体罰の方法

加藤尚武(京都大学)

1998年3月5日


道徳教育の目標は「道徳的自律」である。自己決定権をもつ人間に必要な判断 能力を身につけさせることである。この場合「他人に危害を加えない限り自己 のものについては自己決定権がある」ということを身につけることが目標とな る。ところが「規則には従うべきだ」という目標しか持たない日本の学校でお こなわれている道徳教育は、自律を目標としていないという点で方法論的に間 違っている。

予め断って置くが、本稿は学校での体罰を承認すべきだという議論ではない。

一、体罰の必要な年齢は、十歳から十五歳である。十五歳を過ぎたら「煙草は 自分の体に悪いだけでなく、他人にも危害を加えているから、吸うべきでない」 というように、前提となる事実を指摘して命令する説得が主役になる。二十歳 すぎれば愚行権が発生するから、説得は前提となる事実の指摘にとどまる。

十歳以前では、子どもが悪いことをしたときには、叱るだけで十分であり、体 罰の必要がない。

二、体罰の対象となる行為は、意図的な悪行であり、過失と怠慢は体罰の対象 にならない。自分で「悪い」と思っていながら、「どうせ処罰はされないだろ う」と思ってする行為や、挑発的にわざと悪いことをするという態度の場合で ある。子どもが、正直に素直に自分の行ったことを告白し、悪かったと認め、 謝罪したときに体罰の目的は達成される。子どもが体罰を受けたことを不当だ と思わない、子どもの心にカタルシス、すなわち浄化が生じていることが窮極 の目標である。体罰の難しさは、必ず成功し、子どもの告白と謝罪を引き出さ なくてはならないことである。子どもが反抗的な態度を残して、絶対に謝罪し ないなら、体罰は不成功である。子どもの悪行が事実でない場合には、最悪の 結果になる。体罰が成功しないかも知れない場合には、子どもと言葉で対決し、 事態を明らかにしなくてはならない。

三、体罰の理由となる悪行には、他人への暴力、精神的な攻撃、盗み、器物の 破壊、薬物シンナーなどの濫用、喫煙、危険な行為、動物の虐待などが含まれ る。すなわち他人の人格を傷つける行為、他人の所有権を侵害する行為、自己 に危害を加える行為で、すでに厳しく叱責されているものである。最初の行為 に体罰を下すのは正しくない。一度厳しく禁止することを申し付けて置いた行 為について体罰が適用される。破壊的、自暴自棄的である場合だけでなく、狡 猾で、詐欺的である場合も含まれる。「親の言うとおりにしなかった」、「反 抗的な態度をとった」、「試験の成績が悪かった」、「悪い友人と交際する」、 「自慰行為をする」などは、体罰の対象にはならない。

四、体罰は父親が行い、母親はやや中立的な態度をとる。平手で頬を殴る。反 抗的な態度を示す場合には、再度、殴る。突き倒すとか、跳ね腰で倒すとかの 行為もありうるが、倒れたら起こす。絶対に蹴らない。危険であるだけでなく、 足で苦痛を与えることは子どもの人格を傷つけるからである。父親は正義を代 弁するのであって、決して自分の権威が汚されたから怒るという態度を示して はならない。品位を保つべきであって、子どもを侮辱することはしない。「こ のやろう」「てめえ」「ふざけんな」など、やくざめいた口調などは絶対にす べきではない。決して両親は二人かがりで体罰を加えてはならない。母親は父 親の体罰が行き過ぎた場合には停止させ、「もう告白し、謝罪しているのだか ら許してあげて下さい」と体罰の終了を提案する役目をもつ。子どもに対して は「正直に告白し、謝罪しなさい」と説得する。「父は正義のため以外には決 して怒らず、めったに体罰を行わなかったが、体罰を下したときには一度も間 違っていなかった」という思い出を子どもに残さなくてはならない。そして男 の子どもはそのような父親に育つのでなければならない。女の子どもでは、夫 への期待されるイメージに「正義のためにのみ怒る父」が含まれていることが 望ましい。

五、子どもの弁明に対して両親は一致した態度で反駁しなければならない。体 罰の理由などについて、両親の意見が一致していない場合には体罰は下せない。 子どもの弁明で主たるものは「友人がやっているので自分もやった」、「仲間 と一緒にやらないと制裁を受ける」、「仲間はずれにされる」、「度胸がない といって軽蔑される」というような他人を理由とする弁明である。原則は、友 人が悪いことをしているとき制止するのが正しい。制止できないときは、自分 だけは参加できないという態度を毅然として示すべきである。悪行に参加しな いと制裁を受けるとき、大人に通報すべきであるが、そのような人間関係にな らないように用心していなくてはならないというべきである。悪行に参加しな いと制裁を受ける場合には通報の義務があり、その義務に違反したことは叱責 の対象となる。

六、体罰は倫理的に正しい行為であるが、それが濫用されると、自分の思い通 りにならないときに人を殴るという最悪の形態になる。したがって、正義の怒 りを抱くことのできる心情の純粋性とその怒りを客観的に正しく制御する自制 心とが伴わないと、体罰は行うことができない。学校の教師に体罰を認めると、 彼らが教室の暴君になる危険がある。この弊害を考慮に入れると、学校の教師 に体罰の権限を認めることには躊躇せざるをえない。

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


KATO Hisatake <kato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Mar 7 00:38:50 JST 1998