正と善

ロールズの『正義論』(1971)及び『政治的リベラリズム』(1993)での主要なテー ゼの一つに、「正 (the right) の概念は善 (the good) の概念に優先する」 ということがある(cf. TJ 31, PL 173)。「公正としての正義」(または「政治 的リベラリズム」)とは「多様な善き生を追求する人々の営みを可能にする最 低限の条件」として「正義」を理解する立場であり、「正の善に対する優先」 というテーゼはそのような理論の成立に不可欠な要件である。しかしサンデル は『自由主義と正義の限界』(1982)等で「共同体主義」的な見地から、このテー ゼに疑問を投げかけている。

ロールズの「正(及び正義)は善に優先する」というテーゼには二つの意味があ る(cf. LC 4)。まず第一に、このテーゼには「個人の権利(rights)は社会全体 の善(good, 福祉や幸福)のために決して犠牲にされてはならない」という意味 がある (cf. TJ 3-4) 。これは功利主義批判である。そして第二に、このテー ゼには「種々の善に対する正の中立性」(cf. LC 4)や「正は種々の善を制約す る」という意味がある。サンデルの批判は、この第二の意味に向けられている。

「種々の善に対する正の中立性」ということを簡単に説明すると以下のように なる。「リベラルな社会」では、人々は「善」に関して多様な理解を持ってい る (cf. TJ 447-8) 。つまりリベラルな社会では、「どのような生が善き生な のか」「自分にとってどのような生が幸福な生なのか」あるいは「自分にとっ て人生の目的(end)となる善とは何か」ということに関する各人の理解は多様 である。ロールズは、多様な「善」に関する構想の実現を各人が自由に追求で きるために必要な基本的権利に関する中立的な原理である、「正義の原理」を 規定することを意図している。そしてその「正義の原理」は多様な善に対して 「中立的な」原理であるから、「正義の原理」を定式化し、さらにそれを正当 化する際には、何らかの特定の「善(善き生)」の概念を前提してはならない。 「正義の原理」は、「善」の概念から独立したカテゴリーである「正」の概念 から導かれねばならないのである(cf. LC 3-4)。そしてロールズは「正義の原 理」を導くために、一種の仮想的な状況である「原初状態」という概念装置を 用いている。その「原初状態」では、各人は「無知のベール」の背後で、自分 が何を人生の目的である「善」として理解しているのかを知らないと想定され ている。そのような「原初状態」では、あらゆる「善」の理解から中立的な 「正義の原理」として、第一原理(自由の尊重)、機会均等原理、格差原理(社 会的に最も恵まれない人々の状態の改善)が採択されることになる。

また「善に対する正の優先」というテーゼは、「正の概念は様々な善の構想の 実現を制約する条件となる」ということも意味している。つまりロールズの 「公正としての正義」の立場では、人々は自分たちの「善の構想」を正義の原 理の要求に適合させなければならない (cf. TJ 31)。例えばアメリカ南部の美 しい農村で多くの黒人奴隷を酷使しながら豊かな生活を送ることが「善き生」 であると考える人もおり、またコロシアムでキリスト教徒がライオンに食われ るのを見て楽しむような生が「善き生」だと考える人もいるだろう。しかしそ のような「善き生」の構想は、生存権や自由権といった「正 (right) 」の概 念に適合しないがゆえに捨てられねばならない。

以上がロールズの「善に対する正の優先」というテーゼの意味であるが、サン デルは共同体主義的な見地から、このテーゼの妥当性に疑問を投げかけている (cf. LLJ 183)。ロールズが「原初状態」において想定している、「正義の原 理」を定式化する主体は、あらゆる「善」から中立的な「自我」である。しか しサンデルによれば、そのような自我は、何に対しても愛着(attachment)を持 たず、自分の属する共同体から切り離された自我、つまり「負荷なき自己( unencumbered selves / subjects )」(あるいは「目的や愛着に先立つ (prior) 自我」)であるにすぎない。サンデルによれば、そのような自我概念 はロールズの正義論の基礎とはならない(cf. LLJ 65)。

ロールズが想定している自我は、自己の目的や価値観や愛着、そして共同体の 中で共有された目的等に先立つ自我である。そのような自我は、完全に自由に 自己の目的、価値観、人間関係を自分で選択することができる(cf.LLJ 176)。 サンデルによれば、そのような自我はカントの「超越論的主体」と同様に「徹 底的に具体性を欠いた抽象的な主体」である (cf. LLJ 13)。事実ロールズ自 身も、原初状態における自我はカント的な 「ヌーメノン的自我 (noumenal selves) 」だと述べている(TJ 255)。しかし我々は現実にはそのような自我で はなく、自分のもつ愛着や共同体の中で共有された価値観によって「濃厚に構 成された自我」である(cf. LLJ 182)。自分の「善の構想」や愛着は、我々の 自己同一性を維持する上で重要な役割を果たしており、また我々は、共同体の 中で共有された価値観から切り離された個人として自分の人格を理解すること もできない(cf. LC.5)。サンデルによれば我々は目的に先立つ「負荷なき自己」 ではなく、共同体の中に「状況づけられた主体 ( situated subject ) 」なの である(LLJ.21)。

だがロールズが想定している、あらゆる善から中立的な自我は、あくまでも原 初状態という仮設的な状況における自我である。ロールズも、そのような「負 荷なき自己」が現実の自我ではないことは十分承知している。しかしサンデル によれば、我々の現実の姿である「濃厚に構成された自我」と「負荷なき自己」 とは、ロールズが考えるほど明確に区別することはできない。そして「負荷な き自己」と「状況づけられた主体」とが分離不可能なら、中立的な「負荷なき 自己」と「正の概念の中立性」に基づく理論である「公正としての正義」の妥 当性も疑わざるをえないということになる(cf. LLJ 182)。

またサンデルに限らず共同体主義者たちは、共同体の中で市民に共有された目 的であり、共同体を結びつける紐帯となる「善(善き生)」の概念を重視してい る。例えば古代ギリシャのように、市民が劇場で悲劇を鑑賞することを生活の 中心とするような生もそのような「善き生」の一つである。このように「共同 体の中で共有された目的」としての「善」には、「共同体」を構成するという 機能がある。そしてサンデルによれば、「正義」の限界はそのような「共同体」 の中にある(cf. LLJ 182)。なぜなら共同体の成員が共有する目的としての 「善」に全く言及することなく何らかの政治制度を正当化することはできず  (cf. LC 5)、したがっていかなる「善」にも言及することなく、「公正として の正義」を正当化することも不可能だからである。

しかし「正の善に対する優先」というテーゼは、「公正としての正義」(また は「政治的リベラリズム」)の立場における一つの規範を表現している。「政 治的リベラリズム」の立場から「正義の原理」を定式化・正当化する際には、 我々は様々な「善」の理解をあえて度外視して「正」の概念に基づくべきなの である。

そして「我々は実際には〈状況づけられた主体〉である」というサンデルの主 張を認めたとしても、「正の善に対する優先」という規範的なテーゼの実行可 能性について悲観的である必要はない。確かに自分の属する共同体における様々 な目的や、自己の愛着から完全に独立した「中立的な」主体として、「正」を 「善」に優先させることは我々にとって困難である。しかしリベラリズムとは、 生におけるすべての価値を説明する「包括的な理論(comprehensive doctirine)」(PL. 152n. etc.)ではなく、基本的には政治理論であるにすぎな い。つまりリベラリズムは我々の生の全領域に関する理論ではなく、我々の価 値観や「善の構想」といった生の私的な領域に関与する理論ではない。従って 我々が「状況づけられた主体」であり、また我々の「善の構想」が我々の人格 の同一性の中で重要な位置を占めているからといって、我々が共同体における 価値観や、自己の「善の構想」から自由に政治原理を規定できないと考える必 要はない。各人がコミットしている価値観が各人の人格の構成要素であること は、そのような価値観に中立的な、公的な立場で政治原理を規定することが不 可能だということを意味していない。

共同体主義は人間存在のありかたに関する事実的な(社会学的な)主張であるの に対して、リベラリズムは政治と政治哲学に関する規範的な主張である。よっ て共同体主義的な人間観や共同体観を基礎としつつも、正義と善とを区別する 政治的リベラリズムが可能なはずである。また自由や機会均等といったリベラ ルな価値は、リベラルな共同体を構成するために不可欠な要素である。そして ロールズは『政治的リベラリズム』では人間観に関するサンデルの批判を受け 入れ、より具体的な自我概念に基づいてその議論を展開している(cf.PL 27)。

略号一覧

(ページ数はいずれも原著)

                (くらたのぶお 京都大学研修員他)