日本倫理学会のための三つのエッセイ

加藤尚武

第50回日本倫理学会に私はシンポジウムの予備原稿として「組織とアカウウン タビリティ」を発表し、会の終了後、安彦一恵氏から、事後の感想を寄せるよ うにと言われて、自分の発言の補充のために「小さな物語のなかの大きな物語」 を送付したところ、それは私が安彦氏の依頼の趣旨を間違えたのであって、発 表後の感想を書いても良いと言われたので「臨床現場での対話的言語」を送っ たが、「倫理学年報」(第四十九集)には、採録してもらえなかった。私は鷲田 清一氏に「倫理学年報に鷲田批判を載せたから読んで下さい」と予告して置い たのに、私の論文が不掲載になったので、やや困惑している。そこで第50回日 本倫理学会に関連して書いた三つの原稿をホームページに掲載する。


1. 臨床現場での対話的言語

看護婦が患者の体温を測ろうとして「体温を測りますから、脇の下のところの 衣服をはだけて下さい」と言ったとき、患者が「看護婦さん、ふれるのはいい ですが、さわるのは止めて下さい」と言ったとする。看護婦にとって、触れる (ふれる)と触る(さわる)は同義語であり、触れないで触ることも、触らないで 触れることもできない。

「ふれるというのはさわるのとはまったく逆の体験として発生している。とい うのも、さわるという行為が主体と客体とのある隔たりをおいた関係として発 生するのにたいして、ふれるというのはふれるものとふれられるものとの相互 浸透や交錯という契機をかならず含んでいるからである。」(鷲田清一「聴く ことの力」176頁)

患者が医師に向かって「先生、私が求めているのは癒しであって、治しではあ りませんから、私は癒しは受け入れますが、治しは拒絶します」と言った場合 にも、似たような状況が発生するだろう。医師にとって癒すことは治すことで あり、治すことが癒すことなのである。臨床現場での対話に使われる言語はお おむね行為主義的言語であろう。そこでは同一の行為を指示する語は同義語と して扱われる。「さわる」と「ふれる」は同義であり、「治す」と「癒す」も 同義である。伝達の行為主義的有意義性を成立させるということが、インフォー ムド・コンセントの必須条件であって、臨床現場での対話的言語は散文的でな かればならない。

患者が「お腹が痛いから、治して下さい」と医師に訴えたとき、医師は、まず 触診をするだろう。医師は「ここに腹痛を主訴とする患者がいる。しかし、患 者が<お腹が痛い>と表現したとき、痛みの部位は胃であるか、十二指腸であ るか、大腸であるか等々、さまざまの可能性がある」と判断するだろう。そし て触診によって、痛みの部位を確認する。「ここを押すと痛みが強くなります か」という質問に、患者は「はい」とか「いいえ」とか答える。そのとき患者 は自己自身の身体に対して努めて観察者の態度をとろうとする。その場面では 「お腹が痛い」と感じる主体としての自己を、いわば自分で抑制して、詩文の 身体の一部に対する観察者の視点を確立しようと努力する。

ここでは患者の身体という共通の対象に対して、医師と患者がそれぞれ観察者 の視点にたち、観察者としての協力が、医師と患者との人間関係を存在させて いる。ここで不可欠な関係はブーバー流に言えばIch-Es であって、Ich-Duで はない。

Ich-Esの極限的関係はつぎのような場面になるだろう。内視鏡手術で医師はモ ニターの画面を見ている。画面で見た状況から判断して手を動かしているが、 もしも手先の動きを小型のロボットで置き換えたとしよう。医師は、患者のい る部屋の隣室から観察し、操作することができるだろう。もしも、患者が南極 の越冬基地で急性の病気に罹ったのだとしても、医師は隣室にいる患者を扱う のと同じ操作をすることができる。

医療にとって観察とは長い間身体の内部の見えない変化が患者の身体に現れた 状態を観察することであった。脈拍を測る、熱を測る、呼吸の音を聞く。そう いうことがある病巣の変化を告げる徴表だからである。熱を測るとき、手で触っ てから、「では体温計で測って見ましょう」と言って体温計を使うだろう。体 温計は触覚を拡張したものといえるだろう。しかし、血液の成分をデータにす るとき、それは本質的に見えるものをよりよく見えるようにする作業と言うよ りは、本質的に見えないものをデータ化している。

CT(computed tomography)というのは、直訳すればコンピュータの助けで描か れる地形図という意味だが、内部の視点から立体的に肺臓の内部の画像を見る というとき、それは本来肉眼では直接に観察できない内部の生きた状態に、擬 似的な(virtual)存在感を与えたものと言えるだろう。

医療行為のなかでの観察と観測が、機械とコンピュータを用いた高度の画像的 なリアリティをもてばもつほど、医師・看護婦が患者と直接に対話し、観察し つつ訴えを聞くという診断の意味は薄れていく。

「わたしたちの身体はいま、二重の意味でいのちの交通という、生きた身体に とってもっとも本質的な関係を解除されかけている。一つは、自他の身体への 関与、つまりは身体間の交通関係が超個人的なシステムを迂回せざるをえなく なっていることだ。・・・身体間の交通は制度化された医療システムによって 独占されている。」(鷲田清一「悲鳴をあげる身体」184頁)

遠隔治療や治療の情報化一般の倫理的問題点として、1.情報の安全な伝達は保 証されるか(雑音や停電のために死ぬ人はでてこないか)、2.情報の管理は大丈 夫か(プライバシーが侵害されないか)、3.間違った情報による被害がでないか (患者の取り違えなど)、4.ケア(看護)とキュア(治療)の完全分離が進行すると 患者は心理的に隔離されないか、と言うことが指摘できる。しかし、本質的な 問題は、医師患者関係はどのような意味で人格的な対話関係であるべきかとい うことである。治療という共通の客観的な目的が達成されるために必要な意志 疎通(インフォ−ムド・コンセントの「客観的基準」に対応する)の不可避性は 否定できないと私には思われる。したがって客観性の極限と言えるような電子 化された遠隔治療においても患者の権利が損なわないような法的、制度的体制 は何かということが、理論的な追求目標となるべきであろう。

プライヴァシーを権利として正当化する論拠の一つが、インティマシー(親密 さ)の保護である。つまり、人間は特定の人を選んで、その人との間にインティ マシーを成り立たせ、他の人にはインティマシーを認めないという排他的な人 間関係をもつ権利をもつという考え方がある。別の言い方をすれば「透明な社 会関係」(グラバー『未来社会の倫理』産業図書、参照)を拒否する権利がある。

臨床的な人間関係の中には、すべての人格相互の関係は、インティマシーの選 択権を侵害しない限度内で成立するのでなければならないというルールが、暗 黙のうちに存在すると思う。このルールは、「医師は、その業務を遂行するた めには、患者に対して公平で客観的な態度を要求される」と言う職業倫理と両 立可能である。(精神科の治療の場合に、この客観的な態度の保持が可能であ るかどうかという難しい問題が存在することは確かであるが。)

社会的に承認されているインティマシーの表現の限界は、文化に相対的である。 敵対的な関係にある外交官が飛行場で抱き合ったりキスをするという文化と、 人質から解放された夫を飛行場で迎えた妻が、二尺の距離をおいて「ご苦労様 でした」と黙礼するという文化は違っている。日本では、肉親であるというこ とがインティマシーの基本的な境界線であって、家族内のインティマシーによっ て、人々は「充たされている」という暗黙の前提が働いている。医療にかかわ る人間関係も、通常はこうした文化の支配下にある。ところが、最近の日本の 若い世代では家族内に固有の「癒し」や「ふれあい」を、家族外に求めること が流行しだしている。私は、このような流行に対しては、「それは愚行権の行 使である」という理由で寛大であっていいと思っている。そのような人間関係 を、ムキになって否定する必要はないが、臨床現場での対話的言語は、こうし た若者文化によって押し流されないだけの堅固さが保証されなくてはならない と思う。


2. 小さな物語の中の大きな物語

日本倫理学の100年間は、原理的な考察の欠如で特徴づけられる。明治時代に 西周が倫理学的な考察を開始したとき、儒教倫理(経世済民)と功利主義との接 点が東洋的思索から西洋的思索へと渡ることのできる浅瀬を形づくっていた。 明六社の体質はそうした浅瀬の発見にあった。しかし、明治23年の民法制定、 教育勅語の「下賜」によって思想界の状況は一変した。功利主義が衰退し、教 育勅語の護教的態度のみが日本倫理学に残された可能性となった。この状況で 内発的な関心を発揮させて自由に羽ばたくことが出来たのは文化的ナショナリ ズムという思想を自分の血肉とすることができた和辻哲郎のみであった。西田、 田辺には重い苦渋の影がある。

基底にあるのは、東西文化論である。西洋的な「誤り」に対して日本文化の優 越性を主張する。この反面は、西洋主義の第二種であって、西洋人が自己の相 対化を経験する。一面的に理想化された東洋像から、自虐的な自己理解を引き 出す。

第二次大戦以後の日本では、英米系の分析哲学、大陸系の実存主義とマルクス 主義との「三頭立ての馬車の時代」を迎えるが、倫理学的考察の東西冷戦バー ジョンは、明治から敗戦までとは違う別の形での原理的考察の欠如をもたらす こととなった。分析哲学と実存主義は、非常に個体性中心主義あるいは還元論 的な体質を発揮して、マルクス主義に対抗し、マルクス主義はこれに対して人 間存在の社会性を対置したが、この不毛な二極対立の中では、倫理性の原理も 具体性も不在であった。そこでは革命についても、ある社会の内部システムで 問題を解決しようとするとそのシステムが逆向きにはたらいて、そのシステム を破壊したりそのシステム内では違法となるような行為を通じて、新しいシス テムが形成されることが見きわめられなかった。興味深いことに、和辻哲郎の 間柄存在論がこの文脈では、広松渉の関係存在論と同じ側に立つことが出来た ということである。ここには日本型コミュニタリアニズムの萌芽があった。

冷戦時代に国家論は手つかずのままになっていた。国家は、機能主義的に定義 すれば、有効合意のための最終的単位であろうが、有効合意のための一般的可 能性がアロー(1953)で否定されたから、国家は妥協的現実的な合意の共同体と 位置づけられる。ところがその国家すらも個人に献身と自己犠牲を強いる。献 身と自由主義的個人主義を共に許容する「自由主義国家」は本当に可能なの か----近代国家は献身を含まないタテマエで作られたが、戦争が献身を要求 (ヘーゲル)する。

応用倫理学の日本にける開始時点は、一応、一九八六年の千葉大学教養部綜合 科目運営委員会刊行「バイオエシックスの基礎」に目安を置いていいと思う。 そこでは「三頭立ての馬車の時代」の観念形態は何も役に立っていない。臓器 移植を見込んだ展望のなかで医療倫理を見直すと、そこで紹介された中心的な 観念形態は、自由主義の医療倫理である。そこでは、二〇世紀初頭のアメリカ 最高裁の自由主義的な判例(たとえばブランダイス判決)を原型にした自由主義 の法理を医療倫理に適用したものが、「原理」となっている。19世紀末の観念 形態が20世紀後半の倫理原則になっている。このアナクロニズムには、「大き な堤の蟻の穴」のような意味が含まれているかも知れない。

生命と情報の技術の発達の行くえを見ると、応用倫理学という形でのアドホッ クなガイドラインの策定(それは現場の担当者の仕事であったり、国家レベル での審議会の仕事であったり、国際的な合意の結果であったりする)が避けら れない。しかし、そのガイドラインには大きな問題がはらまれている。アドホッ クなガイドラインという「小さな物語」の中に、歴史的な転換と評価できる 「大きな物語」が含まれている。たとえば「脳死」には、生命と死に関する数 千年にわたる倫理的な原則に触れるものが含まれている。死の概念そのものが 歴史的な相対性にゆだねられるのかという問いそのものは決して「小さな物語」 ではない。全人類史的な問題である。

たとえば遺伝子治療の実験計画書(プロトコル)と患者に対する説明文書(イン フォームド・コンセント)の内容にズレがあることを発見するのは倫理学者の 仕事である。倫理学者は実験計画書(プロトコル) の科学的な内容を理解し、 説明文書(インフォームド・コンセント)の内容と比較して、リスクについての 説明の倫理的条件が満たされているかどうかの吟味をしなくてはならない。患 者にリスクを過小報告することは倫理的な(法的にも)不正である。しかし、リ スクの過大な報告をすれば実験は不可能になる。すると「この薬を服用した後、 下痢が起こったら、直ちに医師に告げて下さい」というような指示を提案する。 発生可能なリスクの初期症状(下痢)を告知するとともに、その副作用が実験を 停止すれば確実に解消されると言う見通しを患者に告げることになる。

環境倫理学の領域で、たとえば高レベル核廃棄物の処理方法が倫理学的な課題 となる。1000年間の安全が保障される技術的な措置が要求される。しかし 「1000年間の安全」が科学哲学的に見て有意味であるかどうか。技術者は、廃 棄物を包むボトルの金属の腐食速度を計算して、「1000年間の安全」を設計す る。その「1000年間の安全」は過去数十年間のデータから外挿した数値で支え られている。「1000年間」の実験を反復した結果として確証されているわけで はない。ここで「安全性の技術的保証とは何か」という科学哲学的な問題に直 面することになる。しかし、どの科学哲学者もこの問題に答えてはくれない。 しかし、解答はわれわれの意思決定にとって不可欠なのである。

生命倫理学は、ミルの自由主義の法廷バージョンを下敷きにしてきたのだが、 環境問題とくに超微量危険物質の問題は、社会を自由主義的体質とは異質の管 理主義的な体質に変換するという要求を含んでいる。1グラムのダイオキシン が、2500億キログラムの体重に対する一日の限界危険量である。一人当たり平 均体重が50キログラムとすると、1グラムのダイオキシンは、50億人にとって 危険であることになる。世界の総人口は60億人である。一人当たり平均体重が 40キログラムだとすれば、1グラムのダイオキシンが、世界の総人口に対する 危険量になる。わずかな廃棄物の不注意な焼却処分が、非常に大きな危険を生 み出すことが分かってきている以上、廃棄物の管理体制は強化されざるをえな い。

多少の過失や逸脱は、それに対するサンクションを課することで処理すべきで あって、微細な過失に対して予防的な措置を講ずれば、自由という価値を減却 せざるを得ないと言うのが、自由主義的な刑事政策の基礎的な原理であるが、 超微量危険物質は、その原則とは逆向きのベクトルを、われわれに強いる。

ここに挙げた遺伝子治療、核廃棄物、ダイオキシンという事例はすべて「安全」 に関係している。しかし、倫理学の主題が、安全性の公共的な管理責任の問題 に限定されるとということはできない。家族内の葛藤の問題も、神の前におけ る義認も、倫理学の主題ではあろう。しかし、社会的な公共生活のなかで意思 決定を要求されるような問題について応用倫理学を開発している。その中心に あるのは「安全性という第三人称の問題」である。医師と患者の臨床的な関係 のなかに含まれる「二人称の問題」も、自我の実存における「一人称の問題」 も、応用倫理学の領域には、直接的な形では含まれない。応用倫理学の中心的 な主題が、結局は安全性の問題という倫理的な底辺に帰着するということは、 公共性の倫理の境界線を暗示している。

二一世紀が倫理学に提起する問題は、つねに全地球規模での問題である。厳密 にドメスティックな倫理問題は存在しない。医療倫理、環境倫理だけでなく医 薬品審査、実験動物の扱い、会計監査法で生じているグローバル化の動向には、 二〇世紀における国民自決主義の失敗から、国家という猫に鈴をつけるチャン スが、到来するという意味もあるだろう。グローバル化の動向が、大国の小国 支配に終わるのか、真の国際性の優越が実現するかは、国家性にたいして普遍 的倫理性の自己主張の成否にからんでくる。たとえば温暖化ガスの削減目標は、 国際協定が先行し、それを各国が批准・調印するというトップ・ダウン方式に なっている。国家単位の決定を積み上げるボトム・アップ方式ではない。とう ぜん国民自決主義の優位を守れと言うナショナリスティックな反発が、アメリ カ大統領選挙などでは大きな発言力をもつ。また、さまざまの相対主義が、そ の意味でのグローバルな倫理性の成立を妨げる。二一世紀には、特殊性の相対 主義に対して普遍主義の優位という傾向が見られるだろう。


3. 組織とアカウンタビリティ

01. 「責任」という日本語に対応する英語には通常responsbilityと、 liabilityと、accountabilityが挙げられる。この三語にやっかいな問題がか らむことは、英米人も感じ取っているようで、「responsbilityと accountabilityとliabilityというような概念が話す人によってしばしば入れ 替わりで使われている」(Holdworth EP42)とも言われている。responsbility はliabilityの根拠となる能力という説明がある。広い意味で「責任」という ときにはresponsbilityが使われ、ドイツ語のVerantwortungとほぼ対応してい る。liabilityは田中英夫編『英米法辞典』では「あることをないまたはなさ ないことを法的に義務づけられている状態」と説明している。accountability は田中英夫編『英米法辞典』に項目がないが、ふつうは報告義務、釈明義務と いう訳語がある。ランダムハウスの英和辞典には「accoutability: 責任、責 務、釈明義務。responsbilityと異なり、果たせば報酬を伴う」という興味深 いコメントを加えている。これはおそらく、「監査は当事者が行ってはならな い」という外部性の原理と関わりがある。外部からの監査に対応する内部から の報告義務が、accoutabilityであると言えるだろう。

02. 環境問題では企業の報告義務が重視されてきている。たとえばダイオキシ ン対策として環境監査報告書の作成が義務づけられる。ところがダイオキシン は超微量でも危険度をもつ。国立環境研究所のある研究者が「後楽園ドーム1 00万杯の空気のなかに一円玉一つのダイオキシンで危険」という例を話したこ とがあるが、どこの研究機関でも自前の検出データを外部に委託したデータと 比較するとか、超微量であるための苦心を重ねている。正確な自己申告がない と、なかなか実体がつかめない。報告義務違反こそ、企業の社会的責任のあり 方として重視しなくてはならないことになる。微量物質の倫理学は、古典的自 由主義倫理ではあり得ないようである。古典的自由主義は、個人の犯罪はそれ を完全に予防するコストが大きすぎるので、不完全な予防と制裁の組み合わせ で、犯罪の多少の発生は、計算されたリスクに数えるという仕組みである。違 法行為があるということは、大抵の場合、違法な報告も行われているというこ とであって、「粉飾決算」が詐欺罪になるという背景には、すでに会社法に反 する違法な報告がなされているという事実がある。accoutabilityには、情報 倫理の基礎原理にからむ問題がある。社会の安全性が、企業の内部からの申告 に依存するという時代を迎えているようである。

03. 責任一般の原理として自発性がある。アリストテレスが『ニコマコス倫理 学』で、「随意的な行為のみが、本来的な意味で倫理的な評価の対象となる」 という原則を提示した。サンクションの場合にも、この原則は有効であろうし、 刑法の基礎にある有責姓の概念もアリストテレスの原則に含まれる。ルーカス の責任論はアリストテレスの影響を強く受けている。彼は「しばしばわれわれ は行為しておらず、そして『君はなぜそれをしたのかWhy did you do it?』と 聞かれるはずのない場合もある。しかし、『それを君がしなかったのはなぜか Why did you not do it?』とか『なぜ君はそれについてなにかをするのではな かったのかWhy didn't you do something about it?』聞かれる場合もある。 こうした否定疑問文に応えなくてはならないような場合に、われわれは否定的 責任negative responsibilityを持っている。」(Lucas R53)と述べている。 このルーカスの文意もなかなか難しいが、とりあえず私が何かをしなかった場 合に、その行為の欠如した過去の現実の状態について、反実仮想を立てて予想 される行為をしなかった選択の理由を聞かれると言う例である。ルーカスは特 別な理由、つまり責任がある場合に限って、「なぜ」という否定疑問文がなり たつのだという。「何もしない」という状態に関して行為の文脈で、理由を問 うという点には行為論的な視点でみるとさまざまな難問がひそんでいることが 分かる。

04. ルーカスは、責任が問われうる社会的な文脈に関して「他人の面倒をみる」 (care)の例を出している。「ある種の責任は特別な力や影響力を持つ立場に立 つということだけで生じてくる。」(Lucas R54) 契約、約束など行為者の自発 的意志表明が明確に示されている場合だけではなく、ある状況に陥ることが避 けられなかったという理由でも「否定的責任」がふりかかってくる。責任の概 念の中核に「随意性」を置き、「予見可能な選択肢から自発的に選択された行 為に行為者は責任を負う」というvoluntarismをはみ出すような例でも責任の 成立する可能性がある。たとえば子どもの養育の責任の場合、どのような子ど もが出生しても養育の責任を放棄してはならないという含意がある。

次のような場合について考察してみなければならない。
例1. すべての現在の日本国民には太平洋戦争時の外国人の被害者に対する責 任がある。
例2. オウム真理教の信者はすべてサリン事件への責任があるのだから、彼ら の住民登録をその地域の住民が自己の安全のために拒否することは、住民の側 の正当な権利行使である。
例3. (禁酒法時代のアメリカで)ウイスキーの取引現行犯で逮捕されたギャン グの手下の自供で、アル・カポネが取引の黒幕であることが分かったが、アル・ カポネは取引の現場にはいなかった。また取引の契約上の当事者は名目的には 別人とされていて、アル・カポネは取引の名目上の当事者ではない。ただし、 取引の作業については手下に指示しており、共謀による共同の意思が成立した と見なしうるので、取引の現場にいなかったアル・カポネも禁酒法違反の正犯 とみなしうる。
例4. デモ隊が国会構内に乱入することについては、デモ隊の指導者の扇動に よって共謀による共同の意思が成立したと見なしうるので、国会構内に入らな かったデモ隊の指導者も住居不法侵入の正犯とみなしうる。
例5. 1956年ごろの新日本窒素肥料(現在は「チッソ」と改称)株式会社による 有機水銀を含む工場排水の海洋投棄が原因となって発生した水俣病の患者に対 して、現在の株式会社チッソは補償の責任がある。

これらはすべて自然的人格に適用される責任原理voluntarism、人格の同一性、 時効などが、人工的人格(国家、軍隊、代議制的諸組織、官僚制、委員会、審 議会、弁護人、企業、その他の集団)に適用される場合に、その類比的判断の 適否が問われると言う事例である。

05. ハンス・ヨナスの『責任の原理』では、親の子に対する養育の責任が原型 になると言う主張がある。「私は・・・に責任がある」というとき、「私の会 社は水俣病の発生に責任がある」という言い方では、主として因果関係が問題 になっているが、因果関係が問題になりうる文脈とは「企業は地域住民の安全 性に責任がある」という形をとるだろう。だから親子関係に責任の原型がある という主張は、責任の特殊な側面を指摘しているのではなくて、責任一般の理 論として展開する可能性をもっている。しかし、市民社会では特別な契約、受 託、約束がないかぎり「ある人格が他の人格にたいして責任がある」という関 係は発生しないから、ヨナスの理論では責任は、市民社会の一般的な倫理的関 係・相互性の関係とは別種であることになる。ルーカスの言う「他人の面倒を みる」(care)という事例は、ヨナスの視点で見れば責任の発生する特殊例では なくて、責任の原点なのである。自然的人格の責任と人工的人格の責任の同一 性と差異という問題の構図に、責任という倫理関係の特異性という構図が重なっ てくるだろう。

06. エリザベス・ウォルガストの『人工人格の倫理学』(Wolgast AP)は、自然 人格と人工人格の倫理的構造の差異に着目した重要な問題提起をはらむ著作で あるが、自然人格の個体主義に回帰しようとする視点がものたらない。「個人 的な接触、ちいさな規模、独立性個人的な決定をずっと大幅に許すためのコン テキストを形成するために強調されなくてはならない主要な因子である。この ように変化したコンテキストの中に置いてのみ、軍人も彼が行ったことに対し て責任があるものとみなされうる。そしてこのようなコンテキストにおいての み戦争犯罪という概念が意味をます。」(Wolgast AP157)これがヴェトナム戦 争での軍人の人格について、、巨大組織の管理者へと軍人像が変貌していく中 でフランクリン的な責任感の持ち主を重視するという発言に対するウォルガス トの結論である。責任感のある個人主義者という性格に合わせて、社会的な組 織を小規模化すべきだという主張に受けとれる。こうした問題の背景には、軍 事という行動を軍人という代理人に委託すれば、代理人は機械的に業務を遂行 するのではなく、軍人という集団の独自の力学で動くという問題がある。それ なら代理という関係をやめて、法廷では弁護人を雇わず、国家は代議士に委ね ず、すべて直接的な管理にすればいいという結論になりがちである。しかし、 ウォルガストは自然的な個人の直接支配に還元すべきだとは言わない。「結局、 アテナイ人と同じようにわれわれは取引のためには代理人達agentsが不可欠だ と主張するだろう。代理人というような仕組みを変えるということは共同体が 必要としている売り買いのひっくりかえしのやりすぎになるかもしれない。政 府とか企業の理論家達は変革はその利益を正当化するにはあまりにも危険だと みなすかもしれない。」(Wolgast AP157)ウォルガストは巨大な変革を要求し ているのだが、その目的となるのは「抽象的な合理的な優先的な視点からでは なく、他人に対するさまざまの関わりや拘束のなかで人々がなす事に対してさ まざまな側面で責任があるようなコンテキストから、人々に彼ら自身の決定を することを許すように」という目的である。結局、人工的な人格(組織)に固有 の責任構造の分析という問題を提起しながら、結局、ウォルガストの、個人の 自己決定を組織の重圧から守るという古典的な個人主義の立場を、その個人が 属する社会的なコンテキストを読み込むという共同体主義者の個体認識を織り 込む形で主張している点だけが新しい。

本人と代理人との関係の倫理学は、ちょうど医療倫理で医師と患者関係が占め るような基底てきな関係をなしているが、(Bowie & Freeman EA)が示すように、 そこに多くのアポリアが潜むことは確かである。

個人の自己決定が有効に社会化されるかどうかという問題と、組織の行動が個 人に対して危害を含まないようにするという問題とは一応別問題である。超微 量物質の脅威という現実に対処するという視点から見ると、組織が個人の安全 性を守るために有効な規制を受けるということが、個人の自律性の確立に寄与 するという文脈を強調しすぎるのは危険であろう。たしかに企業の環境責任が 厳しく問われると言うことはある面では、個人の存在感を高めるかも知れない が、必ずしもそうはならない。

07. 組織はaccountabilityを達成することによってのみ、自己認識をもち、自 己抑制かのうになる。accountabilityは、組織が環境保護責任や、ステイク& ストックホルダーへの利益還元という責任を果たすよりも根源的な自己認識で あり、自己の存在主張である。「そこには批判的反省の能力が含まれる。自分 が把握した道徳的理由という光のなかで達成したいと思う行為への直接的な欲 求と評価から一歩しりぞいてみる能力である」(Wallace RMS158)古典的な存在 論に立ち帰ってみれば、集合体では理念が存在の根拠なのであるが、そのよう な意味での理念は、組織においてはaccountabilityにあると言うことができる。

08. 危険な微量物質から社会を守る上で非常に有効な方法は Whisle-Blowing(May SRS)を権利として確立することである。ある企業の従業 員が、自分の帰属する企業で正しい報告がされていないという証拠をつかんだ ときには、その従業員には密告Whisle-Blowingの義務が生じ、なおかつその従 業員の地位の保証が法的に確保されるという制度の導入が非常に有効であろう。 また企業の側は、積極的に「自社が公益に反する行為や偽りの報告をした場合 に密告者の地位を保証する」とみずから宣言することによって、社会的な信頼 度を高めるという戦略を選択するようにし向けなくてはならない。(以上)

(かとう ひさたけkato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp)


Holdworth EP: D.Holdworth "Accountability:the obligation to lay oneself open to criticsm" in "Ethics and the Professions ed.by Ruth F.Chadwick" 1994 Avebury

Lucas R: J.R.Lucas "Responsibility" 1995 Clarendon

Wolgast AP: Elizabeth Wolgast "Ethics of An Artificial Person" 1992 Stanford

May SRS: Larry May "The Socially Responsive Self" 1996 University of Chicago Press

Wallace RMS: R.Jay Wallace "Reponsibility and the Moral Sentiment" 1994 Harverd University Press

Bowie & Freeman EA: Norman E. Bowie & R.Edward Freeman "Ethics and Agency Theory" 1992 Oxford University Press

井上兼生「法人の道徳的責任についての一考察」(1999.7.28)千葉大学・社会 文化科学研究科博士課程研究報告


あなたのご意見をお聞かせください

お名前

Mail アドレス

Subject:

本文

/


KATO Hisatake <kato@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Dec 17 11:32:37 JST 1999