鈴木 真
序(1)
ジョン・ステュアート・ミルというと、『功利主義』を著した功利主義者、『自由について』を書いた自由の擁護者、というイメージが倫理学畑の人間には真っ先に思い浮かぶ。だが、彼の著作に親しくあたってみると、「功利性(utility)」や「自由(liberty)」といった言葉に勝るとも劣らず、「教育(education)」「陶冶(cultivation)」「修養(culture)」「発展(development)」といった言葉にでくわす。ミルの倫理学の主要な柱の一つは、諸個人の発展なのである。
多くのミル解釈者も、(自己)発展や陶冶や「人類の改善(the improvement of mankind)」が彼の倫理思想で中核的な位置を占める概念であることを認識している。(2)しかし、これまでの研究では、ミルの人間形成重視の姿勢を、父ジェームズ・ミルの教育思想や、カーライルやコールリッジ、そしてゲーテなどのドイツの思想家の影響との関係で考察する研究(3)や、ミルの社会政策の教育的目的や教育の方法論に焦点をあてたりする研究(4)はあっても、1)ミルはどのような人間を形成することが望ましいと考えていたのか、という核心的な問題に対する答えを明確に示した論考はほとんどないように思われる。 (5)いやもう少し正確に言うと、いくつかの論考では『自由について』における「個性(individuality)」をミルの考える望ましき人間の特徴とみなして検討している場合もある(6)のだが、このような論述では『自由について』以外の著作での諸個人の発展に関する言明があまり考慮に入れられていないこともあって、ミルの発展概念の重要な特徴のいくつか(想像力の陶冶、諸能力のバランス、ただしい信念を持つことなど)が十分注目されなかったり、不正確に定式化された人間の理想が彼に帰されたりする傾向がある。さらに、2)ミルの採用している快楽説功利主義の立場(幸福、すなわち快と、苦の回避だけを究極的な価値とみなし、関係者全員の幸福の総体を増加させることを正・不正の最終的基準とする立場(7))から、どのような根拠でそのような人間を形成することが望ましいといえるのか、という点について詳細に検討したものは皆無といってよい。この論文では、この研究状況の不備を補うため、ミルが望ましいと考える諸個人の発展の概念の特徴と、その功利主義的根拠を、一次文献に密着しながら探究する。
この論文の主要な目的は、以上のようにミル解釈上の不備を補うことである。けれども、功利主義の立場から諸個人の発展ないし陶冶を支持できるのか、できるとしたらどのような発展の概念をどのような根拠でか、というより一般的な問題に対して一定の回答を与えることも視野に入れている。ミルの解釈を通じて、どのような回答が示唆されるだろうか。
本論
以下では、ミルの諸個人の「発展」の概念の四つの特徴と考えられるものを提示し、その功利主義的根拠を考察する。
1. 人間固有の能力
ミルの考える望ましい人間像の第一の特徴は、一定の精神的能力を高い程度で有することである。『自由について』では、「知覚、判断力、識別感情(discriminative feeling)、精神的能動性」や「道徳的選好」といった「人間の独特な才能」の向上が重視されている。(8)バーガーも述べているように(9)、このような記述は、『功利主義』において「知性、感情と想像力、道徳感情」といった動物にはない「高等な能力」が高い質を有する種類の快を得るのに必要だとされていること(10)と密接な関連があるように思われる。というのも、このような能力を保持することが、高い質の快を得て幸福になるために必要だと考えられ、そして実際『功利主義』では「性格の高貴さの一般的陶冶」や「精神的陶冶」がそのような観点から重要なことが強く示唆されているからである。(11)
ミルのこのような考えの根拠となっている快の質の議論を検討する必要があるのは明らかである。しかし、この議論には様々な批判があり、それらの批判に対応しながら検討するには一個の独立した論文が要るように思われるので、ここでは紙面の制約のために残念ながら不可能である。この点には、次の機会に取り組むことにしたい。
以上のような人間特有の能力全般を育成することを支持する理由だけでなく、a)強い動機と、b)快の感受性と、c)知的能力と、d)想像力を育成することを支持する個別的理由も、それぞれ論じられている。順に検討していこう。
1-a) 強い動機
まず、強い動機(motive)を育成することが重要である、という主張を検討するが、その前に、動機とは何かということを確認しておこう。ミルによると、動機とは、意志作用に影響を与える精神的要因である。(12)そして、主な精神的要因は、「欲求(desire)」、「嫌忌(aversion)」、そして「意志作用の習慣(habit of willing)」の三種類である。(13)ミルの分析によれば、欲求とは、快を伴う観念が形成する連想であり、嫌忌とは苦を伴う観念が形成する連想である。(14)ただし、ミルは時に「欲求」という言葉を上記の意味での嫌忌を含む意味で使う。(15)意志作用の習慣とは、習慣の力による連想のことである。(16)複数の動機のうち、最強のものが一定の身体的行動や、ある意識状態への注意の固定をもたらす。(17)
強い動機ないし傾向性を育成することが重要である、という趣旨の主張は、ミルの著作の随所に見られる。たとえば『自由について』では、「欲求と衝動は信念と自制と同様に完全な人間の一部である」と言われている。(18)<強い動機を持つ人>のイメージが掴みにくいかもしれないが、これは物事に積極的に取り組む気力のある人だと考えてよい。
ミルは、『代議制統治に関する諸考察』で、諸々の強い動機をもつことを支持する理由を三種類提出している。
第一の理由は、諸々の強い動機を持つ人々は、障害を乗り越えて自分に有利な方向へと状況を変えていく可能性が高い、ということである。
人間生活を改善する性格は、諸々の自然的な力や傾向と闘争するものであって、それらに譲歩するものではない。自己を利する資質のすべては活動的で活力のある性格の側にある。(19)
第二の理由は、諸々の強い動機を持つ人々は、思考の実践への適用を成功させようと試みることを通して、「明確さと厳密さとわかりやすい意味」を有し、「真理を確証する」ような思考を生み出すような優れた知的能力をもつ可能性がある、ということである。(20)
第三の理由は、諸々の強い動機を持つ人々は、そうでない人々と比べて、他の人々の幸福や一般の幸福を増大させる傾向がある、ということである。
ミルは弱い動機しか持たない人々(物事に積極的に取り組む気力を持てない人々)について以下のように述べる。
所有されていない利点に対する欲求がある場合には、自分自身の活力によってその利点を所有することが潜在的に不可能な人は、それが潜在的に可能な人々を、憎悪と悪意をもって見がちである。(21)
さらに、彼等は「成功」を「宿命や偶然の成果であって尽力の成果ではない」とみなす傾向がある。(22)また、彼等が何の欲求も持たずに満足しているようにみえる場合にも、実際には多くの人々は「怠惰や放縦」に陥りながら不満を抱いており、「自分自身を高める適正な手段はなにも採らずに、自分自身の水準に他の人々を下げることに大喜びする」。(23)以上のことを考慮すると、
不活発さ、上昇志向のなさ、欲求の欠乏は、活力のどんな間違った方向づけよりも、改善にとって致命的な障害である。そして、それらが大多数の内に存在しているときには、それだけで、活力のある数人によるどんな極めて恐るべき間違った指図も可能になる。(24)
これに対して、諸々の強い動機を持つ人々は、自分が欲しているが持っていないものがあれば、自分の意志作用が強力であるために、欲しているものの追求に成功の有望な見通しを持ちながら従事し、「同じ追求に従事したりそれに成功した他の人々に対して好意を感じる」傾向がある。そして、多数の人々がそのような姿勢で欲するものの追求に従事するところでは、それに失敗した人々は「自分の失敗を努力や機会の不足か、自分の個人的な運の悪さのせいにする」。(25)また、諸々の強い動機を持つ人々は、諸々の難事に取り組んで、「その人にとって克服しえない難事は何か、そしてその人が克服できるかもしれないが、成功がその犠牲に値しないものは何かを学ぶ。」そういう人は、「獲得する価値がないか、その人にとってはそうでないものに、くよくよした不満を持ってかかずらう可能性が、他のすべての人に比べて極めて少ない人物である。」そこで、彼等は「手に入れられないものがなくても快活にやっていく能力」を身に付け、「欲求の相異なる対象の相対的な価値の正当な評価と、大きな方と両立しえない場合に小さな方を進んで放棄すること」ができるようになる可能性が高い。(26)
以上のことから、諸々の強い動機を持つ人々は、そうでない人々に比べて、長期的には一般の功利性を増大させる傾向がある。(27)
このようなミルの主張に対して、強い動機(強い欲求や強い衝動)は大きな害悪をもたらす場合もあり、それをもつことは「危険とわな以外の何物でもない」(28)、と言われるかもしれない。
ミルは、あらゆる動機が強化されることが望ましいわけではないことは認める。動機のなかには、一般的に「本能(an instinct)」と呼ばれているような、(通俗的な意味で)衝動的な動機がある。(29)このうち、大多数の動機は、有用なものにするために統制を必要とするのであり、さらに、それ以外の少数の動機は「根絶する」ことが「教育の目的」である。ミルは、この根絶すべき極めて有害な動機の例として、「破壊のために破壊すること」への動機、「支配」への動機、残虐行為への動機などを挙げている。(30)
しかしミルは、強い動機が一般的に有害である、という見解には与しない。
人々が悪い行為をするのは彼等の欲求が強いからではない。彼等の良心が弱いからである。強い衝動と弱い良心(conscience)の間にはどんな自然な連関もない。(31)
ミルの考えでは、良心(32)が利己的欲求を統御していれば、危険ではない。また、利己的欲求も、一般的には、それと共に、「他の人々、そして他のすべての人々とそれを共有したいという習慣的願望を陶冶し、そのように共有されえないものはなんであれ自分のために欲求することを潔しとしない」という社会的動機を強化することによって、他の人々のためになるように作用する。(33)
もちろんミルは、このような社会的動機や、良心などの道徳感情や、「徳への愛」や「自己統制」の動機といった、一般の功利性を増大させる傾向の強い動機を特に陶冶すべきことを主張している。(34)
特徴的なのは、「品位感(the sense of dignity)」が「あらゆる人間の内に奨励することが望ましい」ものと考えられていることである。(35)品位感とは、「自分が低い品等の存在だと感じるものになっていくことを本当に願う」ことを妨げ、人間固有の諸能力を使用する生活様式を選ばせる方向に働く感情ないし動機である。(36)このような感情の陶冶が功利主義の観点から望ましいことは、本論文の前後の記述を前提すれば明らかであろう。(37)
同様の視点から、「自己修養(self-culture)」の動機や「精神的完成」の動機の育成も重視されている。(38)ミルはカーライル宛の書簡の中で次のように書いている。
私は、人類の〔もっと正確に言えばその個々の構成単位の〕善を究極の目的だと考えますけれども、・・・この目的は、あなたが言われる手段、すなわち、各人が自分自身の内の最善のものの発展を自分の排他的な目標とみなすこと以外のどんな仕方でも促進されない、と最大限の信念をもって信じています。(39)
したがって、このような動機をもつことも、それ自体としてではなく、一般の幸福を増進するために望ましいのである。(40)
またミルは、「真理愛(love of truth)」の陶冶を特に主張する。その理由は、それを持つ人々は結果として多くの真理に到達するということである。(41)「真理の獲得への無関心」は「誤った意見の源」の一つなのである。(42)ここで、ミルの著作を通してみられる真理の価値の高い評価から、ミルは真理に功利性から独立した価値を認めているのではないか、という疑念が生ずるかもしれない。(43)しかし、ミルによれば、「意見の真理性はその功利性の一部である」。(44)ただしい意見が有用であるからこそ、真理愛の陶冶が求められるのである。もちろん、なぜただしい意見を持つことが有用であるのか、という問題が残るが、この点については後で触れる。
ミルが、以上のように、動機を一般的に強化することを推奨する背景には、現在文明化した社会で「人間本性を脅かしている危険は、個人的衝動と選好の過剰ではなくて、不足である」、という認識がある。(45)この動機の不足の一つの原因は、世論による慣習の強制である。動機は、「不使用によって(by
disuse)」「餓死させる(to starve)」ことが可能である。(46)だから、慣習に倣うという動機以外の動機に従って思考や行為をしないよう世論の圧力がかかっている現状では、慣習に倣うという動機以外の動機は失われていく。(47)もう一つの原因は、文明化された現段階では、安全や自由などが保障されていて、強い動機が一部を除いて生じがたい状況になっているということである。(48)このように強い動機が形成されがたい状況にあると認識しているために、ミルはことさら強い動機を形成することの重要性を強調するのである。
1-b) 快の感受性
次に、快の「感受性(susceptibilities)」の育成を重視するミルの論拠を考察しよう。
ミルの心理学によれば、欲求や衝動の育成は、快の感受性の育成と深く関係している。様々なことから強い快を感じることができれば、様々な強い快を伴った観念が生じ、そこから様々な強い動機(一種の連想)が生ずるのである。
個人的衝動を活き活きとした力強いものにする強い感受性と同一のものが、最も情熱的な徳への愛と最も厳格な自己統制が生ずる源でもある。(49)
そこで、諸々の強い衝動ないし欲求を形成することによって功利性を増大させるために、快の感受性の育成が必要になる。
また、快楽説功利主義者であるミルにとって、様々なことから強い快を感じることができる能力は、動機形成のために役立つということをおくとしても、陶冶されることが望ましいのである。
受動的感受性も、能動的諸能力と同様に陶冶される必要があり、養われ豊かにされることが管理されるのと同様に必要であるということを、私は今や経験によって学んだ。(50)
興味深いのは、ミルが社会的感情(51)や道徳的感情がそれをもつ人の幸福にとって特に重要であると主張することである。ミルによれば、それらが強くなければ、「その人自身の生活の喜びは貧弱なものでしかありえない」。(52)というのは、
公的愛情も私的愛情も持たない人々には、生活の刺激は非常に抑制されており、どんな事例でも、あらゆる利己的な利害関心が死によって必然的に終止させられる時が近づくにしたがって、しだいに価値が減少する。一方、自分の後に個人的愛情の対象を残しておく人々、特に人類の集合的利害関心への共感も陶冶してきた人々は、若さと健康の盛りの時期と同じようにいきいきとした生活への利害関心を死の直前にも保持するのである。(53)
そこで、その人自身のためにも、共感的な感受性を陶冶することが重要なのである。
1-c) 知的能力
では次に、知的能力を陶冶することを重要だとみなすミルの主張の根拠を検討しよう。
ミルが重要視する知的能力とは、自分で考える能力である。たとえば『自伝』では、彼の父の教育について、自分で「考えることによって」発見することを要求し、「単に記憶力を使用することに堕する」ことがなかった点が賞賛されている。(54)また、ある手紙でも以下のように主張されている。
貧しい人々が豊かな人々と同様に必要としているのは、教えを吹き込まれたり、他の人々の意見を教えられたりすることではなく、自分自身で考えることを勧められ、それができるようにされることである。(55)
もちろん、ただ考えるだけでなく、ただしい結論にたどり着くための能力が必要である。ミルは、このような能力として、とりわけ「観察と推論」の能力を考えている。
さて、これらの真理探究がどれほど異なってみえようとも、それらの題材が実際にどれほど似ていなくても、真理にたどり着く方法と真理の試金石はすべての場合においてほとんど同じです。真理が発見されうる方法は二通りしかありません。観察と推論です。もちろん、観察は実験を含みます。(56)
ここでいわれる推論には、演繹的推論だけでなく、帰納的推論も含まれる。(57)観察や帰納的推論の能力を重視するこのような立場は、ミルの認識論上の経験主義に基づいている。
こうした知的能力の陶冶が重要視される理由の一つは、当然、「我々が作り出すのに成功する知的な力と真理愛の度合に比例して・・・総じて真の意見が結果として生ずるということは確実である」からである。(58)彼は、基本的に、「真理に反するどんな信念も本当に有用であることはありえない」という立場を採っている。(59)だから、この知的能力の育成を推奨する論拠は、功利主義的なものだと言える。
また早期の著作では、他の人の述べていることを鵜呑みにしている場合は、一回忘れるとその知識は完全に失われるが、知識を自分で考えることによって得ている場合には、忘れても何度でも自分で再発見できる、という理由が挙げられている。(60)
その他にも、帰結主義の原理である功利性の原理を適切に適用するには、知的能力の陶冶が必要だ、という理由がある。
反対に、功利性の理論によれば、何がわれわれの義務なのか、という問題は、他のどのような問題とも同じように議論の余地がある。道徳学説は、他の学説と同様、証拠なしに受け入れられたり、不注意に取捨選択されるべきではない。基準は、他のすべての主題と同様、どれほど一般的に保持されていようと、広く受け入れられている意見ではなく、陶冶された理性の決定にある。人間の知性の弱さと我々の本性にあるその他のあらゆる弱点が、我々の他のあらゆる関心事に関してと同様に、道徳に関しても我々が正確に判断することを妨げるものとみなされる。そして、他のあらゆる主題に関してと同様に、その主題に関する我々の意見は、知能の進歩と、より確実かつ拡大した経験的知識と、行為の諸規則の変化を必要とする人類の状況の諸変化のどれによっても、大きく変化することが予期される。(61)
さらにミルは、知的能力の向上は有益な動機の形成を一般的に伴う、と考える。
…そして、よく陶冶された知性は、思慮分別や節制や正義によって伴われないで見出されることはめったにないだろうし、一般的には他者との交際において重要な徳によっても伴われるだろう。(62)
ミルがこのように考える理由は説明されていないが、おそらく、向上した知的能力によって、ただしい信念(規範的な信念を含む)が形成され、その信念に沿った方向に動機が形成される傾向がある、ということであろう。というのも、ミルは以下のように述べているからである。
にもかかわらず、真理を知ることは、既に、それに基づいて行為する気にさせる方向への大きな前進です。我々は、自分が明晰にみてとり鋭く感知していることには、実行に移したいという自然な欲求を持ちます。『最もよいことをみてとるのに、最もわるいことを追求する』ということは、精神の状態としてはありえますがありふれてはいません。不正なことに従事する人々は、一般的に、正しいことについて故意に無知であろうとまず第一に取り計らってきたのです。彼らは自分の良心を沈黙させてきたのですが、彼らは承知の上で(knowingly)それに従わないわけではありません。(63)
以上のように、ミルが知的能力の陶冶を支持する理由はいくつもあるが、おそらく最大の理由は、それが社会の全般的な改善の鍵だ(と考えている)からである。
大きな変化が人類の思考様式の根本的な構造において起こるまでは、人類の運命の大きな改善はまったく不可能だということを、私は今や確信した。(64)
ミルのこのような考え方は、彼の歴史哲学と関係がある。『論理学の一体系』において、彼は「人類が自分たち自身と自分たちを取り巻く世界に関してどうにかして到達した信念の性質を含む、人類の思索能力の状態」が「社会的進歩の主要な決定因」(65)だと主張している。なぜかといえば、「われわれの本性のうちの、その[社会の]進歩に貢献する他の傾向性は、その分の仕事を達成する手段をそれ[人類の思索能力の状態]に依存しているからである。」たとえば、物質的安楽への欲求は産業上の改善の強い誘因となるが、一定の信念(知識)と、その信念を生み出したり理解したりできる知的能力が存在しなければ、産業上の改善は生じえないのである。(66)したがって、一般の幸福の増大の鍵は知的能力の改善なのである。
1-d) 想像力
さて最後に、ミルの想像力に関する論述を検討したい。まず、彼が想像力をどのような能力と考えていたかを確認しよう。
ミルは、「想像力(imagination)」がさまざまな意味で使われることを指摘している。(67)そして、『ベンタム』では二つの意味を提示している。第一の、「通俗的な意味」は、「形象(imagery)と隠喩的表現の駆使力」であり、第二の、「当代の最良の著述家によって一般的にその名が割り当てられている」意味は、「自発的な努力によって、そこに存在しないものをあたかもそこに存在するかのように、想像上のものをあたかも現実にあるかのように考え、もしそれが現実にあるとしたら伴うであろう感情をそれにまとわせることを可能にするもの」である。(68)ミルが様々な著作で陶冶すべきことを主張しているのは、一貫して後者の意味の想像力であるように思われる。
(69)『セジウィクの講話』では、
その意味の一つでは、想像力は、理性の補助的な道具というだけでなく必要な道具でもある――すなわち、心の前に推論に関係するものの生き生きとした完全なイメージを呼び起こして維持することによって[理性の必要な道具なのである]。(70)
と述べられているが、この意味での想像力も、先の第二の意味に含まれるものとみなせる。
ミルが想像力の陶冶を主張する一つの理由は、直前の引用を見てわかるように、それが推論に役立つという側面があるからだと思われる。(71)
しかしミルは、それよりも大きな意義が想像力の陶冶にはあると考えている。
まず、先の引用に述べられていたように、想像力は感情をかきたてるので、それによって快をもたらすことがある。ことに、想像力は美的快楽と関係が深いと考えられている。(72)たとえば、ミルが若き日の精神的危機から立ち直るのにワーズワースの詩が助けとなったことが、以下のように描写されている。
ワーズワースの諸々の詩を私の心の状態に対する薬としたのは、それらが単に外的な美だけでなく、美の興奮の下にある感情の状態と感情に彩られた思考の状態も表現していたことであった。それらの詩は感情の教養(culture)そのもののように思われた。それは私が探し求めていたものだった。私は、それらの詩によって、内的な喜び、すなわち共感的で想像的な快の、すべての人間によって共有されうる源から[快を]汲み出しているように思われた。(73)
また想像力は、感受性を陶冶するのにも役立つ。(74)そして、ひいては(一般的に望ましい)動機を陶冶するのに貢献する。この点を以下で考察しよう。ミルによれば、自分自身を含む人間の表面に出てこない(もしくは、まだ出てきていない)性質を知るのには想像力が不可欠である。
これ[想像力]は、ある人間が他の人間の心と状況に入り込む力である。…それなくしては、誰であれ、状況が実際に試して呼び出した以上には、自分自身の本性さえも知ることはない。同胞の外的な行為を観察することによって可能であったかもしれないような概括を超えて同胞の本性を知ることもない。(75)
また、先にみたように、想像力には感情を産み出す力もある。そこで、想像力によってこそ、他の人々の苦や快を自分の苦や快として感じる(ミルによれば、このことは「道徳感情の基礎」である(76))ことが可能になる。
他の人々の苦は、われわれにとって自然に苦であるけれども、自発的な注意を含む想像の働きによってそれら[他の人々の苦]を実感するまではそうではない。(77)
したがって、道徳感情を持つためには想像力が不可欠である。また、たとえば、「徳への愛」も想像力を通して得られるものである。プラトンの著作について語っている箇所で、ミルは以下のように述べている。
しかし、プラトンが力説しているどのような議論にも、既に徳を愛したり欲求したりしていない人々にそうさせる力はない。このことは、知性を通して成し遂げられることは決してありえず、想像と情感を通して成し遂げられうるのである。(78)
このように、想像力は重要であり、その陶冶が求められるわけである。興味深いことに、この陶冶には一定の方向づけが含まれる。その方向づけとは、想像力を、真理、義務、思慮分別とそれに基づく行為を妨げない範囲で、できるだけ快い方面や高貴な方面に働くようにする、ということである。ミルは、とりわけ自分では変えようがない事柄に関する想像力の陶冶について、そのような方向づけをすべきだと主張をする。その理由は、想像力を「人生の幸福を増加させ、性格を向上させるための力」とするために(79)、そうした方向づけが重要だからである。
われわれに依存しない物事において、物事と人類の快い側を優先してみるという習慣が望ましいのは、より喜ばしい生活のためだけではない。それは、それらをさらに愛しそれらの改善のためにさらに熱意をもって働くことを可能にするためでもある。実のところ、一体どんな目的のために、想像力を人と物事の醜い側面で養うのか。・・・しかし、生の害悪をつくづく考えることがしばしば[神経の]力の浪費なら、生の卑しい事柄や下劣な事柄を習慣的につくづくと考えることは浪費より悪い。それらに気づいていることは必要である。しかし、それらを熟考して生きることは、自分自身の内に心の高い格調を維持することをほとんど不可能にする。想像力と感情は、低い調子に合わせられる。向上させる連想のかわりに堕落させる連想が、…生の日常の対象とできごとに結びつけられ、思考にその色調を与えるのである。(80)
したがって、想像力を快い高貴な側に向ける習慣を形成することが、(その習慣を持つ)当人の幸福に貢献し、その人の動機を人々のためになる方向に陶冶するのに役立つのである。
2. 諸能力のバランス
ミルは、以上のように人間特有の精神的諸能力の育成を主張するが、それだけがミルの諸個人の発展の概念の内容ではない。ミルの諸個人の発展に関する第二の主張は、諸能力がバランスよく育成されることが望ましい、ということである。具体的に言えば、1)利己的動機と利他的動機、2)知的能力と快の感受性や動機、そして3)想像力と知的能力がバランスよく育成されることが重要なのである。
まず、1)利己的動機だけでなく利他的動機も育成されなければならない。動機について考察した際にみたように、利己的動機が良心などの利他的動機と共に形成されないと、一般の幸福にとって危険であるのは、ミルも認めるからである。(81)
次に、2)知的能力と快の感受性や動機がバランスよく育成されることが重要である。この主張には、知的能力の陶冶は快の感受性や動機の育成と共に行われないと有害な面がある、という側面と、感受性と動機の育成は知的能力の陶冶を伴う形で行われなければならない、という側面がある。
知的能力の陶冶が排他的に行われると危険であるのは、知的能力、特に分析の習慣には、原因の観念と結果の観念の間の連想以外の連想を解消していく傾向があるからである。多くの快は連想の結果生ずるものであり(82)、また、欲求などの動機は連想それ自体であるから、連想が分析の習慣によって解消されると、それらの快や動機が解消されることになる。(この連想心理学に基づく主張は、常識的に言えば、われわれの快や動機の多くは不確かな認識や推測に基づいているので、そのような認識や推測を厳密に検討する力だけを陶冶して、感受性や動機を育成することを怠ると、快を見いだせず動機を持ち得ないという状態に陥りやすい、ということだと思われる。)そこで、知的能力の陶冶は快の感受性や動機の育成とバランスを保って行われる必要がある。(83)
感受性と動機の育成が知的能力の陶冶を伴う形で行われるべきなのは、強い動機があっても知的能力がないと、良好な活動の基礎となるただしい信念が得られず、強い動機を持っているために無茶な試みをして悪い結果を招く蓋然性があるからだと思われる。
疑いもなく、より大きな帆がより多い底荷を必要とするのと同様に、強い感情はそれを掲げる強い知性を必要とする。そして、怠慢や悪い教育のゆえにその強さが欠けている場合には、最も堂々とした最も速い舟が最も完全な難破をするとしても少しも不思議ではない。(84)
最後に、3)想像力の陶冶は知的能力の陶冶を伴う形で行われるべきである。ミルの認識では、人々には「想像を最も虜にするもの」を誤って真理だと信じる可能性がある(85)ので、想像力が陶冶されるならば「知性の正確さと行為と意志の正しい方向づけを乱す」かもしれない。(86)
しかし、想像力の陶冶が「厳密な理性の陶冶と足並みをそろえて進む」ならば、このような問題は生じない。それゆえ、想像力の陶冶は知的能力の陶冶と一緒になされることが重要なのである。(87)
3. 信念
ミルの諸個人の発展に関する第三の主張は、信念を持つことが重要であるということである。ミルは、信念を「欲求と衝動」や「自己統制」と同じく「完全な人間の一部」だと考えている。(88)しかし、あらゆる信念が重要である、というわけではない。信念のうち、保持することが一般的に有益なのは、真理を含む信念である。彼がただしい信念を持つことが重要だと考える最大の理由は、J.
ガウアンロックが指摘しているように、それが良好に活動するための手引きとして必要だからである。(89)したがって、そのような手引きとならない否定的信念[否定文で表現される信念]は、それほど重要視されていない。
というのは、あらゆる肯定的な(positive)真理の知識(knowledge)は有用な獲得物であるけれども、この見解は留保なしには否定的(negative)真理には適用されえない。確かめえる唯一の真理が何事も知られえないということである場合には、われわれはこの知識によって自分自身を導くどんな新しい事実も得ない。われわれは、せいぜい、何らかの以前の指標への信頼をただされるだけである…(90)
そこでミルは、否定的信念しか得られない主題では、ただしくない信念をもつことが有用である可能性は認める。宗教はそのような主題として扱われている。(91)しかし基本的には、「真理に反するどんな信念も本当に有用であることはありえない。」(92)
ただしい信念の獲得が、真理愛ないし知的欲求の対象である場合には、これもただしい信念を持つことを功利主義的に望ましいとみなす理由である。ミルは、外的自然に対する一般的な関心が存在し、したがって科学がそれに関するただしい知識を与えることに「科学の功利性の最も単純で最も明らかな部分」が帰属する、と考えている。(93)
さらに、正しい信念によって、合理的な思考や行動をもたらす動機が形成されるということも、重大な理由のように思われる。
それでは合理的意見と合理的行為が人類のあいだで概して優勢であるのはなぜか。・・・それは人間の心の一資質によるものである。それは知的存在ないし道徳的存在としての人のうちにある尊敬すべきあらゆるものの源泉である。すなわち、人の誤りは矯正できる、ということである。(94)
引用の意味するところは、誤った信念が矯正されることによって、人々はその信念に沿ったより合理的な動機を形成し、それによって合理的な思考や行動をするようになる、ということであろう。このような合理的な動機は功利性を増大させる傾向がある、とミルは考えており、それゆえにただしい信念を持つことを推奨しているところがあるように思われる。
またミルは、信念はその保持のされ方によって望ましさが異なる、と考えている。まず、真理を含むだけでなく、何らかの根拠に基づいている信念は、さらに望ましい。なぜなら、根拠に基づいていない信念は、「ほんの少し論証の体裁を取っているだけのものにも屈服しがちである」からである。(95)次に、「性格と行為に対する活力に満ちた影響力」は明晰で強い信念に属するので、真理は明晰に強く信じられることが望ましい。(96)
またミルは、信念の保持され方だけでなく、信念が関係する事柄によってもその望ましさが左右されると考えていたようである。まず第一に、「自分の行為の傾向を判断することができるようにするであろう知識」を持つ重要性が指摘されている。(97)真理を含む信念が重要なのはそれが行為の導き手となるからだ、とミルのように考えるならば、このような信念が特に大事なことは納得できるであろう。
第二に、ミルは、知識がどんどん蓄積されていく現状を見据えながら、自分の専門的な知識以外に、「人間にとって重要な大問題すべて」に関して「主要な知識」を「正確に」学ぶ必要性を強調している。(98)ミルがこのような主張をするのは、偏った狭い範囲の知識だけを持っている状態は「単なる無知と比較してさえ悪い」、と考えるからである。
経験が示すところによると、どんな研究ないし探究であれ、他のすべて[の研究ないし探究]を排除して実行されるならば、その心を狭め誤らせないものはない。その根拠を把握しただしく認識する能力のなさから、重要な諸々の見解に対して、すべての狭い専門に共通の一般的な偏見ばかりでなく、その探究に特有な一群の偏見を心の内に養うのである。
そうなれば、「人間本性はもっともっと矮小化され、大きな物事に不適合なものになる」のである。(99)逆に、もし専門的な知識が重要で一般的な知識と結びつけられるならば、教養ある人間が育成される。
この組み合わせこそ、啓蒙された階層、すなわち陶冶された知識人の一団を生むものである。[彼らの]各々は、自分の分野でその[分野の]成果によって本当の知識がどんなものかを教えられ、他の主題について誰が自分よりそれを知っている人かを識別できるのに十分なほど知る。(100)
ミルの認識では、自分の専門ではない主題を熟知している人々を識別するのに必要な知識は重要である。たとえば科学の分野でそのような知識が人々になければ、「彼らは科学の証言を全く信用しなくなるか、ペテン師や詐欺師の手軽なカモになる」のである。(101)
以上のような理由に加えて、先に知的能力の望ましさについて考察していた際にみたように、人々の「信念の性質」が(知的能力とあわせて)人類の社会状態の決定要因だと考えられていることも、ただしい信念を持つことを支持する理由である。このような様々な功利主義的な理由で、信念は「完全な人間の一部」なのである。
4. 統制的動機
ミルの諸個人の発展に関する第四の主張は、他の様々な動機を統制する動機を持つことが重要である、ということである。
諸々の欲求と衝動が自分自身のものである人は――諸々の欲求と衝動が、自分自身の修養によって発展され修正されてきたものとしての自分の本性の現れとなっている人は――性格を持っていると言われる。・・・もしその人の諸々の衝動がその人自身のものであるのに加えて強いものであり、しかも一つの強い意志(a strong will)の統治の下にあるならば、その人は活力のある性格をもつ。欲求と衝動の個性は展開するよう促されるべきではないと考えている人は誰であれ以下のことを主張しなければならない。社会は強い本性をまったく必要としていない――大きな性格を持つ多くの人達を含むことで一層よくなるわけではない――し、活力の一般的平均が高いのは望ましくない、と。(102)
ミルの意志作用に関する理論によれば、意志とは意志作用を生ずる能力ではない。個々の意志作用があるだけである。だから、上記の引用の「一つの強い意志」とは、一つの強い動機もしくはそれを生ずる観念を意味していると思われる。そこで、ミルが好ましいと思っている「活力のある性格」をもつ人とは、一つの強い動機もしくは観念が諸々の強い動機を統制しているような人だと考えられる。この解釈は、ミルが肯定的に引用している、「人間の目的は・・・自らの能力を完全な一貫した統一体へと最高度にかつ最も調和的に発展させることである。」(103)、というフンボルトの言明ともよく適合しているように思われる。
この一つの強い動機ないし観念に統御された性格というのが何故よいのか、ミルは明確な説明をしていない。しかし、彼がおそらく考えていたであろうことが、彼が注を付けているジェイムズ・ミルの『人間精神の現象の分析』で述べられている。
ジェイムズ・ミルによれば、ある観念が、他の複数の観念と相互に引き起こしあうことにより持続的に存在し、その事物の達成に寄与する多数の行為の観念と強い連想を形成して意志作用を引き起こすようになる場合がある。彼はそのような観念を「指導的観念(leading ideas)」と呼ぶ。この指導的観念を持っている人は、人生を通じてこの観念の対象に自分の思考や行為を向ける。幸福の大きな源を指導的観念の対象にした場合に、教育は完全に役目を果たしたことになり、その人は自他の幸福に最大限に貢献する。(104)
この見解をジョン・ステュアート・ミルが大筋で受け継いでいると考え、「活力のある性格」をもつ人ということで、ジェームズ・ミルの言うところの指導的観念が諸々の強い動機を統制しているような人を意味していたとみなせば、適切な統制的動機を形成することは、やはり幸福を増大させるために望ましいと考えられている、と解釈することができる。
結論
ここまでの考察が、いくつかの点で不十分であることは認めなければならない。『自由について』で「個性(individuality)は発展と同一のものであり、個性の陶冶のみが発展した人間を産み出す、あるいは産み出すことができる」と述べられている個性(105)や、ミルが賞賛している「独創性(originality)」や「天才(genius)」(106)や、多くの論者がミルの理想(の一部)だと考えている「自律(autonomy)」(107)と、ここで提示した諸個人の発展の概念がどのような関係があるのか、考察する必要があるだろう。また、ミルが人間固有の諸能力一般を陶冶すべきだと主張する際の根拠になっている快の質の議論を、この論文では検討することができなかった。これらの点は、次の機会に論題にしなければならない。
しかし、これまでの考察からだけでも、以下のようなことを指摘することができる。
第一に、ミルにおける諸個人の発展とは精神的なものである。彼は一定の精神的諸能力や信念の形成などが望ましいと主張しているが、身体能力の向上の望ましさといった事柄について(私の知るかぎり)とりたてて論じてはいない。
第二に、ミルは能力や信念の選択的で一定の方向づけを伴う育成を支持している。たとえば、精神的諸能力の中でも、人間固有の諸能力の陶冶が重要視される一方で、「類人猿のような模倣能力」は極めて低く評価されている。(108)また、そのままだと有害な動機はできるだけ有益な方向に作用するように矯正すべきであり、それが不可能なものは根絶すべきだと考えられている。ミルは<自然にかえれ>とは言わないで、かわりに、「・・・人間の義務は、自分自身の自然(nature)に関しても他のすべての物事の自然に関してと同じこと、つまり、それに倣うのではなく修正することである」、と述べるのである。(109)ただしミルの議論は、一般的には諸々の動機を強化することを支持しているように、諸能力や信念の方向づけや選択よりも、それらを形成し強化することに重点を置く傾向がある。
第三に、ミルは諸能力間の関係について大きな注意を払っている。諸能力のバランスを重要視しているだけではない。高い知的能力がただしい信念の形成を通じて望ましい方向への動機を作り出すとか、感受性の陶冶が動機形成に貢献するとかいった、諸能力の育成の部分的な依存関係も視野に入れている。
そして最後に、ミルが示している諸個人の発展の諸特徴には、快楽説功利主義の立場からの理由づけが一貫してある。そこで、これらの根拠となっているミルの事実認識がただしければ、功利主義者ミルは諸個人の発展を支持する正当な理由を持つことになる。もちろん、これらの根拠となっている事実認識がまったく誤っていれば、ミルの諸個人の発展の概念をお払い箱にしなければならない。しかし私見によれば、全般的にみて、ミルの考察が完全に間違った事実認識に基づいているとは思われない。
もしそうだとすれば、諸個人の発展そのものが望ましいという立場を採る人々だけでなく、功利主義者にも諸個人の一定の発展を支持する理由があることになる。功利主義によれば最大の幸福や選好充足をもたらす選択肢を選ぶべきなので、諸個人の発展を促す選択肢と、その選択肢より幸福ないし選好充足がもたらされる別の選択肢がある場合には、諸個人の発展を促す選択肢は採られない。しかし、功利主義者は諸個人の発展を支持する一般的な一応の理由を持つことになる。またこのことは同時に、功利主義者は諸個人の発展を促すことを真剣に考慮に入れるべきだ、ということも含意する。現代の功利主義の理論家たちは、ミルの陶冶を重んじる姿勢をあまり共有していないように思われるが、この点は批判に曝されてしかるべきなのかもしれない。
(すずき まこと 京都大学文学研究科博士課程一回生)
(2)
ex. Robson, John M. The Improvement of Mankind, Toronto: University
of Toronto Press, 1968, 140; Garforth, F. W. Educative Democracy: John
Stuart Mill on Education in Society, Oxford University Press, New York,
1980, 3; Ryan, Alan. The Philosophy of John Stuart Mill, London:
Macmillan, 1st ed. 1970; 2d ed. 1988, 255; 関口 正司、『自由と陶冶 J. S.
ミルとマス・デモクラシー』、みすず書房、1989、9。
(3)
ジェームズ・ミルの教育思想のJ. S. ミルに対する影響について論じられている論文としては、Roellinger
Jr., Francis X. 'Mill on Education' , The Journal of General Education,
vol. 6, 1952がある(pp. 246 - 259)。カーライルやコールリッジ、そしてドイツ哲学の影響について考察されている著作としては、Semmel,
Bernard. John Stuart Mill and the Pursuit of Virtue, Yale University
Press, New Haven and London, 1984がある。
(4)
Garforth, F. W. op. cit.; Garforth, F. W. John Stuart Mill's Theory
of Education, Oxford: Martin Robertson, 1979.
(5) ただしウェンディ・ドナーは、一定の限定内でではあるが、この問題に取り組んでいる。Donner, Wendy. The Liberal Self: John Stuart Mill's Moral and Political Philosophy, Cornell University Press, Ithaca and London, 1991, ch. 2 & 3, 92 - 140.
(6)
ex. Gray, John. Mill on Liberty: A Defence, 2nd ed., Routledge,
London and New York, 1996 (1st Published 1983), 70 - 89; Thornton, Neil.
The
Problem of Liberalism in the Thought of John Stuart Mill, Garland Publishing,
Inc., New York & London, 1987, 42 - 68.
(7)
ミルのこの立場の明確な表明は、Utilitarianism, CW10, 1861, 210に見られる。
(8)
On Liberty, CW18, 1859, 262.
(9)
Berger, Fred R. Happiness, Justice and Freedom: The Moral and Political
Philosophy of John Stuart Mill, Berkeley: University of California
Press, 1984, 236.
(10)
Utilitarianism, CW10, 1861, 210 - 214.
(11)
ibid., 213 - 214 / 215 - 216.
(12)
意志作用とは、身体的行動を引き起こすような、あるいは、ある意識状態への「注意を固定する(fix
the attention)」ような、意識状態(厳密には、複数の意識状態の連想)のことである。An
Examination of Sir William Hamilton's Philosophy, CW9, 1865, 468.
(13)
A System of Logic, CW8, 1843, 842 - 843.
(14)
James Mill's Analysis of the Phenomena of the Human Mind, 1st
ed. 1829; 2nd ed. 1869 ed. with introduction & notes by J. S. Mill,
Vol. 2, 262 - 263.
(16)
A System of Logic, CW8, 842 - 843.
(17)
An Examination of Sir William Hamilton's Philosophy, CW9, 468.
(18)
On Liberty, CW18, 263. 「衝動」とは、ミルの広義の用法によれば、動機一般を意味し(Nature,
CW10, 392.)、狭義の用法によれば、動機のうち「行動や自制がそれ自体として目的となっていて、その先の目的はまったく有しない」ようなもの(Remarks
on Bentham's Philosophy, CW10, 13.)であるが、いずれにせよ動機である。
(19)
Considerations on Representative Government, CW19, 1861, 407.
(32)
良心は、「義務の感情(feeling of duty)」とも呼ばれる、典型的な道徳感情である。James
Mill's Analysis of the Phenomena of the Human Mind, Vol. 2, 324. 良心の本質は、「無私の」、「義務の純粋な観念に結びついている」、「義務の違反に伴う」苦痛な感情である。Utilitarianism,
CW10, 228-231.
(33)
Auguste Comte and Positivism, CW10, 1865, 339.
(35)
Recent Writers on Reform, CW19, 1859, 354.
(36)
Utilitarianism, CW10, 212. cf. Bentham, CW10, 1838, 95
- 96.
(37)
ミルは「人格的自立への愛」ないし「自由への愛」を品位感の一形態とみなしており、自分の能力の自由な行使によるその満足から強い快が生じることも、彼が(人格的自立への愛としての)品位感を重要視する理由となっている。
Utilitarianism,
CW10, 212. & The Subjection of Women, CW21, 1869, 336 - 338.
(38)
ex. A System of Logic, CW8, 841 - 842.
(39)
A Letter to Thomas Carlyle, 12th January 1834, CW12, 207 - 208.
下線部分は原文ではイタリック。
(40)
もちろん、このような議論は、1)このような動機を持つことが可能であり、しかも2)その動機が強ければ、教育の手段を自分に対して自発的に使うことによって、「最終的には自分の欲求と嫌忌を大なり小なり修正することができる」、というミルの認識に基づいている。
An
Examination of Sir William Hamilton's Philosophy, CW9, 466 - 467n.
See also A System of Logic, CW8, 838 - 842 & Bentham,
CW10, 95 / 98.
(41)
Civilization, CW18, 1836, 144.
(42)
A System of Logic, CW8, 737.
(43)
ガーフォースはそのような疑念を示している。Garforth, F. W. op. cit.
8 / 10 - 11.
(47)
On Liberty, CW18, 264 - 265
(48)
Civilization, CW18, 129 - 130.
(49)
On Liberty, CW18, 263 - 264.
(51)
「社会的感情(social feelings)」とは、「共感(sympathy)」とか「愛情(affection)」と呼ばれるような利他的な感情である。そして、道徳感情一般の基礎はこの社会的感情である。James
Mill's Analysis of the Phenomena of the Human Mind, Vol. 2, 309.
(52)
Remarks on Bentham's Philosophy, CW10, 1833, 15.
(53)
Utilitarianism, CW10, 215. cf. Inaugural Address Delivered
to the University of St. Andrews, CW21, 1867, 257.
(54)
Autobiography, CW1, 1873, 33・35.
(55)
A Letter to the Rev. Henry William Carr, 7th January 1852, CW14,
80. 「自立的思考(independent thinking)」の大切さは、On Genius, CW1,
1832, 329 - 339などでも説かれている。
(56)
Inaugural Address Delivered to the University of St. Andrews,
CW21, 234.
(57)
ibid., 234 - 240, esp. 238.
(61)
Sedgwick's Discourse, CW10, 1835, 74. cf. Whewell on Moral
Philosophy, 1852, CW10, 179.
(62)
Reforms of The Civil Service, CW18, 1854, 209.
(63)
Inaugural Address Delivered to the University of St. Andrews,
CW21, 247.
(65)
ここでの「進歩(progress)」は、「改善(improvement)または改善の傾向」を必ずしも意味しない。
A
System of Logic, CW8, 913 - 914.
(66)
ibid., 926. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。cf. Auguste
Comte and Positivism, CW10, 315 - 317.
(67)
Sedgwick's Discourse, CW10, 50n.
(69)
ex. Theism, CW10, 1874, 483 - 486 & Writings of Junius
Redivius, CW1, 1838, 415n.
(70)
Sedgwick's Discourse, CW10, 50n. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。
(71)
cf. Taylor's Statesman, CW19, 1837, 645.
(72)
James Mill's Analysis of the Phenomena of Human Mind, vol. 2,
252 - 255. cf. Bentham, CW10, 112.
(73)
Autobiography, 151. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。
(75)
Bentham, CW10, 92. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。
(76)
James Mill's Analysis of the Phenomena of the Human Mind, Vol.
2, 309; Sedgwick's Discourse, CW10, 60.
(77)
Sedgwick's Discourse, CW10, 61. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。
(78)
The Gorgias, CW11, 1834, 150. cf. Grote's Plato, CW11,
1866, 416.
(80)
ibid., 484 - 485. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。
(82)
James Mill's Analysis of the Phenomena of the Human Mind, Vol.
2, 233n.
(83)
Autobiography, CW1, 141・143 / 147.
(84)
Thoughts of Poetry and Its Varieties, CW1, 1833, 364. 本論文で行っている、知的能力と信念の形成の重要性についての考察も参照のこと。
(85)
Tennyson's Poems, CW1, 1835, 417.
(89)
Gouinlock, James. Excellence in Public Discourse ― John Stuart
Mill, John Dewey, and Social Intelligence, Teachers College, Columbia
University, New York and London, 1986. 邦訳: 『公開討議と社会的知性――ミルとデューイ』
小泉仰監訳、御茶の水書房、1994、14.
(90)
Utility of Religion, CW10, 1874, 405. ミルによれば、「知識(knowledge)」とは、二つの条件を両方満たす信念である。その二条件とは、1)「ただしい(true)」という条件と、2)「十分に根拠づけられた(well
grounded)」ものであり、しかもその根拠が「きわめて高い程度の確実性」を有するという条件である。
An
Examination of Sir William Hamilton's Philosophy, CW9, 65.
(91)
Utility of Religion, CW10, 405.
(93)
Inaugural Address Delivered to the University of St. Andrews,
CW21, 233 - 234.
(97)
Principles of Political Economy, CW2, 1848, 375.
(98)
Inaugural Address Delivered to the University of St. Andrews,
CW21, 223 - 224.
(99)
Ibid., 223. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。
(100)
Ibid., 223. [ ]内は筆者が理解の助けとなるよう補った。
(103)
ibid., 261. Humboldt, Carl Wilhelm Von. The Sphere and Duties of
Government, trans. Joseph Coulthard (London: Chapman, 1854), 11からの引用。
(104)
James Mill's Analysis of the Phenomena of the Human Mind, vol.
2, 376 - 378.
(106)
ex. ibid., 267 - 268; On Genius, 331 - 339.
(107)
ex. Gray, John. op. cit., 70 - 89; Donner, Wendy. op. cit., 120; Mendus,
Susan. Toleration and the Limits of Liberalism, Macmillan, 1989.
邦訳: 『寛容と自由主義の限界』 谷本光男 / 北尾宏之 / 平井隆敏 訳、ナカニシヤ出版、1997、74
- 76.
(108)
On Liberty, CW10, 262. See also Mile Leontine Fay [2],
CW22, 1831, 310.