キケローからミルへ

加藤尚武

人名辞典などで「キケロー」を引けば、必ず「雄弁家」（orator）という呼称がでてくる。雄弁家として彼は文体を確立した人として知れるが、それは彼の文章のいわば音楽的な特質であって、文体の確立とは作曲法の確立ととても良く似ていると思う。肉声で良く通る声をもっていなければ雄弁家とは言われないだろう。プルタークによれば若いときに病弱だったキケローが体力を付けて雄弁家になったというから、そこにこそキケローの本領があったのだと思う。文字の文章とは別の意味で声の文章がジャンルとして成立していたという条件のなかでしか、キケローという人の作品は考えられない。というのは声で語る文章には時間の限度があって、語る相手もほとんど特定されていて、議会や法廷での弁論は、それについての賛否が直ちに問われるものであるので、永遠の真理についての、さしあたりの一歩というような悠長な性格のものではない。要するに政治的な文章である。

「雄弁家」という職業があったわけではないだろう。政治家や法律家でその雄弁が名声を博していた人という意味だろう。しかし雄弁家というのが彼の第一の呼称なのだから、法律家としての職業の社会的な位置づけ以上に高い評価が「雄弁家キケロー」に下されていた。彼は哲学者として哲学を語ったわけではない。これが肝心の点である。彼は懐疑主義の哲学に賛同の意を表明している。快楽主義にもその妥当性を認めている。しかし、伝家の宝刀と言わんばかりに、いざとなるとストア主義を持ち出してくる。つまり彼は哲学の製造元ではなくて、哲学の卸業者で消費者に哲学をコーディネイトして手渡しするのが彼の仕事なのだ。

製造元であるならば、懐疑主義か快楽主義か禁欲主義かどちらかにしなくてはならない。卸業者はそれぞれの品物の品質を見きわめて、時所位に合わせて、適切なコーディネイションをする。キケローの著作が、キリスト教文化をまたぐ形で、多くの人々にながく読み継がれてきた理由も、そうしたコーディネイションの旨さによると思う。

倫理学説史の視点でみると、しかし、キケローの『義務について』は特筆すべき独創性で光っている。それは第一に他者危害の理論であり、第二に完全義務と不完全義務の理論である。

第一、他者危害の理論

この著作には、後にミルが「他者危害原則」と呼んだ原則が、最初に明示されている。「他人のものを奪い、或いは他人の損害においてみずからの利益を増すことは自然に反する」（岩波文庫、151ページ）というのである。キケローは法律による規制が必要な一般的な根拠として、自然主義的な発想法の延長上にこの言葉を述べたのだが、他者危害の防止が法的な規制の唯一の根拠であって、その原則に逸脱する法律は認められないと言う自由主義の原理に組み込まれることで、他者危害原則は現代の法哲学のもっとも根本的な原理に変貌した。

トマスの他者危害論

「神学大全」第２部の2、第９６問第２項の主文の末尾に「人定法は多くの人間（大衆）に対して措定されるのであり、その大衆の大部分は徳において完全でない人々である。だから、人定法において禁止されるのは、徳のある人々が控えているようなあらゆる悪徳なのではなく、大部分の大衆が控えることの可能なより重大な悪徳だけなのである。とりわけ、他者を害することに向けられた悪徳で、それを禁止しなければ人間社会が保持されえないような悪徳はそうである。たとえば、人定法において殺人や強盗などが禁止されているようにである。」（川添信介訳）（Lex humana ponitur multitudini hominum, in qua maior pars est hominum non perfectorum virtute. Et ideo lege humana non prohibentur omnia vitia, a quibus virtuosi abstinent; sed solum graviora, a quibus possibile est maiorem partem multitudinis abstinere; et praecipue quae sunt in nocumentum aliorum, sine quorum prohibitione societas humana conservari non posset, sicut prohibentur lege humana homicidia et furta et huiusmodi.）

トマスは「すべての悪を抑止することは人定法に属するか」（神学大全2-1,96-2）という問いに回答することによって、道徳と法律との一致と不一致という現代の刑法理論の先駆となるような理論を提示している。

まず徳法一致主義の主張が提示される。それを要約すると「人定法は自然法に由来する。すべての悪徳は自然法に反する。あらゆる悪が法に対するおそれよって抑止されなければ、無法な行為は十分に抑制されない。何人もすべての悪徳から抑止されなければ、有徳であることはできない。それゆえ、人定法はすべての悪を抑止しなければならない」となる。

これに対する反論として、トマスはアウグスティヌスの「自由意志論」(1-5)を引用する。「国家の統治のために設けられる法は、神の摂理によって罰せられる多くの行為を許容して、罰せずにおく。しかし、その法は、すべてのことをなすものではないからといって、それがなすところのことまでもとがめられるべきではない」。神の禁ずることのすべてを人定法はカバーしきれない、それは人定法が不完全であるからだという論理と、神の禁ずることのすべてを人定法で禁止してはならないという論理とが重なり合っている。

トマス自身の主張は、次のように並べることができる。

１、ある行為をなす力や能力は内的な能力態ないし性向からおこる。
２、有徳なものにとって可能なことは、徳の能力態をもたないものにとって可能ではない。
３、同一のことが子どもと成人とにとって可能ではない。
４、有徳な人びとに許容されるべきでない多くのことも、その徳性の不完全な人びとには許容されるべきである。

トマスのここに挙げた理由は、実は完全義務と不完全義務にかんするキケローの立場とほとんど同じであることが、後文を読んでいただくなら分かるだろう。

またトマスが典拠としたアウグスティヌスには、宗教上の義務として守られるべきことがらを世俗的な法で強制してはならないという考え方が含まれている。徳法分離の究極の根拠は、聖俗分離にある。これは後にピエール・ベールの「寛容論」に結びついていく発想法である。

しかし、人定法は不完全であるからとか、徳の能力をもたない人がいるから徳の教育は強制的ではなくて段階的に行うべきであるとかの理由では、徳法分離の根拠が聖俗分離には還元されない。トマスの実際的な配慮を感じさせる点だが、キケローの完全・不完全の区別には対応づけることができる。それゆえトマスの徳法分離主義の根拠は、第一にアウグスティヌス由来の聖俗分離、第二にキケロー由来の完全・不完全の区別というように二分することができると思う。

トマスは他者危害と人定法との関係をつぎのように述べている。「無法な行為は他人に危害を加えることにかかわる。したがって、それは、隣人が害せられる罪にとくにかかわるものであって、うえにのべたように、人定法によって禁ぜられている。」（同上）

この引用に関連して金沢文雄氏は「刑法とモラル」（現代刑罰法体系、第１巻、115頁）でこう述べている。「検討されるべき問題は、立法者は倫理的禁止をどの程度考慮すべきかという問題である。それは「当罰性」の基準は何であるかという問題と関連している。この問題についてはすでに古く、トマス・アクィナスが「神学大全」の中で、すべての悪徳を禁止することが実定法の任務であるかという問いに次のように答えていることが想起される。すなわち、禁止されるのは、１」より重大な悪徳のみで、２」一般人が抑制することのできるものであり、３」かつ主として他人に害を加える行為であって、４」禁止しなければ人間杜会が維持できないようなもの、にかぎるというのである。これは現代にも適用できる当罰性の基準といえよう。すなわち、イエリネックが「法は倫理的最少限」といったように、刑法はより悪質な行為のみを対象としなければならない。しかも、悪質な行為でも一般人がこれを抑制できないようなもの、つまり取り締ることが実際上困難であり処罰の有効性を期しえないようなものは除かねばならない。刑法は他人の法益を侵害する行為を主たる対象とし、社会生活を維持するために必要不可欠の限度にとどまらねばならないということである。これは刑法の「補充性の原則」に含まれているところの「謙抑主義」の要請を明示したものといえよう。」金沢氏の論述は、トマスから現代の「謙抑主義」にまで一挙に連結してしまっているが、もちろん、その中間には、ロックもいればミルもいる。

ロックの他者危害論

ロックの「統治論」のテキストが、キケローの読解を前提していることはほぼ確かだと思われるが、彼のいう「他者危害」が直接にキケローに由来するのかどうかは、わからない。ともあれロックにとっても「他者危害」は根本的な概念である。

「自然状態にはそれを支配する自然法があって、すべての人はそれに拘束される。そして理性こそその法なのだが、すべての人は理性に尋ねてみさえすれば、すべて平等で独立しているのだから、誰も他の人の生命、健康、自由、あるいは所有物を侵害すべきでないということがわかるのである。・・・人はすべて自分自身を保存すべきであり、勝手にその地位を捨ててはならないのだが、同じ理由によって、自分自身の保存が脅やかされないかぎり、できるだけ人類の他の人々をも保存すべきであり、犯罪者を罰する場合を除いて、他の人の生命や、生命の保存に役立つもの、すなわち、自由、健康、四肢、あるいは財産を、奪ったり侵害したりしてはならないのである。・・・すべての人が他の人の権利を侵害したり、相互に危害を加えたりすることのないように、そして、平和と全人類の保存とを欲する自然法が守られるように、自然状態においては、自然法の執行は各人の手に委ねられ、この法を侵す者を、その侵害を抑制する程度に処罰する権利を各人が持っているのである。・・・このようにして自然状態においては、一人の人が他の人に対して権力を持つようになるが、しかし、それは決して犯罪者を捕らえてこれを激情のままにあるいはまったく勝手気ままに処分してよいという絶対的で恣意的な権力ではなく、ただ冷静な理性と良心の命ずるかぎりで、その罪に相当する程度に罪を償いかつ抑制するのに役立つぐらいに、犯罪者に報復するための権力である。賠償と抑制というこの二つのことだけが、他の人に対して合法的に危害を加えること、つまり刑罰と言われうるものの根拠なのである。」（全訳統治論、伊藤宏之訳、柏書房、1997、 162-163頁）

この引用文を要約すれば、こうなる。

１、人はすべて自分自身を保存すべきである。
２、誰もが平等で独立だから、自分自身の保存が脅やかされないかぎり、犯罪者を罰する場合を除いて、他の人の生命や、自由、健康、四肢、あるいは財産を、奪ったり侵害したりしてはならない。
３、賠償と抑制だけが、刑罰の根拠である。

この要約のなかから、自己保存の義務に関連する部分を除去すると、次のような文意がえられる。「他の人の生命や、自由、健康、四肢、あるいは財産を、奪ったり侵害したりしてはならない。他者危害への賠償と他者危害の抑制だけが、刑罰の根拠である。」

つまり文意としては、他者危害という概念が刑罰を正当化する唯一の根拠であるという立場が、ロックのテキストに含まれている。

第二、完全義務と不完全義務の理論

後に完全義務と不完全義務の理論と呼ばれるようになる理論のいちばん古い出典も、『義務について』にあるとされている。『ヨアヒム・リッター編哲学事典』の「義務(Pflichten)、不完全(unvollkommene)／完全(vollkommene)」項目には次のように記載されている。──道徳哲学の用語としては、「完全義務（羅officium perfectum）」はまず最初にキケロー(Marcus Tullius Cicero106-43BC)に登場する。古代ストア倫理学では、道徳的に中道を行く自然に即した行為、ギkanehkontaはしばしば、ギ mesai praxeis(Stobaeus: Flor. 103, 22 = SVF 111. 510.)、ギta metaxy(Sextus Emp.: Adv. math. XI, 3 = SVF 111, 71.)、ギmesa kanehkonta(Stobaeus: Ecl. II, 85, 13 W = SVF 111, 494; Ecl. II, 86, 10 W = SVF 111, 499.)とも呼ばれ、道徳的に卓越した行為ギkatoruohmataは、ギteleia katoruohmata(SVF 111, 499f.)とも呼ばれた。このような用語法にキケローは倣い、「中間義務」（羅officia media）と「完全義務」（羅officia perfecta）とを区別している(Cicero: Acad. post. X, 37; De fin. Ⅲ, 17, 58; De off. I, 3, 8; Ⅲ, 3, 14.)。しかしながら、「中間義務」と「完全義務」とに「義務を区別すること（羅divisio officii）」(De off. I, 3, 8.)は、キケロー翻訳者のCh.ガルヴェが検証したように、義務には相異なる二種類の義務があるということを意味しない。その区別は、全く同一の義務を考察する相異なる方法の区別に過ぎないのである(Ch. Garve: Philos. Anm. und Abh. zu Cicero's Buechern von den Pflichten Anm. zu dem Ersten Buche2-1784 s.20)。「完全義務」（officium perfectum／ギkatoruohma）という表現は、道徳的に称賛に値する人々に関わることであり、従って、自然に即した行為を完遂して生きることによって特徴づけられるストアの賢者に関わるのである。自然に即した行為の完遂は「中間義務」（羅officia media／ギkayehkonta）の「正しい実行」（recta effectio:Cicero: De fin.Ⅲ, 14, 45.）であると見なされる。中間義務は体系的には、ストア派の向上倫理的善理論に位置し、従って、中間義務はいかなる義務論的な含みも欠いている。」

キケローによる義務の区分は、通常人のための「中間義務」と賢者のための「絶対義務」というように解釈してもいいだろう。この対比を通常人のための功利主義と賢者のための禁欲主義という対比に重ね合わせにしてもおおきく外れることはないと思う。

もしも義務を普遍化可能なのものと定義すれば、通常人のための「中間義務」と賢者のための「絶対義務」という枠組みは成立しなくなる。倫理学が、日常的な倫理という性格を強めていけば、この区別は消滅して、通常人のための「中間義務」だけが生き残るはずである。ところが現代では、倫理的探求がsupererogation （義務を超える徳、たとえば献身）の再評価という方向が進んでいる。

第一に、他人に危害を加えなければ何をしてもいい。これは他者危害原則だけを規制根拠とするという自由主義である。第二に、相互的な制約という形の拘束以外の義務はない。これも契約以外には拘束理由がないという自由主義である。こういう原則を徹底すれば、「困っている人を助けなくてはならない」という義務は、絶対に導き出せなくなる。だから逆に自由主義の原則を問い直すべきだという議論が出てくる。すると、どうしても現代倫理学の中心問題はキケローにまで遡ることになる。

キケローの『義務について』のなかに書き込まれている、他者危害の理論と完全義務・不完全義務の理論とは、他者危害の防止が完全義務であるという形で結合してくる。それから後の概念史は、近刊のM.シューメーカー『愛と正義の構造』（加藤尚武、松川俊夫訳、晃洋書房）にゆずるが、現代の支配的な倫理性の理論が、古典主義の文化という豊饒の海のなかにあることが分かる。

どこかに純粋な倫理性の原理が流れ出る泉があって、その所在を突き止めないと現代の倫理学は構築できないなどと考えるのは止めた方がいい。実存主義だって、現象学だって、マルクス主義だって、どこかに究極の倫理性の未知の源泉があるように思っていたのだ。そして哲学者のなかには、いまでもそういう源泉を見つけることを自分の課題だと思いこんでいる人がいる。

そういう人こそキケローを読むといいと思う。キケローはギリシャの原典のなかにある思想をラテン語で再表現すれば十分なのであって、自前で哲学原理を生み出そう等とは夢にも考えてはいない。懐疑主義とエピクロス主義とストア主義の三つについて、良いと思われる思想を切り取ってつなげばいいと思っていたようだ。自前で哲学原理を持とうとしなかったという彼の姿勢こそ、現代のわれわれが彼に学ぶべき最大のものなのではないだろうか。

われわれにとって、もう新しい哲学の製造元は不要である。われわれは十分にたくさんの哲学原理を持っている。現代の思想でまったくいいところがないのは現象学だけで、それ以外の思想はみな正しいと私は思う。自分が自分の内面性にかかわる限りでは実存主義の言葉は私の胸にひびく。人間存在の社会性に思いを致せといわれればマルクス主義の正しさを認めないではいられない。分析哲学も正しい。解釈学もすばらしい。構造主義も文化の解釈に不可欠だと思う。

哲学原理の製造元としての営業方針を立てれば、プラグマティズムだけが正しいとか、現象学的方法の有効性とか、どうしてもウソをつかなければならなくなる。だから製造元としての営業はしないで、自分の息子や学生にこれだけのことは身につけておけと、さまざまの決断の事例をあつめて本を書く。

キケローは一般市民の生活を守るという課題を引き受けたときに、エピクロス主義の正しさを正確に受けとめている。しかし、一人の賢者として、あるいは最高位の権力をもつ政治家として決断するときにはストアの賢人の理想に自分を同化させている。そして神について問われれば懐疑主義的に答えることが最善だと判断する。処世における見事な哲学の利用法がキケローのわれわれに示しているものである。哲学の製造元であることを止める。コーディネーターに徹する。それでいいではないか。

キケローの影響は直接的である。カントもキケローを読みミルも読んでいる。キケローをトマスが読み、トマスをグロチウスが読み、グロチウスをロックが読み、ロックをカントが読み、カントをミルが読み、ミルをファインバーグが読んで現代の他者危害理論ができたのではない。トマスも、グロチウスも、ロックも、カントも、ミルも直接にキケローを読んで、ミルをファインバーグが読んで現代の他者危害理論ができたのである。ミルまでは古典主義の文化が持続している。ファインバークになると古典主義が消えている。

ファインバークがそう語っているわけではないが、彼の立場は「ミルの中に歴史的な他者危害理論は集約されている。だからミル以前にさかのぼって他者危害理論を調べることは無意味である。もっとも発達した最後の形態から出発して、その先に独創的な成果を継ぎ足して行くのが、学問の科学的・近代的な歩みなのであり、アリストテレスを引き合いに出せば論争に決着がついてしまうという権威主義からわれわれはすでに脱却している」という形で弁明されるだろう。

ヘーゲルで近代思想はピークに達したとか、技術こそは西欧の主観性形而上学の頂点であるとか、マルクスこそ最後の集約点だったのだとか、ロールズに正義論は集約されているとか、歴史の集約点がどこかにあって、その最後の集約点から、その都度の学問は出発することによって、学問は後戻りしないで進歩の軌道にのることができるという考え方が、正しいのかどうか。その辺の実感を味わうには、まずキケローを読むことから始めるべきだろう。（了）

（かとうひさたけ京都大学文学部教授)