文芸春秋のA少年検察調書の掲載

加藤尚武(京都大学)

1998年2月16日


「文芸春秋」1998年3月号に「少年A犯罪の全貌」という記事と立花隆氏 の論説が掲載された。立花氏の論説は掲載にあたっての文芸春秋社の立場を代 弁するものと解して良い。

問題となる行為は、次の3点である。

1. 誰かが検察庁の調書をコピイして持ち出した。これは、検察庁の内部に公務 員の守秘義務に違反する行為を行ったものがいることを意味する。

2. 検察調書のコピイを文芸春秋社に報酬と代償に、もしくは無報酬で渡した。 この時点では文芸春秋社は違法な手段によって入手された文書であることを知っ て、取得したと判断される。渡す側と受け取る側の双方に違法性がなりたつの か、「ニュース・ソースの秘匿の権利」によって文芸春秋社の行為にはこの時 点では違法性が成り立たないというべきか。

3. 文芸春秋社が、真実性と公益性を理由として、それをほとんどそのまま掲載 した。これが少年法の精神に反すると言われるが、それは実名報道、写真掲載 などについても言いうることであって、「固有名詞をすべて匿名あつかいする など、プライバシーの侵害にならない」という文芸春秋社側の弁明がある。し かし「検察調書の掲載」は少年法に限定されない別個の問題を形づくる。被疑 者として調書を取られる段階で、その調書が裁判所の許可なしには公表されな いという前提が存在したはずである。

真実性について、文書の真実性については、ハードな路線では、その内容によっ て判断(実体的証明)してはならず、入手経路を明らかにするのでないかぎり、 真実性の証明はなりたたない(経過的証明)という態度をとる。フルシチョフ秘 密報告、数々のダイアナ王妃文書、アナスタージアの身分証明など、真実性の 経過的証明の不可能な文書が存在する。もしも、この文書が偽書であったとす ると、文芸春秋社の社会的責任が問われるが、この事件では文芸春秋社はニュー スソースを公開することができない。真実性についての経過的証明ができない。

公益性について、青少年の教育と保護という問題を考える上できわめて重要な 資料であり、神戸家庭裁判所が発表した「少年の処分決定要旨」では知ること のできない多くの事実が記載されており、公益性については疑う余地がない。

少年法の精神について、「非行を犯したものの将来の更正を配慮し、プライバ シーの侵害しないように配慮する」というのが少年法の精神であろう。これは 絶対的な命法ではなくて、公益性が優先する場合には実名報道なども許される。 少年Aについては、すでに多くの報道がなされているので、「今回の調書掲載 が、その少年Aを特定するための重要な情報源を明らかにしたので、プライバ シーの新たな侵害になる」という判定は下せない。

「被害者の両親など関係者の感情を傷つけるような報道であるから許せない」 という主張について、公益性を含意しない単なる好奇心の対象にすぎないよう な内容を報道することは一般的に不正である。しかし、公益性は被害者の心理 的苦痛への配慮よりも優先すると考えられる。今回の場合、この報道は被害者 の心理的苦痛を大きくすると判断されるが、それでも公益性の利益を重視すべ きであろう。

被疑者の調書についての権利について、検察側には裁判所の許可なしに検察調 書を公開することが許されないと思う。検察庁が過失を犯したことは明らかで あろう。公開することが検察庁の過失になることが明らかであるにも関わらず、 文芸春秋社が公開したということは厳密にいえば検察庁の不正な行為にたいし て共犯関係になることであって、文芸春秋社の行為には違法性がなりたつ。

おそらく、この調書を持ち出した人間も、それを掲載した文芸春秋社も、そこ に全く違法性が含まれないとは判断していないだろう。多少の違法行為は含ま れても、あえて公益性のために公開したのだと思う。

この文書の存在を知って、その公開を請求できる手続きが存在するなら、文芸 春秋社は記事として掲載する前に、正式な公開を請求すべきである。また、こ の事件が国民に重大な判断の必要を感じさせていながら、情報が一部の人々に しかアクセスできない状態になっている。政府が、特別委員会を作って、客観 的な情報提供ともっとも必要な対策の提案とをすべきであった。しかがって、 公開請求の手続きが不在で特別な報告書の作成もなされていないという条件下 では、違法性を含むのを承知で報道に踏み切る以外にない。こういう視点で私 は文芸春秋の決断を支持する。


KATO Hisatake <kato@socio.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Feb 17 17:02:02 JST 1998