環境倫理と経済学

加藤尚武

本稿は、京都大学人間環境学研究科発行の『人環フォーラム』に寄稿した原稿の 拡大版である。実際は、この原稿を約二分の一に切り詰めて、発表原稿としたの で、本稿が拡大版であるというよりは、発表原稿が縮小版なのである。


環境問題についての経済学がなりたつだろうか。西欧の近代から現代にかけて 作られたカテゴリーが、それぞれの時代の倫理観と連動する形で組み立てられ た学問構造のなかに「環境問題を読み込む」ということが可能なのだろうか。 いや、読み込むことは可能かもしれないが、そのとき社会における環境問題の 存在そのものがするりと抜け落ちてしまう危険がある。どういう意味で「存在」 が問題になるか。

たとえば、政府が環境問題に本腰を入れれば失業者が増えるというのは、あな がち嘘ではない。環境問題を解決する形で失業問題を同時に解決することが、 単独で解決するよりもはるかに困難であることは確かだろう。アメリカ経済の トリレンマ(失業・インフレ・国際収支)に上乗せする形で、そして南北問題、 環境問題、人口問題のトリレンマというようなことが語られて、悲観的な気分 を煽る結果になっている。

問題は、自然環境や、さまざまの経済活動の基礎的な条件が、大規模な形で変 動した場合に、現在われわれが「トリレンマ」と呼んだりするような社会科学 的な相互の関連性そのものがまったく違った動き方をするということだろう。 あらゆる予測の基礎的な条件になっている基礎的な因果関係そのものが変化す る。

通常人々がトリレンマと呼ぶような難問の構造が、実は社会科学の古いカテゴ リーの限界と結びついていて、その限界内での楽観論や悲観論であるという事 態を打開するためには、社会科学は環境の変化にどの程度まで対応できるかと いう問題を考えなくてはならない。社会科学が多少ともに客観性を示す条件が どのようなものであるかという点にまで掘り下げて考えないと、方法論的に安 易な外挿法による認識と、空虚な精神性をふりかざす倫理とが結合して、いわ ゆる「環境倫理」とか、環境問題の「綜合人間学的考察」とやらのjunk paper が氾濫するという現状を突き抜けた向こうが見えてこない。

1、失業率についての法則性が存在するか

その客観性の条件の問題を、社会科学の方法論における「存在問題」と呼んで 見たい。最近の経済学書で、その「存在問題」を失業統計を素材として突きつ けてくる興味深い例が、ポール・オルメロットの「経済学は死んだ」(斎藤精 一郎訳、ダイヤモンド社)である。まずデータについての要約的な部分を引用 してみよう。

「第一に、経済システムは、長期間にわたってかなり規則的な変動を続けるこ とがありうる。そうした期間には、データの変動が起きるが、ある変動から次 の変動までの間隔はすべて同一ではないが似ており、また完全な周期の最中に はそれぞれがまったく同一ではないが、互いに似た上下運動を示す。」(同、 234頁)

変化と規則性とは矛盾概念ではない。規則性は変化の特徴を集約する形式であ る。ところが長期の変動を見ると、その中に規則性が成立する期間と成立しな い期間がある。これと似た話は、トマス・クーンの「科学革命の構造」の中に もある。科学史は、比較的長期の通常科学の期間の間に短期間の科学革命が挟 まった形になるという。クーンの場合には、長期の安定期を支えているのは、 パラダイムの支配が科学者集団のなかで安定的に支えられているという事態で ある。

オルメロットは、変化の姿そのものを克明にスケッチしようとする。

「データはショックに敏感で、ある時期に辿る経路や、落ち着く運動の形状は、 大幅にかつ急激にシフトすることがある。こういうショックの後の失業率は、 たとえば両大戦間を例にとると、何年も不規則な推移を辿ってから、ようやく 再び一つのパターンに落ち着く。新たなパターンが確立するのに必要な時間は それぞれ異なる。1973年から74年の石油価格上昇の後、ドイツ経済は早 くも77年、78年には新たなパターンに落ち着き始めたが、フランスで規則 的パターンが現れ出したのはようやく80年代半ばになってからだった。」 (同、235頁)
観察者(統計学者)の目には、規則性が崩壊したり、回復されたりするという経 緯が見える。規則性の崩壊と再生そのものを予見させるような規則もあるかも しれない。
「失業率の推移のこうした重要な特性は、他の学問でも、つまり生物学が研究 するデータの多くにも見られる。たとえば疫学では、はしかや風疹などの流行 がかなり定期的な周期で起きるが、流行の度合いは時期によって様々で、各周 期の間にもっと不定期な変動が挟まる。」(同、235頁)
インフレと失業との有名な相関関係(フィリップス曲線)は、オルメロットによ れば1950年代と60年代には妥当するが、70年代にはもう妥当しない。いわゆる 環境トリレンマ構造のなかの中心的な連関がこのフィリップス曲線で示される 失業率と物価上昇率の相関関係である。フィリップス曲線が、ほとんど無条件 に成立するという前提が成り立たないならば、環境トリレンマと言う問題の設 定は無意味になる。

たとえば日本では超低金利政策がとられ、財政赤字・国債累積という犠牲をは らって経済成長刺激政策が採用されている。超低金利政策の犠牲者は、高齢の 年金生活者である。景気刺激策で直接に恩恵を受けるのは、たとえば建設業者 である。すると高齢の年金生活者の犠牲の上に建設業界に恩恵を施すという政 策になっている。ロールズを持ち出すまでもなく、この限りでは、この政策は 倫理的に正当化できない。しかし、弁明の理由があるとしたら失業率を減らす と言う点にあるだろう。ところがオルメロットの示す関係が日本にも妥当する とすれば、景気刺激政策は失業率の低下に寄与しない。景気刺激策は、直接的 には高齢者を犠牲にし、納税者の負担によって一部の業界に利益を誘導する以 外の効果を持たないことになる。しかし、総選挙を控えた政界では「有効な景 気刺激策を行った」という「実績」で自分の政党を売り込もうとする動きがあ る。

日本における環境破壊の最大の要因は、公共投資による土木建設工事である。 そして環境保護が叫ばれるようになると、今度は環境復元のための投資が行わ れる。業界にとっては、環境破壊でも環境保護でも、注文がくればどちらでも いい。

景気刺激政策という考え方をささえている社会科学の法則そのものに、問題が ある。「環境を守れば失業者が増える」という現実が存在するかもしれないが、 その現実そのものは、まちがった社会科学に根ざしているかもしれない。

2、数字で語ることのできない要因

オルメロットが失業率の変化という例で経済学の可能性を問題にしたのは適切 だったのだろうか。失業率は厳密な意味で客観的な与件といえるのだろうか。 たとえば彼は失業率が日本で低い理由として、「生産性の低い、民間のサービ ス部門」で労働力が吸収されているからだという理由を挙げている。彼は、天 文学的に高額なレストランの勘定書もそれで正当化されるといわんばかりのジョー クを飛ばしているが、日本の雇用慣行に「終身雇用制度」が根強く定着してい るという与件と無関係に「サービス部門での吸収」という判断を下すのは間違 いだろう。つまり、オルメロットは、日本にもアメリカ経済の自由主義の体質 を決定づける「解約任意雇用」(employment at will 略してEAW.)が妥当して いると想定しているのだろう。

解約任意雇用の原則というのは、「何人も自分の雇い人を任意に、人数の多少 にかかわりなく、充分な理由があればもちろん、理由がなくても、またたとえ 道徳的に正しくない理由のためでも、それが法的に不正を犯すことにならない 限り(even for cause morally wrong without being thereby guilty of legal wrong)解雇することができる」という1884年にテネシー州ででた判 決文に表現されている雇用者の任意解雇権の通称である。

失業率は、雇用慣行と関係しているから、日本での変動のデータをアメリカで の変動のデータと比較することは意味がないだろう。

失業率の変動構造そのものが、西欧の社会で歴史的に変わってきていることの 説明として、労働者にたいする基本的な政策の変化を指摘する必要もあるだろ う。イーサン・カプスタイン(外交問題評議会研究部長)の「労働者と世界経済」 (「世界的失業増大に政策協調をという見出しで、「中央公論」1996年7月号 に掲載)によると、1944年のブレトンウッズの国際会議が大きな転換 点であって、そこで労働者の冷遇策から、労働者の保護策に転換することを先 進国の指導者が合意したのだそうだ。

「戦後の指導者たちは、世界経済の立て直しにコミットしていたが、今回はか なり違う手法を用いた。前回のグローバル化[19世紀の金本位制の導入]の際 には、各国政府はそれが引き起こす悪影響から労働者を積極的に守ろうとはせ ず、 こうした間違いが革命と戦争という代価を課したのだ。この体験から学んだ政 治家たちは、平等と成長がともに促進されるように政府が積極的な国内的な役 割を担う、リベラルな世界経済の見取り図を描いた。」(同、377頁)
ここで「リベラル」とは、ここでは社会福祉政策を重視するという意味である。 しかし、このブレトンウッズ体制は高い経済成長率を必要としたために長持ち しなかった。73・74年と78・79年と二度にわたる石油危機があり、ま た資本が自由に移動できるようになると先進国の非熟練労働力が余ってしまう という事態になった。失業という与件には政策が連動している。

ブレトンウッズ体制を今日の目で見返すとき、次のような視点もまた無視でき なくなっている。

「1944年7月、世界中から集まった約700人が、ニューハンプシャー州 ブレトン・ウッズのマウント・ワシントン・ホテルで会議を開いた。目的は、 第二次世界大戦後の新しい国際秩序をつくることである。彼らのビジョンは、 自分たちがいま設立しようとしている機関----国際復興開発銀行(世界銀行)国 際通貨基金(IMF)----が設立されれば、国際経済協力にって世界全体の生活水 準を向上させ、いっそうの平和の実現に役立つというものであった。米国財務 長官へソリー・モーゲンソーは開会演説で、この会議の精神を表現した。『す べての国のが、平和裡に潜在的可能性を実現することができ……自然の無限の 豊かさに恵まれた地球において、物質的進歩の成果をますます享受することが できる、ダイナミックな世界経済の創出を』というのがそれである。彼はこう 語りかけた。『われわれの前にある好機は、血であがなわれたものである。お 互いに信頼をもって、われわれが自由を勝ち取るために戦った共通の未来を信 じて、この好機に対処しようではないか』。 50年を経たいま、ブレトン・ウッズにあったこの楽観主義はしだいに去った。 そのとき創設された機関は、1950年から現在までに世界経済が達成した産 出量の5倍の成長と、国際貿易の12倍の増加に少なからず貢献した。しかし、 ブレトン・ウッズの二つの機関は、物質的福祉と平和の使者として拍手喝禾を 浴びるというよりも、世界の貧困を減少させることに失敗した経済開発モデル の推進者として、ますます攻撃されるようになっている。さらに、地球が自然 の無限の豊かさに恵まれているというモーゲンソーの信念は、地球の生態学的 悪化という深刻な現実に直面した。これらの機関は、環境破壊と闘う機関とし てではなく、環境破壊の代理人として行動することがきわめて多かった。」 (レスター・ブラウン編著「地球白書1994-5」澤村宏監訳、ダイヤモンド社、272頁)
近代経済学は、自分には市場に価格として表現されるもの以外の要素を省略す る権利があると信じている学問である。しかし、いまや近代経済学が何を省略 したかがきびしく問われなければならない。

オルメロットも結論の部分で「道徳的価値」を経済学に持ち込む必要を認めて いる。「科学的分析を通じて人類の運命を改善できるという考えこそ、偉人な 古典派経済学者の動機だった。……だがおそらくもっとも重要な点は、基本的 には数学ともつながっているのだが、言葉で言い表すべきだろう。それは道徳 的価値の問題だからだ。」(ポール・オルメロットの「経済学は死んだ」(斎藤 精一郎訳、ダイヤモンド社、292頁)

数字で表現できない道徳的価値が、経済学のデータに食い込んでくる。それが どのような価値であるのか。彼は語らず、ただ次のように言う。「1980年 代の自由市場哲学が流布させた、社会などというものは存在しないという考え 方は、存続を許しておけば、どんな経済政策を行っても完全雇用を実現させる ことはない、という考え方に通じる。体系全体としての運動は、個々の構成分 子の活動の単純な合計から類推できはしない。」(同、292頁)

経済学者で「社会などというものは存在しないという考え方」を抱いていたの は、新古典主義者と呼ばれる人々だけではないだろう。方法論的な個人主義の 立場がすべて「集合的な全体は存在しない、存在するのは個体のみである」と いう立場をとっていた。この経済学の方法論としての個人主義は、同時に、倫 理的な個人主義とつながっていた。

「何の束縛も受けない、自信に満ち溢れた競争的人間こそが人類の福祉を最 大にするという考えを押し進めることは、人は誰もが参加できる、本当に豊か で結束の強い社会をいつか作れるという可能性を、大きく損なってしまう。」 (同、292頁)経済学上の個人主義は、要するに強者の思想だったのであり、強 者と弱者の共生の思想ではなかったのだ。

3、豊かさと平等

失業率の決定要因として、道徳的な価値が働いている。たとえばコストの削減 という観点から言えば、当然、解雇しなくてはならない授業員を雇いつづける。 そればかりか、彼に一応、名誉あるポストを与えようと努力する。だから道徳 性は経済的な与件だと言うと、「いや違う」という人もいるだろう。企業内失 業という形で雇用を続けることのできる「豊かさ」があるから、終身雇用制度 が企業の利潤追求にとって重荷になっても維持されているのだ。

実際、日本の経済界に「人間尊重」という道徳的な言葉が氾濫した時期は、労 働力不足が予見された時だった。経済に倫理は不在で、「人間尊重」とは経済 の言葉では労働力不足のことで、「自由化」は大量解雇のことだと言えるかも しれない。

ある倫理的価値が実現するために、社会的な豊かさが必要条件になることは確 かである。しかし、だからと言って、倫理的価値が経済的な豊かさに還元され て良いものかどうか。

平等という価値を考えてみる。10人の人間が共同生活をしていて、生存のため の基礎的な資源(たとえば食糧)がつねに不足していると仮定すると、その社会 で「平等な配分」は全員の死滅をもたらすだろう。もしこの社会が生き残ると したら、生き残る人々と彼らのために犠牲になる人々が別れて、支配と被支配 の関係を形成することだろう。

たとえば狼は餌を食べる順番ともなる厳格なヒエラルキーを作っている。狼の 社会では生き残る順位がつねに明示されている。このシステムは、ある条件下 では狼が絶滅しないための最適のシステムであるにちがいない。

人間にも部分的には似たような状況になっている。

「貧しい国々では、資本の成長率が人口増加率になかなか追いついていかない。 原因はたくさんあるが、たとえば、投資可能な余剰資本が、(1)海外の投資家 に吸い上げられたり、(2)地元のエリートたちのぜいたくに費やされてしまっ たり、(3)あるいは債務の返済や、(4)法外な軍備に消えてしまうのもその一つ だろう。……そうした地域は、人びとが豊かになることなく、人口ばかりが膨 れ上がるというパターンに陥っている。」(メドウス『限界を超えて』茅陽一 監訳、ダイヤモンド社、47頁)
ここでは貧しさが貧しさを生む、すなわち貧しさが人口増加を加速するという 悪循環が繰り返される。だからある限度以下の貧しさにまで一般的な生活水準 が低下すると、そこからは低下の一途をたどる可能性がある。

「世界システムが最も一般的に示す行動パターンは、『富む者は富を得、貧し い者は子どもを得る』という古い諺に表現されるパターンであるが、これは、 決して偶然に生じる行動ではなく、人口と資本を結びつけるシステムがそうし た行動を生むような構造になっているのだ。したがって、意図的に構造を変え ない限り、その行動様式は今後も続いていくだろう。」(同、47頁)
トップダウン方式の強力な人口抑制政策がしかれるか。それとも人口抑制の効 果を上げるようなボトムアップ方式の政策が展開されるか。この場合には、最 初に経済成長と女性の地位向上が実現し、その結果として人口抑制が効果的に なるというシナリオになる。現実に人口の圧力が経済成長そのものを抑制して いるという状況では、ボトムアップ方式の政策を選択することのできる可能性 は極めて限られている。

「人口の増加は工業資本の成長を減速させる。それは、人口が増えること によって学校、病院、資源、基礎的消費への需要が高まり、工業生産が工業投 資に結びつかなくなるからである。また、貧困ゆえに、人びとは教育、保健シ ステム、家族計画、選択の機会を得られず、子どもの収入や労働力に頼らなけ れば貧困から抜け出せないために、子どもを多く産んで大家族を形成しようと する。こうしていつまでも人口増加が続くのである。」(同、47頁)
貧しいから子どもを作って、労働力として使うという現実では、大人と子ども の関係という正当化されている不平等が、絶対的な窮乏下での少数者の生き残 り戦略と同じ機能を発揮する。

4、豊かさと自由

選択の自由が、どの程度の豊かさを条件とするかは、単純なモデルで理解する ことができる。十人の人にちょうど十人分の食糧がある場合、誰かが最初に選 択の権利を発揮すれば、後からの誰かは選択の自由を失うだろう。だから「選 択の権利の平等」は成り立たない。

4種類の食べ物があり、すべての人が同じだけの選択肢から選択する完全に平 等な自由を実現するためには、40人分の食糧が必要になる。すると、10人の 人に対して10人分から40人分の食糧が提供されるという条件が、かろうじて 自由の成立する条件だということになる。そして供給される食糧が40人分に ちかづくにつれて、自由が平等なチャンスになる。

自由市場が可能であるためには、ある程度以上の豊かさが必要である。その同 じ限度が、自由市場における価格形成というモデルが可能になる条件でもある だろう。すると市場経済の正当性という問題は、この市場経済の成立条件と不 可分であるように思われる。もしも充分に豊かでない社会が、自由市場を形成 するなら、その社会は同時に平等を実現することは不可能になる。

ドイツの経済倫理学者ペーター・コスロフスキーがこう述べている。

「市場メカニズムに関する……道徳的な不満感は、出発点における分配上の不 平等、すなわち、相続財産がもつより大きな選択可能性だけによっては、説明 できない。市場で選好が実現されることが道徳的であり、また、国民経済が生 産可能性曲線上の点で実現する経済全体の財の合成が理に適ったものであるた めには、需要に現われる欲求が倫理的で理性的であることが必要である。けれ ども、市場における選択決定が完全に倫理的であるとか理性的であるとは、誰 も主張できないだろう。現実には、必要なもの、美しいもの、有意味なものと 同じように、あまりにも多くの無意味なもの、悪趣味なもの、そして過剰な賛 沢が存在している。」(ペーター・コスロフスキー「資本主義の倫理」鬼塚雄 丞他訳、並びに寄稿、新世社、77頁)

しかし、このような道徳的な判断を市場における選好にもちこむことは、自由 主義の倫理とはまったく相反する。自由主義の原則によれば、他者に危害を加 えず、不快をもたらさないならば、「無意味なもの、悪趣味なもの、そして過 剰な賛沢」が、そうした倫理的な理由で非難されることはありえない。この論 文にたいするブキャナンの論評でもこの点に「異議あり」と述べている。たし かにコスロフスキーは、自由市場にたいする単なる独特主義的な非難とその構 造的な問題とを混同している。生活と生存に関する基礎的な資源の決定的な不 足という全体状況が見えてきたときに、単なる道徳主義的な非難と構造的な問 題との違いもまた見えてくるのではないだろうか。南北問題、環境問題という 文脈では、このブキャナンの「異議」にたいする異議もまた可能となるだろう。

必需品と贅沢品の区別という古典経済学では許された区別が、限界効用説以後 はなりたたなくなったという常識が、この論文ではまるで価値概念の正統派的 観念の神経を逆撫でするような言葉で表現されている。

「あらかじめ与えられた選好が調整されたり、生産諸要索の流れが需要され た財の生産に向けられるだけでなく、市場においては、潜在的な欲求も呼び覚 まされる。経済システムは、欲求を形成し、変形し、創造しさえする。経済シ ステムの倫理を検討するためには、ある一時点に存在する欲求を扱うと同時に、 経済システムが生み出したり助長するような欲求の種類は何かという問題を考 察しなければならない。多くの無意味な欲求に対する道徳的な責任は、新しい 財を提供しようとする大企業にのみ負わされるものではなく、消費者の模倣衝 動と威信願望にも負わされるべきである。」(同、78頁)

自由な選好とみなされているものが、実は資本主義的に管理され、販売政策で コントロールされた「自由」を、本物の自由とみなす錯覚で支えられた自由だ という批判は、その立証根拠がどこにあるかが問題になる危険な批判ではある。

「資本主義の長所は、社会的経済的な諸過程の目的論化を放棄することによっ て市場が担いうる限りでのさまざまな価値や目的を許容できる点にある。しか しこのことは、市場によっては十分に供給されない諸価値があると考える人々 の目には、資本主義の短所と映る。これに対してわれわれは、次のように答え なければならない。すなわち、どのような順位づけと選好の強度をもって経済 の諸目的を実現させるべきか、という問題を解決する基準を、われわれは意の ままに使うことができないのだ、と。」(同、80頁)

資本主義市場での強者にとっては正しく、弱者にとっては不正なシステムだと いう批判は、強者にとっての自由が弱者にとっての自由ではないと言い換える こともできるだろう。

「自由は、社会が守らなければならない唯一の価値といったものではない。わ れわれは、配分メカニズムを道徳的なものとして説明することはできない。マ ルサスが書いたように、『人は、労働によっても必需品がまったく購買できな いようなときには、生存権を否定する』からである。経済の非目的論化が正当 化されるのは、発展した富裕な国においてであり、生存に必要な二一ズが確保 される場合だけにすぎない。」(同、80頁)

このマルサスの引用文は「人は、労働によっても必需品がまったく購買できな いようなときには、他人の生存権を否定する」と書いた方が正確であるかもし れない。自由な市場によって必要なエネルギー資源を購買することができない ときに、独立した主権国家である開発途上国が、誰の生存権を否定する結果に なるのかという応用問題が、われわれに課せられてくるかもしれない。地球全 体で自由な市場経済がなりたつほど、われわれの地球は豊かであるのか、どう か。

「この数年、1人当たり食糧生産動向が思いもよらない唐突さで下降線をたど り始めた。1993年までに、1人当たり漁獲量は史上最高を記録した89年 の水準から約七%減少した。穀物生産の伸びは84年を境に突然鈍化し、人口 増加率を下回るようになった。その結果、84年から93年のあいだに1人当 たり穀物生産は2%減少した。歴史家はきっと1984年という年を、食糧生 産の急成長時代から低成長時代への移行の分岐点として特筆することだろう。」 (レスター・ブラウン編著「地球白書1994-5」澤村宏監訳、ダイヤモンド社、 308頁)

5、歴史の逆行の可能性

この意味で「生存に必要な二一ズが確保される場合」が世界的に拡張され、資 本主義の正当化可能な領域が、地球全体に拡張し、普遍化されるかどうかとい う点について、われわれはあまり楽観的にはなれない。

1、人間が必要不可欠な資源を消費し、汚染物質を産出する速度は、多くの場 合すでに物理的に持続可能な速度を超えてしまった。物質およびエネルギーの フローを大幅に削減しない限り、一人当たりの食糧生産量、およびエネルギー 消費量、工業生産量は、何十年か後にはもはや制御できないようなかたちで減 少するだろう。

2、しかしこうした減少も避けられないわけではない。ただし、そのためには 二つの変化が要求される。まず、物質の消費や人口を増大させるような政策や 慣行を広範にわたって改めること。次に、原料やエネルギーの利用効率を速や かに、かつ大幅に改善することである。

3、持続可能な社会は、技術的にも経済的にもまだ実現可能である。持続可能 な社会は、絶えず拡大することによって種々の問題を解決しようとする社会よ りも、はるかに望ましい社会かもしれない。持続可能な社会へ移行するために は、長期目標と短期目標のバランスを慎重にとる必要がある。また、産出量の 多少よりも、十分さや公平さ、生活の質などを重視しなければならない。それ には、生産性や技術以上のもの、つまり、成熟、憐れみの心、知慧といった要 素が要求されるだろう。

(メドウス『限界を超えて』茅陽一監訳、ダイヤモンド社、はしがき)

「生存に必要な二一ズが確保される場合」が成立しなくなる危険な限界点を、 人類は一部分で超えはじめているが、まだ「絶対的に間に合わない」という限 界を超えたわけはない。もしも世界で有効な対策が立てられないならば、その 限界をも人類が超えていくことは、時間の問題なのである。

経済法則の存在の問題の特質は、倫理性を離れて存在が定義されるわけではな いという点にある。新古典主義の認める「自由な市場経済」では、自由な選好 によって決定される価格が支配的になる。限界効用が価格の決定方式となるた めには、その社会は、「無意味なもの、悪趣味なもの、そして過剰な賛沢」の 選択をゆるすほどまでに豊かでなくてはならない。しかし、自由な選択が、そ の社会の多くの住民にとって餓死や奴隷的な状態を意味するなら、自由な選好 のシステムに代わって武力の支配が登場するだろう。

このような可能性を前にして、今夜のディナーはチキンにするかフォアグラに するかという選好と、生き残るために食糧を選ぶか医薬品を選ぶかという選好 を区別することのできないという特質に存在理由をもつ経済学が耐えうるのか どうか、私は疑う。この経済学は、曲がりなりにも最低生活の保証が維持でき ている自由市場社会でしか使えないだろう。環境問題が提起する歴史的な戦略 決定では、市場経済方式の採用条件が問題になり、そして必需品の供給という 最低生活の保証という条件の上にオプションとして自由主義が可能になるとい う構造をとるだろう。歴史的に非常に限定された条件で、また倫理的にかなり 偏った正当化条件で成立する「市場経済」に固有のカテゴリーに拘束された経 済学が、地球の未来の設計の任に耐えられるだろうか。経済学にとって存在と は何かが問われるべき時である。(了)


KATO Hisatake <kato@socio.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Jun 19 00:40:04 JST 1996