飛び入学と平等論

加藤尚武(京都大学)

1998年3月19日


関西倫理学会発行「倫理学研究」第28号の巻頭論文「現代倫理学の課題」で行 安茂教授が出されたいくつかの問題のなかで、千葉大学が行った「飛び入学」 の問題は、平等論の練習問題として重要である。「飛び入学」は「天才教育」 であり「一人ひとりを平等に扱う教育観と首尾一貫しているであろうか。…平 等とは個性の差を認めた上で、各人をそれに応じた仕方によって扱うことであ ると理解できる。このように考えるならば、飛び入学は個性を伸ばす機会とし て評価され、平等の理念と矛盾しないということにができる。問題は、数学物 理に傑出した生徒にのみ飛び入学を認めるとすれば、他の諸教科に傑出した生 徒は不平等に扱われることにならないかである。」(6-7頁)

選択的人工妊娠中絶は、「すべての人間を平等に扱うという理念に反する」差 別思想に基づくという議論もある。一般にある個人を他の個人よりも優遇した り冷遇したりする選別や競争は平等の理念に反するという疑いがかけられる。 入学試験は平等の理念に反するという主張もある。オリンピック選手一人に支 出される練習費は国民一人に支出される費用のX倍である。野球選手で一年間 に平均的なサラリーマンの生涯所得を超える額を得るものがいる。健康保険の 高額利用者で年間に一億円以上使う人がいる。アメリカの所得格差は二〇倍か ら三〇倍になる。--このように不平等の嫌疑を掛けられる事例は無数にある。

シンガーは「動物解放論」の理論的根拠として「同一の関心の同一の扱い」と いう原則を挙げたが、「同一事例を同一に扱う」ことは正義の原則でもある。 平等は正義とほとんど同義である。

平等については「何の平等か」というタイプの議論が多いが、そもそも平等 とは何かという議論が必要である。


[等量としての平等]

行安教授は、平等と個性尊重が矛盾するという視点と矛盾しないという視点が 存在することを、認めておられるようだが、問題は平等の定義にかかわってく るだろう。 定義として「同一の関心の同一の扱い」「同一事例を同一に扱う」などのどれ かが使えると仮定しよう。「同一労働同一賃金の原則」が代表的な例となる。 出来高払いで、一時間に綿を10キロ摘んだという同一労働の対価として、白 人には10ドル、黒人には1ドル支給されたとすると、これは不正であると見 なす議論である。(この場合、当然、労働力の再生産費は度外視するという前 提で議論を進める。)

時間あたりの賃金の場合では、仕事(出来高の産出力)の能力に応じて差別 をすることは不正ではないが、人種や性別で差別することは不正であると考え られる。この場合には「同一物品同一価格」の等価交換の原則に還元できる。

ピーター・シンガーの「同一の関心の同一の扱い」も究極的には、等価原理に 還元できると思われる。人間には麻酔を使うが、動物には麻酔を使わないとい うのは、動物の苦痛と人間の苦痛について、それが同一の苦痛であっても、扱 いを同じにしないのは不正であるという議論である。この議論では、「同一の 苦痛」の評価が可能であるかどうかが問題になる。

身長二メートルの人が一メートル飛び上がるのと、身長一六〇センチの人が八〇 センチ飛び上がるのとは、同一の努力であるから、同一の努力に対して同一の 評価をすべきだという議論のタイプでも、同一性の評価が問題になる。しかし、 何らかの形で、同一性の評価をすることは不可能ではないだろう。


[人格に関連する平等]

問題は、定量としての同一性に還元できない場合である。人格の同一性に対応 する配分、たとえば選挙の投票権は、「一人の人格を一つとして数える」とい う原則になっているが、年齢による差別が行われており、年齢差別の根拠は判 断応力の差異である。つまり、一定の年齢に至るまでは判断能力が不在だが、 突然、すべての人間が一定の年齢と共に一定の判断能力を持つようになるとい う非現実的な想定のもとに年齢に差別が認められている。

選挙権の性別の差別、人種による差別も、もしも正当化がされるとしたら判断 能力の差異が根拠になっただろう。

大学の入学試験の場合、能力(試験場で発揮される)に基づく選別は正当である、 機会の平等を保証すれば十分で結果の平等は考慮できない、扱い方は「合格・ 不合格」という差異だけであるという基本性格がある。「飛び入学」の場合、 この三つの条件のどれにも抵触しない。


[努力に報いるのか、才能を拾い上げるのか]

しかし、特にすぐれた人材に特別なチャンスを与えるのは「優生主義」と同じ においがする差別主義ではないかという疑いが起こる。特権階級を生み出し、 エリート・コースを作ることにつながるのではないか。「飛び入学」の試験そ のものはチャンスの平等が保証されているが、そこから産まれる制度はチャン スそのものに差別を生み出すという点に問題があるだろう。能力の開発条件の 不平等は、チャンスの平等を空文化する。しかも、「飛び入学」の場合に優生 主義のにおいがするのは、「理数系では生まれつきの才能がものをいう」とい う先天主義が背景にあると考えられるからである。つまり、「飛び入学」の場 合には、試験は努力の結果として評価されるのではなく、先天的な素質のテス トとして評価されるので、「試験の成績のよいものを合格させる」という原則 が、「功績に応じた配分」という意味をもつのではなくて、「先天的な素質に 応じた配分」という意味をもつ。「何人も先天的な素質によって差別されない」 という形の平等主義が教育でも成立するかどうかが問題となる。

試験の合格者を決定するのに得点主義では、二〇歳で百点取った人は、十五歳 で九十八点取った人よりも有利である。才能主義では、逆転する。「飛び入学」 には才能主義の要素が含まれている。同じ点数の人では若い方が有利になる。


[大学間の格差を前提とする議論]

「飛び入学」を「アファーマティブ・アクション」とみなす正当化論がある。 現行の試験制度では、一流大学には一流学生が入学し、二流大学には二流学生 が入学する。二流大学には、対等の条件で一流大学と競争するチャンスが与え られない。ゆえに「飛び入学」でチャンスの均等化を計る権利がある--という のである。

入学試験という競争は、チャンスの平等によって公正が保証されるが、試験そ のものにはチャンスの平等が成り立つが、受験準備にはチャンスの平等がなり たたない。実際には、高額所得者に有利な社会的な資源の再配分という性格を 示している。これに対して才能主義的選抜方法は、アファーマティブ・アクショ ンとして機能するという議論もある。

試験制度の本来のあり方は才能主義であって、「得点は才能に比例する」とい う観点から得点主義が採用されたが、すると、「得点は努力に比例する」とい う因果関係を用いて、才能が少ないのに高得点を狙うものが出てきたので、才 能主義の回復のために「飛び入学」は認められるべきだという議論も無視でき ない。

千葉大学で「飛び入学」が採用されたのは、東京大学に流れがちな才能の優れ た学生を集めたいという狙いからであろう。大学間の格差が存在し、応募とい う大学の評価が必ずしも適正でないという問題はここで除外し、大学間の格差 は存在しないと想定しよう。あるいは日本には一つしか大学(最高学府)が存在 しないと想定しよう。そのとき「飛び入学」は公正であるか。


[社会的選抜の適正とは何か]

どのような試験が最善であるか、また、公正であるかが問題になる。

舞伎とか伝統的芸術で行われる世襲制は、公正な選抜の原則を無視しているが、 しかし、必ずしも不適切な方法ではない。乳児の時から親が子どもを歌舞伎役 者として育てるというシステムの合理性が存在する。だから全ての教育が平等 という条件を守るべきであるとは言えない。

平等という条件を満たす選抜が行われる教育には、固定した社会階層をシャフ ルして、ゲームのやり直しをするという機能がある。この場合にはチャンスの 平等が重視される。

一定額の教育投資で最大の効果をもたらすにはすぐれた学生を選抜する必要が ある場合、才能主義が採用される。しかし、英才教育は教育投資の偏った配分 になるので国民全体の知的レベルを低下させる危険を含んでいる。選抜の目的 が、国民全体の知的能力の総量を最大にすることにあるのか、国民全体の知的 国際競争力を最大にすることにあるのか。これを教育を受ける側から見たとき、 社会的な競争(選抜)がどのようなあり方をすることが好ましいのかが問題にな る。赤ちゃんのDNAを検査して最善の適正さで配分する完全先天主義と、すべ ての人に均一な教育を与える完全平等主義との間で、最善の社会的な競争(選 抜)のあり方を考える必要がある。

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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KATO Hisatake <kato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Mar 20 00:33:09 JST 1998