以下の文章のWEB上での公開に関する注意

以下の文書は、ロジャー・スティーヴン・クリスプ博士(Dr. Roger Stephen Crisp)の論文「平等とその含意」(Equality and its Implications)の全訳です。この翻訳は、クリスプ教授の許可により、『実践哲学研究 第23号』(京都大学倫理学研究室内 実践哲学研究会)に掲載されたものを、クリスプ教授に再び許可を受けてWEB上で公開するものです。

この文書に関しては、個人使用の目的でダウンロードすることのみ許されます。再配布や再掲載等の行為は著作権の侵害にあたります。
Except for the download for the purpose of private use, NO PART of this document may be duplicated, republished, re-uploaded, redistributed and so forth in any form or by any means.


翻訳にあたって

以下の翻訳は、ロジャー・スティーヴン・クリスプ博士(Dr. Roger Stephen Crisp)の論文「平等とその含意」(Equality and its Implications)の全訳である。ク リスプ博士は、オックスフォード大学セント・アンズ・カレッジの哲学科のフ ェロー兼チューターである。クリスプ博士は、1999年9月に、『功利(公益) 主義の挑戦』プロジェクトの関連で、中央大学の音無通宏教授、東京都立大学 の深貝保則教授らの招きで来日された。われわれは、1999年9月13日に、 FINEこと『情報倫理の構築』プロジェクトの一環として、クリスプ博士を京都 大学にお招きして新館第四講義室にて本論文に基づいた講演をしていただいた。 その際にこの論文を翻訳させていただけないかとお願いしたところ、快く承諾 していただき、ここに翻訳を掲載する運びとなった。この翻訳が可能となった のは、クリスプ博士はもちろんのこと、音無教授、深貝教授、京都大学で講演 を主催していただいた加藤尚武教授、FINEのプロジェクトリーダーでもある 水谷雅彦助教授、江口聡リサーチアソシエイト(当時)、秘書の今西真理さん〈当時)の おかげである。ここで厚く謝意を表したい。

翻訳中で、脚注および強調部分は原文の通りであるが、本文中に (i), (ii)等で 指示してあって論文の最後にまとめてある注は訳者によるものである。また原 文では'individual(s)'という語が何度も出てくるが、文脈によって「個人」と「個 体」に訳しわけた。原則として、クリスプ博士が'individual(s)'という語で人間 を指示していると思われる場合には「個人」と訳し、人間でない存在者をも指 示していると思われる場合には「個体」と訳した。

なお、クリスプ博士から京都での講演以降に意見が変わった点とそ の理由 についての説明を頂いたので、「著者後記」と題して翻訳の最後に付けてある。 大変興味深い内容なので、本文と併せて読んでいただきたい。

翻訳作業中、奥田太郎氏と島内明文氏には第一稿に目を通してい ただき、 貴重な助言をいただいた。奥田氏はまた米国留学中の訳者に翻訳に関して様々 な便宜をはかってくださった。ここに深く感謝の意を表したい。もちろん翻訳 上の誤り等があるとすれば訳者本人に責任があることは言うまでもない。

鈴木 真

オハイオ州立大学コロンバス校博士課程在籍

京都大学倫理学研究室博士課程休学中。


平等とその含意

ロジャー・クリスプ

この論文には三つの目的がある。第一に、最ももっともらしい平等の 原理を見つけること、 第二に、何がこの原理の背後にあってそれをもっともらしくしているのかを検討すること、 そして最後に、この原理の含意を考察することである。

1. 平等主義とレベル下げ反対論

以下のシナリオを考察してみよう。

スポーツセンター。地方議会のリクリエーション委員としての立場で、 あなたは年間予算の一部を使うことを委託されていた。 この財源は天からの賜物のように中央政府から届いた。 この金を使う選択肢は二つにまで絞り込まれた。 あなたはそれを豊かな地域か貧しい地域のどちらかにスポーツセンターを造るのに使うことが できる。 二つの地域の住民に関しては、以下のことを除いてはあらゆることが等しいと想定してよい。 (1)貧しい方の住民はより少ない健康教育しか受けてこなかった。 (2)貧しい方の住民の構成員は彼ら自身の落ち度で貧しいわけではない。 (3)彼らの貧しさのせいで、貧しい方の住民の構成員の功利(つまり、厚生もしくは福 祉)(i) のレベルはより低い。あなたは大ざっぱだけれども信頼できる費用便益分析をなんとか遂行し て、 豊かな地域に建てることの全般的功利の方が貧しい地域に建てることの全般的功利より高い だろう ということが明白になっている。

もし功利が唯一の関心事なら、もちろんあなたはスポーツセンターを豊かな地域に建てるだろ う。 しかし多くの人々は、たとえこれが最終的には正しい決定だとしても、 貧しい地域に建設することにも論拠がある、と考えるだろう。

さらに、この論拠は平等と関係があるようにみえる。だからここで以下 の原理を考察してみよう。

平等主義: (1)平等(すなわち、人々が等しい厚生レベルにあること)は それ自体として 一つの善であり、 (2)われわれにはそれを促進する理由がある。 (3)不平等はそれ自体として一つの悪であり、 (4)われわれにはそれを防止する理由がある。

平等主義によれば、平等は功利に対抗する重しであり、[スポーツセンターを] 豊かな地域より貧しい地域に建設することの正当化根拠は、それによってより大きな平等が もたらされるであろうということである。

しかしながら平等主義は、多年にわたって反平等主義者に知られて いる理由のために、 もっともらしくないようにみえる。それはデレク・パーフィットが最近レベル下げ反対論 (the Levelling Down Objection)と呼んでいるものに無防備なのである1。 ここで、スポーツセンターの事例でのあなたの選択肢が実は三つだったと想像してみよう。 上で言及された二つの他に、家庭廃棄物を処理するために二つの住民の近くの土地に金を 投じること ができる。そのごみの山をどこかもっと人が住んでいない地域ではなくてこの場所に設置する ことに よってはいかなる利益も生みだされず、豊かな人々と貧しい人々の両方に害が引き起こされる だろう。 しかし豊かな人々に対する害は貧しい人々に対する害よりも大きくて、両方が結果として等しく 厚生レベルが低くなる。平等主義によれば、平等自体が望ましいので、そのごみの山を二つ の住民の 近くに設置する理由が少なくとも一つあることになる。しかしこれがなされるとしたら関 係者全員が 害を被ることになるだろう。するとこの例は、平等主義を拒否することを正当化するのに十分強 力 であるようにみえるかもしれない。

しかしながら、これは拙速にすぎるだろう。たいていの道徳と政治の 理論は、 一定の場合に直観に反する含意を持つ(もちろん、正しいこととはどんな場合でも直観的に正 しい とみえるものである、というような非常に非体系的な形態の直観主義を除いて)。われわれは、 何が起こっているのかをみるために、平等主義とレベル下げ反対論双方の背後に目を向けな ければ ならない。

ラリ・テムキンは、レベル下げ反対論の説得力は以下のスローガンに 依存している、と論じた。

スローガン: ある状況は、誰かにとって別の状況よりも何ら かの点で悪(あるいは善) いのでなければいかなる点でもそれより悪(あるいは善)くありえない 2

テムキンが指摘しているように、このスローガンの重大な問題は、それがデレク・パーフィット の非同一性問題を解明できないということである。 言い換えれば3、このスローガ ンは、 生まれてくる人々の同一性に対してわれわれの実践が及ぼす影響のために、たとえそうしなく ても いかなる特定の人も害を被ったと言われえないとしても、なぜわれわれは未来世代のために資 源を 保存すべきだと考えるのか、を説明できない。

スローガンのこうした欠点は、それを却下することを正当化するのに 十分である。 しかしながら、テムキンと違って、私は、このスローガンこそが、レベル下げ[反対論の]事例 における平等主義の含意に対してたいていの人々が抱く不満の根底にあるものだ、とは思わ ない4。 それはむしろ次の見解である

厚生主義: (1)善さは諸個人にとって善いものにだけみいださ れ、 (2)悪さは諸個人にとって悪いものにだけみいだされる。(3)われわれの唯一の理由 は、 そのような善さの増進に基づくか、(4)そのような悪さの縮減に基づく。

厚生主義の魅力は、わたしに言わせれば、実際に諸個人にとって重要なことに焦点を合わせ ている ことにある。多くの人々は、平等主義について反省すると、直接関係のある諸個人の誰にとっ ても 重要でない単なる人々の関係が、いったいどうして分配者にとっては重要なのか、まったく不 可解 だと思う。平等主義は、言ってみれば、諸個人が同じ背丈になることに価値を帰属させる見解 と同類 であるようにみえる。もし同じ背丈になることがそれ自体としては諸個人の厚生レベルの高さと 無関係なら、それは行為する理由を基礎づけることができない。そして、もしそれ自身としては 人々 の福祉そのものにいかなる含意も持たないならば、同じことが彼らを等しい厚生レベルにする こと にもあてはまるし、誰にとっても重要でない他のあらゆる「善」にもあてはまる5

厚生主義は、同一性にいかなる重みも置かないから、非同一性問題 を回避することができる。 われわれが資源を枯渇させることには未来の功利レベルに対して直接の含意があるというこ と、 すなわち、未来の功利レベルはそうしなかった場合よりも低くなるであろうということを指摘する こと ができる。平等主義とは違って厚生主義と矛盾しない、もっともらしい平等の見解はあるのか。 これが私が次節で論じる問題である。


1 Derek Parfit, "Equality or Priority?", The Lindley Lecture 21 November, 1991 (Kansas: University of Kansas Press, 1995), p. 17. パーフィットが論じた事例では、最も厚生レベルが低い者たちはそのままであ る [後の訳注参照] 。 しかし平等主義は、全員のレベルをより大きな平等が達成される程度にまで下げる ことも支持する。 [訳注: 参照された箇所では、厚生レベルが高い人々のみを不幸にして厚生レベルが 低い人々とレベルを等しくするという例(目がみえる人々を盲目にして既に目が見えない人々と同じにす る)が提出されている。]

2 Larry Temkin, Inequality (Oxford: Oxford University Press, 1993), p. 256.

3 Temkin, Inequality, pp. 256-6. Derek Parfit, Reasons and Persons (Oxford: Clarendon Press, 1984), pp. 357-9 (森村進 訳、『理由と人格 ──非人格性の倫理へ──』、勁草書房、1998年、pp. 487-90。) を参照。

4 Cf. Nils Holtug, "In Defence of the Slogan", in W. Rabinowicz (ed.), Preference and Value (Lund: Dept of Philosophy, 1996), p. 73.

5 たとえば、比例的正義(proportional justice)のようなもの。Temkin, Inequality, p. 260参 照。[訳注: この参照箇所によると、比例的正義とは、「よい暮らしをすることと善くふるまうことの間 には比例関係があるべきだ」という考えである。]


2. 優先権説と分配に関する徳

トマス・ネイゲルによれば、

ある体系を平等主義的にするのは、それが人生全体の見通しのうえで 底辺にいる人々の要求に対して数や全般的功利とは無関係に与える優先権である。 そのような見解の最も単純なバージョンでは、より切迫した要求を持つ各個人が、 それほど切迫していない要求を持つ各個人に対して優先権を持つ6

この立場は平等主義とはまったく異なっている。というのも、それは平等はそれ自体で一つの 善 であるということも、何であれそのような善がわれわれに行為する理由を与えるということも含意 しないように思われるからである。それは「誰かに対する善」という意味での善の分配に関わる (そしてもちろん、それは「誰かに対する悪」も扱うと理解してよい)。だから、デレク・パーフィット が同様な立場に帰した名前を使って、ここでこれを考察してみよう。

優先権説: 功利を分配する際には、最も厚生レベルが低い者に優先権を与え る理由がある7

優先権説は、たとえ全般的功利のうえで犠牲を払ってもスポーツセンターを貧しい地域に建て る ことに対して、もっともらしい正当化根拠を提供するようにみえる。しかし、それは本当に 厚生主義と矛盾しないのだろうか。それは以下の理由で矛盾するようにみえるかもしれない 8。 優先権説によれば、スポーツセンターの事例ではわれわれは最も厚生レベルが低い人々に 優先権を 与える理由を持つ。このことが示唆するのは、スポーツセンターが貧しい地域に建てられること の 帰結は、貧しい人々が優先権を与えられていた程度に応じて、それが豊かな地域に建てられ ることの 帰結より善い、ということである。さて、彼らの地域にスポーツセンターを建てるか建てないかと いうことには、両方の集団に対して功利的な含意があるのは明らかである。しかし優先権主義 者は、 自分の選んだ帰結をより善くしている理由の一部は、貧しい人々が優先権を与えられ たという 事実である、と主張しなければならない。この事実それ自体は貧しい人々の厚生レベ ルを向上させない。 彼らの厚生レベルを向上させるのは、彼らがスポーツセンターを使うことから得る快楽などであ る。 とすれば、優先権主義者は厚生主義を否定することにコミットしている。なぜなら彼らは、帰結 の善さ は功利に直接の含意をまったくもたないものに存しうるし、この善さは行為する理由を基礎づ けうる、 ということを受け入れているからである。

この反論は、優先権主義者は、貧しい人々がスポーツセンターを受 け取る帰結は豊かな人々が それを受け取る帰結よりよい、という主張にコミットしている、と想定している。さて、 優先権主義者は前者の帰結を選ばれるべきものとして支持しようとするのだから、もちろんある 意味 ではこれを受け入れなければならない。しかしある帰結が選ばれるべきだと言うことと、 それがより善いから選ばれるべきだと言うことは別である。そして優先権主義者は後者 を主張しない でおくことができる。

平等主義者は単独の分配だけをさっとみて、それが平等または不平 等である程度に応じて 善いか悪いかを決めることができる。優先権主義者にはこれができない。なぜなら、優先権説 は 帰結の善さまたは悪さについての見解ではまったくないからである。それはむしろ、最も厚生 レベル が低い者に優先権を与えるよう分配者に要求して、分配を規制する原理である9。 言い換えれば、 優先権主義者は、全般的功利の犠牲で最も厚生レベルが低い集団が優遇される帰結を生み 出す場合 には、次のように言うことができる。私はいくらかの善を生み出したけれども、実際のところ より善くない帰結を生み出したのだ、しかしそれでもそうする理由があったのだ。この 理由は、 いかなる存在に対しても善でないような「善」には依存していない。優先権説は一つの独立し た 合理性の原理とみなすことができる。言い換えれば、その優先権主義者によれば、先に述べ た 厚生主義には、厚生は理由とその強さに正確にはどのように関係づけられるのか、すなわち どのように厚生を増進すべきかなのかについて、一定の解釈の余地がある。 優先権主義者の 分配は、 最も厚生レベルの低い者に利益を与えることによって、厚生、すなわち最も厚生レベルが低い 者 の厚生を増進するであろう。

しかしながら、優先権説をもっともらしくするのは何なのか、という問 題は残る。 優先権主義者は、厚生主義と矛盾しないために、最も厚生レベルの低い者に優先権を与える こと には何かそれ自体で善いことがあると主張しないようにすべきである。というのも、これは平等 主義 の説明において仮定されていたものと同じく不可解な種類の善さを輸入することだからであ る。 優先権主義者が必要としているのは、その見解をもっともらしいコンテクストに据え、しかも 平等主義者には利用できない背景説明である。そのような説明には、分配に関する徳の概念 に 言及するものがあろう10。 分配者の徳の一つは博愛である。私が自分の子供を 同じコストで遊園地か 海辺に連れて行くことができる場合を考察してみよう。私はこの子には海辺に行く方がはるか に 楽しいであろうことを知っており、他のあらゆることは同等である。この場合には、博愛は私が この子を海辺に連れていくことを要求する。もし博愛が分配者の唯一の徳とみなされるならば、 結果として出てくる理論は実際上、あるバージョンの功利主義と同じになるであろう 11

しかし博愛は唯一の分配に関する徳ではなく、別に正義ないし公正 がある。博愛の本質は、 公平な観察者という考案物を使うことによってとらえることができる。この観察者は、 何らかの決定によって影響を受ける存在のそれぞれの立場に自分を置き、そして可能なかぎ り 大きな善を生み出すよう公平に決定する。しかし、もちろんこれは、各存在がある意味で別個 で あるという事実を無視している。おそらく、博愛を理解するもっとよい仕方は、それを別個の 諸個人から構成されたものとしての社会に対する配慮として理解するのではなく──というの は、 別個であることはそれによっては認識されないのだから──社会それ自体に対する配慮として 理解することである。行為する理由は正当化と密接に関係している。博愛の場合には、公平な 観察者が社会の全体に対して一度に自分を正当化しようとしているのを想像することができ る。 博愛はその観察者が一個の全体としての社会に対して最善を尽くすことを要求する。だから、 その意味でそれは社会的徳である。しかしながら、それは諸個人の福祉を増進しようとして いるのでそれでも厚生主義者の徳である、ということに注意してほしい。それは全般的福祉 そのものに対する配慮というより、全員に対する、彼らがどれだけよい暮らしをするかに関する 配慮である。

しかしながら、正義はもっと直裁に個人主義的である。もう一度ここで ネイゲルに 言及するのには意義がある。ネイゲルは、われわれは自分たちが帰結を評価する際には一種 の 「全員一致」を求めているのだと理解すべきだ、と提案している。

そのような規準の本質は、道徳的な評価において、各々の人の観点を別々に入 れて、 関係するないしは影響を受ける各々の人がある重要な意味で受け入れられる結果を達成する ように 試みることである。利益の衝突がある場合には、あらゆる人が完全に受け入れられる結果はあ りえ ない。しかし、各観点から各々の結果を評価して、最も受け入れ難い人にとって受け入れ難さ が 最も少ない結果を見つけようと試みることは可能である。これは、他のいかなる選択肢も、 この選択肢が任意の人にとって受け入れ難い以上に、誰かにとって受け入れ難いであろう、 ということを意味する。その選ばれる選択肢は、各々の人の観点から別々に考慮された場合 に、 その意味で受け入れ難さが最も少ないものである。頭数とは無関係に、最も厚生レベルが低 い者に 絶対的な優先権を与えるという根本的に平等主義的な方針が、この意味において受け入れ難 さが 最も少ない選択肢を常に選択することから帰結するだろう12

われわれはもう一度公平な観察者のモデルをつかうことができる。現実世界における有徳な 分配者は、この観察者の姿勢にできるだけ厳密に倣おうとするであろう。博愛という社会的徳 の 場合には、その観察者は一個の全体としての社会に対して自分を正当化しなければならな い。 しかしながら、正義は違う。なぜなら、この場合には観察者は、任意の分配が任意の存在に 対して悪いければ悪いほど、その分配をその個体に対して行うことを正当化するのは容易でな く なるだろうという理解に基づいて、各個体に対して順に自分を正当化しなければならない からである。正義の場合には、あらゆる個体に対して最も正当化することが難しくない分配 を求めるべきである。

この正義の概念は、われわれが実践している道徳の核心にしっかり と存在している。 私が自分の子供たちにチョコレートを分配していて、すでに長子と次子には二つずつあげて 三子には一つしかあげていなかった場合に、私が次のチョコレートを三子にあげなかったら、 三子はいくらかの正当化根拠をもって文句を言うことができるだろう。いくつかの常識的な原理 は、 反省してみるともっともらしくないようにみえるけれども、この原理は、私が思うには、 そうはみえない。この原理は、公正の概念における最も強力なものすべてを表現しており、 最も抽象的なレベルで適用されることができる。

博愛も正義も共に諸個人と彼らの福祉に対する配慮の徳であり、そ れゆえ、 私が示唆してきたように、厚生主義と矛盾しない。博愛の場合には、分配者は人々に対して 一律に等しく福祉に配慮するのに対し、正義の場合には、最も厚生レベルが低い者に対して 特に 配慮する。この擁護論が平等主義には利用できないのは、平等主義には、それに対して配慮 する のだと主張できる個人や個人の集合がまったく存在しないからである。個人間の単なる関係に 対する配慮にはいかなる徳も存在せず、そういうわけで、多くの人々がレベル下げ[反対論の] 事例 における平等主義の含意は[平等主義に対して]非常に否定的で破壊的だと思うのである。

そうだとすれば、少なくとも二つの分配に関する徳が存在し、どちら も他方を犠牲にして 強調されえない。正義を欠いた博愛が別個の諸個人の要求に対して盲目であるのと同様、 博愛を欠いた正義は社会的な善の重要性を無視する。再度スポーツセンターの事例を考察し てみよう。 今度の事例では、貧しい人々に対する恩恵は極めて少なく、豊かな人々に対する恩恵は莫大 であろう。 貧しい人々に対する恩恵がいかに小さく、豊かな人々に対する恩恵がいかに大きかろうと、 最も厚生レベルが低い人々に常に優先権が与えられるべきだ、と提唱するのはもっともらしく ない。 有徳な分配者は両方の徳をもっていて、特定の状況に鑑みて決定を下し、あるときには一方 の徳から 行為し、あるときには他方の徳から行為するであろう13


6 Thomas Nagel, "Equality", repr. in his Mortal Questions (Cambridge: Cambridge University Press, 1979), p. 118 [原文ではp. 115が参照されていたが、これは誤りなので訂正した。(訳者)] (この部分の 翻訳では、永井均 訳、『コウモリであるとはどのようなことか』、勁草書房、1989年、p. 192を参照し た。); Nagel, Equality and Partiality (New York: Oxford University Press, 1991), p.66も参照; Dennis McKerlie, "Egalitarianism", Dialogue 23 (1984), pp. 232-3; Joseph Raz, The Morality of Freedom(Oxford: Clarendon Press, 1986), p. 240. この立場は明らかにジョン・ロールズの「格差原理 (difference principle)」と近い。(Rawls, A Theory of Justice (Harvard: Harvard University Press, [1st ed.,] 1971), pp. 76-8 [revised ed., 1999, pp. 65-8] (矢島鈞次 監訳、『正義論』、紀伊國屋書店、1979、pp. 58-9). [訳 注: 格差原理とは、ロールズの正義の二原理のうちの第二原理の一部で、「社会的・経済的な不平等 は、・・・最も恵まれていない人々に最大の利益をもたらすように調整されるべきである・・・」という 原理。 (A Theory of Justice, 1st ed., p. 83 & p. 302; revised ed., p. 72 & p. 266. 邦訳p. 64、p. 232)] ; Parfit, "Equality or Priority?", pp. 35-9参照。

7 Parfit, "Equality or Priority?", p. 19参照。この言明が次のJohn Broome, Weighting Goods, p. 199のそれとは異なることに注意してほしい。「優先権説は、[ 恩 恵を受ける]人の厚生レベルが低ければ低いほど、[その恩恵の]一般的善への貢献は大きい。 厚生レベルがより低い人々に対する恩恵は、厚生レベルがより高い人々に対する恩恵より大き くカウントされる。」私のバージョンの優先権説は、ブルームのと違って、次に引用する彼の個 人的善の原理と矛盾しないように理解されうる。(P. 165) 「(a)二つの選択肢は、各人にとって 等しく善いならば、等しく善い。そして(b)ある選択肢があらゆる人とって別の選択肢と少なくとも 同じだけ善く、ある人にとっては明らかにより善いならば、それはより善い。」しかしながら、私自 身としては、この言明で使用されている善さに関する言葉それ自体を使わないことを選択した い。

8 同じような反論については、Ingmar Persson, "Telic Egalitarianism vs. The Priority View", in W. Rabinowicz (ed.), Preference and Value (Lund: Dept of Philosophy, 1996), pp. 156-8を参照。

9 分配の説明は、遠い過去における分配のような、われわれが影響を及ぼすことができない 分配に関する直観も説明すべきだといわれるかもしれない。分配ベースの原理にはこれが間接的にできる。 私がある人が過去にひどく悪い暮らしをしていたことを残念だと感じるなら、これはいかなる分配者もそ の分配に影響を及ぼすことができなかったのを残念に思うことだ、と理解されうる。

10 私が記述しようとしている立場は、デニス・マッカーリー(Dennis McKerlie)によ って "Equality", Ethics 106 (1996)で記述されている「義務論的」見解とは異なる。276ページ で、マッカーリーはこの見解を、人々を不平等に扱わないという行為者相対的な義務[後の訳 注参照]があるという主張として記述しており、これは分配に関する徳への言及であるかのよう に思えるかもしれない。しかし後で(特に285ページの注22を参照)、これは不平等をもたらし たり引き起こしたりしないという義務であることが明らかになる。私のバージョンの優先権説では、 人々を不平等に(不公正に、不正に)扱うことには、何らかの不平等──それが人間の行為に よってひき起こされたのであろうと、他の仕方で引き起こされたのであろうと──を矯正しないこ とも含まれうる。 [訳注: 行為者相対的な義務(agent-relative duty)とは、記述するのに行為者 への言及が必要な義務で、記述に行為者への言及が必要ない行為者中立的な義務 (agent-neutral duty)と区別される。ここでは、自分[行為者]自身で人々を不平等に扱ってはな らない、という義務であって、(直接引き起こすのが誰であろうと)人々が不平等に扱われる事態 をもたらしてはならない、という行為者中立的な義務ではないということが意味されている。]

11 Cf. Philippa Foot, "Utilitarianism and the Virtues", repr. in S. Scheffler (ed.), Consequentialism and its Critics (Oxford: Oxford University Press, 1988), p. 235.

12 Nagel, "Equality", p. 123. (この部分の翻訳でも、前掲 永井訳 p. 192を参照した。)マッカー リー (McKerlie, "Egalitarianism and the Separateness of Persons", pp. 219-21) は、平等主義的な帰結は厚生レ ベルが最も低い人しか受け入れないものだということもありそうなので、全員一致は本当はネイゲルの関 心事ではないということをただしく指摘している。ここで核心となっている概念は、関係する各個人にと っての、処置の一つの正当化根拠の利用可能性であり、厚生レベルがより高い人々にとって、彼らの犠牲 で厚生レベルがより低い人々に利益を与えることには利用可能な平等主義的正当化根拠があるけれども、 その逆にはない。McKerlie, "Egalitarianism", pp. 224-7も参照。

13 この見解は、一体どうして厚生レベルがより高い者の利得が他の者を不正に扱うことを正 当化できるのか理解するのが困難だという反論(McKerlie, "Equality", p. 277参照)への答えを提示する。何 であれ一つの分配に関する徳が常に別の徳にまさらなければならないと考える理由はまったくない。


3. 四つの仮定

優先権説の実践的な含意を考察する前に、四つの仮定をさせてほ しい。これらは、 (a)内容(「何の平等か?」)、(b)射程、(c)頭数の無関係性、(d)責任に関わる。

(a) 内容。私は、厚生主義と厚生主義者の合理性の両方に矛盾しないように、 分配者の博愛も正義も共に究極的には功利に関わる、と仮定する。分配者は、究極的には、 たとえば資源(ii)に関与すべきではない。どのような分配のスキームの内でも諸個 人にとって究極的に 問題なのは、自分たちがどれだけよくやっているかであり、どれだけ多くの資源を受け取るか ではない14

(b) 射程。同様の理由で、優先権説に則って行為する正しい分配者は、諸個人の 包括的功利 に関与するはずで、いかなる特定の時点──たとえば、その分配の時点──の功利にも関与 する はずはない。各個人にとって問題なのは、任意の配分の結果として自分の生がどれだけうまく いくかであって、自分たちの生の質に対するいかなる即時の影響でもない15

(c) 頭数の無関係性。ネイゲルが先に第三節の始めで引用した部分で指摘して いる ように、優先権説は頭数とは無関係である。すなわち、あらゆる分配において最も厚生レベル の 低い集団に属する人々の数は、それ自体としては優先権説の適用とは無関係なのである。 言い換えれば、優先権説は、最も厚生レベルの低い個人(または、幾人かが等しく厚生レベル が低く、 かつ他の誰よりも厚生レベルが低いならば、複数の個人)の利益に優先権を与えることを支持 するの である。だから、ロールズの最も厚生レベルの低い集団に対するフォーカスを採用する理由は まったくない(iii)

この規定は、優先権説を直観に大きく反するものにしてしまうように 思われるかもしれない16。 別のスポーツセンターの事例を考察してみよう。再び第三の選択肢、「金は、貧しい住民と 豊かな住民のいずれに属する人々よりもはるかに厚生レベルが低い一個人の功利をごく少量 だけ 改善することに使える」、があると想像してみよう。頭数が無関係なバージョンの優先権説で は、 正義は、貧しい地域にスポーツセンターを建てることよりも、むしろこの個人に利益を与える ことを要求する。これは、多少資源の浪費であるだけでなく反平等主義的でもあるように思わ れる。 というのは、防止するか少なくとも軽減することができたであろう豊かな人々と貧しい人々の大 きな 不平等が、依然として存在するだろうからである。

しかしながら、この反論は二つの点を考慮に入れそこねている。第一 に、 博愛というもう一つの分配に関する徳があって、それはより大きな効率に対して支持を表明す る だろう17。 第二に、不平等それ自体は悪いことではない。正しいないし公正な分 配者は、 分配によって影響を受ける者すべての立場に自分を置き、最も受け入れ難くないものを選択 するだろう。この事例では、正義がその最も厚生レベルの低い個人に利益を与えることを要求 するであろうことは明らかである。なぜなら、そうしないことの唯一の正当化は博愛に基礎を おくものでしかありえないだろうからである。より厚生レベルが低い者を犠牲にして、 より厚生レベルが高い者に利益を与えることは、公正という根拠に基づいては決してできない。 こ のことをもっと明確にするために、分配者がその最も厚生レベルが低い人を犠牲にして それほど厚生レベルが低くない人たちに利益を与えた場合において、分配者がその最も厚生 レベルの低い人と交わす対話を想像してみよう。分配者の唯一の正当化は、それほど厚生 レベルが低くない人々のうちに利益を受けられるであろう人がより多くいるということで あろう。 そしてこれは、福祉を産み出す際の資源の効率に端的に言及している。

もちろん、以上のことすべては、優先権説は、選べるかぎりで最も公 正だとはいえない選択肢を、 なおいっそう不公正な選択肢に優先して選択するのを支持するのに使用されうる、という考え と まったく矛盾しない。言い換えれば、たいていの分配の場面では、選択肢に幅があって、 最も公正なものと最も功利を効率的に生み出すものとの間の均衡がはじき出されるであろう。

(d) 責任。ここでの議論のために、賞罰(desert)に関する問題はすべてわきにお く。 そのような考慮によって、優先権説のあらゆる適用を調整するべきなのかもしれない (たとえば、直前に論じた事例における最も厚生レベルの低い個人が、ヒトラーと道徳的に等し い 存在であった場合を想像してみよ)。しかし、この問題はここでは論じない。


14 ロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)は、"Equality of Welfare", Philosophy and Public Affairs 10 (1981), pp. 185-246で、厚生の平等に反対する一連の議論を提示している。しかしながら、 彼の議論のほとんどは欲求充足バージョンの厚生の平等に対して向けられている。ドゥオーキンは快楽説 バージョンの厚生の平等に対しては二つの反論を持っている。(P. 223)一方は、その見解の露骨な否定であ るようにみえる。他方は、快楽説に基礎を置く理論は、多くの人々が快楽説の見解を退けている社会では 魅力がないということである。しかしながらこの後者の反論はあらゆる理論にあてはまるし、いずれにし ても快楽説は厚生に関する他のあらゆる見解と同じくらい広く受け入れられていそうにみえる。ドゥオー キンは、一箇所で「客観的リスト」説の厚生の平等も現に考慮しているけれども、それを残念(regret)とい う言葉で表現している。人々は自分の生が過ぎ去さった仕方に関連して残念に思う理由をもつような事柄 に対して補償されるべきである(p. 225)。ドゥオーキンが指摘しているように、人が残念に思う理由をもつ 事柄を決定するには、先行する分配の理論が必要である。代替となる客観的リストバージョンの厚生の平 等は、人々は自分の生が他の人々よりよくなかった程度に応じて補償されるべきである、と主張するかも しれない(優先権説と調和するように解釈されうる見解である)。要するに、快楽説、客観的リスト、ある いはドゥオーキンに批判されていない種類の欲求充足理論に基礎を置くバージョンの厚生の平等は、彼の 批判を回避することに成功しうる。[訳注: 上記の厚生(ないし功利、福祉)に関する三理論(快楽説、欲求 充足説、客観的リスト説)の内容については、本論文の第四節を参照。]

15 Cf. Nagel, Equality and Partiality, p. 69: 「平等主義的原理の主題は、ある時点におけ る諸個人に対する特定の報償の分配ではなく、彼らの誕生から死までの全体としての生の予期される質で ある。」「全生涯」平等主義に反対する議論については、Dennis McKerlie, "Equality and Time", Ethics 99 (1989), pp. 475-91; "Equality Between Age-Groups", Philosophy and Public Affairs 21 (1992), pp. 275-95. 私にはここでマッカーリーの巧妙な議論に答えるスペースがない。しかし言わせても らえば、私は、生の内部における善さの一定の配置を他の配置より選好することは、資源の平等説がフェ ティシズム的だと思うのと同じような仕方で、フェティシズム的だと思う。重要なことは、諸個人にとっ て重要なことであり、彼らにとって重要なことは、自分の生がどれだけうまくいくかであって、自分が持 つ資源や自分の生の内部における分配曲線が自分の功利への影響とは無関係に重要になることはない。

16 たとえば、Dennis McKerlie, "Equality and Priority", Utilitas 6 (1994), pp. 28-9を参照。

17 Cf. Nagel, "Equality", p. 125.


4. 人間でない動物

二つの住民がいる世界を考えてみよう。各々は他方が生きているの とは 非常に違った種類の生を生きている。一方の住民の構成員は長い生を送る傾向があり、 その生において多くの複雑な活動や楽しい関係に携わっている。他方の住民の構成員は短 い生を 送る傾向があり、その生ははるかにもっと単純である。

優先権説は、問題とされるあらゆる分配のシナリオにおいて、 第一の住民の構成員の功利レベルが第二の住民のそれより高いというもっともらしい想定に基 づいて、 分配を第二の住民に有利になるようにすることを勧める。そして、読者がおそらく推測していた ように、私が論じている世界はわれわれの世界であり、二つの住民はそれぞれ人間と人間でな い存在 によって構成されている。再度スポーツセンターの例に戻って、第三の選択肢が地元の動物 保護区を 刷新することに金を使うことであると想像してみよう。この場合には、優先権説はどちらの地域 に 図書館を建てることよりもその第三の選択肢を支持する。それは、(a) 動物に対する恩恵の規 模、 (b) 恩恵を受ける動物の数、(c) どちらかの住民が図書館から得るであろう恩恵の規模、 (d) 貧しい人口と豊かな人口の規模とは無関係である。

優先権説の第一の際だった含意は、それが人間でない存在に有利 になるような善の分配に 支持を表明するということである。以下のような反論が即座に出るであろう。優先権説は最も 厚生レベルの低い者に優先権を与えるよう要求するが、人間でない存在は適切な意味におい て われわれより「厚生レベルが低い」とは想定できない。なんといっても、われわれには愛されて いる ペットのような一定の動物を完全に幸福だと言い、多くの人間を不幸だと言う日常的な傾向が あるのだ。

しかしながら、功利ないし福祉に関する三つの主要な理論を考察す ると、 この反論が間違っていることが示唆される18。 快楽説によれば、功利は喜ばし い精神状態に存する。 単に人間が異なった種類の喜びを手にいれられるためだけでなく、人間の生の長さのためも あって、 多くの人間の生があらゆる人間でない生より多くの快楽を含むのは明らかである。快楽説論者 J. S. ミルの有名な言葉のとおり、「満足した豚であるより満足していない人間である方がよい。」 19 同じことが、いわゆる功利の「欲求[充足]説」(iv>に基づく人間と人間でない存在 の比較にもあて はまる。人間の欲求は、人間でない存在のそれよりもはるかに数が多くより複雑である。最後 に、 功利の「客観的リスト」説を考察してみよう。それによると、ある生の価値は、 それに知識や友情のような一定の善の具体例が現れることに存する。またしても、たいていの 人間は、 たいていの人間でない存在よりはるかによい暮らしをしている。

人間ではない存在は人間より厚生レベルが低いという考えは、 われわれの死に対する態度を考えることによっても支持される。もし私のハムスターが死んだ ら、 私は悲しむだろう。 しかしそれは、人間が生の盛りに死ぬことが悲劇的であるような仕方では悲劇的ではない。 両者ともが、何か──ある意味で同じ──失うもの、つまり生の価値を有する。しかし人間は、 人間でない存在より失うものがはるかに大きい。

だから、われわれが幸福な動物について語るときには、 問題となっている動物は満足しているということか、そのタイプの動物が一般的に暮らしている 仕方と比較して厚生レベルが高いということを意味しているのだ、と理解しなければならない。

過去数世紀にわたって、哲学者たちはしばしば動物の道徳的重要 性を指摘してきた 。人間でない存在に対する容認できない差別のために一つの用語がつくり出された。 それが「種差別主義(speciesm)」である。たいていの平等主義者が動物がもつ莫大な道徳的 重みを理解することを妨げてきたのは、部分的には種差別主義ではないかと思う。 しかしそれは種差別主義にとどまるものではない。多くの現在の倫理はそれ自体差別 的なのである。 人権の理論を考察してみよう。それによると、人間性、合理性、行為主体性のような一定の特 徴を 所有することが、その所有者に特別な道徳的保護を受ける権原を付与する。そのような 「ステータス道徳」は、優先権説に基づいて反省することによって理解できるように、 二重に不正である。第一に、それは、最も厚生レベルが低い者(問題の諸特徴を欠いている 者)に 彼らが受けるに値する優先権を与えていない。第二に、それは、これらの特徴── それらはしばしばそれ自体として所有者にとって価値がある──の所有を、所有者に対する 特別な 道徳的保護を正当化するために用いている。

私が示唆したように、博愛は正義に対抗する重しとなる徳である。 人間がしばしば人間でない存在より効率的に資源を使用し、人間でない存在に資源を与える こと には無駄が多いであろうことは明らかである。しかし、どこで線引きをして、正義が勝利をおさ める ことを許すべきだろうか。ここでの答えは明らかではなく、個々の事例の諸事実に依存する。 しかし多くの場合において、有徳な分配者は、きっと少なくとも多くの高等動物の立場には想 像の うえで自分を置くことができ、公正という根拠に基づいて、人間が人間でない存在を搾取する のに 用いている慣行の多くを禁止するのではないだろうかと思う。


18 たとえば、Parfit, Reasons and Persons, app.Iを参照(前掲 森村訳  「補論I」)。

19 J. S. Mill, Utilitarianism, ed. R. Crisp (Oxford: Oxford University Press), ch. 2, para. 6 (伊 原吉之助 訳、「功利主義論」、『世界の名著49 ベンサム/ J. S. ミル』、関嘉彦 責任編集、中央公論社、 1979、p. 470).


5. 中絶

優先権説は、分配者に対して、最も厚生レベルが低い個体の立場 をその存在の 全体的功利の点で可能なかぎり善くするよう要求する。最も厚生レベルが低い者が、 その前にはよりよい立場にいた個体または複数の個体よりも厚生レベルが高くなる場合でさえ も、 このことは要求されるであろう。次の事例を考察してみよう。私の子供の各々が腹をすかせて いる。 Aは非常に腹をすかせているのに対し、BとCはまあまあ腹をすかしている。私は一つだけ チョコレートを持っている。優先権説は、たとえAがBもしくはCより結果として腹がすいていな い 状態になるとしても、私がチョコレートをAに与えることを要求する。

さて、中絶を考察してみよう。分配の構造はチョコレートの事例のそ れと似ているかもしれない。 妊娠しているものの、子供は産みたくないと望んでいる女性を想像してみよう。もし彼女が中絶 を 受けるなら、彼女は胎児よりよく暮らしていくであろう。様々なもっともらしい仮定に基づけば、 胎児は価値を何ら含まない生しかもたない。もし彼女が中絶を受けないなら、彼女は── 私に想定させてほしい──中絶を受けた場合よりも子供の誕生によって不幸になるであろう。 しかし、胎児は子供に成長して、おそらく母親よりよい生さえ送るであろう。つまり、 公正は中絶に反対を表明する。

前と同じように、見えすいた反論がある。すなわち、 胎児は大人の人間が有するような道徳的地位を欠いているという反論である。 しかし、私は既に前節の終わりでそのような主張がいかに不公正かを概説した。 それはステータス道徳の古典的な例を表現している。胎児は一定の特徴を欠いているので、 それを現にもっている人々が有する道徳的地位を与えられないのである。功利を享受する素 質ないし 潜在性をもつどのような存在も、道徳的ステータスを有する。

6. 未来の人々と存在可能な人々

ここまで私は、優先権説の含意を存在している者についてのみ 考察してきている。道徳はそのような者にのみ関わるのだろうか。そういうことは非常 にありそうもないようにみえる。ほとんどあらゆる人が、われわれは未来世代に関連する何らか の 義務を負っている、と考えている。確かにそれは、分配における博愛の最も直截な形態である 総計型功利主義(v)にあてはまる。この見解によれば、功利が空間のどこに見い だされても問題では ないのと同様、それが時間のどこに生じようと問題ではない。この原理は、単に世界の歴史を 可能なかぎりよくすることだけを要求する。

優先権説も未来世代に適用されうるのだろうか。ここで博愛と公正に は 一つの現前する相違がある。前者は、私が記述してきたように、社会的徳、すなわち分配者に 対して影響を受ける者の観点から帰結を検討することを要求しない徳である。しかしながら公 正は 個人主義的であり、分配者に対して、影響を受ける個人の観点から帰結を考慮し、最も公正な ものを 選択することをまさに要求する。いかにして分配者は存在していない者の観点から物事をみる ことが できるのか。

未来世代は存在しない。しかし、彼らについてまだ存在していないと 言うこともまた真である。再度スポーツセンターの事例に戻って、貧しい地域か豊かな地域の どちらかにスポーツセンターを建てるのに約一世紀後に資金を供給するであろう信託団体を 設立するよう頼まれているというバージョンを考察してみよう。この事例にもともとの事例と 異なった対応をする理由はほとんどないようにみえる。優先権説は、未来世代に対する分配に 際して、 最も厚生レベルの低い人々に優先権を与えること、すなわち、最も厚生レベルの低い個人の 立場を できるだけ善くすることを要求するのであり、ここでは同一性は問題ではない。

まだ考慮していない未来世代に関する一つの悪名高い問題があ る。 すなわち、子供をつくるべきかという問題である。総計型功利主義はもちろん一定の場合に 子供を作ることを要求する。これは実は総計型功利主義の最も深刻な問題の一つ、いわゆる 「いとわしい結論」のもとであり、それに総計型功利主義はコミットしているようにみえる。

いとわしい結論: 全員が非常に高い生の質をもっている、 少なくとも百億人のあらゆる可能な住民について、次のようなそれよりはるかに多数の住民が 必ず想像できる。その住民が存在するとしたら、他のことが等しいならば、その構成員がかろう じて 生きるに値する生しか送っていないしてさえ[先の百億人の存在よりも]よいであろう 20

優先権説は、総計型功利主義とはまったく反対の方向に寄るように みえるかもしれない。というのは、厚生レベルが最も低い人々を可能なかぎりよい状態に すべきならば、それは確かに百億の住民を選択するよう要求するだろうからである。というの も、 他方の住民では最も厚生レベルの低い人々の立場がはるかに善くないからである。しかしこれ は、 存在しないであろう諸個人に対して不公正であることはありえない、ということを含意するだろ う。 この含意はもっともらしくない。次のことを考察してみよう。

不死であること。十人の非常に知的な人間を含む世界がある。彼らは、 健康と医療に関する知識のために、少なくても百年間非常に高い質の生を送るであろう。 さらに彼らは老化関連遺伝子を発見して、自分たちを不死にする可能性に直面する。 彼らの世界の資源は何十億年もの間豊富なままであろうけれども、一時に十人の住民しか養う こと ができない。それで彼らは自分たちを不死にして決して子供を作らない。

この人間たちはどこか非常に不正なことをした。とい うのは、彼らは非常に高い質の生を送りえたであろう他の多くの人間が未来に 存在するのを妨げたのであり、これは不公正だからである。誰に対してそれは 不公正なのか。[もしこの十人が違った選択をしたとしたら]生をえたであろう 人々に対してである。道徳は公平である。存在している人々に対して、ただ存 在しているという理由だけで有利な扱いをしたり、存在していない人々に対し て、ただ存在しないという理由だけで不利な扱いをしたりはしないのである。 確かに、不死であることの事例における住民については想像の妙技が要求され る。いま存在していないし一定の決定がされなければ将来も存在しないであろ う人々の立場に自分を置き、自分たちを不死にする老化関連遺伝子を用いるこ とが受け入れられるかどうかをみなければならない。しかしこれは、分配者が 今から一世紀後に図書館を建てることによって影響を受けるであろう人々の立 場に自分を置かなければならないということより、ほんの少し問題であるだけ のようにみえる。行為する理由とは正当化根拠であり、正当化の法廷には現在 の世代だけではなく未来世代と存在可能な人々も出席するのである 21

Roger Crisp

St Anne's College, Oxford

Copyright Roger Stephen Crisp


20 Parfit, Reasons and Persons, p. 338. (この部分の翻訳では、前掲の森村訳のp. 528を参 照した。)

21 この論文の初期の草稿に関するコメントに対して、シナイ山/オックスフォード 専門家討議1995、グリーン・カレッジ医療倫理セミナー、ジョン・ラドクリフ病院倫理討議グルー プ、リード・ユニヴァーシティ哲学会、キングス・カレッジ・ロンドン哲学会、生命倫理リサーチグ ループ・コペンハーゲンリサーチセミナー、ミッドレセックス・ユニヴァーシティ哲学会、ロンドン・ スクール・オヴ・エコノミクス哲学会、エセックス・ユニヴァーシティ哲学スタッフセミナーでの聴 衆に感謝している。私は以下の個人の非常に有益なコメントに対して謝意を表したい。クリメン ス・カペル、マーク・ネルソン、イングマー・パーソン、アルバート・ウィール。


著者後記

[以下の文章は、2000年10月21日にクリスプ博士から頂いたコメントを翻訳したものであ る。本翻訳のもととなっている1999年9月の京都での講演以降に意見が変わられた点とその理 由について要約されている。(訳者)]

日本やその他の地域の哲学者、そして特にラリ・テムキ ンと彼がオックスフォードで過ごしていた一年の間にかわした議論の後に、平 等に関する私の見解は数点で変化した。第一に、私は標準的に理解されたもの としての優先権説をもはや受け入れていない。これは主として、諸個体が既に 非常によい暮らしをしている場合には、厚生レベルがより高い者に対する優先 権を厚生レベルがより低い者に与える理由はもはや存在しないように私には思 われる、という理由のためである。第二に、私は今では、優先権説のかわりに、 優先権が福祉のある閾値を下回っている者に与えられるべきである、という見 解を受け入れている。この閾値は、ある個体が「十分なもの」──すなわち、 われわれがその存在に対して同情(compassion)を感じないのに十分な福祉──を もっているという点である。第三に、私は、この同情に基礎を置く正義の概念 を、アダム・スミスに見い出される公平な観察者という伝統的な観念によって 展開する。この見解の一つの含意は、配慮は優先権というよりむしろ同情のた めに向けられるということである。だから、非常にひどい暮らしをしている人 間は、ある人間でない存在者が(そのような存在者の基準で)非常によい暮ら しをしているなら、たとえある絶対的な観点からはその人間の生の方がより価 値があるとしても、その存在者に対して優先権を与えられるかもしれない。そ の理由は、われわれのその人間に対する同情である。


訳注


(i) 功利utility(もしくは厚生welfare、福祉well-being)とは、何かの誰かにとっての内在的 な善さである。広義には、負の功利、すなわち何かの誰かにとっての内在的な悪さや、狭義の (正の)功利と負の功利の差引も意味する。(具体的には何に功利が存すると考えられているの かについては、この論文の第四節を参照。)この箇所では構成員の送っている生が含む功利 (正と負の功利の差引)が問題となっている。

(ii) 資源resourcesとは、功利の増進に貢献するかもしれないけれども、それ自体としては功利 を含まないもの(たとえば、さまざまな財)を意味する。

(iii) このコメントは、ロールズが、自分の正義の二原理、ことに格差原理を含む第二原理は、 社会的地位を共有する集団の間の分配に関わるのであって、特定の個人の間の分配には関 わらない、と述べていることに向けられている。(John Rawls, A Theory of Justice, 1st ed., p. 64; revised ed., p. 56; 前掲 矢島監訳 p. 50。)

(iv) 功利の欲求充足説とは、功利は欲求の充足に存するという理論。

(v) 総計型功利主義total utilitarianismとは、関係者全員の功利の総体を最大化すべきだと する道徳理論。別の功利主義の形態である平均型功利主義(average utilitarianism 関係者全 員の功利の平均を最大化すべきだとする)と区別される。