以下の文書のWEB上での公開に関する注意

以下の文書は、マイケル・トゥーリー教授 (Prof. Michael Tooley)の論文「ヒトのクローニングの道徳上の地位」(The Moral Status of the Cloning of Humans)の全訳です。この翻訳は、トゥーリー教授とHumana Press社の許可により『実践哲学研究 第22号』(京都大学倫理学研究室内 実践哲学研究会)に掲載されたものを、トゥーリー教授とHumana Press社に再び許可を受けてWEB上で公開するものです。

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翻訳にあたって

以下の翻訳は、マイケル・トゥーリー教授 (Prof. Michael Tooley)の論文「ヒトのクローニングの道徳上の地位」(The Moral Status of the Cloning of Humans)の全訳である。トゥーリー教授は、コロラド大学ボールダー校の哲学科の教授である。1999年6月5日に京都大学京大会館において本論文に基づいた講演がなされたが、本論文は元々Humana Press社刊行の"Human Cloning" (edited by James M. Humber and Robert Almeder, 1998)に収録されたものであり、講演後にトゥーリー教授とHumana Press社の許可を得て、この翻訳がここに掲載されることになった。なお、この翻訳では上記の講演会当日に配布されたものを原本としている。

翻訳中で、脚注および強調部分は原文の通りであるが、翻訳の最後にある訳注(本文中では漢数字で指示してあるもの)は訳者によるものである。また、生物学用語の訳語の選択に関しては、基本的に、文部省が出している学術用語集動物学編(増訂版)にしたがった。

翻訳作業中、訳者からの基本的な質問に対しても、トゥーリー教授は親切に答えてくださった。また、児玉聡氏に第一次稿に目を通して頂いたほか、鈴木真氏には翻訳に際してさまざまなご援助を頂いた。ここに深く感謝の意を表わしたい。しかし、翻訳上の誤り等があるとすれば、当然それは訳者本人に責任があることは言うまでもない。

追記: Tooley教授から、本論文に関して記述を変更したいという連絡を受けたので、訳注の後ろに収録した。 こちらも参照していただきたい

神崎 宣次


要約

ヒトhumans(一) のクローニングの道徳上の地位

この講演では二つの問いを取り扱う。ひとつは、人間human beingsのクローンを作ることが道徳的に許容できるかどうかという問いである。もうひとつは、それが許容できるとすれば、人間のクローニングによって生じる重大な利益というものがあるかという問いである。

講演の最初に私は、ヒトの有機体のクローンが作られる場合の、大きく異なる二つの事例を区別する。すなわち、生きた臓器バンクとして提供される、精神を持たないヒトの有機体を産み出すことを目標とした第一の事例があり、それに対して、第二の事例は人格を産み出すことを目標とするものである。

第一の事例によって生じる道徳上の問題は、人口妊娠中絶によるそれと同じである。この理由から、第一の事例のクローニングについて詳しく論じることはしない。ただし、それが道徳上問題を含まないと考えられる理由を手短には示しておく。

その後、ヒトの人格を生み出すことを目標とするクローニングの道徳上の地位の問題に焦点を合わせる。そこではまず次の二つの問いを区別することを最初にする。すなわち、そのようなクローニングは原則として道徳的に許容できるかどうかという問いと、現時点においてそれを行うことが道徳的に擁護できるかどうかという問い、の区別である。第二の問いはごく簡単にしか扱わないが、現時点においてクローニングによって人格を産み出すという試みが重大な道徳上の問題点を持つことを論じるつもりである。それから、第一の問いに移って、まず、人格を産み出すことを目標とするクローニングが本質的には不正でないことを論じる。次に、そのようなクローニングにはいくつかの潜在的な利益があるだろうということを論じ、三番目には、この種のクローニングに対してなされてきた反論はどれも支持することができないことを論じる。そこで、私の全体としての結論は次のようになる。クローニングの上記の二つの事例のどちらもが原則として道徳的に許容することができるものであり、社会にとって潜在的に有益である。

Professor Michael Tooley
Department of Philosophy
University of Colorado at Boulder

ヒトのクローニングの道徳上の地位

マイケル・トゥーリー

はじめに

人間のクローニングは道徳的に許容できるだろうか? もし許容できるとすれば、人間のクローニングによって生じる重大な利益はあるのだろうか? この小論では、人間のクローンが作られる場合の根本的に異なった二つの事例の区別をすることから始める。この二つの事例の区別とは、一方は生きた臓器バンクとして提供されるものとして精神を持たないヒトの有機体を産み出すことを目標とするものであり、他方は人格を産み出すことを目標とするもの、という区別である。次に、それぞれの事例の道徳上の地位を論じることにする。

第一の事例に関する私の議論は大変簡潔に済まされる。というのも、そのような事例において生じる道徳上の問題が、人工妊娠中絶との関連において生じるものと全く同じであるからである。それに対して、第二の事例は、かなり異なった問題を生み出すものであり、私の議論の主要な焦点となる。私は第二の事例が原則として道徳的に反対しえないものであることを論じ、加えて、その種のクローニングが有益であるようないくつかの在り方があるということを論じる。

1. クローニング; 人格、人間、臓器、組織

クローニングは、その意味を広義にとれば、実にさまざまな事柄に適用することができる。たとえば、ある人物が苦しんでいる病気を治療するための移植手術で利用するために、本人の骨髄のクローンが作られるかもしれない。あるいは、何らかの臓器のクローンが作られるかもしれない。もっとも、心臓のような構造的に複雑な臓器の場合にそれが可能かどうかは、とても明らかとはいえないが。いずれにせよ、クローニングをこのように用いることは道徳的に問題を含まないものであり、かつ明らかに有益である。

たいていの人はまた、ヒト以外の動物のクローニングはそれ自体としては問題を含まないと考えるだろう、と私は思っている。しかしながら、このことがすべての動物についていえるどうかは完全に明らかなわけではない。幾人かの哲学者が論じているように、ヒト以外の動物の中に人格であるもの、たとえば思考や自己意識の等の能力を持つものがあるとすれば、そのような動物の場合のクローニングの道徳上の地位は、おそらく、ヒトの場合のクローニングの道徳上の地位と大変密接に関連することになるだろう。

しかし、話をヒトに絞ろう。その場合、クローンを作ることの二つの異った事例を区別することが重要である。なぜなら、それらは大きく異った道徳的問題を生じさせるからである。第一に、次のような事例がある。元の個体と同じ遺伝組成genetic makeupを持つ別のヒトを産み出すために人間のクローンが作られ、このようにして産み出された人間は臓器バンクとして提供されるためのものであって、もし元の個体が事故で片腕を失ったり、腎臓ガンになったりすれば、それに合うスペアパーツが手に入る、というような事例である。もし第二の人間が人格であれば、元の個体の損傷を修復するためにパーツを取るということは当然不正であろう。しかしながら、クローンとして作りだされるヒトの有機体が、あるものを人格にするような――思考や自己意識等の――能力はいうまでもなく、意識の能力を獲得することがないように、何らかの処理がその産み出されるヒトの脳に施されるならばどうであろうか。

第二に、精神を持たない臓器バンクではなく、人格を産み出すことを目標とするクローニングという事例がある。私の議論の主な焦点となるのは、この後者の事例である。しかしながら、そちらに移る前に第一の事例について手短にふれることにしよう。

誰かのための臓器バンクを造り出すという目標でなされるクローニングに対して、どんな反対理由があるだろうか? ひとつには、もしある人がその臓器を利用すれば、誰か他の人物に属するものを利用していることになる、という反論があるかもしれない。あるいは、手に入れようとする臓器の種類によっては、その人はある人間に死をもたらすということさえあるかもしれない、という反論もありうる。しかし、この場合には次のように返答するのが自然である。すなわち、その臓器が属するような人格、あるいは当の有機体が殺された場合に破壊される人格というものは存在しない、と。ゆえに、誰の所有物も奪われないし、いかなる人格も殺されることにはならない。

この返答を確かめるにはどうすればよいだろうか? その有機体と結びついた精神状態というものがいかなる意味でも決して二度と存在することはないことが確実であるような脳への損傷を受けた普通の成人の例に訴える、というのが最も普通のやり方である。上位脳upper brain (二)の完全な破壊が起きているか、あるいはその人の脳のすべてが完全に破壊されているかして、問題の有機体はいまや生命維持装置によって維持されている。そのような事例において、その有機体の生命過程を終結させることは重大に不正なことであろうか? 多くの人はそうではないと考えるのではないだろうか。しかし、もしこの見解が正しいとして、その場合には人格の死というもの、言い換えればある種の精神生活を享受する個体の死といったもの、とヒトの有機体の死を区別をする必要があるように思われる。

もちろん、このような直観は人間本性に対する不健全な見解に基づいているという主張もありえる。ことによると、ヒトは非物質的で不死な魂を持っていて、それが全ての心的能力の基盤であり、また人格の同一性を生み出す状態の基盤でもあるのかもしれない。その場合には、上位脳の死、あるいは全脳死でさえ、ここで問題となっている人体と結びついたいかなる人格ももはや存在しないということを意味しないだろう。

これは可能な見解である。しかし、とてもありそうにないものであるともいえる。というのも、すべての心的能力の基盤が脳に存在するという仮説を裏付ける強力な証拠となる事実が、人間に関しても他の動物に関しても存在するからである。たとえば、第一に、さまざまな動物の行動能力とそれらの動物の脳にみられる神経構造との間に広範な相関関係が存在する。第二に、人間の脳の漸進的な成熟は知的能力の対応する増加と同調して起こる。第三に、外傷あるいは打撃による脳への損傷は認識能力の不全を引き起こし、そしてその不全の性質は損傷を受けた脳の部位に関係する。これらの事実やその他の事実は心的能力がそれに対応する神経回路に基盤を持つという仮説を仮定すれば非常に直接的に説明されるが、それに対して、心的能力がその基盤を脳ではなく何らかの非物質的な実体に持つというのであれば、これらの事実は説明できないだけでなく、とても不可解なものになるだろう。

さらに、Karl RahnerやJoseph Donceelといったカトリックの著作家たちが指摘しているように1 、受胎の時点で非物質的な魂が加えられるという仮説が少なくともキリスト教信仰においては大きな問題を孕んでいることは注意に値する。その理由は、ほとんどの受胎は生きて生まれるのではなく流産となるように思われるため、決して生まれなかった人間の運命についての神学上の問題が生じるからである(三)。そういった者たちが地獄に行き着くというのは不公平に思われる。しかしまた、そういった者たちは自動的に天国に行くというのであれば、これもまた、生まれ出たヒト、つまり新約聖書によれば天国に行くよりも地獄に行く見込みの方が大きい人間、に対して不公平だと思われる 2 。伝統的な解決では第三の死後の行き先を仮定する。すなわち辺土limboである。これはもともとはあまり魅力的ではない場所であったが、後には完全に自然な幸福の地として考えられるようになったのである。そうであったとしても、人類の大部分が天国での永遠の生を受ける見込みを決して持たないという考え方は、倫理的にはかなり問題の多いものに思われる。


1 Joseph F. Donceel, S. J., "Immediate Animation and Delayed Hominization," Theological Studies, 31 (1970), 76-105, at p. 100-1. DonceelはKarl Rahner, Schriften zur Theology 8 (Einsiedeln, 1967), 287. に言及している。

2 たとえば、マタイ伝7:13-14 または 22:13-14 を見よ。


受胎の際に非物質的で不死な魂が肉体に宿るという考え方を説得力のないものとして却下するなら、どうなるだろうか? 答えはこうだ。第一に、ヒトの有機体と人格との間の区別が大変重要となる。しかし、第二に、精神を持たない臓器バンクを産み出すことを目標とするクローニングに何ら問題を含むものが無いということを示すには、この区別は十分ではない。なぜなら、ここで重大に不正であるとされるのは精神を持たない人間を殺すことではなく、問題の有機体が機能する脳を発達させることを永久に阻害するというその前段階の行為なのである、と論じる余地がまだ残っているからである。

後者の行為が道徳的に不正であると主張するためにどのような理由が持ち出されるだろうか? 一つの可能性として、つい先程考察し、説得力のないものとして却下した考え方に訴えるということがありえるだろう。つまり、すべてのヒトの有機体は非物質的で不死の魂を宿しているという考え方である。というのも、もしそうだとすれば、問題の有機体の脳の発達を阻害する行為によって、――そのような肉体に宿っている魂にいったい何が起こるかによるが――、その利益が損なわれると十分考えられる誰かが存在することになるからである。しかしながら、全く異った種類の議論の方向性が可能なのであり、それは非物質的な魂をヒトが宿しているという説得力のない前提を含まないものである。なぜなら、代わりに次のように主張することができるからである。つまり、あるヒトの有機体が機能する脳を決して発達させられなくなるようにすることに関して不正であるのは、人格に危害を加えることではなくて、それによって人格状態に至る可能性potentiality for personhoodを破壊することなのである、と。

しかし、人格状態に至る可能性を破壊することは道徳的に不正なのだろうか? 次の議論がそうではないことを示している、と私は思う。次の二つの行為を比較してみよう。第一の行為は二つの段階を含んでいる。すなわち、(1)精子によって卵細胞が受精させられた場合に、上位脳を欠き、いかなる精神状態も決して享受しないような我々の種の一員が生まれるように、未受精の卵細胞か、または精子か、あるいはその両方、に修正を加える。(2)それから受精させ、できた胚を着床させる、というものである。第二の行為はどうか? 受精したヒトの卵細胞を採取し、第一の行為から得られる受精卵とまったく同じ欠陥を受けるように手を加えるのである。さて、議論は次のようになる。人格状態に至る可能性を破壊することが不正であると主張する人は間違いなくこう主張するだろう。つまり、第二の行為は、第一の行為は持たない――人格状態に至る可能性を破壊する行為であるという――不正を構成する特性を持つ、と。それに対しては、第二の行為と同じく第一の行為の場合も人格状態に至る可能性がある意味で破壊されているのであり、それゆえ第一の行為が道徳的に不正ではないのだから第二の行為もまた不正ではない、と主張されるかもしれない。しかしながら、これに対してその立場の人は、能動的な可能性active potentialitiesと単に受動的な可能性passive potentialitiesとを区別する必要がある、と言い返すことができる。すなわち、もし適切な仕方で作用を受ければ人格を生じるような状況にある場合には人格状態に至る受動的な可能性があるのであり、それに対して、干渉を受けないかぎり人格が生じるような状況にある場合には人格状態に至る能動的な可能性があることになる、ということである。そこで結論はこうなる。第一の行為は人格状態に至る受動的な可能性のみの破壊を含むが、第二の行為は人格状態に至る能動的な可能性の破壊を含むのであり、後者のみが不正である、と。

その場合、人格状態に至る可能性を破壊することが不正であるという見解の擁護者は能動的可能性という用語で主張を再定式化することによって反論をかわしているものと思われるかもしれない。しかしながら、この返答では実はうまくいかないことがわかる。第一に、受精したヒトの卵細胞は、それ自体では、人格状態に至る能動的可能性を持ってはいない。すなわち、放っておかれれば、簡単に死んでしまうのである。人格にまで発達するには、適当な温度や栄養等を供給するような環境に置かれる必要がある。

しかし、第二に、この点をおいておくにしても、上の議論に対する満足な返答となっているとはいえない。その理由は、次のような第三の種類の行動をとることができるからである。人工子宮が完全なものとなり、未受精のヒトの卵細胞とヒトの精子を内蔵した装置があって、その装置は干渉を受けなければ受精をもたらし、その後その受精したヒトの卵細胞を人工子宮に移し、九ヶ月後にはそこから健康なヒトの新生児が生まれる、と仮定しよう。この場合、受精したヒトの卵細胞だけの場合のように「ほぼ」能動的な人格状態に至る可能性がふくまれるだけでなく、むしろ、人格状態に至る完全に能動的な可能性を含む状況にある。その場合、その装置を切り、未受精卵が死ぬにまかせることは、人格状態に至る能動的な可能性の破壊を含むだろうから、上記の能動的可能性の原理が正しいとすれば、その行為は不正であらざるをえない。しかし、その装置を切る行為は道徳的に不正ではないので、人格状態に至る能動的可能性を破壊することは不正ではないことになる。

もし、ヒトの心的能力が、脳内に存在する構造に基盤を持つというよりもむしろ、受精したヒトの卵細胞に神が加えた非物質的な魂の存在に依っていると主張する理由があるとすれば、この議論は反論されうる。なぜなら、その場合には、人格状態に至る能動的可能性が存在するのは、そのような非物質的実体が加えられた後にでしかないからである。しかしながら、すでに見たように、心的能力が脳の神経回路にその基盤を持つのではなく、何らかの非物質的実体にその基盤を持つという見解に反対する非常に強力な証拠が存在する。

幾分駆け足で我々が見てきた領域は、当然のことながら、人工妊娠中絶の道徳的地位の議論でなじみ深いものである。たとえば、人工妊娠中絶の議論――少なくともその通俗的な議論――は、我々の種の無辜の一員を殺すことになるという理由により人工妊娠中絶が不正であるという主張から始まることがしばしばある。その場合、反論は次のようになる。つまり、我々の種の無辜の一員が殺されても、何らの不正義もなされない場合――すなわち上位脳または脳全体が既に破壊されている場合――が存在するのである。それゆえ、殺すことが不正である場合に、そのことに関して真に不正であるのは人格が破壊されることである、と示唆される。しかし、これが正しい場合に、今度は、人工妊娠中絶によって殺されるヒトは人格を持つところにまで至っていないので人工妊娠中絶は不正ではないと論じることができる。それに対して次には、少なくとも哲学的な知識を持った人工妊娠中絶の反対者の場合には、以下のような反論が出るのが典型的である。すなわち、無辜の人格を殺すのは不正であるが、人格状態に至る能動的可能性を破壊することもまた不正である、と。最終的に、それに対しては、上で見たように次のように反論することができる。問題となっている可能性原理は正しくはありえない。なぜなら、それは反証にあうからである、と。というのも、人格状態に至る能動的可能性の破壊が道徳的に不正ではない場合が存在するからである。

結論をだそう。人体にある時点で宿る人格に危害が加えられたとすれば、あるいは人格状態に至る能動的可能性の破壊が不正であるとしたら、精神を持たないヒトの有機体を作ることは不正であろう。しかし、このどちらもが真ではないと考えるのに十分な理由が存在する。そこで、何らかの他の種類の議論がなければ、臓器バンクとして提供するための精神を持たないヒトの有機体を産み出すためにクローニングを用いることに反対する有効な道徳的議論は存在しない、と結論することができる。

2. 現在の状況においてクローンを作ること

さて、人格を産み出すクローニングが目標である場合の、クローニングの道徳的地位の問題に移ろう。その目標を念頭に置いたクローニングが原則的に道徳上許容できるものであると論じようと思う。しかしながら、このことは、このようなクローニングが現時点において道徳的に問題がないと主張するものではない。実際、人格を産み出すことを目標としたクローニングは現時点においてなされるべきでない十分な理由がある、と私は信じる。

その理由を見るために、成体の細胞から羊のクローンを作るというIan Wilmutとその共同研究者たちによる成功した試みに伴われていた事柄を考察することから始めよう。

研究者たちは434個の羊の卵母細胞を用意して研究を開始した。そのうち、157個は移植されたドナーの細胞と融合させるのに失敗し、破棄せざるを得なかった。277個の融合に成功した細胞は培養されて成長したが、29個の胚のみが代理母に移されるのに十分な期間生き延びた。妊娠期間中、研究者たちは21の胎児を超音波で検査したが、ドリー以外は次々と失われていった。3
これらの統計からすると、クローンを作ることによって人格を産み出すという考えは現時点では合理的な試みではない、ということが明らかだと思われる。もちろん、非合理的であるものが必ずしも道徳的に問題のあるものとは限らない。しかしここでの場合、他の人々に影響を与える行動を検討しているのであるから、成功した妊娠が生じる可能性はあるにしても大変少ないような状況で二百人を超える女性に代理母になるよう奨めることが許容できるかどうかを問うてみる必要がある。そして、もし不妊症の治療法としてクローニングを提案するなら、状況はいっそう悪い。というのは、現在の技術水準では、おそらく結果は膨大な失敗と感情的苦痛とに終わるだろうからである。


3 Marie A. Di Beradino and Robert G. Mckinnell, "Backward Compatible" The Sciences 37/5, September/October 1997, 32-7, at p. 37.


これに対して、自分の金を払ってやるんだから自分の勝手だ、という反論があるかもしれない。つまり、不妊症のカップルが心から誰かのクローンであるような子供が欲しいとしたら、それを試みることを許すことがどうして不道徳であるといえるのか? しかし、この議論は他の事例にも用いることができる。たとえば、憂鬱になっており、自殺を企てそうな人物にその手段を与える、というような例である。よって、私が述べたいのは次のようなことである。ある行為の仕方が非常に非合理的である場合――たとえばクローニングによって子供を得ることは現時点ではそうであると私は思うのだが――、そのような場合にそのような行いを為す機会を人に与えることは不正であるといってもよい。

しかし、現時点で人格をクローンする試みが道徳的に反対すべきものであると主張する理由は他にもある。すなわち、その試みが成功した場合に生じる個体に関わる理由である。まず、羊では277例の妊娠のうちたった一体でしか成功しなかったという事実が、現時点での処理方法には重大な問題点が存在することを示唆しており、ヒトでは重大な欠陥を負った子供、未熟児として生まれるが集中治療で助かるといった子かもしれない、が生まれてくる確率がかなり高いものになることがないかどうかという問いが生じるということもまた示唆している。したがって、生まれてくる人格が享受する生命の質が損なわれているかもしれないという理由で、現時点での技術水準において人格のクローンを作るという試みは不正であるように思われるだろう。

第二に、クローン技術で作られた個体が年老いた場合にどのような生を送るか、という未解決の問題がある。というのも、六歳の羊の核から発生した結果としてドリーの期待余命は有意に減っているということがありうると示唆する重要な老化の理論が存在するのである。この心配の裏付けは以下のようなものである。

早くも1930年代には研究者たちは彼らがテロメア(「端」と「部分」を意味するギリシャ語から)と命名した、各染色体の末端に存在する遺伝情報をコードしないDNA――つまり、たんぱく質として発現しないDNA――の領域に気づいていた。高次の有機体の分化した細胞が有糸分裂、つまり細胞分裂の通常の過程、を受ける場合、核内に存在するDNAのすべてが複製されるのではない。DNAを複製する酵素は各染色体の末端の小断片を失い、それゆえ各染色体は細胞分裂ごとにわずかずつ短くなっていくのである。各テロメアが短縮作用に抗して染色体を保護するために残存しているかぎり、有糸分裂はいかなる遺伝子も切り刻まない(フィルムのリールの両端にあるリーダーとよく似て、テロメアは遺伝情報をコードしないことを思い出そう)。しかしながら、最終的にはテロメアは短くなりすぎて、染色体の重要な部分をもはや保護できなくなるのである。その時点で、通常、細胞は分裂を停止し、死ぬ。4
したがって問題は、六歳の羊の細胞にあるのと同等の長さのテロメアを有する染色体を持つ細胞を持ってドリーは生まれたのかどうか、ということになる。多分そうではないだろう。というのも、元々の核が除去された卵に核が移植されると、完全な長さのテロメアを作ることができるテロメアーゼという酵素を産み出すような何らかの機構が存在するからかもしれないである。しかし、そのリスクは確かに深刻なものであり、このことは現時点でクローニングによって人を産み出そうと試みるべきではないと主張する強力な根拠を提出すると私は思う。


4Ronald Hart, Angelo Turturro, and Julian Leaky, "Born Again," The sciences 37/5, September/October 1997, 47-51, at p. 48.


最後の二つの理由はより強い結論――すなわち、人格を産み出すことを目標とするクローニングを当面法的に禁止する根拠があるという結論――をも支持する。というのも、そのようなクローニングに含まれるリスクは次のようなものであるからである。すなわち、未成熟のうちに老化するか、あるいは他の欠陥から苦しめられる人格を存在に至らしめてしまう、というものである。ゆえに、ここでリスクにさらされているのは、個体の権利の潜在的な侵害であり、したがって、適切な法の導入を正当化する性質ものなのである。

この結論が制限付きであることは、おそらく強調される必要があるだろう。すなわち、この結論は人格を産み出すことを目指したクローニングにのみ適用される、ということである。なぜなら、もし臓器バンクとして提供するために精神を持たないヒトの有機体を産み出すことが目標であるなら、上述の考察は当てはまらないからである。

3. クローニングによって人格を産み出すのはそれ自体として不正であるか?

次に、人格を産み出すためにクローニングを利用することが原則的にそれ自体としてintrinsically道徳上許容できるかどうかという問題に移ろう。この節では、そのような目標に利用されるクローニングがそれ自体として不正であるかどうかということに焦点を置くことにする。それから、後の節では、人格を産み出すためのクローニングはそのことを道徳的に不正であるようにするような帰結を必然的に持つかどうか、を論じる。

クローニングによって人格を産み出すことがそれ自体として不正である、と論じるにはどのように試みればよいだろうか。これについては、吟味に値する議論の方向性は基本的に二つあると言うDan Brockが正しいと思う5 。第一に、無二の個体であるという人格の権利として最初は記述されるものを持ち出してくる議論がある。しかし、これは結局は、遺伝的に無二である資質genetically unique natureに対する人格の権利として特徴付けられなければならない。第二には、人格はある意味において開かれた未来に対する権利を持つという考え方に訴える議論がある。


5Dan W. Brock, "Cloning Human Beings: An Assessment of the Ethical Issues Pro and Con," 近刊のClones and Clones, edited by Martha C. Nussbaum and Cass R. Sunstein (New York: W.W. Norton and Company, 1998) 『クローン、是か否か』, (訳)中村桂子, 渡会圭子, 産業図書, 1999に収録。"Would the Use of Human Cloning Violate Important Human Rights?" という節を見よ。


3.1 人格は遺伝的に無二である資質に対する権利を持つか?

多くの人は無二の個体であることが重要であると感じている。そこで、クローニングはそれ自体として不正であると示そうとするこの第一の試みの基本的論点は、個体の無二性はクローニングによって何らかの形で損なわれるという考えを含むのである。それに対し、そもそも無二性が重要であるかどうかを問題にするのは当然だと思う。たとえば、もし、多分どこか遠く離れた惑星かなんかで、肉体的にも精神的にも細部に至るまで質的に自分と同一であるような個体が存在するとわかったとして、そのことによってその人自身の人生の価値が低くなり、生きる価値が低くなるということが本当にあるだろうか?

この問題について考える上で、次の二つの場合を分けて考えるのは重要だろう。すなわち、決定論的因果法則の作用のためにその二つの人生が質的に同一であるという第一の場合と、双方の個体が同じ行為を自由に決定し、同じ考えや同じ感覚を持つ、といったような類似した状況に常にいるという事態が偶然生じるという第二の場合、がある。これらの筋書きのうちの第二の場合には問題がないと私は思う。それに対して第一の場合は問題となりうる。しかし、もし問題となるならそれは、自分自身から質的に区別不可能な人格が存在するからであるのか、それともむしろ、自分の人生が完全に決定されているからなのだろうか?

したがって私は、無二性は人生の価値の重要な一部分であるというおそらくかなり広範に持たれている考え方を問題にしたいと思う。しかし、幸運なことに、現在の文脈においてはその問題を解決する必要はないのである。というのも、当然のことながらクローニングはクローンされる元の個体と質的に区別不可能な人格を産み出すことはないからである。なぜなら、一卵性双生児の場合に見られるように、同一の遺伝組成を持つ二個体は、たとえ同時に同じ家族の中で育ったとしても、人生の歴史を作り上げるさまざまな出来事のゆえに多くの点で異なるだろうからである。

それらの相違はどのぐらい大きなものであるのか? ある研究の結果は次のようなものである。

平均的にみて、我々の調査票では一卵性双生児の人格特性personality traitsは50パーセントの相関を示している。対照的に、二卵性双生児では25パーセントの相関であり、双子以外の兄弟では11パーセント、他人の間ではほとんどゼロに近い6
結果として、ある個体とそのクローンの人格特性は平均として50パーセントの相関を超えることはなく、その個体とクローンとは基本となる信念や基礎的な価値に関して実質的にかなり異なった別の時代や世代に成長するのが普通であることを考えると、おそらく普通はそれを下回るだろうと思われる。


6Thomas J. Bouchard Jr., "Whenever the Twain Shall Meet," The Sciences 37/5, September/October 1997, 52-57, at p. 54.


それゆえ、現在の議論は、もしそれを有効なものにしようとするなら、人格が絶対的な無二性への権利を持つという主張に訴えることから、人格が遺伝的に無二である資質への権利を持つという主張に訴えることへと、移行せざるを得ない。そのように再定式化された場合、その議論はどのぐらいうまくいくだろうか?

注目に値する第一のポイントは、遺伝的に無二である資質に対する権利であると主張されたものをどのような形で持ち出してくるとしても、神学者にとっては難点があるということである。すなわち、そのような権利があるのならば、一卵性双生児が生まれうるような世界をなぜ神は創造したのだろうか? しかしもちろん、もし我々の世界が全知全能で道徳的に完全な人格によって創造されたものであるとすれば、かなり驚きであるような多くの特徴がこの世界には存在する。それが故に、遺伝的に無二である資質への権利に訴える神学者は単に次のように返答するかもしれない。つまり、双子の存在は悪の存在という一般的な問題のもう一つの側面にすぎない、と。

人格は遺伝的に無二である資質への権利を持つかどうかという問題に対して、どのようにアプローチすることができるだろうか? 私が思うには、立証責任の手法に頼ることで満足している者たちがいる。その考え方は次のようなものである。すなわち、他の誰かと質的に同一ではないという意味において無二の個体であるということは、人格であるということについて価値があるものの重要な部分を占める、と多くの人が考えているのは確かだろうが、それに対して、人格は遺伝的に無二である資質への権利を持つという考え方は最近になって導入されたものであり、それがゆえに、後者の主張を提出しようとするものはそれが真であると考える何らかの理由を実際に提供する必要がある、というのである。

しかしながら、この主張に反する積極的な論拠を提供することになるような他のアプローチの仕方が存在するのである。たとえば、反省にもとづいて得られる直観を持ち出してくるという方法が一つには考えうる。たとえば、一卵性双生児の事例について考えてみて、一卵性双生児が生まれると何らかの方法でわかった場合に生むことは一見して不正prima facie wrongであると反省を経たうえで考えるかどうかを自問することができる。もし多くの人がそうであると感じるとすれば驚くべきことである、と私は思う。

この問題へのもう一つのアプローチは、権利に関する何らかの説得力のある一般理論を持ち出してくることである。したがって、たとえば、保護に値する重大で自分に関わる利益が存在する場合に権利が存在する、と考えたくなる。もし何らかのこのような見解が正しいとすれば、クローンであったなら損なわれるような何らかの深刻で自分に関わる利益を持つかどうかを問うことによって、遺伝的に無二である資質への権利を人格が持つかという問題にアプローチすることができる。この問いは肯定的な答えを持つだろうか? そうではないと考える第一の理由は、誰にも危害を与えないような性質の行為を行うことを阻止されたり、拷問されたり、殺されたりすることが人格を侵害するようには、クローンの存在が人格を侵害することはないと思われるからである。すなわち、遠く離れたところにいるクローンが人生に影響与えることは全く無いであろう。

それに対する返答として、次のような議論がされるかもしれない。クローンが存在するというだけではなんらの影響も生じる必要はなく、ゆえに自分に関わる利益がいかなる意味でも損なわれる必要もないだろう。しかし、その人がクローンの存在を知っていれば状況が異なる。というのも、その知識は、たとえば、その人の個体性の感覚sense of individualityを損なうかもしれないからである、と。しかし、同一の遺伝組成を共有しながら個体同士が大きく異なることもありうるのであれば、どうしてそのようなことにならなければならないというのか? 自分自身のクローンが存在するという知識がその人を困惑させるというなら、何らかの関連する誤った信念――たとえば、遺伝的決定論の信念のような――が多分その理由である、と私は思う。しかしもしそうであるなら、危害の潜在的な対象がある誤った、おそらくは不合理な、信念を持つ場合にのみ危害を受けるような利益がその守るべきものである場合でも権利が存在するかどうか、という問題が生じる。私自身の感触としては、そのような危害に対する責任は、そのような危害が存在するのに必要となる不合理な信念を持つに至った個体に割り当てられるべきである。それゆえ、私には次のように思われる。すなわち、そのような危害が発生することを防ぐために他人の行為が制限されるべきではないし、したがって、そのような場合において侵害されるような権利というものは存在しない、と。

遺伝的に無二である資質に対する権利が存在するかどうかという問題を取り扱う第三の方法は、同一の遺伝組成を持つ個体が実際に非常にありふれて存在するという筋書きを考察し、その上でそのような世界が、たとえば、現在の世界よりも劣っているかどうかを考えてみるというものである。たとえば、今は紀元前4004年で人間を創ろうと神が考えていると想像してみよう。神は、ヒトを進化を通じて存在に至らせるという考えを既に吟味したが、ヒトを存在に至らしめるというような重要な問題をくじ引きみたいな方法でやるのは適切だとは思えないという理由で、その計画を破棄したとする。神はまた、遺伝的に異なっており、遺伝的に大きな多様性を持つ人類へを生み出すような、最初の一組のヒトを作ることを考えた。しかしながら、熟考の末、その考えも欠陥があるように思われた。というのも、遺伝子のランダムな混ぜ合わせは、身体的に損なわれている個体や、多大な苦痛や早い死に至るたとえばガンのような不快な病になりやすい個体、を生み出すという結果を招くだろうからである。したがって最終的に、創造主は次のような二つの特性を持つ遺伝的構成に決めたのである。第一に、深刻な身体的ハンデキャップや病気を引き起こさず、賢い選択をすれば知力と精神において成長することを個体に許す。第二に、すべての遺伝子で対立遺伝子が一致している(四)。それから、神はそのような遺伝組成を持つ最初の個体を創り――彼女をイヴと呼ぶことにしよう――そしてイヴは二本のX染色体を持っているのに対してX染色体を一本と独自なY染色体を一本もつという点でのみ遺伝的な相違がある第二の個体――彼をアダムと呼ぼう――を創る。その場合、結果として、アダムとイヴが生殖すれば純系を伝えることになるだろう。というのも、アダムとイヴは一つの違いを除いてすべての遺伝形質に関して一致する対立遺伝子を持つので、それゆえ彼らの子孫たちはすべて遺伝的にアダムかイヴのどちらかと同一になるのである。

そのような世界は現実の世界とどのように比較されるだろうか? もし、ロールズ的な無知のヴェールの背後から選択するのなら、現実の世界を選ぶか、もう一つの世界を選ぶか、どちらが合理的であるだろうか? おそらくこれは簡単な問題ではないだろう。しかし、もう一つの世界にはいくつかの重要な利点があるだろうということは明らかである。第一に、現実の世界と違って、生命を縮めるような好ましくない多くの病や、鬱病や分裂症のようなその他の衰弱状態、に対する傾向性から解放される遺伝組成が人々に保証されるだろう。第二に、遺伝形質は完全に平等な形で分配されるので、現実の世界とは違って、誰も厳しく不利な条件を背負って生まれたりはしないし、ひどい逆境での戦いに直面しなくてすむのである。第三に、全ての人々は男女の違いを除いて肉体的に同一であるだろうだろうから、人々は「魂」の質に関してのみ異なるので、人々に関する判断が現実の世界で行われているよりも皮相的でない世界になるであろう。したがって、現実の世界よりもう一つの世界を好ましいと考える重大な理由があるように思われる。

今述べられたうちの第三の利点はもちろんもう一つの世界の実践上の明らかな欠点にもなりうる。つまり、人の素性を知ることが現実の世界でよりもかなり難しくなるだろう。しかし、この問題は上で述べられた筋書きの変更で対処することができる。たとえば、顔と髪の毛の外見を決定する遺伝子以外に関しては遺伝組成が同一であるというようなのが、変更の一つの例として考えられる。その場合、現実の世界で普通に行われているのと全く同じ方法で個体を同定できるだろう。この変更はもちろん次のことを意味する。すなわち、このもう一つの世界は遺伝組成に関して幅広い同一性を持つ世界であるとはもはや見做されないだろう。にもかかわらず、この最初のとは別のもう一つの世界が現実の世界よりも好ましいものであるなら、個体は無二である遺伝組成に対する権利を持つという見解に反対する議論をなお提供すると私は考える。というのも、まず第一に、遺伝的な差異がそれ自体として好ましいというよりも、むしろ人々の簡単な識別を容易にするために必要であるというかぎりでのみ価値があるということを、このもう一つの世界の好ましさが強く示唆しているからである。第二に、遺伝的に無二であることが非常に重要であるのに対して、非常に高い程度の遺伝的類似性が重要ではない、と主張することはもっともらしいだろうか? しかし、ここで我々が考察しているもう一つの世界においては、いかなる二個体間でも遺伝的類似性は非常に高くなるであろう。第三に、そのもう一つの世界では、各個体の脳の初期構造を決定する遺伝子が単に非常に類似しているのではなく、全個体で全く同一であるという世界なのである。しかしその場合、脳の初期的な素質を決定する遺伝子に関して何の違いも個体間で存在しない世界が現実の世界よりも良い世界であると一方で認めながら、遺伝的無二性が道徳的に非常に重要であるともっともらしく主張することが可能であるだろうか?

上で記述されたもう一つの世界よりも現実の世界が好まれるべきであるとも主張するのでなければ、個体が遺伝的に無二である資質への権利を持つともっともらしく主張することはできない、と考えるに十分な理由をこれらの三つの帰結は示していると私は思う。しかしながら、人々が遺伝的に異なっている世界に移し替えなくても、識別の問題は取り扱うことはできる。なぜなら、その代わりに他人を識別するための別のメカニズムが人間に組み込まれていると想定することもできるからである。たとえば、神はヒトの脳に特別の回路を組み込むことができ、その回路は自分の名前と適切な識別情報を流し、知覚できる範囲内に他人が流した情報を取り出すものである、とする。次に、既知の全ての人物に関する情報を内蔵しているメモリバンクと照らしてその情報はチェックされ、知り合いである人物と知覚的に交信していると判明すると、そして当の人物が誰であるか知りたいと思うと、適切な情報を持っていることに自動的に気づくというわけである。誰かに、誰かのことを教えるのだ。

結果としては次のような世界ができるであろう。すなわち、X染色体とY染色体を除いて完全に同じ遺伝組成をすべての個体が持ち、最初のもう一つの世界の魅力的な特徴のすべてが存在し、誰が誰であるかを判定することにいかなる問題も存在しないような世界である。その場合、この世界がどのように現実の世界と比較されるかを問うことができるし、また、このもう一つの世界のすべての人々が本質的に同一の遺伝組成を持つという事実がとりわけ現実の世界の方が好ましいとする理由であると、反省にもとづいて、本当にそのように思われるかどうかを問うことができる。

3.2 「開かれた未来」の議論

Dan Brockは人格を産み出すことを目標としてクローンを作ることはそれ自体として不正であるという見解を支持する第二の議論を述べている7。この議論――開かれた未来に対する権利8について語るJoel Feinbergと、ある種の無知に対する権利9に言及するHans Jonasによって唱えられた考えに基づく――は本質的には次のようなものである。ある人の遺伝組成はある程度までその人に開かれた可能性を決定するということは十分に考えられることであり、それゆえ、その人物の未来の人生のあり方を制限する可能性がある。もし、同じ遺伝組成を持つ者がいなければ、あるいはそのような人格は存在してもその事実を知らないとすれば、あるいはそのような人格は存在しても同時代に存在しなかったり年齢が自分より若かったりするなら、自分と同じ遺伝組成を持つ者の人生のあり方を観察することはできない。しかし、自分自身の人生を先取りする人生を送る遺伝的に同一である人格のことを知っているとすれば、どうだろうか? その場合には、ある種の可能性が実際には自分には開かれていないことを示すものとして見做しうる知識を持つことがありうるので、自分の人生のあり方を選択することができるという感覚をより少なくしか持つことができないであろう。


7 Dan Brock, op cit., in the section entitled "Would the Use of Human Cloning Violate Important Human Rights?"

8Joel Feinberg, "The Child's Right to an Open Future," in Whose Child? Children's Rights, Parental Authority, and State Power, edited by W. Aiken and H. LaFollette (Totowa, NJ: Rowan and Littlefield, 1980).

9 Hans Jonas, Philosophical Essay: From Ancient Creed to Technological Man (Englewood Cliffs, NJ: Prentice-Hall, 1974)


この議論が有効でない理由を理解するには、同一の遺伝組成を持った人物の先行する人生を観察して自分自身の人生がある種の制限を被っていると結論する場合に含まれる推論を問うてみる必要がある。一つの可能性として、ある人物がある目標を達成するために長い期間に渡ってものすごく努力し、そしてまったくそれに近づくことができないでいる、ということに気付くということがあるかもしれない。多分、先に生きた遺伝的に同一である個体は二時間以内でマラソンを走る最初の人物になりたいと思っていたが、何年間かの集中的で十分に計画されたトレーニングや食事への注意の末にも二時間半を切ることはなかった、というようなことかもしれない。その場合に、特定の目標が実際には自分には開かれていないと見做すことはきっと正当化されるだろう。しかし、Jonasが示唆していると思われるとおり、このような知識は悪いものなのだろうか。私なら逆にそのような知識は価値あるものであると考えるだろう。なぜなら、そのような知識はある人物が成功裏に追求することができるような目標を選択するのを容易にするだろうからである。

これとはまったく別に、遺伝的に同一である人格の人生のあり方を観察した上で、その人生と大きく異なった人生が実際に自分に開かれる可能性なんてないと結論する、ということもありうる。その場合、その人は自分の人生が非常に好ましくない程度にまで制限されていると感じるのは確実だろう。しかし、自分の人生が他の個体の人生と大きく異なりえないという結論を導くなら、その人は何の証拠もなく、逆にそれに反する優れた証拠が存在するような結論を導いていることになるだろう。すなわち、一卵性双生児の人生は、同一の遺伝組成であっても、全く別の人生が実際に可能であることを示しているのである。まとめると、自分自身と遺伝的に同一である人格の人生に関する情報が自分には狭い範囲の選択肢しか開かれていないと結論するための根拠を提供するという考え方は、遺伝的決定論かそれに非常に近いものが正しい場合にのみ正当化されるであろう。しかし、遺伝的決定論のようなものは正しくない。したがって、人格を産み出すことを目標とするクローニングはそれ自体として不正であるとする、この第二の議論は有効ではないといえる。

4. 人格のクローニングを支持する考察

クローニングによって人格を産み出すことが望ましいかどうかは、先に見たように、老化の問題という未だ結論のでていない問題の結果に左右される。しかしながら、ここでは単に次のように想定しておくことにする。つまり、染色体が完全な長さのテロメアを持つ細胞になるような仕方で成熟個体のクローンを作ることが可能となり、結果として生まれる個体が通常の期待寿命を持つようになる、と。そのような想定の下で、人格を産み出すことを目標としてなされるヒトのクローンを作ることから得られる多くの利益が存在すると私は論じたい。

クローニングの利益と私が考えるものを説明するにあたって、考えるうる反論を取り扱うことはしない。その代わりに、それらは第5節で述べられる。

4.1 科学的知識: 心理学と遺伝対環境の問題

心理学にとって重要な理論上の課題の一つに、性格の特性traits of characterの獲得を説明するような説得力のある理論を作り上げることがある。そして、そのような理論の発展の中心となるのは、さまざまな特性がどの程度まで(a)遺伝したものであり、あるいは(b)環境のコントロール可能な諸局面に依存し、あるいは(c)脳にあるか環境にあるかどちらかの予測のできない性質を持つ要因に左右されるものであるのか、に関する情報である。しかし、そのような知識は心理学にとって理論的にのみ重要というのではない。遺伝組成あるいは育つ環境あるいは偶然的な出来事が個体の発達に対して為す、あるいは為さない、貢献に関する知識によって、望ましい特性を持った者たち――すなわち可能性を実現化して幸せで満足な人生を送るよりよい機会を持つ者たち――を育てることができる見込みを増すような育児のアプローチを発展させることができるのである。だから、この知識は単に大きな理論的関心の対象であるだけではなく、社会にとって潜在的に非常に有益でもあるのである。

人間の発達に関する適切な理論を作るという試みにおいて、非常に重要でありつづけ、生まれか/育ちかという問題に関する重要な情報を生み出してきたものに、一卵性双生児の研究がある。しかし、十分な理論はまだかなり遠くにある。クローニングはこの領域における科学的進展を速める強力な方法を提供するだろう。なぜなら、社会は、同一の遺伝組成を持つ多くの個体を産み出すことができるので、それらの個体にそこで成熟するよう良い環境ではあるが有意味に差異があるさまざまな環境を与えるような養父母を選ぶことができるからである。

4.2 社会に利益を与えるクローニング

非常に通俗的な思いつきの一つに、社会に対して非常に重大な寄与をなした人々をクローニングすれば人類にとって有益に違いない、というものがある。それが通常言われるような形式では――例えばAlbert Einsteinのクローンを作ることができれば、そのクローンも科学に対して何らかの非常に重要な寄与をする人物になるだろうというようなものであるが――、この思いつきは間違いなく根拠が薄いものである。第一に、ある個体が高度に創造的な仕事を為すようになるかどうかは、単に遺伝組成に左右されるというよりもむしろ、それが獲得されるかどうかは個体が成長する環境次第であるような特性によって間違いなく左右されるのである。しかし、それに対して次のように論じることができるのではないだろうか? すなわち――例えばEinsteinが育った環境にできる限り近づけた環境においてEinsteinのクローンを育てるというふうに――環境もまたコントロール可能なのではないだろうか。もちろん、それが難しいことが判明するかもしれない。しかし、たとえそれが可能であったとしても、それで十分であるかどうかは明かではない。というのも、この場合に主張されうる第二のポイントが存在するからである。すなわち、偉大な創造的達成はある程度まで偶然的な、そしてその発生がある種の遺伝組成とある一般的な種類の環境との組み合わせによっては保証されないような、要因に左右される可能性がある。例えば、多くの偉大な数学者は早い時期に数に対する強い関心を育んだのである。もしCarl Friedrich Gaussのクローンを作ることができ、Gaussが育ったのと同じ環境で育てていたならば、その人格は数に関して同じような関心を育み、数学において偉業を成し遂げるまでに至っただろう、と考える十分な理由が存在するだろうか? あるいは、Einsteinが育ったのと似た環境で育てられたEinsteinのクローンは、Einsteinがそうであったように、もし光と同じ速度で移動することができるとすれば世界がどのように見えるかをあれこれと考え、そしてEinsteinを魅了したのと同じ問題を考えるまでに至り、ついには物理学における理論の革命的発展にまで到達した、というようなことはありそうだろうか?

通常述べられる形でのこの思いつきにはいくつかの重大な問題がある、と私は考える。他方で、もう少し穏当なバージョンでも支持できない、という確信は持てない。例えば、Polgar姉妹のことを考えてみよう。三人の娘の父親が彼の全ての娘が非常に強いチェスプレイヤーになるような環境を作ることに成功したという例であり、三人のうちの一人、Judit Polgarは今や史上最強の女性チェスプレイヤーである。もしJudit Polgarのクローンを何人も作り、Polgar姉妹が育ったのと非常によく似た環境で育てたなら、何人もの非常に強いチェスプレイヤーが育つだろう、と考えるのは理に合わないだろうか?

より一般的には、私は知的能力に対する強力な遺伝的基礎が存在するのは明らかであると考えているし10、――並外れた根気強さや意志の強さや自分自身の能力に対する自信といった――創造性において重要な役割を果たしうる他の特性が遺伝と環境の正しい組み合わせによって産み出されやすいようなものであると考える十分な理由があるとも信じている。だから、際立って創造的な人物のクローンもまた非常に偉大なことを為す見込みはおそらく、少なくとも多くの領域では、特別に高くはないだろうが、適切な環境が与えられれば重要な仕方で社会に利益を与えるようなことを成し遂げる見込みのある個体となるだろうと考える理由がある、と私は考えている。


10 たとえば、Thomas J. Bouchard Jr.の "Whenever the Twain Shall Meet," pp. 55-6. のこの問題に関する議論を見よ。


4.3 より幸福で健康な個体

クローニングの第三の利益は、それによって、ある人が産み出そうとしている人格が健康で幸福な人生を享受する見込みを増やすことが可能だろうというものである。というのも、どの位の寿命が見込めるかということや、肉体的精神的にどんな病気にかかりやすいかということや、幸福あるいは不幸を助長するような性格の特性や気質を持つようになるかどうかということ、に当人の遺伝的構成genetic constitutionが関係を持つ限りにおいて、非常に長い人生を享受して、かつ精神的な活力を保って、かつアルツハイマー病にもならず、かつガンや関節炎や心臓発作や卒中や高血圧等も患わず、また鬱病や分裂症の傾向を示すこともなかった、というような人格のクローンを作ることで、産み出そうとしている個体もまた健康で幸福な人生を享受する見込みを増していることになる、からである。

4.4 より満足のいく子育て: 望まれた特性を持つ個体

ある種の特性を持つ子供を育てることを多くのカップルは好ましいと思うだろう。ある場合には、ある種の身体的な外見を持つ子供を欲しがるかもしれない。また別の場合には、ある身体的活動において高いレベルの能力を示すよりよい見込みをもつことができるような身体的能力を備えた子供を得ることを望むかもしれない。あるいは、数学や科学を楽しむことを可能とするような知的能力を持つ子供を持つことを好ましいと思うかもしれない。あるいは、さまざまな芸術上の探求に従事しまたそれを楽しむことができるような特性を持つ子供を得ることを好ましいと考えるかもしれない。人々が自分の子供に持っていて欲しいと思うような特性の中には、非常に強い遺伝的基盤をおそらく持つものがあるだろう。一方で、その他のものは、適切な遺伝子と正しい環境とを与えられた子供であれば非常に獲得しやすいものであろう。問題の特性がこれらのカテゴリーのどちらかに分類される限りで、クローニングによって子供を産みだすことが、より多くのカップルに自分たちが望ましいと判断した特性を備えた子供を育てることを可能とさせるだろう。

4.5 より満足のいく子育て: 自分に関する知識を利用する

クローニングが子育てをより満足のいくものにする第二の仕方が存在し、ある人が自分の子供時代を振り返れば、それは浮かび上がってくる。子供時代を振り返ってみれば、多くの人々は、良かったと思う物事や、もし違ったふうであったならもっとよかっただろうと思うような物事、を思い起こす。もちろん、なかには、その人の見解が不健全であったり、自分の親がしたことで、自分では好きでなかったことでも自分の成長によい影響を与えたものがある、という場合もありうる。しかしながら、概して、ほとんどの人が自分の育ちかたの特徴のうちのどれが全体としてよい影響を与え、どれがそうではなかったかについて適度に健全な見解を持っている、というのがもっともらしいと思う。

そこで、あるカップルが片方のクローンである子供を育てるなら、クローン元である方の親が自分の育てられ方に関して持っている知識は、その子の個別的な心理により良く適合する仕方で子育てするために利用することができる、と考えられる。さらに、子供とそのような例における片方の親との間にはより大きな心理上の類似性が存在するので、クローン元である方の親は子供の視点から物事がどのように見えるかをいかなる点においても正確に理解することがよりよくできるだろう。そのため、そのようなカップルが子育てのことをより報われる経験だと感じるだろうことと、より良く理解されることによってその子がより幸福な子供時代を過ごすこと、の両方に十分な見込みがあるように思われるだろう。

4.6 不妊症

ドリーを産み出すことになったクローニングの成功以降、少なくとも一人の人物が不妊症のカップルを救うためにクローニングを利用するという考えを推し進めようという意図を表明している。第二節で明らかになったいくつかの理由によって、近い将来においてクローニングがそのように利用されるべきであるという考えは道徳的に非常に問題を含んだものであると思われる。しかしながら、原則として、その考え方は大筋としては重要な価値があるように思われる。たとえば、その利点の一つとして、Dan Brockその他が指摘しているように、「クローニングで、卵子を持たない女性や精子を持たない男性が生物学的に自分に近い子孫を産み出すことができる」 11ということがある。Brockによってこれもまた言及されている、もう一つの利点は、「着床のための胚の数を増やして妊娠が上手くいく見込みをよくするために、核移植あるいは胚分割によって、胚はクローンされるかもしれない」というものである12


11Dan Brock, op cit., in the subsection "Human cloning would be a new means to relieve the infertility some persons now experience."

12Ibid.


4.7 同性愛者のカップルに子供を

多くの人々は、特にアメリカでは、同性愛が深刻な不正であり、同性愛者は結婚も子供を育てることも許されるべきではないと信じている。しかしながら、こうした意見はほとんどの哲学者によって却下され、反対にそうした哲学者達は同性愛は不正ではなく同性愛者は結婚も子供を育てることも許されるべきだと主張するだろう、と私は思う。現在の議論のために、後者の見解が正しいとしよう。その場合、Philip Kitcherその他が言及しているように、クローニングは同性愛者のカップルに自分たちで育てることができる子供を与える有望な方法であるように思われる。なぜなら、ゲイのカップルの場合、それぞれの子供は片方のクローンであることができるし、一方、レズビアンのカップルの場合には、すべての子供はある意味で生物学的に双方に繋がっていることができるのである。

あるレズビアンのカップルが子供を得ることを望んでいる。そのカップルは、二人のそれぞれと子供が生物学的に繋がっていて欲しいと考えるので、一方から採られた細胞核が他方から採られた卵に挿入され、そして卵を提供した女性の子宮に胚が植え付けられることを望むのである。13


13Philip Kitcher, "Whose Self Is It, Anyway?" The Sciences 37/5, September/October 1997, 58-62, at p. 61. Kitcherが、この考えを始めは魅力的なものとして述べ,最後には5.2節で考察される理由から問題のあるものと結論すること、は注意されるべきである。


4.8 生命を救うためのクローニング

最後に、もう一つの可能性が、カリフォルニアに住むAyala一家の両親の有名な事例によって示唆される。すなわち、その両親は白血病に苦しむ十代の娘の命を救う移植手術のために骨髄を提供することができるようにという望みをもって――そしてそれはかなえられるのだが――、もう一人の子供をもうけることを決めたのである。もしその当時クローニングが可能であったなら、通常の方法でもう一人子供をもうけるのとは違って、成り行き任せとはならないような、行動の方針を選ぶことができただろう。すなわち、もし病気の子供のクローニングが可能であったなら、組織適合は確実であっただろう。

5. ヒトのクローニングに対する反論

5.1 精神を持たない臓器バンクのクローニング

他の個体への臓器源として提供されることになる精神を持たないヒトの有機体を生みだすためのクローニングへの反論のいくつかは全く理解できるものである。もし、人格を破壊するという根拠に基づいてこの考えに反対するなら、ここで表明されている心配は完全に明白なものであり真剣なものである。ヒトの有機体が機能する脳を発達させることを阻害することは、問題の有機体と結びついた非物質的な魂からこの世界における生を経験する可能性を奪うことになるので、そのようなクローンを作ることは重大な不正である、という反論でも同じことがいえる。最後に、そのようなクローニングは人格状態に至る能動的な可能性の破壊を含むので不正であるという主張についても、また同じことが言える。

したがって、これらの反論の問題点は何らかの点で不整合があるということではない。また、挙げられた論点が重要なものではないということでもない。端的にいって、問題は結局これらの反論のすべてが先に明らかにされた理由により有効ではないということなのである。たとえば、第一の反論の問題点は次のようなものである。すなわち、あるものが人格になるにはいづれかの時点で持たねばならないような能力――たとえば思考や自己意識の能力――をヒトの胚は持っていないと主張するすぐれた理由が存在するということである。第二の反論の問題点は、意識や自己意識や思考やその他の精神過程に含まれている能力の存在論的基盤がヒトの脳に在り、非物質的な魂というようなものにはない、と主張するための強力な理由が存在するということである。最後に、第三の反論の問題点は、人格状態に至る能動的な可能性の破壊が道徳的に不正であるという前提にある。というのも、一方でその主張はいかなる満足のいく議論によっても支持されないし、他方で決定的な反論――その内の一つは先程提示された――にさらされているのである。

だが、上で述べられた反論が有効なものではないことを認め、さらに人工妊娠中絶が道徳的に問題あるものとは見做さない人々が、それにもかかわらず精神を持たないヒトの臓器バンクを生み出すという考えに不安を表明するということがしばしば見られる。しかしながら、そのような不安がきちんとした形で表現されることはほとんどなく、通常は精神を持たないヒトの臓器バンクという考えを「悪鬼のような」筋書きであると単に表現するだけという形を採るのである。臓器バンクを作りだす目的でクローニングを利用することをこのように退けるのは、非常に不可解である。というのも、ここで我々が考察しているのは、生命を救うことができる方法に関する問題であり、それがゆえに、クローニングのこの利用法を拒絶すれば、無辜の人々の死を帰結とするような行為の方針を力説していることになるからである。精神を持たない臓器バンクが悪鬼の所業であるかの印象を与えるという根拠に基づいてこのような主張をするのは、道徳的におそろしく無責任だとおもわれる。すなわち、もしクローニングをこう利用することが拒絶されるには、真剣な道徳上の議論が必要なのである。

5.2 人格を産み出す目的でのヒトのクローニング

5.2.1 権利を侵害するという反論

人格を産み出すことを目標として行われるクローニングに対して、そのようなクローニングは生みだされる人格の何らかの権利を侵害することになるという根拠に基づいて、反対する人々もいる。この第一の種類の反論のうちで最も重要なバージョンは、先に考察されたようなものである。すなわち、無二な個体であるという人格の権利――もっと正確に言えば遺伝的に無二な個体である権利――、あるいは同一の遺伝組成を持つ個体の人生のあり方に関する知識によって制限を受けない開かれた未来を享受するという人格の権利、のいずれかの権利の侵害が存在する、というものである。しかし、先に提出した理由により、これらの反論はいずれも根拠の有効なものではないといえる。

5.2.2 『すばらしい新世界』式の反論

次に、学者の議論ではあまり出会わないが、一般報道ではかなりよく見られるタイプの反論があり、これは、奴隷としてあるいは独裁者の軍隊の狂信的な兵士として提供するために人間のクローンが大量に作られるという筋書きを含んでいる。しかしながら、このような筋書きはあまりもっともらしくは思われない。クローニングが可能になったとしたら、奴隷制を否定したことは実は間違いであったと社会が判断する、などということがありえるだろうか? あるいは、現在の市民から満足な軍隊を徴兵することができなかったような独裁者が、十八年後かそこらに、常に欲していた軍隊をついに手に入れることができるように、人々を大規模なクローニング計画に着手させることができる、なんてことが?

5.2.3 精神的苦痛

この反論は先の、権利を侵害するという反論と密接に関連している。というのも、この考え方は次のようなものであるからである。クローニングが、無二な個体である権利、あるいは無二な遺伝組成を持つ権利、あるいは開かれていて制限を受けていない未来を持つ権利、等の人格が持つ権利を侵害しない場合でさえ、クローンである人々は自分たちの無二性は損なわれている、あるいは未来が制限されていると感じるかもしれず、相当な精神的危害と苦痛を引き起こすかもしれない。

この反論を有効ではないものとして拒絶する二つの理由が存在する。第一の理由は、問題となっている信念――すなわち、クローンの存在によって自分の無二性が損なわれるという信念や、クローンが存在することを知れば自分の未来が制限されるという信念――について何が言えるか問いさえすれば生じるものである。我々が見てきたように、どちらの信念も誤ったものである。しかし、さらに、そのような信念が概して不合理であることも明らかで思われるのである。なぜなら、いずれかの信念を受け入れるのにどのような根拠がありうるかを考えるなら、遺伝的決定論――これに反する決定的な証拠が存在することは前に見た通り――のようなもの以外には考え難いからである。

精神的苦痛を生じさせる感覚が不合理なものであることに気付いてしまえば、クローンが存在するという知識が例えば個体性の感覚を損なうかどうか、あるいはもしそうであるならそのような損傷はクローニングによって侵害されるような対応する権利が存在すると主張するための根拠となるかどうか、という問題を扱った際に私が主張したポイントに訴えることができる。その際に私が論じたのは、個体が不合理な信念を持っているためにその個体に生じる危害は、不合理な信念の存在に依存しない危害とは異なった道徳上の地位を持つこと、そして特に前者の種類の危害の可能性は道徳的に他者を制限するものと考えられるべきではないこと、であった。そのような危害に対する責任は、むしろ、不合理な信念を持つ個体に帰されるべきであって、他人が負うべき責任は当の人格にその信念が不合理なものである理由を指摘することだけである。

ここで問題となっている反論が支持されえない第二の理由も、問題の感情が不合理であるという事実に関連している。なぜなら、その感情の不合理性は次のことを意味するからである。すなわち、一旦クローニングがかなりありふれたできごとになってしまえば、その感情はそんなに長い期間は持続しない、ということをである。というのは、次の例を考えてみればわかる。Johnが誰か他の個体のクローンであるとして、彼はもはや自分は無二の個体ではないと感じたり、自分の未来が制限されていると感じている、としよう。Maryもまた誰かのクローンであり、彼女は遺伝的に同一である元の人格と大変異なっていること、もう一人の人格が彼女の人生を生きたその生き方によって制限を受けたことはないこと、を彼に伝えるということがあるかもしれない。Johnはその場合、彼の不合理な信念に固執するだろうか? そのようにはどうも思われない。もしそうだとすると、生みだされるいかなる苦痛も長い期間持続するようなものではないだろう。

5.2.4 個体を目的自体として扱っていないということ

第四の反論は、人格のクローニング一般に反対するのではなく、ある一定の事例に向けられており――それはたとえば、命を脅かすような状態に苦しんでいる子供を救うことを可能とするために、その子供のクローンを両親が作る、というような事例である。この反論の要点は、そのような事例では個体を目的自体として見做していない、ということである。たとえば、このような事例に言及してPhilip Kitcherは「なかなか消えない心配が残っている」と述べ、さらに、そのような筋書きが「『汝の人格の中にも他の全ての人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない』 (五)というカントの命法と調和することができる」14かどうか問うている。


14 Ibid., p. 61.


この反論について何を言うべきだろうか? そのことを考える際に重要であると思われるのは、産みだされようとしている子供が自分の兄弟を救うために払わなければならない犠牲がどういうものかを明確にすることである。第4.8節でこの種の事例を提示した際に、骨髄移植が問題になっていると前提した。Kitcherは、彼の定式化では、腎臓移植だと想定している。腎臓を提供する場合には、骨髄の場合とは違って、提供者は将来の自分にとって不幸な帰結を受けるかもしれない犠牲を払うのであるから、これらの二つの事例について異なった見解が持たれるのも無理はないと私は思う。

そこで、問題を複雑にするこの要因を避けるために、骨髄の場合に話を限定しよう。そのような事例では、カントの命法は違反されるだろうか? もし、一方の子供を救うために骨髄が提供された後で、両親がもう一方の子を捨てたり、ちゃんと面倒を見なければ、違反があることになるだろう。だが、きっと、これはめったに起こりそうもないことだろう。結局のところ、人類の歴史とは主として、しばしば両親が決して裕福ではない状況に生まれてきた計画外の子供たちの歴史であるが、にもかかわらず、そういった子供たちは親から深く愛されるのが常である。

まとめれば、この種の事例は、仮定により、子供の幸福とは何らの関係もないような目標を抱いて両親が子供を得ることを決心した事例であるが、だからといってこのことは、子供を単に手段として扱って、目的自体としては扱わないだろうと仮定する理由にはならない。実際、逆にそのような子供が普通の場合と変わりのない愛され方で育てられると考える十分な理由が確かに存在するのである。

5.2.5 個人の自律性に対する干渉

私が考察する最後の反論は、これもまたPhilip Kitcherによって提出されたものであり、彼はそれを次のような形で述べている。すなわち、「もし、人類のクローニングがある特定の種類の人格を造り出すことを望んで企てられるなら、クローニングは道徳的に嫌悪されるものとなるだろう。その嫌悪は、クローニングが生物学的改造を含むからではなく、ヒトの自律性に干渉するという理由から生じるのである。」15


15 Ibid., p. 61.


この反論は第4節で私が述べた、人格のクローニングが正当化される事例のすべてに対して当てはまるわけではない。しかしながら、その内の多くには当てはまる。この反論は有効だろうか? 私には、そうとは思えない。第一に、「ある特定の種類の人格」を生みだすことが目標であるような事例の中には、目標とされているのは単にある種の可能性を持つだろう人格にすぎないものがあることに注意しなければならない。たとえば、両親は知的探求を楽しむことができるような能力を持つ子供が欲しい、のかもしれない。それに関連した能力を持つことによって、子供たちがそのような探求に人生を費やすよう強制されることはないのであって、それゆえ、そのような目標でのクローニングがヒトの自律性にどのように干渉するというのか、理解し難いのである。

第二に、目標が、幅広い領域の物事を為す能力を持つだろう人格ではなく、ある種の方向に傾向付けられるような個体を産み出すことにあるような事例を考えてみよう。おそらく、Kitcherがヒトの自律性への干渉について語る時に念頭にあるのはこの種の事例だろう。しかし、ある種の方向に傾向付けられ、その他の方向には傾向付けられないような人格を造り出すことは本当に道徳上問題があるのだろうか? この問題に答えるためには、具体的な事例を考える必要がある。特に、私が先に述べたような事例を考えてみよう。たとえば、遺伝組成によって関節炎のようなひどい痛みを引き起こす状態や、ガンや高血圧や卒中や心臓発作のような命にかかわる病気、に苦しまない傾向を持つ個体をクローニングによって産み出そうと試みることは道徳的に不正だろうか? あるいは、快活な気質を持つ個体や、あるいは鬱病や不安や分裂症やアルツハイマー病への傾向を持たない人格、を産み出すことは?

Kitcherその他が、いま示されたような仕方で生まれつき傾向付けられるような個体を産み出そうと試みることがヒトの自律性への干渉に当たると主張しようとしている、ということはありそうにないと思われる。しかし、それでは、それらの特性を持つ人格を造り出そうとする試みがヒトの自律性の侵害に当たるような特性、とは何であろうか? おそらくKitcherは、ある特定の種類の人を造り出すことについて述べるときには、人格の持つすべての特性についてを考えているのではなく、もっと狭く、人格特性や性格の特性やある種の関心を持つというようなことについて考えているのではないだろうか? しかし、さらにそのような特性を持つ人格を造り出す試みに関して道徳的に問題のあるものが存在するかどうかを問うてみることができる。人格特性の中には、望ましく、子供がそれらの特性を伸ばすことを両親が普通は促進するようなものがある。性格特性character traitsの中には美徳であるものがあり、別に悪徳であるようなものもある。そこで、両親と社会の両方が美徳の獲得を奨励し、悪徳の獲得を防止しようと試みるのである。最後に、多くの関心――音楽や芸術や数学や科学やゲームや肉体的活動への関心――は人生の質に大きく寄与するのであり、ここでもまた、両親は子供を適切な活動にたずさわらせ、それらの追求を楽しむことができるようになる習熟レベルに達するのを助ける、のが普通である。そこで結論は次のようになる。もし、ヒトの自律性の侵害であるという理由で、さまざまな人格特性や性格の特性を持つ見込みがより大きい人々や、ある種の関心を持つ見込みがより大きい人々、を産み出すことを目標とするクローニングが不正であるなら、ほとんどすべての親たちの子育ての行いはそれと全く同じ根拠に基づいて非難されるだろう。しかし、そのような主張は間違いなく直観に大きく反する。

しかしながら、さらに、ここで直観に訴えることで十分だとする必要はない。同じ結論が多くの高次元の道徳理論から導かれる。たとえば、もう一度Rawls的な無知のベールに包まれて、子育ての方法に関して異なる複数の社会から一つを選択する、としてみよう。子供達が自分達の幸福に寄与するような人格特性を発達させるのを奨励しようと両親が試みないような社会を選択することは合理的だろうか? あるいは、道徳的に正しいように行動する傾向を子供に植え付けようと親達がしない社会は? あるいは、子供にさまざまな興味を伸ばさせようと親達がしない社会は? 平均して生きる価値が少なくなるような人生を送る見込みが大きい社会を選ぶことになるように思われるのであれば、そのような選択が合理的であるとはとても言い難い、と私には思われる。

ゆえに、私は次のように結論する。Philip Kitcherが主張したこととは反対に、クローニングの筋書きのほとんどは道徳的に嫌悪すべきものであるということはなくて、とりわけ、特定の属性を持った子供を造り出すことを目標とすることについては、一般に、道徳上の問題を含んだものは全くないのである。

要約

この小論では、私は人類のクローニングに含まれる二つの大きく異なった事例を区別した。つまり、一つはクローンが作られる元の人々のための臓器バンクとして提供するために精神を持たないヒトの有機体を産み出すことを目標とするもので、もう一つは人格を造り出すことを目標とするものである。前者に関しては、出されうる反論は、人工妊娠中絶に反対して出される反論と全く同じものであり、上で手短に概略を示した理由によって、それらの反論は有効ではないことが示されうるのである。

人格を産み出すことを目標とするクローニングの場合には、全く別の反論が生じる。クローニングのこの二番目の種類のものについては、そのようなクローニングが原則として道徳的に許容できるかどうかという問いと、現時点においてそれが許容できるかという問いを区別することが重要である、と私は論じた。後者の問いに関して、人格を産み出すためのクローニングの現時点での利用は道徳的に問題があるだろう、と論じた。それに対して、その種のクローニングが原則として道徳的に許容できるかどうかという問題に関しては、まず第一に、その種のクローニングはそれ自体としては不正でないことを論じ、第二に、人格のクローニングが望ましい理由をいくつか述べ、第三に、そのようなクローニングに向けられた反論は支持することができないことを論じた。

私の全体としての結論は、要するに、次のようになる。人類のクローニングは、精神を持たない臓器バンクを生み出すためでも、人格を産み出すためでも、どちらも原則的に許容できるものであり、潜在的に社会にとって非常に有益なものである。

Professor Michael Tooley
Department of Philosophy
University of Colorado at Boulder

REFERENCE


訳注

(一) 以下では、humanには「ヒト」、human beingには「人間」、personには「人格」、の訳語を与える。ただし、personが「人格」の意味で使われていない個所では、「人物」等の訳語を与えた個所もある。「人格」という用語は、重要でありながら、本文中では定義されないが、Tooley教授は次のような意味で使っているとのことである。

It is my intention always to use the term "person" to refer to entities that have certain psychological capacities -- though I also include entities that no longer have those capacities -- due to some sort of brain damage -- but where the brain damage could in principle be repaired.(訳者の質問に対するTooley教授の返信より、Tooley教授の許可を得た上で転載)
また、「人間」は「生物学的に定義されたHomo Sapiensという種の一員」と して使われている。

(二) Tooley教授に問いあわせたところ、「上位脳」upper brainという言葉は学術用語ではないが,「大脳」cerebrumの意味で使われているとのことである。

(三) 99ページのTooley教授による修正を参照のこと。

(四) ここの表現は、曖昧である。Tooley教授に確認したところ、生物学用語に通じていない読者に対する配慮と、表現がくどくなるという配慮から、簡潔に書いたとのことである。ここで述べられている想定を正確に記述すると、「いかなる相同染色体のペアの上にある、互いに対応する遺伝子座のいかなるペアにおいても、遺伝子または対立遺伝子が一致している」というものになる。

(五) この引用部分の訳は、野田又夫責任編集 世界の名著『カント』p. 274の該当部分から引用した。


トゥーリー教授による修正

翻訳作業中に、トゥーリー教授から脚注1に変更を加えたい、という連絡を受けたので以下に掲載する。

Donceel, J. F. (1970) Immediate animation and delayed hominization. Theological Stud. 31, 76-105. Donceel refers to Rahner, K. (1967) Schriften zur Theologies 8, 287. 多くの場合流産の可能性は15%前後とされるので、50%という数字は高いように思われるかもしれない。しかしながら、15%というのは、そうと気付かれた流産だけの数字であるのに対し、DonceelとRahnerの議論は自然流産全体に関するものなのである。数字に関しては、Moore (1993, ch. 3, pp. 48-52)では次のように述べられている。「初期の妊娠中絶の頻度を見積もるのは難しい。なぜなら、しばしば女性が妊娠したことに気付く前に起こるからである。」しかしながら、Sadler (1995, ch. 2, pp. 34-36)は自然流産の全体数の推定に関して次のように述べている。「推定では、全妊娠の50%までが自然流産に終わり、その内の半分が染色体異常によるものである、と思われる。」

また、この変更に関連して関連文献にも追加がある。

REFERENCEの追加

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