朝日のクローン論説(1月24日)はどこがダメか

加藤尚武


大阪版の朝日新聞(1月24日)に「クローン人間はなぜだめか」 という論説が掲載された。臓器移植法案のときにも新聞等の論説の レベルの低さが法文制定に影響するということがあった。 それほど日本の議員は立法技術的に拙劣なのである。 そこで今回の朝日新聞「クローン人間はなぜだめか」 論説を黙って放置することはよくないと判断し、 1月26日にFAXで朝日新聞社論説委員室その他に送付したが、 多少加筆してホームページに掲載する。


「生物はまず単細胞として誕生し、やがて両親の遺伝子をミックスして、 多様な子孫を残せる仕組みをつくり出した。片親と同じ遺伝子の子をつくることは こうした進化の歴史に逆行し、環境に弱い集団をつくり出すことである。 それはやはり、人の道にもとると考えられる。」これが朝日の論説のキイ・ センテンスである。

第一の問題点。

まず、この文章が中心となっている問題のすり替えであることを指摘しなけれ ばならない。今、問題になっていることは「たとえ治療目的であってもクロー ン人間は法的に禁止されるべきか」ということである。クローン人間が「なぜ 悪いか」が問題なのではない。

クローン人間をつくることは悪いことだから、それを委嘱された主治医は断る べきだ、友人から相談されたら「つくらない」ようにと説得すべきだ。クロー ン人間をつくる目的の研究に公的研究費を支給すべきではない。こういう態度 をとることには私も賛成だ。しかし、今、われわれはそういうレベルの議論を しているのではない。「たとえXの理由で悪いことが分かっていたとしても、 治療をうける患者の治療アクセス権の行使として、クローン人間つくりが行わ れようとするとき、たとえば刑法の条項を制定して禁止の措置をとることが許 されるか」、別の言い方をすれば「クローン人間つくりは可罰的違法性を形成 するか」ということが問題なのである。

クローン人間をつくることを禁止する手段として、(1)刑法を制定しそれを刑 事上の犯罪扱いする、(2)名目的な禁止法をつくって違法と見なすが罰則はも うけない、(3)監督官庁のガイドライン(通達)で扱い、プロトコルの提出義務 など具体的に指示する、(4)学会の自主規制という扱いにする、(5)公共的な研 究費の支給をやめるというような具体的な規制の方法論が、現在、問題になっ ているが、それぞれの方法には学問と倫理をめぐる困難な問題が関連している。 ジャーナリストである以上、朝日新聞の論説執筆者は、この程度のことは知っ ていなくてはならない。

「安全性に問題があるから禁止の対象となりうる」という主張ならば、法的に 禁止する理由として十分成立する。しかし、「クローン人間は進化論的にみて だめだから法的に禁止してよい」という議論はきわめて危険である。

この朝日新聞の論説は、確かに「クローン人間は進化論的にみてだめだから法 的に禁止してよい」という主張はしていない。「クローン人間は進化論的にみ てだめだから人の道にもとる」と主張しているにすぎない。しかし、国際的に みて「クローン人間の法的禁止の是非」が問われているときに、「人の道にも とる」という主張をすることは、「法的に禁止してよい」という趣旨に読みと れる。

第二の問題点。

次に「人の道にもとることは法的に禁止してよい」という考え方について、こ の論説を書いた人は、ほとんど自由主義の原則を知らないのではないかと恐れ る。「法的に禁止してよいことは、特別のかなり重要な例外を除けば、人の道 にもとることでなければならない」というのは真理である。これは「法的に禁 止の対象となる行為は倫理的に悪であるものでなければならない」と言い換え てもいい。法的な不正は倫理的な悪に含まれなくてはならない。倫理的な悪で あることは法的不正とみなされるための必要条件であるが、十分条件ではない。 だから、「倫理的に悪であるものは法的に禁止してよい」という原則を採用し ないということが自由主義の大原則なのである。売春、同性愛、ポルノグラフィー、 危険なスポーツ、喫煙は倫理的に悪であるかも知れない。しかし、だからといっ て必ずしも違法行為とはみなさない。

代理母、男女の産みわけ、性転換手術は「倫理的に悪」であるかもしれない。 しかし、それが治療目的で行われる場合には、生存権もしくは幸福追求権の行 使として、それを法的に禁止することができないかもしれない。脳死状態の人 から臓器を摘出することは、「倫理的に悪」であろう。普通の意味での手術で すらも、もしも「治療という目的によって正当化され、患者が同意しているな ら」という条件付きで許されるのであって、その条件を抜きにすれば「倫理的 に悪」であり、「傷害罪」によって法的に処罰される。そこで従来の法体系の この条項(治療目的なら禁止できない)を楯にとって、「不妊カップルの治療目 的」ならどうかという挑戦をしてきたのが、アメリカのシード博士である。こ の挑戦の意味を理解していないという点で、ジャーナリストとしてこの論説を 書いた人は、きわめて無神経である。むしろ、この点でも故意に論点をはぐら かしていると論評した方がいい。

「安全性に問題がある」という理由に十分な科学的な根拠があって、「安全性」 を別件利用しているのでないならば、クローン人間開発を法的に禁止する理由 として成立可能である。

以上二つの問題点は立法に関する論点であって、すべての人に理解してもらわ なくてはならない。

第三の問題点。

さらに倫理学的な問題点を指摘する。「進化論的に悪いことは人道にもとる」 という判断は典型的な自然主義的な誤謬である。「遺伝病が存在することは進 化論的な正しさを含んでいるので、遺伝病の治療をすることは進化論的に悪い ことだから、遺伝病の治療は禁止すべきだ」という議論が実際に存在する。遺 伝病の治療をすれば、生きた人間が運んでいる遺伝子プールが貧困になるので、 遺伝病の人はその遺伝因子の運び屋として治療の方法が存在しても治療を受け ずにいるべきだという議論である。「進化論的に悪いことは禁止すべきだ」と いう議論は「医学的に悪いことは禁止すべきだ」というのと形は似ているが、 本質的に違う。たとえば「DDTは医学的に悪いので禁止する」という場合には、 DDTは個体に危害を加える、その危害を防止するためにはDDTのメリットを放棄 してもよいという判断が含まれている。この場合「DDTは人道にもとる」と言 い換えても間違いとは言えない。発ガン性の物質を人間に浴びせかけることは 人道にもとるのは確かだ。

「進化論的に悪い」から「人道にもとる」を導き出すことはできない。たとえ 進化論的に悪い結果になろうとも、ハンチントン舞踏病の治療法は開発すべき であろう。たとえ進化論的に悪くても、人間の知能指数を遺伝子操作で大きく する技術開発はすべきではないだろう。だいたい人間の倫理性のかなりの部分 は自然淘汰の機能を抑制することである。たとえば病気を治療するとき、社会 福祉政策を行うとき、いづれも自然界の論理としては自然淘汰にあたることが らを抑制している。倫理性のすべてではないにせよ、その確実に何%かは自然 淘汰の機能がその目的を達成しないようにするという措置である。しかし、朝 日新聞の論説委員によると進化の方向にそむくことは、同時に人道にもそむく ことになるのだそうだ。

第四の問題点。

純粋に科学的にみた進化論的の問題もある。「クローン人間を生み出すことは 進化の歴史に逆行し、環境に弱い集団をつくり出すことになる」という判断が 科学的に見て正しいかどうかという問題である。通常、世界全体の生殖可能な 人口の内で一%の人がクローン技術を使って単性的生殖を行ったとしても、世 代を数代重ねるだけで統計的に有為差をもつような「環境に弱い集団」をつく り出すことにはならない。また、この理由を使うと「明らかに環境に対する耐 性の強い遺伝子を弱めずに保存するという目的に適う場合にはクローン人間を 作るべきだ」という主張が導かれる。この論説を書いた人は、ただ口先だけで 「進化論的に悪いことは人道にもとる」というフレーズを思いついただけのこ とで、クローン人間が進化論的にどういう意味を持つかを科学的に理解してい ない。遺伝子治療に反対する「遺伝子プールの弱化」という論点と共通する誤 りがこの論点には含まれている。

「進化の歴史に逆行することは社会的に許されない」という考え方を、ふつう 「社会ダーウィニズム」と呼ぶ。この論説を書いた人が、朝日新聞の入社試験 に「社会ダーウィニズム」が出題されたら、きっと100点に近い答案を書くだ ろう。しかし、自分が「進化の歴史に逆行することは社会的に許されない」と 書いたときに、それが入社試験に出題されてもおかしくないほど典型的な「社 会ダーウィニズム」であることは、まったく意識されていない。

「進化の歴史」という目的論的な性格をもつ過程が実在し、その目的に一致す ることは人道に一致するという進化論理解は、今日では支持する人のいない偏っ た理論である。昨年朝日新聞社が招聘したグールドの進化論を学べば「進化の 歴史に逆行することは社会的に許されない」という考え方がまったく科学的で ないことが分かるはずだ。私は朝日新聞の論説委員が、この「クローン人間は なぜだめか」という論説を書きながら、「自分が倫理学的に間違いを犯したと しても、科学的には間違いを犯していない」と自負していたのではないかと恐 れる。進化論の科学的な誤解が社会的な意志決定に悪い影響を与える可能性が あることを、この論説は示している。

分析すればさらに多くの過ちを指摘できるが、当面、この四点を指摘して、反 論を仰ぎたい。

1998年1月27日(京都大学文学部倫理学研究室)


KATO Hisatake <kato@socio.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Feb 17 17:03:12 JST 1998