学力の低下現象と新「学問のススメ」

加藤尚武(京都大学)

1999年4月8日


いま日本の教育界のどこに行っても学生・生徒の学力が低下しているという話 がでる。大学に入学後の補習授業に単位を認めるかどうかを審議している大学 は、非常に多くの数にのぼっているはずである。「かなりの数の学生が高校二 年生レベルの数学ができない」という悩みから、「中学レベルの数学ができな いのもいる」という悩みに推移している。東京大学・京都大学で学力低下が話 題になっているが、高等学校の先生方と話すと事態はかなり深刻だという印象 を受ける。数学も英語も国語もだめで、よくなっている課目がない。模擬試験 の成績が下がっているという得点の低下ではなくて、基礎学力そのものが全般 的に低下して、しかも落ち込みの落差が開いているという。

おそらく韓国や中国と学力競争で勝てないという事態になっており、短期間で この学力低下現象が回復に向かうのではなくて、当面は低下の傾向が続くので はないだろうか。現在は、一人の大学新卒者に三人の失業者が存在するという 状態だが、一人の大学新卒者に八人の失業者が存在するという状態になったと き、学力不足の若者は永久失業者という人生をたどることになり、日本の文化 と生活の質は悪化するだろう。

現在の教育行政は、てんでんばらばらのアイデアがすべて学力低下を強めると いう形になっており、教育行政の改善に期待することはそうとう危険な賭にな るので、各個人で対策を考えなくてはならない。

小学校と中学校までは、能力別のクラス分けは禁止されているが、高校に来る と、普農工商と別れ、普通性の高校でも国立理系と私立文系とが事実上成績別 になっている。だから日本の教育では、子どもが自分の成績を取り戻す閑がな く、気がついたときには、一定のランクに格付けされてしまって、そこから出 にくい。

原因は、第一に、子どもにゆとりを持たせて豊かな心を育てるという狙いで授 業時間数を減らしたことである。「ゆとりある環境を作ってやれば子どものこ ころが自ずと豊かになる」という自発性の尊重が裏目に出て、「小人閑居して 不善」を推奨する結果になっている。

第二に「数学は受験科目から除外」というような除外科目が増えた結果、大学 受験に有利なように高校生の低学年から試験課目だけに絞った勉強体制になっ ている。高校の教育が、大学受験技術に徹するという方向を強めている。模擬 試験の偏差値で細かくチェックして、最終的な志望校を選ぶという戦術が使い にくくなって、ともかく受験に出ない課目は勉強するなという体制になってい る。

第三に、大学受験の競争率が低くなる見通しなので勉強に熱が入らないことで ある。

第四に、中年世代の教師の指導力の低下が原因だと指摘する人もいる。教育学 部の受験生の最高成績が文学部の最低成績より低いというような事態がかなり 以前から発生している。(大学は得点の全体像を社会に公表すべきだろう。そ うすれば大学間・学部間の実質的な差異が明瞭になる。)このことはほとんど すべての高中小の教室で、先生の能力レベルは、教室にいる生徒の上位者に達 しないということを意味する。すぐれた生徒のあこがれの的になるような先生 は構造的に存在し得ないという事態とも言える。

現在、教員養成過程のリストラが盛んである。この経緯は、まず第一段階で、 戦後、すべての学部から高中小の教官を養成できる体制がつくられた。次に第 二段階で、教員養成過程は教育学部のみに置くという教員養成の専門化が行わ れた。そして数学とは違って数学教育学が存在するという教育方法論の専門性 という主張がなされた。そして、第三段階で、少子化の影響で教員需要が減る ので、教育学の専門家を他の領域に転用するというリストラ時代を迎えた。と ころがリストラ不可能な教育方法論の専門性を身につけた大学教官をどうやっ て、他の領域に転用できるかという問題に答がない。

この三段階の舞台裏を描いて見よう。まず第一段階では、文学部から高校教官 になる人は現在の修士課程の入学者よりも遙かに高い知的水準をもっていた。 それだけ大学院入学者の数が少なかった。この時代の教官層がそろそろ定年を 迎えて、世代交代になっている。第二段階では、教師としての指導力の有無は まったく無視されて、教員養成過程の単位をとれば教員になれるという時代に なった。この教官層によって管理主義の徹底が図られた。教員養成過程は教育 学部のみに置くという教員養成の専門化が行われたが、実際には「数学ができ なくても数学教師にはなれる」体制が作られた。それが数学とは違って数学教 育学が存在するという教育方法論の専門性という主張になった。そして、第三 段階で、教育学の専門家を他の領域に転用するというリストラ時代を迎えたが、 どの教育学部でも「よその大学のリストラが進んだら自分の学部だけは生き残 れる」という目算で生き残りを図った。実際に教育方法論の専門家は、リスト ラできないし、リストラで他学部の教官と同居するようになると、知的能力の 差がさらけ出されるので、頑強にリストラに抵抗し続け、いま、土壇場を迎え ている。

長期的な視点で見ると、「教員養成過程の専門化」という政策が、学力の低下 とリストラの困難を招いている。とくに私立文系志望者の理系知識が貧困で、 大学受験では理系科目なしで受けられるのが有利であるかも知れないが、将来、 就職したときに大きな組織の一員として一生の間抱え込まれているのでない限 り生きられないような、つぶしの利かない人間になっていく危険がある。社会 的に見ると、文理融合型の能力が要求されているのに、「受験による精神的な ゆがみを生まないために」という課目自由化で、実際には理数系の無能力者を 生み出す結果になっている。

現在は、一人の大学新卒者に三人の失業者が存在するという状態だが、一人の 大学新卒者に八人の失業者が存在するという状態になったとき、学力不足の若 者は永久失業者という人生をたどることになりかねない。会社がつぶれても独 立できる能力を身につけるのに、現在のような文系と理系にはっきり分けた大 学のあり方は、独立するのに不都合である。

ところが実際には、二流の理系に行くよりは一流の文系に行った方がいいと判 断する受験生の親がかなり多い。すると子どもの長期的な将来の可能性を犠牲 にして目先の受験のために、子どもの能力を、その潜在的な可能性を無視して 脱理数化している。つまり、これほど受験シフトにならなければ、それなりに 理数系の知識のある文系学生がうまれるのに、受験のためにそういう能力の芽 を踏みつけにする結果になっている。

目先の偏差値で大学を選ぶのは、次の点でも間違っている。大学教育の中心が、 大学院に移ってきている。大学受験で力を出し切ってしまうよりは大学院で志 望を達成するという長期的な展望が正しい。学部の間に本当の自分の適性をつ かんで、その上で自分の志望の研究ができる日本で最高の大学院を狙うのがこ れからの生涯計画としてお勧めできる。学部を卒業して大学院に進学するとき、 理系から文系に移ることはできるが、逆は困難なので、将来の志望がまだ決まっ ていないなら理系を選ぶ方がいい。今のように理系と文系との間の壁が厚いと、 理系の大学院に本当の志望を見つけても文系からではほとんど進学できない。

京都大学で理学部を卒業して文学部の大学院に入ってきた学生がいるのだが、 彼の場合、文学部の専門科目がトップの出来映えだった。今まででは理系から 進学してきた人は、語学はできても文学部の専門科目では出来が悪いというの が通例だったが、新しい芽がでてくる予感を感じられた。

日本の大学で志望通りの進学ができなかったとき、外国の大学に行くという道 がある。以前だと、外国の大学に行くのは経済的に無理だという事情があった が、現在では外国の方が経済的には安い場合が多い。私の昔の教え子で、留学 する主人と一緒に高校生の子どもを連れてウイーンに行ったのだが、日本の教 育体制があまりに貧しいと感じてそのまま子ども連れでウイーンに残っている 人がいる。私は、残念ながら彼女の選択が正しいのではないかと思う。大学生 の場合でも、英米独仏の大学の方が、学生が自分の適性を見つけやすいと場合 が多いようである。

私の研究室では、「大学院生は原則として留学」という体制に転換を図ってい る。カントの研究ならドイツに行くというように、それぞれの研究対象の最善 の研究機関に留学するということを原則にする。あらゆる研究領域で、日本で 適切な研究条件が選べないので海外に出るという体制になりつつある。日本の 学生生活より海外の学生生活の方が、経済的に安くつく。日本で奨学金をもらっ て海外に留学するというのが最善の選択だろう。

どうしてもドイツやフランスの大学に行きたい理由があるのならべつだが、そ うでない限り英米の大学を選ぶことを進めたい。というのは世界中で学問の言 語が英語化していて、以前だとフランスの学者は必ず国際学会でフランス語で 研究発表したものだが、最近ではすべての研究発表が英語で行われることが多 い。英語さえできれば世界の最高レベルの情報が入手できるという大勢になっ てきている。英語国民以外の人間にとってはずいぶん不利な形勢だが、世界の 大勢は変わらないから、ともかく英語の勉強はしなくてはならない。世界中で 学問、技術、外交、商業取引の英語化という現象が進んでいる。フランスの学 者も国際学会で英語の発表をするという時代になってきた。英語中心にするこ とは避けられない。

高校生に推奨したい勉強の長期指針は、次のようになる。ともかく理系に進学 する可能性を捨てるな。高校段階で数学と理科を放棄してしまうと社会人になっ てから非常に苦しい思いをする。志望通りの大学に入れなかったら、ともかく 理系の大学にはいれ。そこで真剣に自分の将来を考えて自分が一生涯の仕事と して何をするかを決めろ。決まったらその希望を実現するための最善の大学院 に進学せよ。日本の大学・大学院に志望にかなうものがなければ英米の大学を ねらえ。

実は日本の大学には教育システムがない。教師は一度終身雇用のポストを得る と永久就職状態になるので、欧米の厳しい競争に耐えた大学教官とは、研究・ 教育両面で太刀打ちできない。だから、できれば日本の大学を捨てて外国の大 学に行く方がいい。すべての言語が英語化すると、日本だけで通用する知識と いうのはほんとうにわずかになる。

いままで留学のデメリットと言われたのは、帰国子女が日本で十分なコミュニ ケーション能力をもたない、無国籍の人格不在人間になるとか言われたが、本 当のことをいうと、就職構造が終身雇用型なので、日本で就職口を作っておか ないと外国から帰ってあとから割り込みが効かないというのが本当の理由であ る。「学問的な成長という点から言えば大学院生の時に留学すべきだが、それ では就職の機会を失うので留学は就職後にせよ」というのが、私が指導教官か らたたき込まれた原則である。しかし、いま、その前提になった日本型就職構 造は崩壊しつつある。この時代に古い日本型雇用に合わせた大学選びをするこ とは、将来、落伍者になる危険をともなう。日本だけでしか通用しない「ドイ ツ観念論の研究者」とか、フランスではゴミくずとしか見なされない「フラン ス民法論」とかが、将来の日本で生き残れるという保証はないからである。(了)

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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KATO Hisatake <kato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Apr 8 19:26:01 JST 1999