クローンについて盛永反論への反論

加藤尚武(京都大学)

1998年4月4日


1.富山医歯薬大学の盛永審一郎氏が私(加藤尚武)に反論を寄せてきた。氏は私 の東北大学時代の教え子なので敬語でたとえば次のような言い方をしている。

「先生の論拠をいま一度示せば、「倫理的に悪であることは、法的不正と見な されるための必要条件であるが、十分条件ではない」と「治療という目的によっ てなら、倫理的悪も正当化される」です。私が批判したいのは、この後者です。 この命題が否定されれば、それは、まだ、法的不正と見なされるための十分条 件をつくらないかも知れないが、少なくとも、「たとえ治療目的であったとし ても、クローン人間は法的に禁止されるべきだ」と言う命題が成り立つ可能性 を持つことになると思います。…

最初に、後者について考えます。子どもを亡くし、精神的に苦悩している親 に、その子のクローンを作る行為自体は非人間的ではない、と先生は書かれて います。しかし、それは親の生存権、幸福追求権を考えてのことです。確かに、 嘆き悲しんでいる親に対する治療としてなら、そうであるかも知れません。し かし、産出される子どもの人権はどうなのでしょう。その子どもは、親の治療 道具と言うことなのでしょうか。そうではなく、ここには他人の生存権に手を 貸すという客観的目的があるというのなら、それに対しては、トムソンの議論 を借用して、生存権は、殺されない権利であって、自分の生存を他人が積極的 に維持することを要求する権利ではないと答えることが出来ると思います。す なわち、クローンの生存権を侵してまで、他人を助ける義務はないということ です。」

2.このように盛永氏の文章には敬語や前後のつながりが不明なところがあるの で、以下のように盛永氏の論点を再表現する。

治療という目的によってなら、クローン人間産出も正当化されるだろうか。否。 それは、当のクローンが、直接の治療の対象ではなく、誰か他の人の治療を目 的として、治療手段として使用されるからである。カントの「目的としての人 格」の命法に照らせば、このような手段としてのクローン人間産出は他人に対 する完全義務違反である。だから「たとえ治療目的であったとしても、クロー ン人間は法的に禁止されるべきだ」と言う命題が帰結する。

第一に、「治療という目的で手術することは、確かに身体への傷害ではあるが、 正当行為として処罰の対象とはならない」という違法性の阻却の例として、 「治療という目的でクローン人間を産出することは、確かにクローン人間の目 的の侵害ではあるが、(生存権、もしくは幸福追求権の行使という)正当行為と して処罰の対象とならない」は成り立たない。その理由は、それが生存権、も しくは幸福追求権の行使であるとしても、他人の臓器を勝手に使用することが 違法阻却の例となり得ないとするならば、やはり、同様に他人の自由を勝手に 奪うことはできない。

治療が第三者を巻き込む場合、例えば、他人の臓器を必要とする場合など、こ の場合、治療は治療ということだけでは(客観的)目的にならない。

第二に、「不妊カップルの治療目的としてのクローン人間産出」も客観的目的 にならない。

第三に、「第二のヴィンセントとしてのクローン人間産出」も客観的目的にな らない。

掛け替えのない子を失った場合、客観的目的を提示していない。「DNA同一= 身体同一=人格同一テーゼ」が誤りである以上、クローンを作ることは、同一 のものをつくることではない。クローンを生むことは、もうひとり子供を産む こと変わりがない。しかし、クローンであるが故に、親が、最初の子どもの幻 影をその子に強く求めてしまうとするならば、その子の人格は親の期待との間 で葛藤せざるを得ない。客観的目的とならないということは、相手を単に手段 としてのみ取り扱うことになるから、処罰される可能性が出てくる。

盛永氏の論点は要約すると、「臓器取得のためにクローンを産むこと、不妊治 療の目的でクローンを産むこと、失った子どもの心理的治療としてその子のク ローンを産むことは、カント的な意味での客観的目的ではなく、他者を手段と する行為であるから、クローンを産むことを法律的に禁止することができる」 というものである。

私はすでに盛永氏に「倫理的に悪であることは、法的不正と見なされるための 必要条件であるが、十分条件ではない」とのべて違法性阻却の例を挙げ、カン トは「他人を手段としてのみ用いること」を禁止したので、「手段とすること 一般」を禁止したのではないと書き送っている。それを盛永氏は「治療という 目的によってなら、倫理的悪も正当化される」と誤解した。

第一に法と倫理の関係について

「倫理的に悪であることは、法的不正と見なされるための必要条件であるが、 十分条件ではない」の説明事例としては、喫煙、危険なスポーツ、ポルノグラ フィ、賭博、売春の例がある。たとえば売春(買う行為を含めて)は倫理的に悪 であるが、刑法上の犯罪とはしないという措置がとられる。これらは「比較的 軽度の自己危害は刑事処罰の対象としない」という場合である。「麻薬の禁止」 「オートバイ乗用者へのヘルメット着用の義務づけ」は「重度の自己危害」の 例である。自殺は、しかし重度の自己危害であるが刑事罰の対象とされていな いが、「自殺幇助」は刑事処罰の対象になっている。この理由はさまざまでこ こでは言い尽くせない。刑法上の犯罪に含まれながら違法性阻却の成立する例 はこれらとは別種である。「財産を取得する目的だけのために結婚する」とい う倫理的悪ですらも、それ自体としては法的処罰の対象とはならない。通常は 「刑事処罰の対象とできるのは他者危害を含む行為である」という他者危害原 則が採用されている。

第二にカントの定言命法について

たとえば子どもを産むという行為には、老後の面倒を見てもらう、子どもを愛 することが親の自己充足になる、家を継がせるなどさまざまな動機がある。こ れらには「他人を手段とする」という目的が含まれる。しかし、子どもが自立 した人格として成長することを期待するという側面もある。子どもについて、 スポーツ選手にしたい、ハーバード大学に進学させたい、映画俳優にしたいと いうような期待感をもつことは、カント的にも許容される。「死んだ子にそっ くりであって欲しい」という期待は許容されるし、その期待を実現するために クローンの方法を用いることもカントの立場で許容される。先天的な障害を回 避したり、不妊治療のためのクローン法の採用もカント倫理学的に悪とはいえ ない。つまり、人格を目的として尊重するという側面が含まれているなら、カ ント的に正当化可能である。

第三に臓器摘出のためのクローンについて

X氏の臓器が故障した場合の差し替えように、X氏のクローンを作ることは、臓 器の摘出をする段階で傷害罪もしくは殺人罪の適用をうける。このような行為 を評価するときに、「殺人・傷害」と「クローン産出」を一体の行為として扱 うかどうかが問題になる。「交通事故死の原因となるから自動車の製造は禁止 すべきである」とは通常は言えない。他者危害排除という大原則があり、「医 療のためなら傷害が正当化される」というのも、そこに他者危害が含まれない という大前提の許においてのみ成り立つ。

第四にヴィンセントの例について

画家のゴッホの自殺の原因説のひとつに、ゴッホが死んだ同名の兄の生まれ変 わりとして両親から扱われ、幼時から自分と同じ名の刻まれた墓石を見て育っ たという事実を指摘する説がある。親が子どもに親と同じ医者になることを強 く期待したために子どもが自殺したという例もある。その場合ですらも子ども を産むこと自体が刑事上の犯罪として処罰され禁止されるべきではない。不適 切な子育てをするなということが一般的に正しいとしても、不適切な子育てを する可能性が高いから子どもを産むなとは言えない。つまり、子どもに心理的 な障害が発生する可能性は、出産を禁止する理由にはならない。

第五に弊害説の誤謬について

一つの技術開発にいくつかの弊害が含まれる場合、それらの弊害を理由にして その技術開発そのものを禁止すべきであるという主張は、一般に特称命題を全 称命題としてあつかう誤謬を形作る。たとえば「生命保険制度は他人の死によっ て利益を得るという悪を含むので禁止すべきである」とか、「第三世界への食 料援助が過剰人口による社会的な貧困の原因になるので停止すべきである」と かいうのが、その例になる。

盛永氏の論点は、殺人傷害を引き起こす、子どもに心理的障害を生み出すとい う弊害を指摘して、クローンを全面否定する論法である。「たまたま、もしか するとXを引き起こしかねないから、Yはつねにかならず禁止すべし」という論 法である。しかし、ある条件下では、部分的弊害を理由とする全面的禁止とい う判断が正しい場合がある。いまのところ盛永氏の論点はその条件を満たして いない。私の基本的主張は「人間のクローンについて安全性が証明されていな いので禁止すべきである」というもので、これも弊害説であるが、通常、安全 性は全面的禁止の理由として採用できる。

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


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Last modified: Tue May 26 16:59:56 JST 1998