ヒュームにおける所有決定規則の検討

奥田太郎

ヒュームの所有に関する議論は、主に『人間本性論(A Treatise of Human Nature)』(以下THN)第3巻第2部第2節から第4節、及び、『道徳原理研究(An Enquiry concerning the Principles of Morals)』(以下EPM)第3節および補遺第3節に見られる。ヒュームの所有論は、理論的に大きく二つの局面にわけることができる。すなわち、所有の成立条件に関する議論と、所有の決定規則に関する議論とである。前者では、所有を所有たらしめる条件が問われ、所有の外枠が形成される。後者では、形成された所有の外枠に入るべき具体的な内容が問われ、その内容の決定規則が問題とされる。本論の主要な目的は、後者の決定規則に関するヒュームの議論の詳細な検討であるが、ひとまず、前者の成立条件に関する議論を整理して、問題となる所有とはいかなるものであるのかを明らかにしておこう。

1. 所有の成立条件

ヒュームの道徳論において、所有の成立条件に関する議論は、正義の成立条件に関する議論と一致する。その条件とは、大まかに言えば、利己性および限られた寛大さという人間本性と、財の稀少性および不安定性という環境的要因とであり、これらの条件から所持の安定という第一の正義の法が導出される。そして、広い意味での自己利益を追求する合理的な人間が、この正義の法をコンヴェンションを通じて受け入れることで、この法は拘束力を付与される。以下、こうしたヒュームの議論の中から、所有を所有たらしめている条件を明らかにする。

1-1

所有対象の条件所有の成立条件に関する問いは、所有主体と所有対象になりうるための事実的条件という形で問うことができる。まず、所有主体になりうるのは、利己性や限られた寛大さといった人間本性を備えた主体である。完全な利他性を発揮する主体しかいない集団では、社会の安定を問題にする必要がなく、所有も問題視されない。だからといって、利己性しか持ち合わせていない主体しかいない集団では、安定した社会を築くことは不可能であり、やはり所有は問題とならない。ある程度の利己性と、不十分ながらも寛大さを兼ね備えた主体の集団において、はじめて所有が問題となるのである。

次に、所有対象について、ヒュームは3つの財を候補に挙げる。

我々の所持する財には3つの異なる種類がある。すなわち、我々の心の内的満足、我々の肉体の外的長所、そして自らの精励と幸運によって獲得した所持物の享受である。第一の財の享受は完全に保障されている。第二の財は、我々から強奪することもできるが、それを奪った者の長所になることはありえない。ただ最後の財のみが、他人の暴力にさらされ、かつ、何の損失も変更も被らずに転移されうる。同時に、その財の量はすべての人の欲求と必要を補うのに十分ではない。それゆえ、こうした財の増進は社会の主要な利益であるが、同時にまた、それを所持する上での不安定さとその稀少性は主要な障害なのである。(THN pp. 487-8)

この言及を経て、ヒュームは、心、身体、外的財の3つの所持可能な財のうち、外的財のみを所有対象の資格をもつものとして認める。なぜなら、外的財のみが、「他人の暴力にさらされ、かつ、何の損失も変更も被らずに転移されうる」がゆえに、所有確立の主要な目的である社会の安定に強い影響を及ぼすからである。外的財が他の二種類の財と決定的に違っているのは、他人の暴力にさらされるかどうかというよりむしろ、何の損失も変更も被らずに転移されうる点である。この点こそが、所有対象としての財に求められる事実的条件の一つだと言えよう。私はこれを「保存転移可能性」と呼びたい。ちなみに、財が土地である場合には、物理的には動かせないとはいえ、その土地を所持する人が変わったとしても次の所持者が何の損失も変更も被ることなくその土地の利益を享受しうるなら、その土地は保存転移可能であると考えてよい。

さて、この保存転移可能性は、所有対象であるための必要条件ではあるが、十分条件ではない。例えば、道端の小石は、保存転移可能であるが、それだけで所有対象として扱われるとは通常考えられないからである。そこで、再びヒュームの言葉に注目すると、「すべての人の欲求と必要を補うのに十分ではない」という外的財の稀少性が指摘されていることに気付く。

誰もがすでに十分すぎるほどのものを手にしている場所で、財の分割を行う目的が何かあるだろうか。何の侵害も起こりえないような場所で、どうして所有権が生じようか。ある対象が他人に奪われても、等しく価値あるものを所持するのに自分の手を伸ばすだけで事足りるようなときに、どうしてその対象を私のものと呼ぶだろうか。そのような場合、正義は、完全に無用なので、無益な儀礼となり、決して徳の項目に名を連ねることはありえないだろう。(EPM p. 184)

財が豊富で個々の財に固執する理由がないような状況の中では、「私のもの」や「あなたのもの」を確定する必要がない。したがって、所有は問題にならない。財に限りがあり自分の手元に確保しておく必要がある場合に、はじめてその財に対する所有の確立が要求されるのである。つまり、稀少性もまた、ある財が所有対象たりうるための事実的条件である。

では、一体どの程度少なければ、その財は所有対象に値する程に十分稀少だと言えるのだろうか。おそらくこれを明確な数字として提示することは不可能である。考えうる限りで妥当な解答は、我々が一般に稀少だと感じる程度に稀少であればその財は所有対象に値する、というものであろう。これは、ヒュームが共感原理やコンヴェンションの議論の中で見せる姿勢と一致すると思われる。この解答が妥当なら、所有対象の条件としての稀少性は、その物理的数量に関するものに限られないことになる。例えば、愛着に由来する稀少性も考慮に入れられて然るべきである。無数に存在する財も愛着によって「かけがえのないもの」に変質し、それが稀少な財として扱われることもあるからである。

さて、逆に、財が稀少にすぎるような極限状況では、自己保存への欲求が強烈に働いて、所有権は無効になる、とヒュームは指摘する。(EPM p. 186) ここでヒュームは、我々の生命に関わるような財の過度の稀少性について述べているのだが、このヒュームの指摘の妥当性は、財の種類によって左右されるように思われる。確かに、所有制度は社会の安定のために確立され、社会の安定は究極的には自己利益のために要求されるので、生命に関わる財がきわめて稀少で、所有制度の存続が自己の生存を脅かすような状況下では、所有制度はその存在根拠を欠くことになるだろう。だが、生存のための財は適度な量で存在しており、生命には関わらないが価値のある財が極端に稀少な場合には、所有権は、無効になるよりむしろ、「誰がそれを所有すべきか」という形で大きな問題となると思われる。

さて、稀少性もまた、保存転移可能性と同様に、ある財が所有対象たりうるための必要条件ではあるが、十分条件ではない。いくら稀少であっても、必要のないものに対して所有権を要請することは無意味だからである。我々がある財に対して必要性を感じるからこそ、その財の所有が問題となる。そこで、3つ目の条件として、必要性を挙げることができるだろう。とはいえ、すでに述べたように、必要性の条件を満たす財であっても、大量に存在し代替がきくものであれば(すなわち、稀少性の条件を満たしていなければ)、所有対象にはならない。したがって、必要性もまた必要条件であって十分条件ではない。

まとめると、所有対象に値する財の条件は、保存転移可能性、稀少性、必要性の3つであり、これらはそれぞれ所有対象の必要条件である。いずれか1つが欠けていても所有対象たるに十分な財ではない。しかし、3つ全てを兼ね備えた財であれば、所有対象たるに十分であろう。このことは、その増進が社会の利益となり、同時にその不安定さと稀少性が社会の障害となる財というヒュームが所有対象に値する財に与えた性格から導き出される。これら3つの条件がすべてそろっていることが、ある財が所有対象になりうるための必要十分条件である。したがって、所有の対象となる財が持つ性質としてこれら三者を挙げることができる。ただし、この性質は、まだ財が所有物という価値規範的性質を得る前の事実的性質である。

1-2 所持の安定

次の問題は、前節で明らかになった条件を満たす財に対して、どのような規範がいかなる根拠に基づいて適用されうるのか、である。いかにして所有制度が成立し、所有制度の成立によって、上記三つの条件を満たす財について一体何が保障されるのだろうか。

ヒュームによれば、人間が生まれつき有する能力は限られており、人間は、一人で生きることはできず社会を必要とする。現に人間は生まれてから家族という小さな社会の中で育てられるので、社会の有用性をよく知っている。しかし、人間は、全ての人々に対して愛情を注げるほど利他的ではなく、せいぜい自分の身内に対する程度の限られた寛容さを持つのみであり、基本的には自己利益を追求する利己的な存在である。他方、人間に必要な外的財は、稀少で、なおかつ他人の手に渡りやすい。こうした人間本性と人間を取り巻く外的環境とが結びつくことで、社会の維持は困難となる。社会を安定させるには、まず何らかの仕方で所有を安定させねばならない。しかし、我々は、その方法を自然に備えているわけではなく、他ならぬ人為を通じて得るしかない。その人為とは、社会の全ての成員が加わるコンヴェンションである。

> このコンヴェンションは、約束の性質を持つものではない。というのも、後に見るように、約束それ自体でさえも人間のコンヴェンションから生じるからである。それは、共通の利益の一般的な感知に他ならない。社会の全成員はこの共通の利益の感知を互いに示し合い、その感知に導かれ一定の規則によって自らの行動を規制する。私は、他の人に彼の財を所持させておくことは、もし彼が私に関して同じように行為するのなら、私の利益になるだろう、と観察する。彼も自らの行動を規制することに同じ利益を感じとる。こうした利益の共通感知が相互に示され合い、両者に知られるとき、その感知によって適切な決意と振る舞いが生み出される。(THN p. 490)

こうした人為を通じて、社会の秩序に不可欠な所持の安定という第一の正義の法が打ち立てられる。所持の安定が保障されることで、社会は維持され、ようやく所有制度は成立する。このヒュームの説明で重要なのは、所有制度の主たる成立要因としてコンヴェンションが挙げられていること、および、「他人の財に干渉しない」という所有制度の原則が示されていることの2点である。この2点について、ヒュームはさらに次のように述べる。

このコンヴェンションが他人の所持物に対する節欲について成立し、誰もが自分の所持物の安定を獲得した後、ただちに正義と不正義の観念が生じる。また、同様に所有、権利、責務の観念も生じる。後者は、前者をまず理解しなくては、まったく理解不可能である。我々の所有物とは、社会の法、すなわち、正義の法によってその恒常的所持(constant possession)が確立された財に他ならない。・・・ある人の所有物とは、その人と関係のある何らかの対象である。この関係は、自然的関係ではなく、道徳的関係であり、正義に基づいて築かれるものである。(THN pp. 490-1)

最後に述べられているように、所有の関係は、自然的関係(事実的関係)ではなく道徳的関係(規範的関係)である。また、ヒュームがここで所有を「社会の法によって確立された恒常的所持」と呼んでいることに注意されたい。所有は、コンヴェンションを通じ社会の法(すなわち「他人の所持物に手を出してはならない」という正義の法)によってその安定が保障されることで、単なる事実としての所持とは一線を画する価値規範としての所有たりうるのである。そして、ここで言われる「恒常的所持」とは、ずっと持ち続けている、という時間的な恒常性よりむしろ「排他的所持」を意味していると考えた方がよい。なぜなら、社会の法が確立しようとするのは、「他人の所持物に手を出してはならない」という第一の正義の法から明らかなように、所持の単なる時間的な恒常性ではなくて、「他の人に奪われることなく自分だけが享受できる」という所持の排他性だからである。むしろ、時間の長短や頻度の高低とは無関係に、常に自分だけがそれを享受してよい、という排他性が規範的性質として保障されるからこそ、時間的な恒常的所持もまた所有とみなされうるのである。したがって、排他性は、コンヴェンションによって所持に与えられる基本的な規範的性質であり、所有を構成する本質的要素である。

1-3 承諾による所有の移転

ヒュームによれば、所持の安定は人間の社会にとって実に有益で必要ですらあるものだが、同時に非常に重大な不都合を伴う。その不都合とは、安定させた所持物が、人々の必要や欲求に反する場合があることなどである。だからといって、所有権の所在を流動的であいまいなものにするのは、それ以上に望ましくない。

したがって、正義の規則は、厳格な安定と、こうした変わりやすく不確かな調整との間の何らかの中間項を模索する。しかし、所持や所有は、所有者がそれらを誰か他の人に与えることに同意する場合を除いて、常に安定させるべきである、という明白なもの以上によい中間項は存在しない。この規則は、戦争や紛争を引き起こすといった悪い帰結をもたらしえない。というのも、ただ一人の関係者である所有者の承諾が譲渡(alienation)に際して伴われるからである。そして、この規則は、所有物を人々に適合させる点で、多くのよい目的のために役立つ。(THN p. 514) [強調:奥田]

この後でヒュームは、承諾による所有の転移は、承諾のない場合の所有の安定と同様に、ある種の自然法(a law of nature)に基づく、と述べ、また、別の箇所でこの規則自体を「基本的な自然法」とも称する(THN p. 526)ので、この規則を第二の「自然法」(正義の法)と呼んでもよい 1。ちなみに、引用箇所の最後で言われている「多くのよい目的」としてヒュームが挙げているのは、相互交換や通商、適材適所による個人と社会の発展などであり、これらのことからもたらされる様々な有益性も「承諾による所有の転移」の規則の根拠づけを与えうる。


1 ヒュームの場合、「自然」に様々な意味が与えられているが、ここでの「自然」は、人間である限り不可欠な、という意味での「自然」だと捉えなければならない(THN p. 484)。Haakonssen 1978によれば、ヒュームの記述では、「自然的(natural)」は「奇跡的な(miraculous)」「普通でない(unusual)」「人為的な(artificial)」「市民的な(civil)」「道徳的な(moral)」の5つに対比されている。


所有は、コンヴェンションを通じて確立された規範であり、それについて変更を加える権限を持つのは、ただ一人コンヴェンションによって排他的所持を承認された所有者のみである。所有権は所有者だけに排他的に認められるので、その所有権を廃棄する行為である「譲渡」を実行することができるのは所有者しかいない。つまり、所持の排他性を認められた所有者だけが譲渡可能性を有する。

しかし、発生的な順序を度外視して、所有の本質的性質を考えたときには、むしろ、所有者は、譲渡可能性を有することによって、その所持に排他性を与えられている、と言えるのではないか。すなわち、排他性から譲渡可能性が生じるのではなく、譲渡可能性から排他性が生じる2。「これ、あげるよ」と言えることが、逆に自らの所有(排他的所持)を保障しているのである。したがって、少なくとも、譲渡可能性は、所有にとって単なる副次的な性質なのではなく、排他性に並んで所有の本質を構成する基本的な規範的性質に他ならない、と言うことはできるだろう。(表1)

表1:所有の構成的要素

2 加藤1993にも同様の議論がある(pp. 75-90)。また、譲渡可能性を重視するものとしてSnare1991がある。


2. 所有決定の規則

この章では、これまでの所有の成立条件に関する議論を踏まえて、もう一方の所有の決定規則を検討する。前の章で「所持の安定」という形で漠然と外枠だけ定められた所有の規則が、実際に効力を持つためには、それを特定化する基準が問われる必要がある。ヒュームは、その基準を確立する根拠として、それを採用することの有用性だけでなく、人間本性の原理の一つである想像力の果たす働きに注目する。以下、ヒュームの議論を丁寧に追った後、そこから抽出されるモデルを提示し、そのモデルの各々を検討する。

2-1 5つの所有決定規則

ヒュームは、「所持安定」の規則について論じた後に、その規則が一般的な言葉で語られるままでは無用の長物であることを指摘する。

それぞれ特定の人物に割り当てられるべき特定の財を区別して、残りの人々をその財の所持あるいは享受から排除するための何らかの方法が明示されなければならない。したがって、我々の次の仕事は、この一般的な規則を修正する根拠を発見し、その規則を世間の通常の使用や実践に適合させることでなければならない。(THN p. 502)

ヒュームによれば、所有権の所在を特定する根拠を明らかにし、それに基づいて社会のすべての成員によって受け入れられるような規則を提示することが必要である。しかし、人々は感情的で偏見に左右されやすいため、所有割り当ての根拠を個別的な有用性や好適性に求めれば所有の規則は不安定なものとなり所有をめぐる争いが生じてしまう。これは、所有を安定させることによって軋轢や争いの機会を排除し社会の平和を実現するというコンヴェンションの目的に反する。言い換えれば、個々の有用性に固執することで、正義の法によってもたらされるはずのより大きな有用性に反することになる。すでに見たように、我々は自己利益追求の欲求から「所持安定」の規則を受け入れたのだから、その規則の有用性を喪失させるような選択をするのは賢明ではない。したがって、所有決定の規則は、状況に依存しない形で一般的に適用されうるものにならざるをえない(THN p. 502)。

そこで、仮に、何人かの人間が集まって新たに一つの社会をつくろうと試みる場合を想定してみる。この場合に、そこに居合わせた人間なら一体どのような一般的規則を無理のないものとみなすだろうか。ヒュームの出した答えは次のようなものである。

人々は、最も自然な便法として、各人が現在保持しているものを享受し続けること、そして、直接の所持を所有すなわち恒常的所持と連接することを直ちに思いつくに違いない。習慣の作用こそが、我々が長い間享受してきたものを我々と調和させるだけでなく、それどころか、それに対する愛情を我々の心に起こさせ、もっと価値はあるが我々にあまり知られていないものよりもそれを選好するようにさせる。(THN p. 503)

このように、ヒュームは、「現在所持しているものを全員が享受し続けるべし」という規則、つまり、「現在の所持(present possession)」を我々の通常の感覚に見合う最初の所有の規則として提示する。我々は、習慣の作用によって、まだ得たことのないものよりも馴染みのあるものを選ぶのが普通なのである。また、それぞれが現在直接手にしているものを自分ものにする、という規則は、個別的な有用性を考慮せず一般的に適用可能である。こうした事実に基づいて、「現在の所持」の規則は妥当なものとして我々に受け入れられる。

しかし、この規則は、社会を安定させるための当座の便宜に過ぎない。現在所持しているものはいいとしても、まだ誰も所持していないものについてはどのように所有が決定されるのか。この「現在の所持」の規則ではこの問いに答えることができない。そこで、まだ誰も所持していないものについては、「常に我々の注意を最もよくひく」という理由から、「最初に所持した者がそれを所有せよ」という規則(「先占(occupation)」)を適用するのがよい、とヒュームは提案する。(THN p. 505)

ヒュームは、この2つの規則を所有の決定規則の最も基礎的なものだと考えている。ところが、現在の所持と先占には、「所持」の条件と範囲という事実認識に関する問題がある。所持の条件の問題とは、現在の所持ないしは最初の所持というとき、いかなる条件がそろえば「所持している」といえるのか、という問題である。そして、所持の範囲の問題とは、その「所持」は一体どこまで及ぶのか、という問題である。前者については、例えば、あるものを直接手にしていることや、それを自由に取り扱う力があることなどが条件として挙げられるだろう。しかし、「自由に取り扱う力がある」とは一体いかなる状態を指すのか。その答えは実はそれほど明確ではない。

・・・この点について、何らかの対象を使用する力の確実性は、我々が経験する使用の中断の蓋然性に応じて増減する、ということが観察されるだろう。そして、この蓋然性は気づかれない度合いで増加するので、多くの場合、いつ所持が始まりいつ終わるのかを決定することは不可能である。また、我々がそのような論争に決着を付けるための確実な基準は何一つ存在しない。(THN p. 506)

ヒュームは、ここで蓋然性に触れ、理性による事実認識のみでは所持している状態と所持していない状態の境界を一義的に決定することはできず、それを決めるのは想像力(imagination)の働きに他ならない、と結論する。「所持」とは人と対象との間のある種の関係であり、人と対象との間の類似や近接などの関係あるいは観念の連合によって想像力が動かされ、その働きによって「所持」の条件が決定されることになる。

所持の空間的範囲もまた想像力によって決定される。ヒュームの挙げる例は、大きな島と小さな島の所有の問題である(THN p. 507)。仮に、先占の規則が適用される場面だとしよう。一人の男がある島に初めてたどり着いた。この時、その男はその島全体を最初に所持したことになるのだろうか。ヒュームは、一般に、人々は、その島が小さい島である場合はその男の所持を認め、大きい島である場合はその男の周辺の土地にのみ所持を認めるはずだと考える。この事実判断は、人々が人間本性として有する想像力の働きに基づくのである。

それでは、所持の時間的範囲についてはどうなのか。時間がたつと最初の所持者が不明瞭になることはよくある。また、最初の所持者が何らかの理由でその所持物を失い、別の人が現在それを所持している場合に、その所持物はどちらの所有として認められるのか、という問題もある。この問題を解決するための規則として、ヒュームは、「時効(prescription)」の規則を提示する。

現在の所持は、容易にわかるように、人と対象との関係である。しかし、その所持が長期間続かず中断されているとすれば、この現在の所持は、最初の所持という関係を打ち消すには不十分である。他方、現在の所持の関係が中断されずに長期間続いている場合には、その時間の長さによってその関係が強められ、時間の隔たりによって最初の所持の関係が弱められる。関係におけるこうした変化は結果として所有権の変化をもたらす。(THN p. 509 n.)

この規則は、我々の想像力の働きによる観念の連合によって得られる事実認識ゆえに無理なく受け入れられるものである。ただし、所持の時間的範囲に関する事実認識において、どの程度の期間ならば「長期間」だとみなしうるかは、空間的範囲の場合と同様、理性によって一義的に決定される問題ではなく、やはり、想像力によって決定されるところが大きい、とヒュームは考える。

これで「現在の所持」、「先占」、「時効」の3つの規則が出そろったわけだが、これらの規則は、人と対象との関係を所有の関係に変化させるタイプのモデルとして統一できるだろう。すなわち、

P1:ある主体とある対象との間の関係が、(1)現在所持しているという関係か、(2)最初に所持したという関係か、(3)長期間所持しているという関係のいずれかであるとき、その関係は所有の関係とみなされる。

次に、ヒュームは、上記3つの規則によって所有がある程度決定された後、その所有物に何らかの関係を持つ対象の所有はどのようにして決定されるのか、について考察を進める。そこで、すでに我々の所有物である対象と親密に結びついているものやその下位にあるものは我々の所有になる、という「添附(accession)」の規則が提示される(THN p. 509)。この規則に従えば、例えば、自分の庭になる果実や自分の家畜の子供は実際に所持する前から自分の所有物だとみなされる。この場合にも、想像力の働きは重要な役割を果たす。つまり、親密な関係を有する複数の対象は、その関係ゆえに想像力によって同根、同質だとみなされ、人との間に新たな所有の関係を付与されることになる。そして、「添附」の規則は、次のような第二のモデルとして定式化できる。

P2:ある主体とある対象との間にすでに所有の関係が成立しているとき、その対象との間にある特定の関係を持つ別の対象もまた、その関係ゆえにその主体との間に所有の関係を持つとみなされる。

続いて、ヒュームは、「相続(succession)」の規則を提示する。

相続の権利は、親や近親の承諾が推定されるがゆえに、そして、人類の一般的利益ゆえに、非常に自然な権利である。人類一般の利益は、人々をより勤勉でつましく生きさせるために人々の所持物を自分の最愛の者に渡すべきだ、と要求するのである。これらの原因は、おそらく、関係の作用である観念の連合によって支持される。こうした観念の連合によって、我々は、親の死後は息子を考え、息子にその父親の所持物に対する権限を帰するように自然に仕向けられるのである。(THN p. 510-2)

もちろん、この規則も、他の規則と同様に、想像力によって見いだされる事実に基づいて、一般的に適用できるものとして我々が無理なく受け入れることができるものだ、とヒュームは考えている。この規則からは、次のような第三のモデルが抽出されうる。

P3:ある主体とある対象との間にすでに所有の関係が成立しているとき、その主体との間にある種の関係を持つ別の主体が、その関係ゆえに、その所有物との間に所有の関係を持つとみなされる。

以上3つのモデル3を図式化すると次のようになる

所有決定の3つのモデル

(図1)。


3 これら3つのモデルは、Harrison 1981 p. 88の解釈に示唆をうけて奥田が図式化したものである。


もちろん、ヒュームが示唆する通り、彼の掲げた5つの決定規則は様々な例のうちの一つとしてのみ提示されるもので、内容が必ずしもこのようになるとは限らない。とはいえ、想像力を鍵として人と対象との関係から所有決定規則を捉える思考の枠組みの中では、どのような規則であれ、この3つのモデルのいずれかに集約される、と考えてよいだろう。

2-2 P1の検討

では、3つのモデルを個別的に検討していくことにしよう。まず、P1をもう一度確認しておく。

P1:ある主体とある対象との間の関係が、(1)現在所持しているという関係か、(2)最初に所持したという関係か、(3)長期間所持しているという関係のいずれかであるとき、その関係は所有の関係とみなされる。

(1)から(3)までの関係が一つの例に過ぎないと考えられるのであれば、P1は、もっと一般的な形に定式化されて次のようになるだろう。

P1':ある主体とある対象との間にある特定の所持関係が存在しているとき、その関係は所有の関係とみなされる。

このモデルは、所有を決定する上で最も基本的な規則を構成する。ここで検討すべき問題は、ある主体とある対象との間にある所持という事実的関係と所有という規範的関係とがなぜ結びつくのか(図1のαが何であるのか)、そして、その結びつきの根拠に基づいて、一体いかなる所持関係が所有と結びつくのにふさわしいと言えるのかである。ヒュームは、規範的関係である所有と事実的関係である所持の相違点について次のように述べている。

・・・我々が所有権と呼ぶ性質は、ペリパトス派哲学の多くの想像的性質に似ており、我々の道徳感情(moral sentiments)と切り離して考慮された場合、この主題をいっそう精密に検査した途端に消失するのである。明らかに、所有権は対象の感知可能な性質のいずれにも存しない。なぜなら、所有権が変化しても感知可能な性質は変動なく同じであり続けるからである。それゆえ、所有権は対象の何らかの関係に存するはずである。しかし、ある対象の、他の外的で生命のない対象に対する関係には存しない。なぜなら、所有権が変化しても、外的で生命のない対象はやはり変動なく同じであり続けるからである。それゆえ、所有権という性質は、知性を備えた理性的存在者に対する対象の関係に存する。・・・したがって、所有権は何らかの内的関係に存する。つまり、対象の外的関係が心や行為に及ぼす何らかの影響に存する。例えば、先占すなわち最初の所持と呼ばれる外的関係はそれ自体では対象の所有権と想像されることはなく、所有権を引き起こすと想像されるだけである。ところで、この外的関係が、外的対象のうちには何も引き起こさず、ただその対象に対して節欲し最初の所持者にそれを返却する義務の感情を我々に与えることでのみ、心に影響を及ぼす、ということは明らかである。(THN p. 527)

「外的関係」とは、我々の理性に関わる物理的な(事実的な)関係を意味し、「内的関係」とは、我々の情念に関わる価値規範的な関係を意味する。ある対象を最初に所持したという外的関係(「先占」の関係)そのものを認識するだけでは、その対象を所持することが正しいか不正かはまったく問題にはならない。しかし、この所持の関係に対して我々が「この関係に基づいて所有を安定させねばならない」という義務の感情を抱くとき、その関係は所有という内的関係となる。この義務の感情は、人々が事実認識に基づいて所有の規則を受け入れることで生じる拘束力に共感と道徳感情によって道徳的な性格が付与されたものである。その際、「所持安定」の規則と同様に、所有の決定規則を人々が受け入れる主要な根拠の一つは、その規則がもたらす有用性の考察である。しかし、ヒュームによれば、所有の決定規則受け入れの根拠は有用性の考察に限られない。

・・・もちろん所有を決定する諸規則の大部分には公共の利益という動機が存在するとはいえ、それでもなお、私は、これらの規則が主に想像力すなわち我々の思考や想念の比較的とるに足らない性質によって規定されるのではないかと思う。(THN p. 504 n.) (強調:奥田)

所有の規則の受け入れに際する有用性についての論究は多々目にするが、そこにおける想像力の重要性を説くものは珍しい。そこで、私は、人々が所有決定の規則を受け入れる際に依拠する事実認識の中で想像力は一体どのような働きをするのか4 、という点を重要な論点として採り上げたい。P1'においては、ある主体とある対象との間にある所持という外的関係が所有という内的関係に結びつく際に想像力が果たす役割を吟味する必要がある。


4 ヒューム哲学における想像力の役割に関する詳細で包括的な分析と解釈を行っているものとしては、Brand 1992。


ヒュームは、所有と外的関係との結びつき方を考える上で参考になると思われる想像力による錯誤について、次のように述べる。

私が人間本性のうちにすでに観察しておいた性質とは、二つの対象が互いに緊密な関係において現れると、心は両者の結合を完成するために両者に付加的な関係を帰する傾向があり、また、この傾向は非常に強いので、もし結合という目的に役立ちうるとわかれば、それによって我々は(思考と物質の連接の錯誤のような)錯誤にしばしば陥る、というものである。我々の印象の多くは、場所あるいは局所的位置を持ちえない。だが、我々は、そうした印象と視覚及び触覚の印象とが因果性によって連接され想像力によってすでに結合されている、という理由だけで、両者が場所的結合を持つと想定する。(THN p. 504 n.)

例えば、リンゴを食べると味がするという因果的な関係があると、我々は想像力によってリンゴの見た目や歯触りの印象(これは場所を持つと考えられる)と味の印象(これは場所を持たず我々の感覚の中にのみ存在する)とを結びつけ、味があたかもリンゴの中に存在しているかのように考える。つまり、リンゴの印象とリンゴの味の印象との間にあった因果関係の上に、想像力と習慣とによって、新たに「同一の場所にある」という関係が付加された、ということである。これは、想像力の「場所的結合(local conjunction)」の働きである。ヒュームは、魂の非物質性に関する議論5において、「どこにあるのでもなくあることができる性質の存在を認め、その例として情念や感情、道徳的反省などを挙げている。(THN pp. 235-6) ヒュームの認識論に従えば、触覚と視覚による知覚の対象のみが場所を持つので、現在我々が取り扱っている所有という規範的関係は、「どこにあるのでもなくあることができる」性質である。そして、この種の性質が場所を持った対象に結びつけられるのは、その二つの間に「因果性」と「心に現れる時間の近接」の関係がある場合に顕著である。(THN p. 237)


5 THN 第1巻第4部第5節。


では、所有と所持関係の場合はどのように考えることができるだろうか。「現在の所持」や「先占」などの、ある主体とある対象の間の所持関係は、場所を有する主体と対象との間の事実的関係であり、視覚や触覚によって知覚されうるものである。ところで、場所を持たない性質である所有は、主体と対象との間の所持関係に何らかの変化が生じたとき(例えば、人と財との間の所持関係が破壊されたとき)にのみ問題になる。したがって、この内的関係と外的関係との間には、ある種の「因果関係」と「心に現れる時間の近接」が存在しており、「場所的結合」が生じうる、と結論できる。それゆえに、ある主体がある対象を所持しているという事実的関係に所有という規範的関係が「場所的に」結びつけられるのである。ただし、この結びつきは、あくまでも想像力の作用による空想上の接続にすぎず、事実的関係から規範的関係が導出されているのではないことに注意しなければならない。この接続は、P1'に属する規則を所持決定の規則とすることが自然であると感じるように人々を仕向け、その規則の規範としての受け入れをより容易なものにする。

さて、次に問題となるのは、こうした想像力による接続を生じさせやすい関係とはいかなるものか、ということである。所有と密接に関わり、なおかつ視覚や触覚によって知覚可能な外的関係として最初に思い当たるのは、現在手に持っていることや最初に手に持ったことではなかろうか。これが認められるなら、ヒュームの挙げた「現在の所持」と「先占(最初の所持)」こそが、所有に接続される様々な所持関係の中でも特に妥当で他に優る関係である、と言うことができるはずである。ちなみに、「先占」は、時間の経過とともに視覚的触覚的関係としては弱くなるがゆえに、所有との接続もそれに応じて弱められるのだ、と理解することができる。

さて、これでヒュームが挙げた3つの関係のうち、「現在の所持」と「先占」は、想像力の働きを促すという点に関して他に優っていることが示された。では、残された「時効(長期間の継続的所持)」についてはどうなのだろうか。継続的な時間の要素が入るため、「場所的結合」に基づく所有との接続は難しいはずである。ヒュームもその点に関して次のような但し書きをしている。

・・・確かに、あらゆるものが時間の中でどのように生み出されようとも、時間によって生み出されるものはまったく実体的ではない。それゆえ、時間が産む所有権は、対象のうちにある実体的な何ものかではなくて、心の働きの産物なのである。そうした心の働きにのみ、時間は何らかの影響を及ぼすとみなされている。(THN p. 509)

とはいえ、ヒュームが、「恒常的所持」と「現在の所持」とに類似関係を認め、想像力によって接続されると考えたのと同じ論法で、「時効」も所有に接続することが可能だと思われる。通常、「恒常的」とは「常に変わりがない」ということなので、「長期間の継続的所持」である「時効」が「恒常的所持」に類似していると考えても不自然ではない。したがって、「時効」もまた、他の2つと同様に、想像力を強く刺激する顕著な所持関係である。

以上より、ある主体とある対象との間の事実的関係が、想像力の働きによって、所有という規範的関係に接続されること(この接続が、図1のP1におけるαに当たる)、及び、その想像力の働きを促進するという点で、ヒュームの挙げた3つの関係がP1'において他に優る関係であることが示された。それゆえ、P1'の規則、とりわけ、「現在の所持」「先占」「時効」は、想像力を備えた人々によって無理のない自然なものとして受け入れられる。

2-3 P2の検討

P2を検討する前に、このモデルをもう一度確認しておこう。

P2:ある主体とある対象との間にすでに所有の関係が成立しているとき、その対象との間にある特定の関係を持つ別の対象もまた、その関係ゆえにその主体との間に所有の関係を持つとみなされる。

これは、すでにP1の規則によって個々の所有が決定された後に適用される規則のモデルである。ヒュームは、これについても、想像力の働きが重要な役割を果たしている、と主張する。

ところで、容易に観察されるように、関係は一段階だけに限定されず、我々は、自分と関係を持つある対象から、それと関係を持つ他のあらゆる対象に対する関係を獲得する。それは、関係の連鎖があまりに長くのびすぎて思考がその連鎖を見失うまで続く。関係は、隔たりに応じてどれほど弱められるとしても、すぐに破壊されるわけではない。二つの対象は、両者に関係を持つ中間の対象によって結合されることがよくある。そして、この原理は、添附の権利を産む力を持つ。この原理によって、我々は、直接に所持する対象の所有権のみならず、直接に所持する対象と密接に結びついた対象の所有権をも獲得するようになる。(THN p. 509 n2.)

ここで言われている「原理」には、もちろん、想像力の働きが関わっている。

ところで、ヒュームは、この後、ワインの割り当ての例を挙げている。例えば、ドイツ人、フランス人、スペイン人が部屋に入ったとしよう。その部屋には、ライン酒、ブルゴーニュ酒、ボート酒が1本ずつ並んでいる。誰がどの酒を所有すべきなのか。ヒュームが提示する所有決定の規則は、出身国の酒は出身者が所有する、というものである。

ヒュームによれば、この規則は、「先占」、「時効」、「添附」などに所有を帰する「自然法」の源となる原理、つまり、想像力による関係の結合に基づいている。ドイツ人とドイツとの間の関係、および、ドイツとライン酒との間の関係が、思考の連鎖を経て、ドイツ人とライン酒との間の関係を生じさせる。そして、この関係が3人にとって最も説得力のあるものであれば、3人はこの関係に基づいて所有を決定することを受け入れる。おそらく、この関係が所有を導くのに最適か否かは状況に依存するだろう。この場合なら、酒はビンに入っており栓を開けてそれぞれの酒を分け合う器がないので一本ずつ分けるしかない、という状況を想定しなければならない。また、3人という少人数ならば、とりあえず個々の好みを明らかにして好きな酒をそれぞれが享受できないか探る試みも有効だと思われる。

ヒュームはこの例を「添附」の規則を述べた箇所の注で採り上げているのだが、これはP2よりむしろP1に属する規則である。ライン酒とドイツ人、ドイツ人とドイツの関係はともに所有の関係ではないので、既に所有している対象に関係する対象についての所有決定規則である「添附」の規則には属さないからである。しかし、主体と対象の間の間接的な関係の例としては好例と言えよう。さて、P2の場合、想像力によって主体・対象間の外的関係と所有の内的関係が接続される仕方がP1の場合と微妙に異なる。P1の場合は、「場所的結合」という強固な想像力と習慣の影響下にあったのだが、P2では、問題となる対象の現前の有無に関わらず、現在所有している対象との関係に依拠した仮想的な主体・対象間関係を取り扱うため、この結合の作用の出番はない。むしろ、P2においては、類似する関係同士を結びつける想像力の働きの影響力が大きい。

例えば、物体を並べるとき、我々は類似しているものを互いの近接に応じて配置せずにはいられない。あるいは、少なくとも一致する観点のもとに置かずにはいられない。なぜなら、我々は、類似関係に近接関係を加えて、あるいは性質の類似に状態の類似を加えて、満足するからである。(p. 504 n.)

ヒュームによれば、人間には対象間にある関係を見いだすと別の新しい関係を付け加えてしまう傾向がある。P2の場合で考えると、ある主体とある対象との間に既に所有関係が成立しており、所有されている対象と別の新しい対象との間に何らかの外的関係が存在するとき、人々は、その別の新しい対象にも、所有対象が所有主体に対して持つ関係(所有関係)を付加しようとする。もちろん、この傾向の度合いは、所有対象と別の新しい対象との間にある関係の強度によって左右されるだろう。ヒュームの「添附」の規則が依拠する関係は、「親密(intimate)」かつ「一方が他方の下位に属する(inferior)」関係である。この関係として、例えば、樹木とそこに実る果実との関係や親羊と子羊の関係などが考えられる。人々は、「親密かつ一方が他方の下位に属する関係」を目の当たりにすると、想像力に導かれて、そうした関係を持つ二つの対象の中に共通の基盤を想起し、上位の対象に固有の関係を下位の対象にも与えようとしてしまうのである。ヒュームが「添附」においては「一方が他方の下位に属する」という要素が決定的だと述べているように(THN p. 509)、P2における対象間の関係は、所有という内的関係を接続するために、ある程度強い関係であることが必要である。また、当然ながら、別の新しい対象は、まだ誰にも所有されていないものでなくてはならない。では、誰かが「添附」の規則によって所有した対象が、実は「先占」の規則に従って別の人がすでに所有していたはずのものだった、という場合はどのような対処法が考案されうるのだろうか。こうしたP1とP2との間のコンフリクトを解消する原理は、もちろんヒュームの中にはないが、P2がP1の成立を前提としていることから、通常はP1が優先されるはずだ、と言うことはできるだろう。

以上より、類似、近接などの関係に基づく観念の推移と、対象間の関係の連鎖を追う観念の推移という2つの想像力の働きによって、対象間の事実的関係から所有の規範的関係への観念の推移が生じることが明らかになった。したがって、図1のP2におけるαは、この2つの想像力の働きによる観念の推移である。このαによって、P2の規則の自然さや無理のなさが保証される。そして、この無理のなさによって、人々はこの規則を規範的な所有決定の規則として受け入れるのである。

2-4 P3の検討

P3:ある主体とある対象との間にすでに所有の関係が成立しているとき、その主体との間にある種の関係を持つ別の主体が、その関係ゆえに、その所有物との間に所有の関係を持つとみなされる。

このモデルも、P2と同様に、P1によって所有が決定された後に必要とされる所有決定規則である。

P3で最も重要な点は、この規則を適用する場面では、所有の規範的性質であった「排他性」と「譲渡可能性」が大きく関わってくるということである。3つのモデルの中で、このモデルだけが2人の主体を想定している。所有は本質的に排他的なものであるので、1つの対象に対して2人の主体が所有の関係を持つことは本来あり得ない。したがって、1つの対象に2人の主体がともに所有について関われるとすれば、もともとの所有者が自らの譲渡可能性(譲渡権)を実行に移し、他の主体に自らの所有権を譲渡する場合か、もともとの所有者が譲渡可能性を実行に移すまでもなく死んでしまい、他の主体にその所有権が移される場合かのいずれかである。前者の場合には、所有者が遺言や遺書などによって自らの譲渡権を行使する場合も含まれる。こうした所有者の譲渡の意志が明確な場合には、所有権の「相続」は、第二の「自然法」(承諾による所有の転移)に基づいて、適切に執り行われることになる。しかし、所有者の譲渡の意志が不明である場合には、彼に代わって誰がその譲渡権を行使することができるのだろうか。

個人に対して所有権を保証する正義の規則は、所有権と同時にその譲渡権を所有者に付与する。したがって、正義の規則に従う限り、誰かに一度与えられた所有権が所有者の譲渡権の行使以外に失われることは、原則的にあってはならない。それゆえ、譲渡権を行使することなく死んでしまった場合には、死んでしまった人の財に対する所有権は、一度失効したものとみなされる他はない。いわば、再び、誰のものでもない財、つまり、あらゆる人々に所有の機会が開かれた財に戻るのである。そこで、その財の所有を決定する新たな規則の確立が求められ、主体間の関係に基づくP3の規則が選択される。

原理上は、あらゆる人々に所有の機会が開かれた財に戻るとはいえ、以前に所有者が存在していた財については、P1ではなくP3が適用される。これは、我々が、想像力に働きによって、残された財の中に亡き所有者を見出し、その所有者との間に何らかの関係を持つ人をその財に結びつけるからである。したがって、P3においても、図1のαは想像力がもたらす事実的関係から規範的関係への観念の推移である。そして、人々は、このαが無理なく自然に感じられるという事実に基づいて、P3の規則を規範的な所有決定規則として受け入れる。

2-5 「労働」の問題

さて、これでヒュームの5つの決定規則を含む3つのモデルをすべて検討し終えた。そこで、試みに、ヒュームの所有決定規則の枠組みの中で、ロックの所有論との関係で重要な「労働」はどのように位置づけられるのかを手短に考察したい。ただし、本論では、ヒュームによるロック批判6>は、ヒューム的所有決定規則における「労働」の位置づけを明らかにするための手段としてのみ、ロック解釈としての当否を問わずに取り扱う。


6 これに関する詳細な吟味は、森村1997 pp. 159-86を参照せよ。


ヒュームは、「先占」の規則を論じた箇所の脚注で、ロック批判を行っている。(THN p.505 n.) そこでは、ロック的な所有論は、あらゆる人々が自分の労働に所有権を持ち、その労働を何らかのものに加えることによって、そのもの全体に対する所有権を与えられる、という理論だと説明される。そして、こうした見解に対してヒュームは以下の3つの批判点を提示する。

重要なのは、(2)と(3)の論点である。ヒュームによれば、労働所有論は、「先占」の規則で説明されうる事例を「添附」の規則を用いて説明していることになる。「先占」はP1に、「添附」はP2に属するが、P1は人と対象間の関係を扱うのに対し、P2はすでにある所有関係に基づいた関係を扱う。確かに、労働を基本的な所有対象だと想定するならば、労働による所有はP2の枠組みで捉えることも可能だろう。しかし、その場合、ヒュームの所有論の枠組みの中では、なぜ自分の労働は自分の所有物なのかということがP1によってさらに説明される必要がある。したがって、この問いに答えることなく、P2を用いた説明だけで所有決定の基礎を解明しようとする理論は、「自分の労働が自分のものであるのは自分のものだからだ」という「無用の循環」に陥ることになる。

このように、ヒュームは、労働による所有をP2ではなく、P1で説明すべきだと主張する。では、ヒューム自身は労働による所有をどう説明しているのか。まず、THNにおいてヒュームが先占について採り上げた例の中に、「労働」に関する言及が見られる。(THN p. 506 n.)

ここでヒュームは野兎とリンゴの例を挙げ、ある人が野兎を追い回して動けなくしたあとで別の人がそれを横から持ち去ってしまった場合には不正だと感じるのに、ある人がリンゴを取ろうと木に近づいたときに別の人が横から先にリンゴをもぎ取ったとしても不正だとは感じない、と述べる。この2つの事例の違いはどこにあるのか。ヒュームは、それを主体と対象との間の関係の度合いに認める。すなわち、野兎の場合は、私の狩りに費やした労力の結果、野兎は動けなくなったのであり、動けなくなった野兎と私との間の関係は強固だとみなされる。他方、リンゴの場合は、私はそのリンゴに対してそのような関係を持っていないし、持っていたとしても野兎の場合に比べるとはるかに希薄な関係にすぎない。ヒュームにとって、所有の決定に当たって重要なのは、労働ではなく、その労働が向けられる対象と労働を行う主体との間の関係に他ならないのである。なぜなら、労働はその関係を強めるある種の働きではあっても、関係そのものではないからである。(EPM p. 309においても同様の議論が展開されている。THNと異なるのは、労働がもたらす「公共の効用(the public utility)」に触れている点である。) したがって、ヒュームの所有論においては、労働は、P1における主体・対象間の関係を強める副次的な要素として位置づけられる。

3. 結び

最後に、この議論がヒューム自身による規則の根拠づけにおいてどのような位置を占めるのかについて述べておこう。

ヒュームによる正義の規則の基礎づけを考察する際には、人々の選択を決める動機あるいは原因のレベルと、それらの選択から社会に生じる結果を推測する第三者の判断のレベルとを区別する必要があり、前者のレベルには、主に想像力の働きが関わり、後者のレベルには、有用性の考慮が関わる。そして、所有の規則の根拠づけに関してもまた、人々が事実その規則を受け入れるであろうという事実関係についての推論(前者のレベル)と、それらの規則を受け入れることが人々に有益な結果をもたらすであろうという事実関係についての推論(後者のレベル)との説得力が決め手となる7。本論で取り扱ったのは、前者のレベルに関して、想像力の働きによって人々がいかにしてその規則を受け入れるに至るのか、についての詳細である。そしてまた、所有の規則は、想像力が人間本性として一般的に人々に備わっていると考えられるがゆえに、一般的に受け入れられる。こうした規則の一般的受容もまた規則の有用性を構成する不可欠な要素であることを考えれば、本論での議論は、後者のレベルにおける考察にも貢献するところがあろう。


内井1988 p. 89及びp. 91を参照。


また、ヒュームによれば、社会制度は人々に認知され一律に適用できる規則という形をとる以外に規範を設定できない。したがって、規則に求められるのは、複雑な道徳的推論に基づく有益性の判断だけでなく、人々が普通に備え持つ能力で受け入れられるということである。想像力に力点を置いたヒュームの議論は、所有の決定規則の決め手のなさや決定困難さといった実際上の問題を浮き彫りにする反面、自らの人間本性論に基づいた形で規則の一般的受容の可能性を示すことでこの要求に応えているのである。

参考文献

(おくだ たろう 博士後期課程1回生)