現在優勢な義務や権利中心の道徳哲学に対して批判を加え、それに代えて「徳」 の地位を再評価しようという動きが見受けられる。この動きに属するものとし ては、50年代のアンスコム[注1]や70年代のフット[注2]などがいたことにも注意して おく必要があるが、共同体主義と呼ばれる現代の動きの中心に位置し大きな話 題を呼んだのは、なんといってもマッキンタイアーの『美徳なき時代』[注]と言 える。
マッキンタイアーによれば、現代は道徳的混乱のなかにある。哲学者たちは道 徳に合理的な基礎付けを与えようとしてきたが、これらはすべて失敗に終わっ た。結局のところ、このような企ては最終的には「個人の決断」以上の基礎づ けを与えることができなかった。つまり、道徳は結局は個人の好みの問題とい うことになってしまったのである。我々が用いている道徳の言語は、もはやさ まざまな伝統の残滓の寄せ集めに過ぎない。アリストテレスに由来する「正義」、 キリスト教に由来する平等や慈善、ロックに由来する「権利」、カントやミル に由来する「自律」等々、我々の道徳状況で用いられている概念は、互いに協 約不可能な道徳概念の寄せ集めに過ぎない。たとえばロールズとノージックは、 何を議論の出発点にするかということに関してさえ意見の一致を見ることがで きないのである。このような混乱の結果、現代社会では、「プラネクシア(む さぼり)は、今や近代の生産的事業を押し進める原動力であり、芸術、科学、 競技は少数の専門家にとってだけの仕事であると見なされている。」「享楽者 と官僚的管理者が近代的社会の中心的登場人物となっている。我々の生活形態 においては個人に対して市場と工場そして最後には官僚制が絶え間なく優位を 再確立する」「利他主義が明らかに不可能でありながらも社会的に不可欠なも のになり、それと同時に、仮に実践されてもその時には説明できないものとなっ てしまっている」(AV 211-213)のである。
彼の分析によれば、啓蒙主義の企ての失敗は、それが人間という種が固有にも つ「テロス」を無視し人間を非機能的に見たことに由来する。アリストテレス は「人間」と「よく生きる」の関係が「ハープ奏者」と「ハープをよく弾く」 との関係に類比的であることを、倫理学の出発点とした。この伝統では、人間 であることは、各々それ自身の意味と目的を持つ一揃いの役割 ── 家族の一 員、市民、兵士、哲学者、神のしもべ等々── であることを満たすことであ る。時計が正確に時を刻むことをテロスとしているように、人間はよく生きる こと(エウダイモニア)をテロスとしている。そしてアリストテレスは、諸々の 徳の行使はよく生きるための単なる手段ではなく、よい生活の中心であり必須 の要素であると考えた。
マッキンタイアーの目論見は、このような徳の倫理学を復活させることである。 啓蒙主義以来の、基本的に人間を私利を追求する個人と見なし、そこから「我々 はどのような規則にしたがって行為すべきか」という問いに答えようとする潮 流に対して、「我々はどのような人間になるか(どのような性質と性格をもっ た人間になるか)」という問いを倫理学の中心に復活させようというのである。 そのためには、ホメロス以来のさまざまな徳を整合的に理解できるような理論 を我々の自己理解を鍵にして作り上げねばならない。
実際、徳と見なされるものは社会や時代によって多様である。徳目のリストに 入れられるものは、アリストテレスであれば「勇気」「賢慮」「節制」、ヴィ クトリア朝イギリスのジェーン・オースチンであれば「志操堅固」や「高邁」、 フランクリンに代表される初期アメリカであれば「勤勉」や「禁欲」、キリス ト教的伝統では「慈愛」とさまざまである。さらには、文化によって徳とも悪 徳ともみなされる性向もある。
しかし、これら社会によって多様な徳はある共通の特徴がある。徳はそれが徳 であることを理解するために、それに先行する社会や道徳生活がどのようであ るかを理解する必要がある。これら徳が実現される場をマッキンタイアーは 「実践 practice 」と呼ぶ。彼は「社会的に確立された首尾一貫した複合的な 形態の協調的人間活動であり、その活動形態にふさわしく、またその活動形態 を規定している卓越性の基準を達成しようと務めることによって、その活動に 内在的な善が実現され、その結果、卓越性を達成する諸力と、それに含まれて いる目的についての人間の観念が拡張されることになるもの」 (AV 175) と定 義する。この定義から将棋、医学、物理学その他、さまざまな人間活動が実践 と認められうる。そしてこの実践に内的な善、つまりその実践のなかではそれ 自体のために望ましいと見なされる目的を、より効果的に実現するような人間 の性格や陶冶された能力が個々の「徳」なのだと考える(AV 178)。
ただし実践とそれに付随する善は多種多様であり、我々が首尾一貫して実践に 従事し徳を実現するためには、我々の人生を統一体として見ることができねば ならない。我々の生は、その背景となる筋の通った「物語的秩序(narrative order)」(AV 204) がなければ理解不可能なものとなる。
マッキンタイアーが言おうとしていることを、教師が営む教育という実践を例 にとって噛み砕いてみよう(学校教育に限る必要はない。将棋道場の指南役も 「教育」であろう)。生徒や弟子の教育に当たる者がなにをなすべきかという ことに関しては、共同体の共通理解と伝統によって、ある共通の理解がある。 生徒や弟子にその分野の知識や技術を適切に伝授し、好奇心を刺激して各自の 自発的な発見を促し、理解の遅い生徒に対しては注意深く待つ、等々。このよ うな観念のなかでのみ、教師は自分の教師生活を一貫した物語として見なす ──自分のこれまでの教師生活を意味の通った一つの物語として振り返り(ま た先行きを構想し)、意義あるものと見なす ── ことができるようになる。 また、この教育という実践には、職業として金銭を報酬として得る等々の、い わゆる外的な善の他に、それだけで意義ある内的な善が存在する。知識や技術 を的確に伝授すること、生徒の能力や習熟度に応じ適切な課題を与えること、 生徒の順調な熟達を見ること、有能な教師として生徒や同僚から評価されるこ と等々は、それが必ずしも金銭的な報酬を伴わないとしても、それ自体での喜 びをもたらしうる内的な善なのであり、それらを卓越した仕方で行なう能力や 性向が徳なのである。
このような伝統や観念を持たない職業には、内的な善やその喜びを期待するこ とはできない。流れ作業の一部で働きながら、自分の制作している部品がなん であり、どのように使われるのかを知らず、またその仕事の内的な基準や尺度 をもたない労働者は、自分の仕事についての物語をもつことができず、その結 果、彼女の仕事は統一的に理解できるものではなくなってしまう。彼女は先の 教師が味わうような種類の内的な善を享受することはできないであろう。たと えば我々がアルバイトで単なる単純労働に携わる場合にも、往々にして単なる 単純作業を繰り返すことに満足できず、自分の作っている部品が何であるのか を知りたがり、また作業に工夫を凝らそうとするのは、我々が自分の人生を意 味あるものとして理解しようとしていることの一つの現われであると見なすこ とができるだろう。
それでは、人間としての我々が自分の人生を有意味なものとして理解するため には、なにが必要であろうか。仕事を意義あるものとするのがその仕事にまつ わる「物語」を背景とした「よい仕事」の観念であるのと同様、人生を意義あ るものとするものは「よい人生」の観念である。確かに我々の人生には、我々 が従事する実践に応じて、名誉、金銭、快楽、愛情、など多様な「善」がある。 しかしこのような多様な善をばらばらに追究するだけでは、我々は自分の人生 を意味あるものとして理解することはできない。マッキンタイアーによれば、 我々の人生はむしろそのような「物語の探求」(AV 204)であり、多様な善を秩 序付け、統一的に理解することを可能にするまさにその「善」を探し求める旅 そのものなのである。
ここで肝心な点は、我々は自分のまったくの恣意や自己決定からこの「善の物 語的探求」を始めることはできないということにある。我々は出発点として自 分の所属する共同体から「負債と遺産、正当な期待と責務」を相続しており、 これなしには探求を始めることさえ不可能である。個人が各人の人生を意味あ るものにする善と諸徳を獲得できるのは、共同体の中に自分の場を見いだし、 他人との関わりのなかで親、教師、愛人、将棋相手等々として他人の物語の登 場人物を演じ、また他人に自分の物語の中で各自の役割を演じてもらうことに よってのみなのである。各人の物語はそれぞれ異なっているにしても、その部 分は重なり合っている。それゆえ、私の人生を理解可能なものにする善は私だ けのものではなく共有されたものであり、人間がたがいに奪いあうものではな いのである。「道徳の教育が私に教えてくれるのは、人間としての私の善は、 人間共同体の中で私が結ばれている他のひとびとの善と同一だということであ る。私が自分の善を追求することが、あなたの善をあなたが追求することと必 然的に対立することなどは起こりえない。なぜなら、善そのものはとりわけ私 の物でもないし、とりわけあなたの物でもないからである。諸々の善は私有財 産ではない。(AV 213)」
そこで、我々が自分の生の意味を取り戻し、道徳的混乱を抜け出そうとするな らば、諸徳を育むことができるような共同体の復活が必須であるとマッキンタ イアーは論じる。中世の暗黒時代に諸徳の伝統は修道院のなかで細々と生き延 びてきたように、我々の希望は「礼節と知的・道徳的生活を内部で支えられる 地域的形態の共同体を建設すること(AV 245)」にある、という。
だが、我々はこのような『美徳なき時代』での結論を、積極的な改革への提言 として受けとめることはできないだろう。何が求めるに値する善であるか、求 めるべき諸徳は何であるのか、我々が生きる物語はどのようなものであるべき なのかを特定することができねば、それらを育む共同体を建設することもでき ない。現代社会の道徳的な混乱は、道徳的な混乱がない社会を作れば解決する というのではなんの解決にもなっていない。もしそのような物語を発見できな いのであれば、「今私たちはゴドーではなく、もうひとりの ──疑いもなく きわめて異なった── 聖ベネディクトゥスを待っている(AV 245)」というマッ キンタイアーの最後の言葉は、あまりに悲観的すぎる。またそもそも、マッキ ンタイアーが羨望する「徳が栄えることのできた共同体」は、かつて実際に存 在した共同体ではなく、単なる書き物に残された共同体、現にあったのではな く、その時代のひとびとに望まれた社会でしかないことにも注意しておく必要 がある。往々にして「伝統と徳を取り戻そう」は「そのひとが望んでいる」伝 統と徳を取り戻そうということでしかない。
むしろ『美徳なき時代』の功績は、「人生の物語的秩序」という魅力的な概念 で我々の自己理解を深めた点にある。我々の実生活では、「私はどういう人間 になるか」という問い、あるいは「私はどのような物語を生きており、またこ れからどのような物語を生きるか」という問いは、「私は今この状況でどう行 為すべきか」という問いに勝るとも劣らぬ切実で基本的な問いであるだろう。 我々は単に「善は個人によって異なるのだから勝手にしてよい」という以上の 答えを倫理学に求めているのであり、それに答えようとする徳の倫理学は、常 に待ち望まれているものであることはまちがいがない。