道徳性の根拠を何らかの感情や功利計算に求めるのでなく、「それ自身実践 的な純粋理性」に帰すること。カントの実践哲学上の考察の独自性は、結局こ の点に帰着する。理性とは通常、何よりも推理能力を事とする純粋に知的な能 力と解される。これに対してカントは、「義務」の根拠を求める長い試行錯誤 の後に批判期において、理性自身が固有の「欲求能力」でありそこからして初 めて義務の有する拘束力は説明される、という洞察に達したのである(1)。こうし た議論は、カント自身がかつて共感を寄せていた道徳感情説に対しては勿論(2)、 倫理学説上の合理主義と呼ばれる立場に対しても異質な種類のものである。と いうのも合理主義においてもなるほど理性能力が第一におかれはするが、しか しあくまでもそこで理性は道徳的な善・悪に対する「洞察」を可能にする知的 な直観能力として捉えられていたからである(3)。
純粋な実践理性というものに道徳の最高の根拠を求める倫理学説上のこの決 定的な一歩に関して、しかし明確な論証による更なる基礎づけをカント自身に 期待すると我々は失望させられることになる。『人倫の形而上学の基礎づけ』 (以下『基礎づけ』と略)や『実践理性批判』(以下、第二批判と略)では、 義務を自己愛から、道徳的な真の原則(定言命法)を偽の原則(仮言命法)か ら区別する一定の説得力を持った議論が展開されはするが、しかし真正なる義 務、真なる道徳法則において一切の利己的な配慮を度外視することさえ命ずる 純粋実践理性の命令が、いかなる人間のいかなる行為の局面においても確かに 規定的な力をもつはずだ、とするカントの想定の妥当性については、遂に満足 な論証は与えられないのである。『基礎づけ』では、「いかにして純粋理性は 実践的となりうるかを説明すること」は「理性のすべての限界を超え出ること」 とされ、また第二批判では悪評の高い「純粋理性の現事実」の導入をもって定 言命法の基礎づけの試みが打ち切られることになる。そして我々が道徳を考察 する上での「常識der gemeine Verstand」の信頼性が引き合いに出され(『基 礎づけ』序文 (IV 391))、純粋実践理性は自らの実在性を「事実によって (durch die Tat) 証明する」が故にその能力の批判は必要ない、と断言されるのである (第二批判序文 (V 3))。『純粋理性批判』において心的諸能力の「超越論的演 繹」を何よりも重要な課題と捉えていたカントにあって、実践哲学におけるこ うした態度の変化は一体いかに評価すべきものなのだろうか。そしてそもそも、 それ自身で実践的な純粋理性というカントの規定をどのような解釈の文脈で評 価を与えるべきなのだろうか。
ここでカントの理性に関する考察を、例えば道徳感情説の系譜にあるヒュー ムの、理性を「冷静で捕らわれなく (cool and disengaged) 何ら行為の動機と はならない」(4)としているような理解と対置してみよう。そこから見えてくるの は単に冷静な推理能力ではなくアクティブで実在的な「力」として理性を捉え る、というカントの基本的な方向性である。ところでカントにとって「力」の 概念とは、処女論文「活力測定考」以来、自然哲学上の基本概念として徹底的 に思惟されてきた対象に他ならない。ここにカントの倫理思想を彼の自然哲学 的考察との関連において考察し直す、という課題が生じることになる。しかも そうした探求への指示は、まさしく『実践理性批判』において純粋実践理性を 「根源力」になぞらえる注目すべき叙述から与えられているのである。
以下の論考ではこの根源力の概念を鍵として、とりわけ『自然科学の形而上 学的原理』を考慮に入れながら、カントの倫理思想と自然哲学の方法論上の類 比的関係を確認して行く (第1、2、3節)。その上でカントが純粋実践理性の実 在性の証明を断念せざるをえなかった本質的な事情を、自然における根源力の 証明との対比において明らかにする(第4節)。最後にカントがやはり『実践理性 批判』において、実践哲学の方法を「化学的方法」になぞらえている点を取り 上げて、カントの哲学的思一般の根底に存する自然哲学的方法の意義を再検討 する。
「欲求能力」と捉えられた純粋実践理性が自然因果性から自由な行為の原因、 即ち「叡知的因果性」の主体として、固有の「力」を有する作用原因と考えら れているのはほとんど自明のことでさえある。「欲求能力とは、ある存在者が 彼の表象によって、その表象の対象の現実性の原因となるところの能力であ る。」(V 9 Anm.) ところで『純粋理性批判』によれば、「因果性は作用 (行為 Handlung) の概念を導き、作用の概念は力の概念を、そしてそれによって実体 の概念を導く。」(A204=B249)。ただしその場合の力とは、当然現象界におけ る力と同種的なものとは見なされ得ない。「[理性は] あらゆる経験的に規定さ れた諸力から区別される。」(A547=B575) 当然のことながらそもそも「理性自 身は現象ではない」(A553=B581) 。では理性の力とはどのような力なのか。人 間の行為といえども、それが現象界に属するものである限り自然原因の無限の 連鎖の一項と見なされざるを得ず、従って行為の「結果において顕わとなる力 および能力」(A547=B575) は自然的な力、それのみである。しかし我々は実際 にもある行為が自由意志に基づくと認めているのであり、その際、我々は理性 の「命法」がより高次の叡知的秩序の基本原理として自然的諸力に規制を加え ていること、即ち「統制的原理」(A554=B582) として作用していることを認め ているのである。「さてこの理性が因果性を持っているということ、少なくと も我々が理性に即してそのようなものを考えているということは、我々があら ゆる実践的な事柄において作用している力に規則として課すところの命法から、 明らかである。」(A547=B575) この場合の原因-結果関係は異質な二つの秩序の 間の関係、即ち「異種的なものの綜合」であり、同種的なものの綜合が「数学 的綜合」と呼ばれるのに対して、「動力学的綜合 dynamische Synthesis」と呼 ばれる (A529=B557)。こうしてカントの術語においては、純粋実践理性の作用 は「動力学的な」力によると考えられることになる。第二批判において純粋実 践理性の因果性が「ある種の動力学的法則」に従っている、と言われるのはそ の為である (V 42)。 (5)
さてこうした「力」の観点からすると、純粋な実践理性の実在性を証明する という課題は次のような形に置き直されることになる。即ち、実践的な理性能 力を、感性的な動機等の他のいかなる力あるいは能力にも還元され得ないそれ 自体が根源的な力(あるいは能力)として同定した上で、そうしたものとして の実在性を証明すること。そして実際、第二批判で道徳の根本法則に論証上の 基礎づけを与えるべき重要な章節、即ち「純粋実践理性の原則の演繹について」 (以下「演繹」と略)で、「根源力あるいは根源能力」への次の注目すべき記 述が見られるのである。
「あらゆる人間的な洞察は、我々が根源力 (Grundkraft) あるいは根源能力 (Grundvermoegen) に到達するや否や、終結に至る。というのもそれらの可能性は決 して把握し得ないが、しかしまた同様に恣意的に捏造することも想定することもで きないからである。」(V 46 f.)
この言明は単に挿話的なものと見なされるべきではない。というのもこの言 明がなされる正に同じ段落の直後の箇所で、「理性の現事実」の導入をもって 道徳的法則の実在性の証明が打ち切られる有名な議論が続くからである。明ら かに定言命法の更なる基礎づけの断念は、「根源力あるいは根源能力」として の純粋実践理性の実在性の証明不可能性と不可分の関係において考えられてい る。
何故「根源能力」たる純粋実践理性の可能性を我々はそれ以上把握し得ない のか、という本論考の核心については以下の考察で解明して行くことになるだ ろう(第4節)。その前にここで「根源能力」と並置されている「根源力」が そもそも何を指し示し、そして何故に、いかなる意義をもってここで言及され ているかが前もって理解されねばならない。
カントが根源力に言及する際に、心的能力と並んで自然界の諸事物、諸事象 を構成する究極的な原理を念頭に置いていたことは『純粋理性批判』の記述か らも明らかである(6)。さらに具体的には、カントはここで明らかに『実践理性批 判』(1788) に二年先立って出版された『自然科学の形而上学的原理』(1786、 以下『原理』と略) で考察されていたところの、自然界の物質をそれとして構 成している根本的な力、即ち「引力」と「斥力」を念頭に置いている。この点 は従来ほとんど注目されていないが(7)、第二批判における先の一文と、『原理』 で根源力たる引力・斥力の可能性が把握不可能であることを述べる次のような 記述を比べるとき明らかとなる。
「根源力の可能性を把握できるようにすることは全く不可能な要求である。とい うのも、それは他の力から導出できず、すなわち他の力によって全く把握され得な いからこそ、根源力と呼ばれるからである」(IV 513)
「しかし誰が根源力の可能性を洞察しようとするのだろうか?根源力は、もしそ れがある概念に、即ちその概念について自らが他のいかなる概念からも導出され得 ない根本概念たることが証示され得るような、そうした概念に不可避に属するもの ならば、単に想定され得るのみなのである。」(IV 524)
「根源力をアプリオリにその可能性に関して洞察することは、そもそも我々の理 性の視界を超え出ている。」(IV 534)
自然認識における根源力の可能性そのものの把握不可能性はこうして、それ 自身実践的な純粋理性能力の可能性の論証が断念されざるを得ない事情と、明 らかに類比的に考えられている。では何故に根源力の可能性はそれ以上我々に は洞察されない、と言われるのか。ここで一旦迂回路を取って、『原理』にお いて根源力という概念がどのように導出されたのか、そしていかなる事情によ りその更なる基礎づけが断念されざるを得なかったかを、前もって確認してお くことが必須の課題となる。
『自然科学の形而上学的原理』という著作の目的は「物質」を主題的な対象 として、『純粋理性批判』のカテゴリー表を手がかりにしつつ無機的自然を認 識する基本的な概念枠を、とりわけニュートンの『自然哲学の数学的原理』(以 下『プリンキピア』と略)を念頭に置きつつ論じて行く点にある。現在の文脈 においてまず注目すべきなのは、他ならぬ「動力学 Dynamik 」と題された章 (著作第2章)で物質を構成する根源力として斥力、および引力が考察されて いる点である。それは即ち「同種的なものの綜合」、例えば一つの物体に作用 する複数の外力の合成や(第1章「運動学 Phoronomie 」)、複数の物体間の 相互関係(第3章「力学 Mechanik 」)とは異なり、ある「異種的なものの綜 合」が論じられていることを示唆している。ではこの場合の異種的なものとは 一体何なのか。そして何故そこで引力と斥力の二つが根源力とされるのか。
『原理』の「動力学」の章の考察は、一定の空間を充たすもの(=延長)と しての物質がいかにしてそのようなものとして成立するか、という点の解明に 向けられている。つまり延長としての物体、あるいは物体の不可入性、という 伝統的な「物」そのものの定義に、動力学的観点から哲学的な再定義を与える ことを目的としているのである。カントによれば物質が空間を充たすと言う時 には、まず他の物体による侵入に対抗する力が考えられなければならない。そ れが、幾何学的図形が一定の空間を占めると言われる場合とは異なる、実在的 な物質の根本規定である。「物質は、その単なる現実存在 (Existenz) によって ではなく、ある特殊な運動力 (eine besondere bewegende Kraft) によって空間 を充たす。」(IV 497 「定理一」) この運動力こそ斥力 (zurueckstossende Kraft) あるいは反発力 (repulsive Kraft) である。「物質は自らの空間をただ斥力によ ってのみ充たす。」(499) この斥力こそ実在的な物質をそれとして成立させる、 それ以上根拠を問いえない第一の根源力と認められねばならない。こうした規 定は、物質の不可入性を単なる「物質」概念から導き出して結局循環的な論証 に陥ってしまうことを免れる、という点でのみ有効であるばかりでなく、物質 構成の法則的探求がそれに基づくべきまさしく「形而上学的原理」として、自 然科学にとって不可欠のものとなるのである。「(斥力は)その可能性に関し てはそれ以上説明されえず、従って根源力と見なされねばならないが、しかし 斥力は作用因とその諸法則の概念を与えるのである。」(502)
ところで物質を構成する根源力として斥力しか考えないならば、物質は無限 に拡大してしまいその存在が消失してしまうことになる (508)。そこで実在的な 物質がそれとして存立するためには、斥力と反対の方向に働く力、即ち引力 (Anziehungskraft) が物質に具わる第二の根源的な力として考えられねばなら ない。「物質の可能性は、その第二の本質的な根源力として引力を必要とする。」 (509 「定理二」)こうして引力・斥力という二つの根源力の導入によって、実 在的である限りでの物質一般を構成する根本規定は尽くされる。その際斥力の 根源性は物質の不可入性から直接に認識され、また引力の根源性はそれが斥力 と正反対の方向に働く、という点において斥力からは決して導出できない性格 を有し (ebenda.) 、さらにその想定なしには物質の諸部分は斥力によって拡散 してしまい、結局「いかなる物質も空間において見出されない」(511) ことにな る、という点からその根源的な性格は斥力と同様に認定されるのである。
では以上の根源力の考察は、何故に「動力学的」な、即ち「異種的なものの 綜合」に関わる考察なのだろうか。この点に関しては『原理』のやはり「動力 学」の章の最後に付された「総註 allgemeine Anmerkung」において、まさし く「根源力」の認識上の資格をめぐって論じられている。そこでは「形而上学 的-動力学的 metaphysisch-dynamisch」な説明方法が、「数学的-力学的 mathematisch-mechanisch」な説明方法と対比させられているのだが (IV 524 f.)、後者の方法は端的に言えば原子論 (Atomistik) の立場のことである (IV 533)。カントによれば数学的-力学的方法にでは「徹底して同種的な素材」とそ の間隙に存在する空虚な空間のみを想定することによって、様々な「度」(密 度)をもって存在する物質の種的差異性を説明することができる。しかしそう した仕方では不可入性という物質固有の性格の哲学的=形而上学的な説明が通 り越されてしまっている上に、空虚な空間という「新しい仮説」(IV 533) を導 入してしまう点で本質的な問題をかかえてしまう。これに対してカント自身が 採用する形而上学的-動力学的方法は、一定の延長・質量・密度をもって現実存 在する物質の説明に対して「力」という異種的な原理を持ち込むことになる。 この想定は決して「恣意的に捏造」されたものではない。というのも根源力の 想定は「経験によって与えられたものから推論される」(IV 534) ものであり、 しかも引力の逆自乗の法則のように数学的表現を取った法則の探求がその下で 可能となるものであり、もって「数学がそこに見出される程度によってのみ」 そう呼ばれるところの「本来的な(科)学」(IV 470) の基礎づけがこの方法によっ て与えられるからである。何よりもカントにとって根源力とは、『純粋理性批 判』の叙述からも明らかなように理性が自然探求において必然的に想定すると ころの「理念」であり、たとえその実在性の根拠がそれ以上洞察され得ないと はいえ、「統制的原理」として常に様々な自然認識に理性統一を与える機能を 果たし続けるものと考えられていたのである (A649=B677 f.)。
以上の『原理』の議論の跡づけから、自然における根源力も純粋実践理性の 能力と同様に「動力学的」な力と考えられていたことは確認された。しかし『原 理』の特殊な課題、即ちニュートン力学に代表される確実な学としての自然科 学に形而上学的基礎づけを与えようと試みる著作の目的に沿った以上の考察は、 自然と実践双方の根源力の類比的関係を跡づけようとするこの論考の本来の目 的からかえって遠く離れてしまったかのように思われる。両者の力に共通する、 その可能性自体の把握不可能性、という事態に解釈を加える前に、カントが自 然と実践双方の領域の「根源力あるいは根源能力」に強い類比関係を見出して いたことを確証させる、更なる論拠がここに必要とされるだろう。
実は純粋実践理性の能力を自然界の根源力との類比的関係において考察する 際に、一つ手がかりとなる共通の概念が第二批判と『原理』の双方において見 出される。それは「抵抗 Widerstand 」の概念である。『原理』の「動力学」 の章では、そもそも物質の不可入性を定義する最初の段階から抵抗の概念が主 導的な役割を果たす。「ある空間を充たすということは、自らの運動によって ある一定の空間に侵入しようとしているあらゆる運動体に抵抗する (widerstehen) 、ということである。」(IV 496 「定義 I 」) 「さてあらゆる 方向に向かっている物質の抵抗が何に基づき、何であるかが、さらに探求され なければならない。」(ebenda.) その探求において、斥力と引力が二つの根源力 として導出されることになる。即ち斥力は「ある物質がそれによって他の物質 が自らに近づくことに抵抗する運動力」と考えられ、また引力は「ある物質が それによって他の物質が自らから遠ざかることに抵抗する運動力」、即ち斥力 に抵抗する力として理解されるのである (IV 498 「定義二」)。さて一方、純 粋実践理性の及ぼす力もこうした考察と類比的に、感情に対する影響において 感性的な諸動機に抵抗する力としてその実在性を顕在化させ我々に認識される ことになる、と解釈することができる。ここで第二批判に立ち返り、とりわけ 「純粋実践理性の諸動機について」と題された節の叙述に即してその点を確認 して行くことにする。というのもそこでは、真正の義務における動機としての、 純粋実践理性の「本来的な運動力 die eigentliche bewegende Kraft 」(V 88) が 語られているからである。
純粋実践理性の示す道徳法則が我々の意志の動機たりうるのは、我々が道徳 法則に対する「尊敬」の感情を持つが故である。「諸動機」の節で展開される この比較的よく知られたカントの議論に関して、しかし注意されねばならない のは次の点である。純粋実践理性の感情に与える影響に関しては、尊敬の感情 が直ちに我々に与えられるのではなく、カントによればそれに先立って自愛を 打ち砕き不快な感情を伴う「謙抑 Demuetigung 」という消極的な感情が生じね ばならない。「動機としての道徳的法則の作用は単に消極的である。」(V 72) 道 徳的法則のこの「消極的作用 negative Wirkung 」(V 73,78 他) としての謙抑 の感情は、しかし決して偶然的な結果ではなく、「あらゆる傾向性といかなる 感性的衝動」(V 72) にも対抗して働くが故にアプリオリに認識される。ただし それはまだ直ちに、欲求能力としての純粋実践理性の力そのものの認識とは呼 べない。それはただ、ある力の「抵抗」の認識である。「この法則の感情に対 する作用はただ謙抑のみであり、それを我々はアプリオリに洞察するのだが、 それに即して動機としての純粋な実践的法則の力を認識しうるのではなく、た だ感性の動機に対する抵抗をのみ認識する。」(V 78 f.)
しかし謙抑の感情がまさしく「抵抗」という消極的作用として認識されるな らば、当然そこから抵抗の源となるべき積極的な作用因が推論されねばならな い。その積極的原因が道徳法則としての定言命法である。この積極的原因に即 して考えれば、謙抑の感情は同時に道徳法則に対する「尊敬」の感情という積 極的な作用として再認識されることになる。「この感情 [=謙抑] は、... その積 極的原因たる法則に関しては、同時に法則に対する尊敬のことである。」(V 75) この尊敬の感情は、上述の推論を経てではあるがやはりアプリオリに認識され ることになる。「この感情 [=尊敬] は、我々が全くアプリオリに認識しその必 然性を洞察しうる、唯一の感情である。」(V 73) 但しあくまで留意されねばな らないことは、尊敬の感情は自己愛に対する抵抗あるいは障害の感情を介して 初めてそれと認識される、事象としてはあくまで道徳的法則の間接的作用であ る点である。「それ故道徳的法則に対する尊敬は、自負を謙抑させることによ って傾向性の阻害的な影響を弱める限りにおいて 、.... 感情に対する積極的だ が間接的な作用と見なされなければならない。」(V 79) そしてこの作用の主体、 即ち「叡知的原因、即ち最高の立法者としての純粋実践理性の主体」(V 75) の 力もまた、事象的には傾向性に抵抗する力として間接的に洞察されると言われ ねばならない。
道徳的行為の最高の動機たるべき実践理性の作用が、こうして傾向性に対す る「抵抗」に即して、推論を経た間接的な仕方で認識されるとする解釈は、一 般的なカント理解にとっては一見訝しいものに思われる。しかしここでも自然 哲学における根源力の導出の議論との類比が有効となる。物質を構成する第一 の根源力である斥力は、物質の不可入性を成立させるものとして「直接に物質 の概念と共に与えられる」 のに対して、引力は直接にはそれとして知覚されな いが故に「ただ推論によってのみ」それに付与される (IV 509,514)。しかし両 者のこの相違は、直接的知覚の有無という表層的な点にのみ存するのであって、 存在論的な根源性という性格に関して両者に相違がある訳ではない。
純粋実践理性の作用に関しても、これと同じ事情が見出せる。我々の日常的 行為の外面的観察や内省において、あらゆる人が自然的に有すると考えられる 行為の動因は直接的には自愛の追求のみである。しかしあたかも引力が斥力に 対抗する力としてその根源性が認識されたように、純粋実践理性は感性的諸動 機の正反対の方向へ働く力の作用因としてとして自らの実在性を証示し、しか もその際感性的諸動機に還元不可能な他ならぬ「根源力あるいは根源能力」と して認識されるのである。例えばカントの用いる例に従って、死刑の脅迫をも って偽証を強いられている、という設定を考えてみよう (V 30)。ここで義務の 遵守という観点から最初に我々の感情に生じるのは、自己に対する配慮を完全 に度外視しても義務に従うべきであるという不快さを伴った謙抑の感情である。 しかしあらゆる感性的動機に対する抵抗というその「消極的作用」を介してこ そ、積極的原因たる道徳法則の意識が、根源能力としての純粋理性の「現事実」 として我々に「押し迫り aufdringen 」(V 31) 、そして内なる道徳法則に対す る尊敬の感情が、義務の遵守における真正の動機としてアプリオリに認識され るのである。
以上のように、「抵抗する力」として純粋実践理性の実在性を自然科学にお ける力の考察と類比的に解釈することは、カント解釈において決して恣意的な ものではない。というのも初期の『負量の概念を哲学に導入する試み』(1763、 以下『負量』論文と略)においてすでに、実践哲学で考察する快と不快、徳と 悪徳といった二つの力の対立が、自然科学における引力・斥力の対立と並べて 論じられているからである。しかもこの論文で重要なのは、単に論理的な対立・ 矛盾ではなく実在的な対立関係においては、「負量」即ち −(マイナス)が単な る否定や欠如の概念とは異なり、それ自体積極的であり「正の量」を持つ、と いう「実質的反対」の観念を、広く哲学一般に導入することが提議されている 点である。例えば、まず最初に考察される物体の不可入性の例で言えば、引力 に対する「負の引力」が他ならぬ斥力として実在的な力であるが故に、物体が 一定の空間を占めるという静止状態が説明されるとする。そしてそれと同様に、 不快が「負の快」として、あるいは悪徳が「負の徳」としてその対概念の単な る否定以上の積極的な根拠を持つことが論じられるのである。従って「負量」 とはその消極的な表現とは裏腹に、むしろ対立する二つの力の実在性をこそ前 提としているのである(8)。こうした発想は、紛れもなく純粋実践理性の動機をめ ぐる考察にも生かされている。
純粋実践理性の動機をめぐる上記の考察では、その感情に対する作用がまず 「抵抗」という消極的な作用において認識されたのであった。しかしその消極 性は決して単なる力の欠如や不在を意味しているのではない。「消極的作用 negative Wirkung」は「負量 negative Grroesse 」として、その固有の積極的な 実在性及び根拠を有しているのである。我々は道徳的葛藤に立たされる時、あ たかも引力と斥力が一つの物体において拮抗関係を示すように、自らの一つの 意識において二つの相対立する動機づけの力を意識し、しかもその両者は単に 論理的な対立ではなく、相互に「負量」となり、したがってそれぞれに積極的 な根拠をもつ実在的な対立関係をなしている。その一方は感性的動機であり、 状況に応じてその強度を変ずる力であるのに対して、他方の力、即ち道徳的な 動機は、法則の下にあるものとして常に変わらず自己愛とは反対方向に働く、 いわば一定のベクトルとして意識される。そしてそのベクトルにおいて理性は 後者の力の実在的な主体として、即ち単なる冷静な推理能力ではなく「それ自 身実践的な純粋理性」として自らの力を行使するのである。
以上の道徳的動機を与える力としての純粋実践理性の考察は、しかしながら それ自体が純粋実践理性の実在性の証明になっているわけではない。「諸動機」 の節の冒頭で言われる通り、そこでは道徳的法則が動機たることがすでに前提 とされた上で、それの感情に及ぼす「結果」の観点から行為の諸動機の規定及 び相互関係が考察されただけであったからである (V 12)。したがって何故に純 粋理性がそれ自身で実践的でありうるのか、それが根源力あるいは根源能力と して可能であるのか、という究極的な根拠をめぐる問題は、依然として我々に とって謎のままである。「いかにして法則がそれ自身として直接に意志の規定 根拠でありうるのか(これこそじつにあらゆる道徳性の本質を成すことであ る)ということは、人間的理性にとって解かれざる問題である。」(ebenda.) こ うして考察は、ここまで留保されてきた本来的な課題、即ち「根源力あるいは 根源能力」が何故にその根拠を洞察することが我々には不可能なのか、という 問題に立ち返ることになる。改めて第二批判の「演繹」の節の議論を跡づけて 行こう。
「根源力あるいは根源能力」の更なる根拠の洞察不可能性に言及した先の引 用箇所に引き続けてカントが論じるのは、根源力の証明は「経験」に頼ること によってしかなされ得ない、という論点である。
「それ故我々が理性の理論的使用においてそういったもの [根源力あるいは根源 能力] を想定することを正当化するものは、ただ経験のみである。しかしアプリオ リな認識根拠からの演繹の代わりに経験的証明を引き合いに出すこういった代用 品は、純粋な実践的理性能力に関してはここでは我々には奪われてしまっている。 というのも、その現実性の証明根拠を経験からこじつけて取ってくることを必要と するものは、その可能性の根拠に関しても経験原理に依存しなければならないが、 しかし純粋だが実践的な理性をそのようなものとして考えることはすでにしてそ の [純粋実践理性という] 概念からして不可能だからである。」(V 47)
純粋実践理性の能力に関して演繹が不可能なことは、『純粋理性批判』の演 繹の手続きからしてある意味で自明でさえある。第一批判における純粋悟性概 念の「超越論的演繹」においては、問題の純粋悟性概念が確かに「経験の可能 性の制約」たることが分析されることによってその客観的妥当性が証明された のであった。それに対して純粋実践理性の示す道徳法則の演繹とは、それが同 時に意志の自由を証示する実践上の原則であることからも明らかなように、経 験において「たとえそれが厳密に守られているような実例を見つけ出すことが できないとしても」(V 47) その客観的妥当性を証明せねばならない、という本 質的な困難を抱えているのである。第一批判のように確固とした証明の基盤を 失われている以上、第二批判の演繹が断念されざるを得ないのは当然と言える。
しかしこうした明らかな証明の不可能性に面して、何なおカントが、「根源 力あるいは根源能力」に関する証明根拠としての「経験」を問題としているか が問われなければならない。実は実践の領域における根源力とは異なり、自然 における根源力については確かに一定の「経験的証明」が可能だったのである。 ではそれはどういった事情によってなのか。そして自然における根源力の証明 との対比において、根源能力としての純粋実践理性の証明不可能性という事態 はどう評価されねばならないのか。
まず確認せねばならないのは、引力・斥力という根源力を導出した『自然科 学の形而上学的原理』における考察は、その出発点において物質という「経験 的概念」を置いていたという点である。「(自然の形而上学は)物質という経験 的概念を根底に置き、この対象についてアプリオリに持ちうる認識の範囲を探 求するのである。」(IV 471)間違いなく『原理』の目的は、確実な学としての 自然科学が依拠すべきアプリオリな諸認識の「形而上学的」体系を提示するこ とにあった。しかしその出発点が思弁的な前提であれば、決してその体系は確 実な学の根拠たり得なかったであろう。例えば「物質は延長を持つ」という前 提からは、物質に関する同語反復的な説明以上の拡張的認識を少なくともカン トは見出すことはできなかったであろう。
ところで経験的概念から出発するアプリオリな諸原理の探求は、最終的にい かなる地点に到達するであろうか。カントの動力学的な考察においてそれは、 すでに見た通り根源力という理念においてである。しかしある力が根源力であ るという判断それ自体の根拠を、経験の背後に遡ってまで探求することは不可 能である。それは『純粋理性批判』においてさえ回避されていた問題、即ち我々 にとって経験とは何故そのようなものでありそれ以外のものではなかったのか、 という問題に触れることになり、結局は空虚な思弁に迷い込むことになるから である。「あらゆる人間的な洞察は、我々が根源力あるいは根源能力 に到達す るや否や、終結に至る。というのもそれらの可能性は決して把握し得ないが、 しかしまた同様に恣意的に捏造することも想定することもできないからであ る。」(V 46 f.)
では改めて、『原理』における根源力としての引力・斥力の導出がまた別の 思弁的な想定ではないと、何故カントは主張できるのであろうか。それは引力 と斥力の「その現実性の証明根拠を経験から取ってくること」、即ち経験的な 検証に基づいてである。そうした考察においてカントが常に念頭に置いている は、暫定的にせよ遠隔的に作用する引力の概念を採用することによって自然の 体系的説明を可能にしたニュートンのことである。ニュートン自身は『プリン キピア』で、重力を物体に固有の性質と取らないよう注意を加えてはいるが、 引力の実在性は例えば木星と土星の衛星に関する観測結果と彼自身の理論の適 合性から証明されているのである(『原理』IV 513-515 )。また『人倫の形而 上学』の序論では、ニュートンの作用・反作用の法則に関してではあるが、そ の法則が「経験という証拠 (Zeugnis)に基づいてそれを普遍的なものと想定しう る」ことが容認されるのである(VI 215)
以上の考察からようやく、根源能力としての純粋実践理性の実在性の証明不 可能性が、取り立てて「経験的証明」との連関において論じられていた意味を 見て取ることができよう。前節で見たような人間の心的諸能力の考察は、結局 ある「根源能力」の認定において終結せざるを得ない。そして我々の理性をも ってしては理性自らが根源能力であることの承認、即ち理性の「自己承認」(V 81) をもって考察を終えざるを得ないし、またその地点で考察を終えることは、少 なくともカントにとっては妥当なものと認められるのである。根源力とその経 験的証明をめぐる上述の引用に続いて、「理性の現事実」への言及によって演 繹が断念されるのはそうした事情を反映してである。
「また道徳的法則は、我々がアプリオリに意識し必当然的に確実であるところ の、純粋理性の現事実として与えられている。... それ故道徳的法則の客観的実在性 はいかなる演繹によっても、いかなる理論的、思弁的、あるいは経験に支持された 理性によっても証明されず、それ故たとえ必当然的な確実性が断念されるとして も、... にもかかわらずそれ自身として確立しているのである。」(V 47)
しかし以上の考察全体から翻って考えてみると、改めて次のような問が生じ る。物質という経験的概念から出発した『原理』に対して、道徳的原則を我々 に提示する純粋実践理性は「その概念故に」そもそも経験的原理と独立してい たものだったはずであり、やはり「根源力あるいは根源能力」と「経験」をめ ぐる以上の考察全体が不必要なものだったのではないだろうか。それとも『実 践理性批判』の考察もまた、経験的概念を考察の根底に据えていたとでもいう のであろうか。
実はカントの実践哲学上の考察と「経験」の関係は、通常考えられているほ ど単純なものではない。なるほど道徳哲学の諸原理が一切の経験から独立した アプリオリものでなければならないことは、「純粋な」実践理性が常に語られ、 それに応じて求められる「純粋な道徳哲学」が「単に経験的であって人間学に 属することすべてから、全く純化されているだろう」と言われることからも明 らかである(IV 389)。しかしながらその一方で、『純粋理性批判』第二版の緒言 では、道徳の最高原理は快・不快といった経験的概念を引き入れざるを得ない が故に「超越論的哲学」から除外されねばならない、とも言われているのであ る。
「道徳性の最高原則とその根本概念はアプリオリな認識ではあるが、しかし超越 論的哲学に属するわけではない。なぜならそれらは快と不快の概念、欲望と傾向性 の概念等々総じて経験的な起源を持つ諸概念を、その指令の根拠に置くわけではな いとはいえ、義務の概念において、克服されるべき障害としてあるいは動因にされ てはならない刺激として、純粋な人倫の体系を作成する際に必然的に引き入れざる を得ないからである。」(B28 f.)
この引用で言われる通り、そして前節で検証したように、第二批判では純粋 実践理性のアプリオリな原則が等しく我々にとって動機となり語の真正な意味 で「義務」を構成することを説明ために「克服されるべき障害 (Hindernis) 」 として自愛への傾向性が考慮され、そしてそうした感性的動機に対する「抵抗」 として謙抑の感情といったものが「純粋実践理性の動機」として考察せざるを 得なかったのである。
道徳法則のアプリオリ性の考察において「経験的な起源を持つ諸概念」を必 然的に導入せねばならないこと、とりわけ道徳性のアプリオリな最高原理を論 証する際に「義務の概念において」経験的諸要素を考慮せねばならないこと。 経験と形而上学的原理をめぐるこの論述上の入り組んだ事情においてもまた、 カントの実践哲学的考察と自然哲学的考察との類比的関係は成立している。そ してただ一点の相違は、以上で見た通りのそれぞれの根源力の証明根拠をめぐ る事情に存する。繰り返せば、道徳の形而上学的原理が自然のそれに対して特 殊な事情にあるのは、本来は自然認識におけるように「その現実性の証明根拠 を経験から取ってくることを必要とする」正にその地点において、そうした証 明を拒まれている点に存するのである。そうした考察の文脈において、例えば 『基礎づけ』の中で「あらゆる実践哲学の究極の限界」について語られ (IV 455)、 第二批判において「理性の現事実」への訴えかけにおいて論証を打ち切られる ことが、我々の哲学的探求にとっての正当な限界設定と認められるのである。
前節の考察からすれば、『実践理性批判』における分析は「経験」としての 人間的実践の分析からアプリオリな諸要素を分離・抽出することにあったと理 解することができよう。そして実際カント自身が実践哲学上のそうした手法を 認めて、興味深いことにそれを「化学的方法」になぞらえてもいるのである。 カントの倫理思想の方法論と自然哲学のそれとの類比的関係を考察してきた論 考の締めくくりとして、この言明の意味を最後に考察しておくことにしよう。
カントが実践哲学における「化学的方法」に言及しているのは、第二批判結 語の、それも最後の段落においてである。
「我々は道徳的に判断する理性の実例を手元に持っている。そこでこれらの実例 をその基礎概念へと分解することによって、それも数学を欠いているので化学に類 似した方法、即ち経験的なものをそれらの実例の中に存すると思われる合理的なも のから分離する手続きを通常の人間悟性に即して繰り返し試みることによって、 我々はその両者を純粋に知ることができ、またその各々がそれ自身だけで (fuer sich allein) なし得るところのことを確実に知ることができるのである。」(V 163)
カントはここで「化学的方法に類似した方法」に言及することで、一体何を 意味しようとしているのであろうか。そしてそれが「数学を欠いている」とい う把握は、道徳性の考察においてどのような意義と重要性をになっているのだ ろうか。ここにおいて我々は再び、『自然科学の形而上学的原理』に立ち返る ことになる。
まず確実な学がその内に数学を持たねばならない、というのはカントにとっ て揺るがない確信であった。「私は、すべての特殊的な自然論において、そこ に数学が見出される程度においてのみ、本来的な学が見出されうる、と主張し た」(『原理』序文 IV 470) したがって「数学を欠いている」化学は決して本 来的な学とはなり得ない。「化学的な物質相互の作用にとって、構成されうる 概念、即ち・・・部分の接近と乖離の法則が未だ見つけ出されない限り、化学 は体系的な技術や実験論 (Experimentallehre) 以上のものとなることはできず、 決して本来の学となることはできない」(471) ではより具体的に、カントがここ で考えている化学とはどのような学であったのか。
カントが生きていた時代 (1724-1804) の化学は、ラボアジェの『化学原論』 (1789) を一つのメルクマールとするいわゆる「化学革命」を経て近代的な科学 へと移行する正に過渡期にあった(10)。しかし『原理』や第二批判の時点でカント が念頭においていたのは化学革命以前の化学、例えば空気や水を単体と考え、 物質の三状態(固体・液体・気体)の説明を本質的な課題の一つと捉え、そし てとりわけ物質の「親和力表」の作成を主要なパラダイムとしていた学であっ た。親和力表とは、物質相互の作用において様々な仕方を見せる化合と分離を 説明するために、ある物質と化合しやすい他の物質を序列化して表にしたもの である。しかしそこには物質の種類ごとに異なる親和力に関しての単に経験的 事実の整理しか認められず、定量的な探求とは無縁なものであった。カントが 上の引用で化学は「数学を欠いており」、また「体系的な技術や実験論以上の ものとなることはでき」ないとしているのは、そうした化学の現状を的確に言 い当てたものと言える。
しかし化学及び「化学的親和力」(IV 534) の概念は、カントにとって決して 単に否定的な意味合いしか持っていなかったのでは決してない。そもそも化学 上の最大の問題である「無限に可能な物質の種的差異性を説明すること」とい う課題は、「自然科学のあらゆる課題の内で最も重要な課題」として捉えられ ていたのである (IV 532)。そして現在の論考に即して決定的な重要性を持つの は、『原理』の「動力学に対する総註」において、諸種の化学的親和力が「経 験」あるいは「実験」によって推論されて行き、最終的には「根源力」へと収 斂されるべき力と捉えられている点である (IV 534)。
『基礎づけ』の議論の展開に典型的に見られるように、我々の経験から根源 力としての純粋実践理性を析出するカントの実践哲学上の方法は、まさしくそ うした文脈において「経験的なものをそれらの実例の中に存すると思われる合 理的なものから分離する手続き」として、「化学的方法」になぞらえらている のである。
最後にいささか挿話めくが、初期の小論「火について」(1755) 以来、カント の自然科学への関心において化学上の問題は常に大きな位置を占めていた。そ の関心は最終的に、晩年の未完の著作「自然科学の形而上学的原理から物理学 への移行」で、「運動諸力の基礎体系」において上述の物質の種的差異性の原 理を体系化しようとする試みにつながって行くことになる。その間にカントが ラボアジェらの同時代の科学者の業績を旺盛に摂取していたこと、その結果化 学が本来的な学として成立する新たな望みを抱くようになったこと、以上の点 は現在文献学的な考証によって明らかにされつつある(11)。
しかし結局カントの死後の化学の展開は、彼が終生受け入れることのなかっ た原子論的枠組みに依拠して飛躍的成功を見せることになる。運動諸力の体系 化によって化学を含めた「物理学(自然学)」を基礎づけようとするカントの構想 は、歴史的な現実によって基本的には裏切られるのである。では実践哲学にお ける彼の化学的方法、即ち実践哲学の原理的考察において理性という根源力を 析出するという試みの方はどうであろうか。少なくとも、我々の意識における 複数の利害・関心の対立において同種的な欲求の葛藤だけではなく、下位の欲 求へと還元されることのない「普遍性」を要求する異種的な力を分離して提示 した点だけは、カントの消えることのない功績と見なしておかねばならないだ ろう。ただしその「動力学的な」考察は、同じく動力学的な考察である物理学 とは異なり本質的に「数学を欠いている」が故に、常に新たな洞察、新たな「力」 の想定へと開かれている。たとえ異種的な力を同種的な欲求に還元しないとし ても、なお「根源力」を新たな次元において見出す可能性は開かれているはず である。実践哲学における「化学的方法」は、なおカントを超えて、カント的 な理性そのものの分析へと向けられねばならないだろう。
註
カントの引用頁は、慣例に従って『純粋理性批判』は原版第一版 (A) と第二版 (B) の頁数を併記、他の著作に関してはアカデミー版全集の巻数(ローマ数字)と頁数(ア ラビア数字)を記した。
(しろうず しろう 京都大学研修員)
(1)この間の事情に関しては、以下の論文を参照のこと。
Henrich,D., Der Begriff der sittliche Einsicht und Kant's Lehre vom Faktum der Vernunft, in
Prauss, G. (hg), Kant : Zur Deutung seiner Theorie von Erkennen und Handeln, Kiepenheuer &
Witsch Koeln, 1973, 223- 254. (D. ヘンリッヒ「道徳的洞察の概念と理性の事実についてのカントの理
論」(『カント哲学の体系形式』門脇他訳、理想社、1980、第1章))
(2)『自然神学と道徳の諸原則の判明性の研究』(1762) では、「真を表象する能力は認識であるが、善を 感じる能力は感情である」(II 299 f.) として、道徳的感情に関する優れた考察を与えた人として特にハチ ソンの名前に言及している。
(3)合理主義の理解に関しては、塚崎智「道徳論の思想史的連関」(『デイヴィッド・ヒューム研究』お茶 の水書房、1987、73-92頁)に多くを負っている。合理主義に対するカントの批判は、例えば『実践理性 批判』で、道徳法則の意識が「純粋であれ経験的であれいかなる直観にも基づかない」ことを明言してい る箇所 (V 31) などに読み取れるだろう。
(4)Hume, An Enquiry concerning the Principles of Morals, L.A.Selby-Bigge and P.H.Nidditch (eds.), Clarendon Press, Oxford, 1975, p.294
(5)但し動力学的な力が理性のそれに限られるのではなく、自然の「根源力」もそれに含まることは、以下 の論考において重要である。引力・斥力という根源力は『自然科学の形而上学的原理』のまさしく「動力 学」の章において論じられるのである。自然の根源力が動力学的な力である点に関しては、すでに『純粋 理性批判』の第3アンチノミーの註の一つにおいて示唆されている (A451=B479)。
(6)心的能力としての根源力に関してはA648=B676 f., A682=B710 f., 自然における根源力に関しては A649=B677 f. を参照のこと。
(7)例えば樫山欽四郎訳の『実践理性批判』(河出書房新社「世界の大思想」)では、先の訳出部分で「根 源力あるいは根源能力」とした部分は単に「根本能力」(44頁)とされており、その自然哲学的含意は全く 捨象されてしまっている。
(8)そのため、例えば「下山を負の登山と言う代わりに登山を負の下山と読んでもよい」(II 175) と言われ るように、対立項のいずれを負と取るかは交換可能である。この点は、感性的動機を負の道徳的動機とし て考察するのではなく、差し当たりは道徳的動機を感性的動機に対するいわば負量として考えている現在 の論考の文脈にとって重要である。
(9)以下の考察は、佐藤労「カントの実践哲学における化学的方法の意味」(専修人文論集 第57号、1995.10) に極めて多くを負っている。同論文はカントの実践哲学の方法と化学的方法の類比性に着目してそれに精 緻な分析を加えた、論者の知る範囲では唯一の論文である。
(10)以下の科学史的な解説は主として、以下の文献に拠る。
島尾永康『物質理論の探求』岩波新書、1976
山本義隆『熱学思想の史的展開』現代数学社、1987
(11)この点に関しては以下の文献を参考のこと。
Friedman, M., Kant and the Exact Science, Harvard University Press, 1992
Tuschling, B., Metaphysische und Transzendentale Dynamik in Kants Opus
Postumum, de Gruyter, 1971