25e-26a)--- そこで、故意と過失の区別を導入しても、問題は残る。

「善をもって万物の希求するところ」(ニコマコス倫理学1094a)というアリス トテレスの行為論では、「それぞれの領域における善とは、そのためにその他 の万般のことがらがなされるところのものである」(ニコマコス倫理学1097a) とも言われる。この言葉の含意を「欲求されるところのものは善である」と解 釈すれば、功利主義の思想が生まれるだろう。徳は知であり、悪徳は無知、転 倒、はき違え、取り違えから生まれるという考え方によれば、教育不可能な悪 人は存在しないと言うことになる。徳は力であり、悪徳は意志の弱さから生ま れるという通俗的な解釈も可能である。

魂の支配的部分が、他の部分を教育し、指導するという観念形態が実践的な処 方箋になる。「思惟的な部分には知恵があり、魂全体のための先見の明がそな わっているのだから、この部分には、支配することがふさわしく、他方、意気 地の部分は、思惟的な部分につきしたがい、その味方になって戦うことがふさ わしい」(プラトン「国家」441、世界の名著166) ここに理性が意志を支配する という思想が、確立されるが、支配するもの…全体、支配されるもの…部分と いう解釈も、支配するもの…精神、支配されるもの…肉体という解釈も、生ま れていく。霊は善であり、肉は悪であるというマニ教の教理は、その一つの典 型である。魂は悪ではないが、魂の弱さは悪の原因となり、肉はそれ自体が悪 であるが、悪の十分な条件ではないというプロティノスの立場も、ソクラテス のパラドックスという下地に魂の支配的部分という観念形態をはめ込む一つの 仕方であると言えるだろう。

理性が感性を支配する。その理性こそ、個人にとっての自己である。こういう 自我概念が、西洋文化の中心を占めるようになる。カントのように理性的な原 理を形式的(形相的)と呼び、感性的なものはすべて質料的であると規定すると き、形相が質料を支配するというプラトニズムの姿が見えている。


3. 悪の消極性

ギリシャ哲学では「身体的な快楽や感覚的な快楽は真実の快楽ではない」とい う立場が基本になっていて、「快楽は悪である」という視点は存在しなかった。 ストアの哲学では「われわれの心にはあらゆる罠が張りめぐらされてい る。・・・あらゆる感覚にからみついて、その奥深くに潜んでいる快楽は、つ とめて善きもののまねをしているが、実はあらゆる悪しきものの母なのだ」 (キケロ「法律について」世界の名著、150)という快楽=悪の原因という見方 が強くなっていく。

創世記の記述が、いわゆる「原罪」として解釈される背景には、ストア主義の 影響があったと判断していいと思う。アダムの説話には、旧約聖書「創世記」 (3章)、旧約偽典「第4エズラ書」(第3章)、「ロマ書」(5章12-20)などに原型 があるが、それらのテキストがそのままいわゆる「原罪」観念の成立を意味す るのではなくて、祖先の罪が子孫に伝わり、身体に内在する罪の原因というよ うな原罪観念になる過程には、主としてストア哲学の影響を受けたアウグスティ ヌスが確立したものと言ってよいように思われる。「各々の幼児は身体におい ても、魂においてもアダムであり、だからこそ、この者にはキリストの恩恵が どうしても必要なのである。」(アウグスティヌス「創世記注解」片柳栄一訳、 アウグスティヌス著作集、教文館、17巻24頁)

神は人間を自由意志をもつものとして創造し、その自由意志は悪の原因となる が、神は悪の原因を創造したのではない。「悪い意志が悪い行為の作用因であ るが、その悪い意志の作用因は存在しない。・・・それ故、誰も悪い意志の作 用因を求めてはならない。その原因は、積極的ではなくて、消極的である。悪 い意志自体が積極的なものではなくて、消極的なものだからである。」(「神 の国」12巻)

悪の原因は自由意志であり、それはある種の自己原因であるが、その存在は消 極的である。原罪とは人間の精神に内在する無である。存在は善であり、悪は 無であるという観念形態は、弁神論ぬきには考えられない。キリスト教文化の 中では、悪の哲学的追求は、この消極性のテーゼによって、思弁的な性質を強 めることになり、現実感の強い実践的な悪の解明が妨げられてきた。


4. 悪の現実性

ヤコブ・ベーメの「この世のすべての被造物の内部に、悪と善とを見いだし、 木や石や大地や元素のような理性なき被造物にも、また同様に人間や動物にお いても、愛と怒りとを見いだした」(高坂史朗「神・自然・人間」、高坂史朗 編「悪の問題」昭和堂所収、146頁) あらゆる存在が根源的に、欲求的な性格を もっているというのが、ベーメの存在意識である。「無底は永遠の無である。 だがそれは、一つの欲動Suchtとして永遠の始源ををなす。実際、その無は、 あるものに向かう欲動なのである。しかもそこには、あるものを与えるような 何かがあるのではなく、むしろその欲動は、ただ渇望する欲動としてそれ自体 そのまま、またしても無のようなものを与えることである。そして、このこと が魔術の永遠なる根源態である。」(「ベーメ小論集」薗田担、松山康國、岡 村康夫訳、創文社、5頁)

このベーメの存在観は、青銅というそれ自体として形態化の原理をもたない質 料に、形相という原因が加わって、ヘルメスやアポロンの銅像が作られるとい う質料-形相論とはまったく異質である。存在そのものが、無からあるものへ の渇望であり、憧憬であり、欲動なのである。

質料形相論では、存在と無が、どちらかに対応してしまう。質料=存在かつ形 相=無という観念類型は唯物論となり、形相=存在かつ質料=無という観念類 型は観念論となる。このどちらの立場をも、克服したより高次の立場は、質料 =形相かつ存在=無であるような存在の一元論のなかに、低次の存在者と高次 の存在者の階層を組み立てるという観念類型である。

ベーメの存在観を下敷きにしたシェリングは、ライプニッツが世界の悪の可能 性が神の意志によるものではないという弁明を批判して、つぎのように述べて いる。「あのたんに観念的な根拠から由来することができるといったような悪 というものは、逆に、やはりまたふたたび、或るたんに受動的なもの、制限、 欠如、剥奪といったものに帰着してしまう。」(シェリング「人間的自由の本 質」渡辺二郎訳、世界の名著、中央公論社、続9、440頁) 身体そのものが、内 発的な力を持っている。この根源的な力動性を捉えないで、存在を形相と質料、 人間を霊魂と肉体というように捉える見方は、積極的な存在の真実を理解する ことができない。

自由を心身の統一体である人間のなかに根源的にこみ上げてくるものととらえ るシェリングは、神の中にもおなじようにこみ上げてくるものがあるという。 もはや弁神論が成立するか、どうかが問題なのではない。質料(身体)そのもの に自発性を認めることが重要なのである。

より高次の存在者である「理性」は、低次の存在に内在する全体性を代表して いる。シェリング時代の「病態発生学」(Pathogenie)では、有機的な全体の一 部分が、自己を全体的であると誤認して自己運動することが病態の発生であっ た。悪と善は、このような意味で部分契機の誤った自立と全体的なものへの帰 一とに対応づけられる。シェリングは、伝統的なプラトン主義の二つの側面 (形相の質料への支配と全体の部分への支配)のうち、形相の質料への支配を否 定して、全体の部分への支配を復権させたと言ってもよい。


5. 心身合一体としての自己

悪とは意志の弱さそのものであると言わんばかりに、悪魔はしばしば誘惑者の 姿で描かれる。善意とは悪い意志を抑制する主人の役目をもつ自己である。 悪を犯す感性的な意志と悪を抑制する理性的な意志と、主人と臣下という関係 であるのがタテマエだが、しばしば現実は逆転している。「理性は情念の奴隷 である。」(ヒューム「人性論」2-3-3) 中心となる自己は情念であり、理性は その目的達成の手段を調達するにすぎない。形相的な理性が質料的な感性を支 配するというプラトニズムが逆転されている。

「大切なのは、私にとって真理であるような真理を見いだし、そのために私が 生き、そして死にたいと思うイデーを見いだすことなのだ。」(キルケゴール 「日記」1835.8.1) この主体性は、感性を支配する理性ではない。宗教が真理 であるのは、このような意味での主体性にとっての真理だからであり、そこで は道徳的な意味で義であることは、宗教的な自己の存在とは関わりを持たない。

「真理の判定基準は権力感情の上昇のうちにある。」(ニーチェ「権力への意 志」534) 人間の自己は権力感情の側にあるのであって、それを監視する支配的 な部分が自己であるのではない。

「道徳的現象などというものは存在しない。あるのは諸現象の道徳的解釈だけ にすぎない。」(「善悪の彼岸」108) 行為の存在そのものは善悪無記であり、 善悪は外部からの相対的な評価にすぎない。この言葉は「ソクラテスのパラドッ クス」は認めるが、「魂の支配的部分」というコンセプトは認めないという趣 旨だと解することができる。」「犯罪者の弁護人が、犯行の美しくおそるべき 点を犯罪者に有利なように使いこなせるほど芸人Artistであることは、めった にない。」(「善悪の彼岸」110) 犯罪者にキラキラする生の輝きを認めるとい う発想法は、ヘーゲルにもシェリングにもあるが、支配する理性こそが真の自 己であるという自己意識から、反省や道徳的評価は自我の外部にある社会性で あり、自我それ自体は、善悪の彼岸にあるという自己意識が登場を迎える。


6. 悪意によって生ずる善

人間の魂が支配する部分と支配される部分からなりたつというプラトン的な二 重構造から解放されて、エゴイズム、生の哲学、実存哲学、功利主義がはびこ ると社会的な正義が崩壊するかと言えば、そうではない。

悪は悪意からのみ生ずるか。悪意から生ずる善も、善意から生ずる悪も存在す る。「すべての個人の眼中にあるのは、自分の利益であって、社会の利益では ない。しかしかれ自身の利益の追求が自然に、あるいはむしろ必然的に、社会 にとってもっとも有利であるような用途をかれにえらばせる。」(アダム・ス ミス「国富論」1-419)

現代社会は、エゴイズムを飼い慣らす装置の発達した社会といえるだろう。現 代の、いわゆる先進国では、個人は自分のエゴイズムを制御する支配力をもつ 理性を保持していなくても、社会的なルールを守っていさえすれば、ほどほど に自由と正義がバランスを保ってくれるような、そういう法律文化が存在して いる。社会全体は、つねに善と悪との入り交じった、生命的な混沌の様相を呈 している。しかし、そうした状況の底には、不気味な悪の温床が培養されてい て、それがいつしか、社会を根底から崩壊に導き入れる可能性はないだろうか。


7. 善悪の形成原理

神戸の少年殺害時件には、人間の魂に底知れぬ悪の深淵が潜んでいるのではな いかという恐怖を引き起こす。もしも、A少年の魂の根底に潜むものがあまり にも深い地層に達しているとするなら、何らかの意味で同じ深淵が万人の魂の 奥底に存在するのかもしれない。あまりにも深く、潜む深淵は、その深さゆえ に、表面的な観察を逃れてしまうが、しかし、万人の胸に潜むものであるかも しれない。

個人の性格や人格の内部に悪意が深く潜んで内在していて、それが犯罪のよう な行為となって出現するという事例は存在する。アリス・ミラーが『魂の殺人』 で報告している事例がある。エーリッヒ・フロムは「悪について」(原題「人 の心」)で、生と死、他者と自己、独立と依存という概念枠で、「衰退の症候 群」をとらえようとしている。もっと通俗的な形では、H.G.ウエルズが『モロー 博士の島』で描いたような、「人間の魂の奥底に潜む獣性」という観念形態が ある。悪の深く潜む源泉であるがゆえに、すべての人間の魂に、程度の差はあっ ても同じ獣性が存在するという観念形態は、正しいのだろうか。

善悪の形成について、20世紀が発見した最大の発生機序は、「刷り込み」理論 である。脳が未成熟な幼児期に受けた虐待のために内面的に応答性が欠如した 人格が形成されるが、魂の傷はあまりにも深く刻印されていて、あたかもそこ に「原罪」の根があるかのようである。形成の時期は後天的であるが、形成の 結果は先天的な性格と同じだけの恒常性をもつ。しかし、このような形成の機 序で作り出された応答性の欠如、本能的にみえる加虐性は、万人の魂に内在す るものとは言えない。サディスティックな犯罪の加害者は、幼児期の被害者で あって、親子関係では、サディズムが遺伝的な素因であるかのような仮象を作 り出す。悪の深淵が深いがゆえに普遍的であるという観念はまちがいであろう。 (以上)

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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KATO Hisatake <kato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Dec 17 11:32:37 JST 1999