ベンタムの『道徳と立法の諸原理序説』(以下『序説』)2には個々の徳に関する体系的な取り扱いがない、とE・アレビーが批判したのに対して、D・バウムガルトは、アレビーの批判は「ベンタムの学説の考え抜かれた基礎を無視した、単なる外在的な批判にすぎない」と論じた3。バウムガルトによれば、たしかにベンタムは『序説』において徳の議論をしなかったが、しかし彼がそうしたのには理由があり、彼は徳の定義の一覧を与える代わりに、徳と悪徳の構成要素となるさまざまな快苦の長い一覧を与えたのである4。ベンタムの考えでは、『序説』において分析された快苦、動機、傾向性dispositionなどの、道徳にとって基礎的な語を用いれば、「感情emotion、情念passion、欲求appetite、徳と悪徳、それに特定の徳や悪徳の名前を含むその他の語」を説明するのは、「ほとんど機械的な作業」で済むのであった(IPML 3)。
1 本論文は、1999年9月15-6日に行なわれた日本公益(功利)主義学会第二回大会における同名の発表原稿を、大幅に加筆訂正したものである。発表原稿に手を加えるにあたっては、会場からの質問や意見に大いに示唆を受けた。心から感謝する次第である。
2 Jeremy Bentham, An Introduction to the Principles of Morals and Legislation (hereafter IPML), Oxford, 1996. なお、比較的容易に入手可能な翻訳として、山下重一氏訳の『道徳および立法の諸原理序説』(関嘉彦責任編集、『世界の名著49 ベンサム J・S・ミル』、中央公論社、1979年所収)がある。
3 David Baumgardt, Bentham and the Ethics of Today, Princeton UP, 1952, p. 236.
4 Ibid.
しかし、実際のところ『序説』を読んだだけでは、徳が快苦ないし幸福によって説明されるであろうという以外、徳についてのベンタムの見解ははっきりしない。また、バウムガルトも上のように述べるだけで、徳に関するベンタムの見解――たとえば、徳はどのように分類されるのか、有徳な人は幸福になれるのか、というような問いに対する見解――をまったく論じていない。さらに言えば、これまでのところ、ベンタムの徳についての教義を詳しく検討している文献はないに等しい。
では、ベンタムは徳についてのいかなる見解も持ちあわせていなかったのだろうか? そんなことはない。ベンタムの徳に関する見解は、彼の『義務論』Deontology5という著作で詳しく論じられている。この書において彼は、『序説』では取り上げなかった徳について、さまざまな角度から議論を行なっている。しかし、『義務論』を少し読めばわかるように、この書における彼の論述にはまとまりがなく繰り返しが多いため、徳に関する彼の見解の全体像をつかむことは難しい。ベンタムの「徳論」が研究されてこなかった一つの理由は、この書の難解さにあると思われる。
5 Jeremy Bentham, Deontology together with A Table of the Springs of Action and Article on Utilitarianism (hereafter D), Amnon Goldworth ed., Clarendon Press, 1983.
そこで、本論文では、『義務論』を主なテキストとして用いて、徳に関するベンタムの見解を考察する。手順としては、まず(1)『序説』にある傾向性に関するベンタムの説明を考察したあと、(2)『義務論』という著作の紹介を簡単に行なう。それから(3)徳一般に関するベンタムの説明と、(4)徳の分類および個々の徳に関する彼の説明を検討し、最後に(5)倫理学では古くから問題になる徳と幸福の関係について――あるいは、なぜ有徳であることは自分にとって望ましいのかという問いについて――彼がどのような見解を抱いていたかを検討する。
すでにみたように、『序説』では徳に関する説明がなされていないことはベンタム自身がその序文で述べているわけだが(IPML 3)、しかしながら『序説』の第11章では、徳と密接に結びついた概念である「傾向性disposition」が説明されているので、『義務論』での徳の説明を見るまえにこの箇所を簡単に検討しておくことが望ましいと思われる。
1.1 [傾向性とhexis] ところで、dispositionを「傾向性」と訳してしまうと、この語と徳とのつながりが見えにくくなってしまうが、英語のdispositionはギリシア語のhexis (状態ないし性向、ラテン語ではhabitus)にあたり、アリストテレスによれば、徳や悪徳は行為者の個々の行為や情念に対して言われるのではなく、行為者がそうした行為や情念を選択するさいの「選択の基礎をなす(魂の)状態」に関して言われるのである6。つまり、徳と悪徳の評価においては、傾向性の善し悪しが問題になるのである。
6 アリストテレス、『ニコマコス倫理学』、第二巻第六章。ただし、W. D. Rossの訳(Nicomachean Ethics, Oxford Works of Aristotle Translated into English, Vol. IX, in McKeon ed., Introduction to Aristotle, Oxford, 1925.)ではhexisは主にstateと訳され、ときおりdispositionと言い換えられている。なお、ロスの翻訳はWWW上で見ることができる。たとえば、http://classics.mit.edu/Aristotle/nicomachaen.htmlを参照。
1.2 [虚構物としての傾向性] 徳とそのような関係をもつ傾向性について、ベンタムは、それは「議論に便利なように作られた一種の虚構物」であると述べ、「ある人の心持frame of mindにおいて一定不変だと考えられるものを表わすために」作られたという(IPML 125)。ここで傾向性を「虚構物fictitious entity」だと言うのは、たとえば「気前のよさ」という傾向性を考えた場合、実際に存在するのは個々の気前のよい行為だけであり、そうした個々の行為から推察される「気前のよさ」という傾向性そのものは実在しないと考えられるからである7。
7 同様に、習慣も、行為の繰り返しによって形成されると想定される、虚構物である(IPML 78i, 119z)。なお、習慣と傾向性との関係については、「習慣は多数の行為の結果である。傾向性は習慣の結果である」(D 349)と述べられている。すなわち、これまでに同じ行為を繰り返してきたという実績が習慣と呼ばれ、その実績に基づいて今後も同じような行為をするものと想定される心の傾きが傾向性と呼ばれるのである。
1.3 [善い傾向性と悪い傾向性] ある人のもつ傾向性は、ベンタムによると、それが生み出す結果が共同体の幸福を増やすか減らすかによって「善い」、「悪い」と呼ばれる(あるいは、「有徳な」「悪徳な」とも呼びうる、とベンタムはIPML 125a, D 110などで述べている)。また、より詳しくは、ある人の傾向性は自他の幸福に与える影響に従って評価され、自分の幸福を増やす傾向性と減らす傾向性はそれぞれ「意志の堅いfirm」、「意志の弱いinfirm」と呼ばれ、他人の幸福を増やす傾向性と減らす傾向性はそれぞれ「有益なbeneficent」、「有害なpernicious」と呼ばれる(IPML 125)。
以上のように分類される傾向性のうち、法で主に問題になるのは有害な傾向性であると述べた後、ベンタムは次のように説明する。
ある人が有害な傾向性を持つと言われるのは、その人が、どのような動機の影響からにせよ、有益な傾向tendencyを持つと思われる行為よりも、有害な傾向を持つと当人に思われる行為を行ないがちである、あるいは行なう意図を形成しがちであると想定される場合である。有益な傾向性を持つと言われるのは、反対の場合である。(IPML 126)このように、ある人が持つ傾向性は、その人の特定の行為が自他の幸福に対して持つ傾向から、その人の行為が一般に自他の幸福に対してもつ傾向を想定することによって判断される。ただし、そのさい判断材料となるのは、自他の幸福に対して実際に生じた結果ではなく、意図された結果の方である。もちろん両者が一致する場合もしばしばあるわけだが、両者が一致しない場合、たとえば善い結果を生むと考えてなされた行為が、実際には悪い結果を生みだした場合、当人の傾向性をよりよく表わすのは、実際に生じた結果ではなく、意図された結果である(IPML 126)。それゆえ、ある人の傾向性は「いわば、その人の意図の合計」であるとも言われる(IPML 134)。そして、刑罰を受けるさい、有害な傾向性を持つと考えられる人は、犯罪によって引き起こされる恐怖をより高め、将来においてさらなる害悪を生み出す可能性があるため、より重い刑を受けることになる(IPML 141)。
以上をまとめると、傾向性とは特定の行為への一定の傾きを表わすための虚構物であり、それは共同体の幸福――より詳しくは、自他の幸福――を増減させる傾向によって評価される。この傾向性の議論からわかるように、ベンタムの功利主義においても、個々の行為だけでなく、行為から推察される行為者の性格もまた道徳的評価の対象になる。この点はしばしば見逃されがちであると思うので、強調しておきたい。では、より具体的には、どのような傾向性が有徳なものとされるのであろうか。以下では、『義務論』におけるベンタムの議論に焦点を合わせ、徳についての彼の考えをより詳しく検討する。
『義務論』における徳についての議論に入る前に、ベンタム研究者以外にはあまり知られていないと思われる『義務論』という著作の成立およびその内容の概略について、ごく簡単に説明しておこう。
2.1 [『義務論』の成立] 新しいベンタム全集に収録されている『義務論』の編集者A・ゴールドワースによれば、『義務論』の元になる原稿は1814年から1831年の間に断続的に書かれたもので、ベンタムの死(1832年)後、バウリングの手によって編纂されたものが1834年に出版された(D xxi-xxii)。しかし、このバウリング版の『義務論』8は編者の手によって改ざんされていることが早くから知られており、そのためベンタムの真意をどの程度反映しているかが疑問視されてきた。これに対し、新全集版の『義務論』(1983年)は、バウリングの手が入る前のベンタムの草稿を用いることにより、ベンタムの思想をより忠実に反映したものとなっている9。そこで以下では、新全集版の『義務論』を用いて議論することにする10。
8 Jeremy Bentham, Deontology; or The Science of Morality: in which the harmony and coincidence of duty and self-interest, virtue and felicity, prudence and benevolence, are explained and exemplified. From the MSS. of Jeremy Bentham. Arranged and edited by John Bowring, 2 vols., London and Eginburgh, 1834.
9 バウリング版と新全集版の『義務論』の詳細な比較については、新全集版の『義務論』にあるゴールドワースの解説(D xxix-xxxiii)を参照せよ。
10 徳に関するベンタムの記述は、Bhikhu Parekh ed., Bentham's Political Thought, Croom Helm London, 1973.にも収録されている。新全集版の『義務論』とほとんど重複する内容だが、コンパクトにまとめられているので参考になる。なお、新全集版の『義務論』は、内容的にそれと関係の深い『行為の動因の一覧表』および『功利主義論』という著作と一緒に、一冊の本にまとめられている。
2.2 [『義務論』の目的と構成] 1829年の段階でベンタムが意図していた『義務論』の正式な名称が『義務論、あるいは容易になった道徳――各人の人生の全行程を通じて、義務が正しく理解された利益と一致すること、幸福が徳と一致すること、自分に関する自愛の思慮と他人に関する自愛の思慮が有効な善意と一致することを示す』であった(D 119)。この題名からも知られるように、彼によれば、この本の目的は、「個人の生活のあらゆる領域における利益と義務とを、できるかぎり明快で満足のいく見晴しのよい場所に置くこと」であり、そしてこの目的を果たすためには、利益と義務の関係、およびこの二つと徳、悪徳との関係などを説明する必要があるとされる(D 121)11。また、この本は理論的な部分と実践的な部分に大きく分かれ、前半の理論的部分(D 121-247)では今述べた利益、義務、徳と悪徳に関する説明がなされる。後半の実践的部分(D 249-81)では、他人の幸福に配慮しながら自分の幸福を促進する方法について、より具体的な説明がなされている(D xx)。実践的部分は前半の理論的部分に比べてかなり未完成のまま終わっている。本論文で主に取り扱われるのは、前半部分である。
11 Deontologyはベンタムの造語であり、ギリシア語のdeon (あるべきもの、ふさわしいもの)とlogia (論議、説明)から作られたものである。広義には、法を含めた規範一般に関する学問を指すが、狭義には、法と区別される道徳を扱う学問を指し、『義務論』でももっぱら後者の意味で用いられている。なお、周知の通り、現在では「義務論」という語は帰結主義と対立する倫理学説を指すのにもっぱら用いられる。この語の歴史的な変遷については、Robert B. Louden, 'Toward a Genealogy of 'Deontology'' (in Journal of the History of Philosophy, Vol. XXXIV, October 1996, No. 4, pp. 571-92)に詳しい。
以下では『義務論』におけるベンタムの徳についての見解を検討するが、順序としては、まず、徳一般に関する見解についての彼の立場を検討し、そのあとに個々の徳についての彼の見解を考察するのがよいと思われる。さて、徳一般についての彼の説明は、『義務論』の随所で述べられており、必ずしも体系的な説明を与えられていないが、その主要な教説は次の通りである。(1)徳、悪徳は虚構物であり、またそれ自体では定義できないものである。(2)徳の本質は、共同体の幸福を増進するということにある。ただし、(3)ある行為が有徳であるためには、幸福を増進するだけでなく、努力や自己犠牲が必要とされる。しかし、(4)習慣により徳が身につけば、そのような努力や自己犠牲は不要になる。これらの点を以下で簡単に見ていこう。
3.1 [虚構物としての徳と悪徳、定義の不可能性] 第一に、ベンタムによると、傾向性と同様、徳も虚構物、あるいは虚構物を指す名称である(D 126a, 208)。これは、たとえば机や人間(これらは実在物real entityと呼ばれる)とは違って、徳は言葉の上でだけ存在し、徳という言葉に対応する対象は実在しないと考えられるためである。また、徳は虚構の人間としても表され、ラテン語における徳の性が女性であるため、しばしば女性として語られる(D 208)。ただし、徳が虚構物であることはそれが不要なものであることを含意せず、むしろこのような虚構物は議論のために不可欠なものであるとされる(D 126a)12。
12 虚構物について、さらに詳しくはバウリング版全集(Works of Jeremy Bentham, ed. John Bowring, 11 vols., Edinburgh, 1843.)の第8巻に収録されている『存在論』か、あるいは最近出版された英仏対訳のテキスト(De l'ontologie et autres textes sur les fictions, Texte anglais _tabli par Philip Schofield, Traduction et commentaires par Jean-Pierre Cl_ro et Christian Laval, _ditions du Seuil, 1997.)を参照せよ。
さらに、徳はそれ自体では定義できないとされる(D 208)。これは、徳が単純観念だからというのではなく、虚構物においてしばしばあるように(D 78)、徳には類概念(上位概念)が存在しないため、いわゆる類と種差による定義13ができないという理由による。しかし、この点に関しては断定的に述べられているだけで、たとえばアリストテレスがしたように14、状態ないし傾向性を類概念とすることはなぜいけないのか、などについては論じられていない。
13 この定義によれば、たとえば、人間は、動物という類概念と、理性的という種差によって、理性的動物として定義される。詳しくはD 74以下を参照せよ。
14 『ニコマコス倫理学』、第二巻第五章
3.2 [徳の本質] 上で見たように、徳はそれ自体では定義できないが、有徳な行為、習慣、傾向性などのフレーズを説明することで、間接的な説明を与えることができるとベンタムは言う(D 208)。彼によれば、ある人が、ある行為、習慣、傾向性などを有徳だと言うとき、もし彼が他人の意見の報告ではなく自分の意見を述べようとしているならば、彼はその行為、習慣、傾向性を重要だと考え、是認の感情を抱いている。つまり、人がある行為を有徳だと言うとき、「その行為はすばらしい」ということが含意されている15。だが、この是認の感情の根拠は社会によって、そしてさらには個人によって異なり、単一の根拠を挙げることはできない。そこでベンタムは、ある行為や習慣などを有徳と呼び是認するさいの望ましい根拠として、〈共同体の幸福の総量を増加させる傾向〉を挙げる(D 209)。これがベンタムの徳概念の中核であり、「徳の本質は、それが一般に何らかの仕方で幸福(善き生well-being16)に役立つ、ということにある。すなわち、自分自身あるいは誰か別の人に役立つ、ということにある」と言われる(D 160)。
15 『義務論』ではヒュームへの言及がほとんどないが、この説明はヒュームの影響をとりわけ強く感じさせる。cf. David Hume, A Treatise of Human Nature, Oxford UP, 1978, p. 469.
16 ベンタムは、happinessとwell-beingの違いを『義務論』中のあるところ(D 130)で述べているが、厳密な区別はしておらず、本論でも特に区別する必要はないと思われるので、以下では両者ともに「幸福」と訳すことにする。
3.3 [努力、自己犠牲の必要性] すると、共同体の幸福――共同体を構成する成員の幸福の総量――を促進する行為や傾向性はすべて「有徳」であると言ってよいのであろうか。ベンタムはそうでないと言う。彼によれば、共同体に有益な行為が有徳であると言われるには、知性や意志におけるある程度の努力が行為に伴なうことが必要とされる(D 178-9)。たとえば、わたしがパン屋でパンを買う行為は、わたしに有益であり、パン屋にとっても有益だと言える。しかし、このような行為を有徳であるとは誰も言わない。けれども、パンを買った帰りにお腹をすかせて死にそうな人を見て、わたしが自分の夕食のために買ったパンをその人にあげ、自分は夕食なしで済ませることは、一般に努力ないし我慢が必要と考えられるため、有益であるばかりでなく有徳な行為ともみなされる17。
17 D 179にある例を簡単にまとめた。
このように、有益な行為が有徳でもあるためには、ある程度の努力または自己犠牲が必要とされるが、だからといってすべての自己犠牲を伴なう行為が有徳だというわけではない。ベンタムによれば、ある行為に伴なう自己犠牲の程度があまりに大きく、その行為が全体として共同体の幸福を減じる程度にまでいたる場合、そのような行為は有徳な行為とは言われず、むしろ愚行である(D 188)。つまり、共同体に有益でない行為が有徳であることはないのである。
3.4 [徳の習慣化] しかし、このようなベンタムの説に対して、たとえばアリストテレスならば、有徳な行為をするために努力をしなければならないようでは、まだまだ徳が身についているとは言えない、と論じるだろう。先ほどのお腹をすかせた人にパンをあげる例でいくと、アリストテレスが考えるような有徳な人であれば、いかなる欲求の衝突も感じることなくごく自然に自分のパンを手放すのであり、またそうでなければ有徳であるとは言えない。アリストテレスのこの論点は、抑制(意志の強さ)と徳の違いとしてよく知られており18、ベンタムもアリストテレス(学派)のこの区別を「不完全な徳」と「完全な徳」として、やや軽蔑の念を表わしつつ紹介している(D 156-9)。ベンタムがアリストテレスによるこの区別を認めるのか認めないのかはこの個所を読む限りでは明らかでないが、彼も徳が身につくにつれしだいに上で述べたような努力や自己犠牲が必要でなくなると論じている。
たとえば、ある人が若いころにワイン一般、あるいは特定の種類の食べ物を好んでいたとする。しかし、それが体に良くないことがわかり、しだいに欲求の満足に伴う不快さがひんぱんに経験されるようになり、つねに頭の中から離れなくなる。その結果、近い未来に確実に生じる苦痛の観念が、現在の快の印象――あるいは、同じことになるが、快に伴う苦痛の観念がなければ快が得られたであろう時点に先立つ時点における快の観念――を上回るほど強烈になる。つまり、時間的により遠いものの、結果として生じるより大きい苦痛の観念が、時間的により近いものの、より小さな快の観念を打ち消すはたらきをするのである。(D 155-6)このような連想の力を通じて、欲求の対象が嫌悪の対象になれば、もはや欲求を抑制することなくして有徳な行為をなすことができるようになる。したがって、徳には努力が必要だと言っても、有徳な行為をなす度ごとに努力が必要であるというのではなく、その行為がほとんどの人にとっては努力を要するものであればよいのである。最初は努力を必要とした有徳な行為も、何度も繰り返すことによって習慣が形成されると、ほとんどあるいはまったく努力を要することなく行なうことができるようになる(D 155-6, 179)。
18 『ニコマコス倫理学』、第7巻(特に第9章)参照。また、J・O・アームソンの『アリストテレス倫理学入門』(雨宮健訳、岩波書店、1998年)も参考になる。
以上で、ベンタムの徳一般についての説明の検討を終え、次に個々の徳の分類についての彼の見解を見ることにする。
ベンタムと同時代の神学的功利主義者ウィリアム・ペイリーによれば、徳の分類で代表的なものは、徳を(1)善意benevolence、思慮prudence、勇気、節制の四つに分けるもの、(2)自愛の思慮prudence、善意の二つに分けるもの、(3)思慮、勇気、節制、正義の四つに分けるもの、そして(4)神に対する義務、他人に対する義務、自分に対する義務の三つに分けるものがある19。ペイリーが(4)の立場を採用するのに対して、べンタムは(2)の分類に沿って自説を展開していると考えられる。そこで以下では、ベンタムによる徳の分類および個々の徳についての説明を順に見ていこう。
19 William Paley, The Principles of Moral and Political Philosophy, London, 1811, p. 43-4. なお、prudenceは、ペイリーもベンタムも述べているように、(1)目的を達成する手段を選ぶことにおける卓越性を指す場合と、(2)自分の利益や幸福の配慮に優れていることを指す場合とがある。ここでは(1)の意味にとれるものを"思慮#、(2)の意味に取れるものを「自愛の思慮」と訳した。以下で見るように、ベンタムはprudenceをもっぱら「自愛の思慮」という意味で用いる(cf. D 127a)。
4.1 [主要な徳――自愛の思慮、善意(および誠実)] すでに見たように、ベンタムによれば、すべての徳は共同体の幸福を促進するという傾向を持つものである。徳の分類を行なうにあたり、彼はまずこの共同体の幸福を、ある行為者の視点から、(1)行為者自身の幸福と(2)行為者以外の人々の幸福とに分ける。そして、このように分けられた共同体の幸福のうち、行為者の有徳な行為によって(1)行為者自身の幸福が促進される場合は、この徳を「自愛の思慮」と呼び、(2)行為者以外の人々の幸福が促進される場合は、「善行beneficence」と呼ぶ(D 178)。この二つがもっとも包括的な徳と言われるが(D 122)、ときに(2)行為者以外の人々の幸福を促進する徳を善行と誠実probityに分けることもある(D 190, 210; この区別については以下で説明する)。これらの二つないし三つの徳が主要な徳primary virtuesと呼ばれ、それ以外の勇気や節制や正義などの徳はすべて、これらの主要な徳に還元される二次的な徳secondary virtuesとして扱われる。ただし、二次的なものがいくつあるのかについては述べられていない。
このように、ベンタムによれば、徳には大きく分けて2種類しかなく、自分の幸福を促進する行為が自愛の思慮に適った行為であり、他人の幸福を促進する行為が善行と呼ばれる行為である(ただし、先に見たように、有徳な行為であるためにはそれが一般に努力が要求されるものであるという条件が付く)。一見すると話は簡単に思えるが、『義務論』を詳しく読むと、この区別に関するベンタムの議論はかなり入り組んでいる。それを下手に説明すると、かえって話の筋を見えにくくすることにもなりかねないが、この議論は次節の徳と幸福の関係についての議論とも関連するので、主要な徳である自愛の思慮と善行(誠実を含む)についてもう少し詳しく見てみよう。
4.2 [自愛の思慮] 自愛の思慮の徳は、将来の幸福を得るために、現在の幸福を犠牲にすることにおいて発揮される(D 187)。もちろんこの場合、それによって得られると考えられる将来の幸福は現在の幸福よりも大きな価値を持ったものでなくてはならない。将来においてより大きな幸福を得られる見こみがないのに、現在の幸福を手放すのは徳ではなく愚行である(D 188)。また、自愛の思慮には、意志や感情ではなく主に知性の面における努力が必要であると言われる(D 179)。ベンタムの考えでは、すべての人は常に自分の幸福を促進させようという意志や感情を十分に持っているので、自分の幸福をよりよく促進させられるかどうかは、もっぱら知性のよしあしに依存しているからである。
[――自分だけに関わるものと他人にも関わるもの] この徳は、問題の行為が他人の幸福に影響を及ぼすか及ぼさないかによって、さらに「自分だけに関わるpurely self-regarding自愛の思慮」と「他人に関わるextra-regarding自愛の思慮」とに区分される(D 123)。自分の行為が他人の幸福にも影響を及ぼす場合は、他人に与えた影響が再びはねかえって自分の幸福になんらかの仕方で影響を与えることが多いと考えられる。そこで、自分の行為がどのように他人の幸福に影響を与えるかを考慮することが、自愛の思慮のために必要になるのである(D 123-4)。例を用いて説明しよう。あるヘビースモーカーの男がいて、彼は禁煙することが自愛の思慮に適っているかどうかを考えているとする。もし彼が誰もいない自分の部屋でだけタバコを吸うのであれば、彼の行為は少なくとも直接的には他人の幸福に影響を及ぼさないので、禁煙するかどうかは自分だけに関わる自愛の思慮の問題である。したがって、彼は禁煙することが自分の幸福に与える影響を考えるとき、他人の幸福を顧慮する必要はない。一方、彼が他の人と同席している場でもタバコを吸うのであれば、禁煙するかどうかは他人に関わる自愛の思慮の問題になる。この場合、彼は禁煙することが自分の幸福に与える影響を考えるとき、同席している人が自分のタバコの煙にかっとなって殴りかかってこないだろうかとか、おまえの吸ったタバコの煙のせいでガンになったなどと言って後で訴訟を起こされはしないだろうかなど、自分の行為が他人の幸福に与える影響を考慮にいれる必要がある。
4.3 [善行――善行と善意、善行と誠実、積極的善行と消極的善行] 自愛の思慮と比べると、善行の説明はより複雑で、「善行」と「善意」、「善行」と「誠実」、「積極的善行」と「消極的善行」の間にそれぞれ区別がなされる。善行はすでに見たように他人の幸福に役立つ行為をすることであるが、善意は、善行をしようという欲求、あるいは善行をする傾向性であり、善意のない善行は徳ではないと言われる(D 184, 212)20。というのは、自分の行為が期せずして他人の幸福の促進に役立ったりする場合、それは有徳な行為とはみなされないからであり、また、自分の幸福を促進するために他人の幸福を考慮するのであれば、それはすでに述べた「他人に関わる自愛の思慮」であり、善行の徳とはみなされないからである(D 185, 212)。
20 なお、benevolenceはときに「博愛」とも訳されるが、(1)ベンタムの用法では、必ずしも自分以外すべての人間に対して善をなそうという感情を意味しないこと(その場合はuniversal benevolenceという語を用いる。たとえばD 129)、(2)beneficenceとの対応を考えて「善意」という訳を用いた。
誠実は、善行に数え入れられる行為のうちでも、自然的、宗教的、道徳的、法的サンクションのいずれかのサンクションの力によって義務的だと見なされるものであり(D 154, 211)、正義と同一視されている(D 127, 220)。また、積極的善行は他人に善をなすことであり、消極的善行は他人に悪をなさないことであるが、後者はより正確には、誠実の徳に反するとは言えないが他人を不快にするような行為をなさないこととして説明される(D 183, 185-6, 212)。
徳一般と個々の徳についてのベンタムの見解は以上に述べたごとくである。最後に、徳と幸福の関係について彼がどのように考えていたのかを考察する。
すでに見たように、ベンタムにおいては、徳は共同体の幸福を促進する傾向にある行為や傾向性について言われる。しかし、ベンタムは行為者自身の幸福と徳の関係についてはどのように考えていたのだろうか。言いかえるなら、個人の幸福(善き生)にとって徳は必要か、という古代ギリシア以来の古典的な問いに、ベンタムはどのように答えるのだろうか。今、この問いをベンタムの主要な徳の分類にしたがって二つに分けると、(1)個人の幸福にとって自愛の思慮の徳は必要かという問いと、(2)個人の幸福にとって善行の徳は必要かという問いに分かれる。そこで以下では、この二つの問いに関するベンタムの見解を考えてみよう。
5.1 [個人の幸福にとって自愛の思慮の徳は必要か] 『義務論』では、ベンタムは(1)の問いに明示的に答えていないと思われる。しかし、「善き生は、すでに見たように、最大量の快から最少量の苦――後に見るように、快とは自分自身の快のことであり、苦とは自分自身の苦のことである――を差し引いたものからなるのだが、この善き生がつねに各人の内在的で究極的な追求の対象であるという事実が、厳密な探究に基づいて示されるであろう」(D 148)という言明に現われているベンタムの人間本性観からすれば、自愛の思慮の徳――すなわち自分の幸福をよりよく得ることにおいて発揮される徳――が当人にとって望ましいのは当然であろう。たとえば、何週間か前から冷蔵庫に入っているリンゴを食べるべきかどうか、というのは(瑣末だが)典型的な自愛の思慮(自分だけに関わる自愛の思慮)の問題である21。この場合、リンゴを食べることによって得られる快の価値の大きさと、食べてから数時間後に食あたりや消化不良によってこうむるかもしれない苦の価値の大きさを適切に見きわめ22、食べるか否かを決めることに自愛の思慮の徳が発揮されるといえる。このような徳を身につけることは、自分自身の幸福の促進に関心を持つ本人にとって明らかに望ましいものである。他人に関わる自愛の思慮についても同じことが言える。
21 D 181の例を改変した。
22 快苦の価値について、詳しくは『序説』の第4章を見よ。
5.2 [個人の幸福にとって善行の徳は必要か] では、ベンタムは(2)の問いにはどのように答えるだろうか。善行の徳を身につけるということは、善意の欲求ないし動機から他人の幸福を配慮するという傾向性を身につけるということである。しかしながら、自愛の思慮(他人に関わる自愛の思慮)を十分に備えた人も、動機は違うにせよ、やはり他人の幸福を配慮して行為するだろう。すると、自愛の思慮を十分に備えた人でも、さらに善行の徳をも身につけた方が望ましいと言えるのだろうか。
ここで、先ほどのタバコの例を修正してもう一度考えてみよう。自愛の思慮の徳を備えた(しかし善行の徳は持たない)男がわたしと同席している場合、彼はわたしから何らかの形で仕返しされることを恐れて喫煙を控えるかもしれない。だが、もし、たとえわたしがタバコの煙によって苦痛を感じたとしてもわたしの気が弱いために仕返しされる恐れがないと知っているならば、彼は自分の幸福を促進するためにわたしにかまわず喫煙するかもしれない。他方、彼が善行の徳をも身につけているならば、わたしからの仕返しのあるなしにかかわらず、まさにわたしが苦痛を感じる、ということへの配慮から、彼は喫煙を差し控えるであろう。また、以上の例において、自愛の思慮の徳を備えた男がわたしにかまわず喫煙する場合よりも、彼が善行の徳をも備えているがゆえに喫煙を差し控える場合の方が、共同体あるいは利害関係者全員の幸福の総量が増えるものとしよう。
このような事例がありうるとすれば、ある人が自愛の思慮の徳を持つ場合と善行の徳をも持つ場合とで選択される行為は異なりうることになり、共同体の幸福の促進という視点から見るかぎり、人は自愛の思慮だけでなく善行の徳をも身につけた方が望ましいことになろう。しかし、自愛の思慮を備えているが善行の徳は身につけていない男は、これだけではまだ納得しないかもしれない。彼は、善行の徳が共同体の幸福だけでなく、自分の幸福を促進することを保証されないかぎり、善行の徳を身につける必要性を認めないかもしれない。
5.3 [善行の徳と自愛の思慮の徳の命令はかなりの程度で一致する] このような人に対してベンタムはどのような説得を行なうであろうか。この問いに対する答えは、先に引用した『義務論』の副題「各人の人生の全行程を通じて、義務が正しく理解された利益と一致すること、幸福が徳と一致すること、自分に関する自愛の思慮と他人に関する自愛の思慮が有効な善意と一致することを示す」にすでに暗示されていると言える。この副題からわかるように、『義務論』の主題(の少なくとも一つ)が、まさにこの説得を行なうことなのである。そこで、ベンタムならば、善行の徳を備えた人のする行為と自愛の思慮の徳を備えた人のする行為がかなりの程度一致することを説くであろう(D 182, 193, 196-7)23。先のタバコの例に戻ると、わたしによる仕返しや周囲の人からの非難などといったサンクションの可能性を考えると、自愛の思慮の観点からしても喫煙を控えた方が結局のところ賢明ではないかと説得することができる。
23 しかし、完全に一致するわけではない。すなわち、共同体の幸福を促進する行為が常に個人の幸福の促進に役立つわけではない。このことは、この二つが一致する程度を高めるのは、政治的なサンクションを行使することのできる政府の役割だとベンタムが述べている(D 197)ことから明らかである。
5.4 [善意から行為することはそれ自体で大きな快をもたらす] しかし、この説得を認めたとしても、自愛の思慮を備えているが善行の徳は身につけていない男は、「善行の徳を備えた人のする行為と自愛の思慮の徳を備えた人のする行為が一致するのであれば、自愛の思慮をより完全に身につければいいだけの話であり、なにもわざわざ善行の徳まで身につける必要はないではないか」となお反論するかもしれない。そこでさらに、ベンタムは次のようにも言うであろう。善意から行為することは、それ自体、行為者に大きな快をもたらしうる24。したがって、もし他人の快苦に対する感受性を育てることによって自分により大きな幸福がもたらされるならば、この感受性を育て、善意から行為できるようにすることは自愛の思慮に適っていると言える、と(D 193-4)。言いかえれば、自分の幸福のことを考えて他人に親切にするよりも、自分の幸福のことを忘れて純粋に他人の幸福のために他人に親切にする傾向性を身につけた方が、一般的に自分の幸福の促進に役立つというわけである。善行の徳を身につけることは自分の幸福の促進に役立つというこの主張を認めるならば、自愛の思慮を備えているが善行の徳は身につけていない男は、善行の徳を身につけることを自愛の思慮から受け入れざるをえないであろう。
24 『義務論』では、この快は共感のサンクションから生じるものとして説明される。D 176-7参照。
5.5 [徳の分類の問題点] 以上のようなベンタムの説明は、彼の人間本性観からすると妥当な説明だと思われる。しかし、このように説明するのなら、むしろ善行の徳は勇気や節制などと同様に自愛の思慮の徳に従属するものだと考えた方が適切ではないだろうか。というのは、ベンタムは善意という動機から行為することに特別な道徳的価値を認め、善行の徳と自愛の思慮の徳という二本立てで徳を説明しようとしているが、しかしこの二つの徳についての彼の議論を見るかぎり、基本となるのは自愛の思慮の徳であり、善行の徳を成立させるものとしての善意は、究極的には自愛の思慮によって――すなわち、善意から行為することは当人により大きな幸福をもたらしうるという理由によって――その価値が説明されるものであると思われるからである。したがって、つまるところ、徳の教師としてのベンタムのわれわれに対する教えは、「自愛の思慮を身につけよ」という勧告に要約されるのではないだろうか。