蔵田 伸雄
序
一般にカント倫理学[注]と功利主義とは多くの点で対立すると 言われており、 両者が様々な点で異なる倫理学説であることは否めない。しかしカント倫理学 はミル以後の功利主義者たちに大きな影響を与えている。本稿でその一部を見 るように、定言命法に関する様々な理解をミル以後の功利主義者の著作の中に 見出すことができる[注]。例えばミルはカントの「定言命法」を功利主義的に理 解している。我々はこのミルの定言命法理解を手がかりとして、功利原理を行 為原則の道徳的価値の判定原理として理解することができる。そのために本稿 ではまずカントの「格率の自己矛盾」「意欲の自己矛盾」といった概念とシジ ウィックの「正義の原理」について概観した上で、カント的方法と規則功利主 義的方法との中間的方法である「一般化論法 (generalization argument)」に ついて確認する。その上で「規則功利主義」の構造を瞥見し、カント的な功利 主義批判に答えることを目標にする。
我々はどのようにすれば、自分が直観的に正しいと信じている原則が、本当に 正しい原則なのかどうかを判定することができるのだろうか。カントのいわゆ る「定言命法」は「普遍的道徳法ともなりうるような格率に従って行為せよ」 と命じている。そしてカントは『道徳形而上学の基礎づけ』で「どのような格 率が普遍的道徳法ともなりうるのか」(言い換えれば「どのような行為原則が 道徳的な規則の名に値するのか」)を判定するための原理として、「格率の自 己矛盾」や「意欲の自己矛盾」といった原理を提示している。しかし後に見る ように、このカントの原理は「ある行為原則が本当に正しい行為原則であるか どうか」を、判定するための原理ではない。そもそもカント自身はそのような 「判定の原理」を提示することを意図していなかった。
ある行為原則が本当に道徳的な行為原則なのかどうかを判定するための原理 を提示することをカントが意図していないなら、我々にはそのような判定原理 を補う必要がある。一方「最大多数の最大幸福」「効用の最大化」等として定 式化される功利原理は本質的にそのような「判定原理」である。たとえば行為 原則に功利原理を適用すると、複数の行為原則の道徳的価値を比較することが できる。従って「規則功利主義」、つまり行為原則の道徳的価値を判定するた めに功利原理を用いる立場では、「ある行為原則が従うべき最善の行為原則な のかどうか」を判定することができるということになる。本稿の目的は、ミル による定言命法の功利主義的理解を手かがりとして、功利原理を用いて行為原 則の道徳的価値を合理的・理性的に判定する立場である規則功利主義の意義に ついて確認することである。
先に述べたように、カント倫理学と功利主義的倫理学とは様々な点で異なる倫 理学説である。カント倫理学が実践理性や善意志、道徳法、義務、行為の動機 といったものを重視する義務論的・非帰結主義的な倫理学であるのに対して、 功利主義は、幸福の意識、効用、行為の結果といったものを重視する目的論的・ 帰結主義(consequentialism)的な倫理学である。実際多くの倫理学の教科書で は、カント倫理学は功利主義に対立する「義務論」( deontology または義務 倫理学duty-ethics ) を代表する立場だと言われている[注]。
しかしカント倫理学と功利主義との間には接点も多い。例えばカント倫理学の 中には功利主義と共通する要素や、功利主義的発想に対する批判が見られる。 しかしこのことは決して偶然ではない。なぜなら、功利主義の源流である18世 紀イギリス倫理思想(ヒューム等)からカントは多大な影響を受けているからで ある。
一方カント倫理学は功利主義者たちに多大な影響を与えてきた。ミルやシジウィッ クといった古典的な功利主義者たちはカント倫理学から直接大きな影響を受け てきた。例えば後で見るように、ミルは「定言命法」を功利主義的に理解して いる。またシジウィックも、「正義の原理」を提示する際にカントの「定言命 法」をヒントにしているが、シジウィックはそれ以外の点でもカントから多く の影響を受けている。また現代の代表的な功利主義者の一人であるヘアは、 「功利主義に対立している直観主義者(intuitionist)、義務論者 (deontologist) 、契約論者 (contractualist) たちは、カントが自分たちの 味方だと確信しているが、彼らもカントのテキストをもっと注意深く見てみる なら、そこに多くの功利主義的要素が含まれているのを知るだろう」と述べて いる[注]。ヘアをはじめとした現代の功利主義者たちが、カント倫理学から大き な影響を受けていることは、このヘアの発言からも明らかであろう。
そこで次に、カント倫理学と功利主義との接点を考察する際に最も問題にされ ることの多い概念である、カントの「格率の自己矛盾」「意欲の自己矛盾」の 概念について確認しておきたい。
カントによれば、道徳的に価値のある格率とは「普遍的道徳法となりうる格 率」であり、義務とはそのような「普遍的道徳法」となりうる格率に従うこと である。周知のように、カントはそれを『道徳形而上学の基礎づけ』で「それ 自身を通じて普遍的法になることを同時に欲しうるような格率のみに従って行 為せよ。(IV.421)」(「定言命法の根本方式」以下「定言命法」と略記)と表現 している。
しかし「定言命法」そのものはどのような格率が「普遍的道徳法」ともなりう る格率なのか、あるいはどのような原則が「道徳法」の名に値するのかを判定 するための基準ではない[注]。そもそもカントはそのような「判定基準」として 定言命法を提示しているのではない。確かにカントは道徳的に許容できない格 率の非道徳性を示すための基準として、「格率の自己矛盾」(IV.422.usw.)や 「意欲 Wollen の自己矛盾」(IV.423 usw.)といった基準を提示している。し かしこのカントの基準は、どちらかというとある格率が「義務であることが比 較的自明な義務」に対する違反を許容していることを示すものでしかない。た とえば「嘘をついてはならない」ということや、「困窮している他者をできる だけ助けなければならない」ということが「義務」であることはほぼ自明であ ると言ってよいだろう。「格率の自己矛盾」「意欲の自己矛盾」という基準は、 ある格率がこういった義務に対する違反を許容していることを示すものなので ある。
「格率の自己矛盾」とは「そのような格率が普遍的自然法則となると、そのよ うな格率は自己矛盾する」(vgl. IV.421) ということであり、「意欲の自己矛 盾」とは「そのような格率が普遍的自然法則となると、その格率に対応する行 為を意欲すること自体が矛盾する」(vgl. IV.423)ということである。この 「格率の自己矛盾」という概念や「意欲の自己矛盾」という概念を用いること によって、「守るつもりもない約束をしてもよい」といった格率や、「自分が 困窮している他人を助けることができるのに、その他人の困窮を見過ごしても よい」といった格率が非道徳的な格率であることを示すことができる。
「格率の自己矛盾」に関して例をあげると、「金に困った時には守るつもりも ない約束をしてもよい」という格率が普遍的自然法則となり、すべての人がそ れに従うと、「すべての人が、金に困った時には守るつもりもないのに返すと 約束して金を借りる」ということになる。しかしこのことは「約束は守らなけ ればならない」ということと矛盾する[注]。事実「守らないつもりで約束をする」 ということは「義務を果たすつもりもないのに自己を義務づける」ことであり、 これは明らかに「矛盾」である。一方「意欲の自己矛盾」に関して例をあげる と、「他者の困窮に無関心であってもよい」ということが「普遍的自然法則」 になり、すべての人がそのような原則に従うと「私が困っているときには他者 に援助して欲しい」と欲すること自体が不可能になる。事実「自分が困窮して いる時に他者は自分を助けるべきだが、他者が困窮している時は自分はその他 者を助けなくてもよい」という格率に関して、「他人に妥当する義務は自分に も妥当する」(後に述べるシジウィックの「正義の原理」)という原理を認めれ ば矛盾が生じることになる。このように「格率の自己矛盾」とは、自己愛から 自らを「完全義務(例外の許されない義務)」の妥当性の例外とすることであり、 同様に「意欲の自己矛盾」とは自らを「不完全義務(例外の許される義務)」の 妥当性の例外とすることである(vgl. IV.424)。
このようなカントの基準は、利己的な格率を自らの格率として採用することを 戒める原理となっている。我々には自己愛のゆえに、自らを道徳法の妥当性の 例外にしようとする傾向がある。「定言命法」は、我々のそのような傾向に対 して理性が与える一種の警告である。そして「格率の自己矛盾」「意欲の自己 矛盾」といった概念は、それを論理的な形で述べたものである。
しかし先に述べたように、こういった「格率の自己矛盾」や「意欲の自己矛盾」 といった基準によって、「非道徳的な」格率であることを示すことができるの は、「守るつもりのない約束をしてはならない」「他者の困窮を無視してはな らない」といった比較的自明な義務に違反している格率だけである。これらの 基準によって、比較的複雑で、その妥当性が直観的に明らかではない格率が真 に「道徳的な」格率であるかどうかを判定することはできない。例えば「医者 は、患者から得た情報のすべてを必ず第三者に秘密にしておかなければならな い」といった格率が、「義務」を命じる格率であるかどうかを「自己矛盾」の 概念だけによって「判定」することはできない[注]。
確かに定言命法の第二方式(目的自体の方式:「他のあらゆる人の人格の内な る人間性も、汝の人格の内なる人間性も、常に同時に目的として扱い、決して 単なる手段としてのみ用いないように行為せよ(IV. 429)」)を用いて、他者を 目的実現のための単なる手段としてのみ用いることを許容する格率が非道徳的 な格率であることを示すことができる。しかしこの方式を用いたとしても、上 にあげたような格率が「道徳法」であるかどうかが直観的に明らかになるわけ ではない。また「相手の立場に立って判断する」といった、カントが他の所で 述べている原理を補うことによって大幅に洗練・修整された基準を提示するこ ともできる[注]。しかしそのような修整を加えた基準を提示することは、結局解 釈者の恣意にもとづく基準を提示することになりかねない。
いずれにせよカントの「自己矛盾」の基準は、比較的自明な道徳的規則につい て、自分をその妥当性の例外としていないかを判定するための基準であるにす ぎず、〈ある(やや複雑な)原則が本当に従うべき原則なのかどうか〉を批判的 に吟味するための原理とはなりえない。ところで「最大多数の最大幸福」や 「選好の満足の最大化」等と表現される功利原理は、候補となる複数の行為や 原則について、そのうちのどれが最も道徳的な行為や原則なのかを「理性的に」 判定するための原理である。従って功利原理を定言命法と組み合わせることに よって、定言命法は従うべき道徳的原則を選ぶための原理となりうる。
このような点はシジウィックの「正義の原理」との関連でより明らかになる。 そこで次に、シジウィックの正義の原理について確認しておきたい[注]。
19世紀後半に活躍した功利主義者であるシジウィックはその倫理学上の主著で ある『倫理学の方法(The Methods of Ethics 1874)』の中で、カントの「定言 命法」を踏まえて「正義の原理(the Principle of Justice)」を提示している。 その「正義の原理」に該当する部分を引用すると以下のようになる。「もし我々 がその二人の性質(nature)や周囲の状況の中に、その二人の義務を異なるもの とする理由となる根拠 (reasonable ground) と見なしうる相違を見いだせな いなら、我々はある行為がAにとっては正しい(right)が、Bにとっては悪い (wrong)と判断することはできない[注]。」(ME p.209)
この「正義の原理」は、「行為の道徳的な正しさ(rightness)についての判断」 に関して一種の論理的事実を述べたものである。「正義の原理」は「Aという 人にとって正しい行為は、何らかの重要な点でAと違いの無い任意の人にとっ ても正しい」ということを意味している。またある人がAにとって正しい行為 もBにとっては正しくないと判断しているのなら、その人は「AとBとの間に は、両者にとって正しい行為を異なるものとするような違いがある」と判断し ているはずである[注]。
またこの「正義の原理」は、もしも矛盾の無い判断を下そうとするなら、自 分を義務の妥当性の例外とするような判断を下してはならないという指令でも ある。正義の原理によれば、「もし我々が自分と重要な点で違いの無いAとい う人にとってある行為が正しいと判断し、かつそれと矛盾の無い判断を下そう とするなら、我々は自分も同様に行為することが正しいと判断しなければなら ない」ということになる。もし私がある人と自分のそれぞれにとって正しい行 為を異なるものとするような理由もなしに、ある人にとって正しい行為も自分 にとってはそうではないと判断しているのなら、私の判断は矛盾していること になる(cf.ME p.208)。つまり「正義の原理」によれば、「他人にとって正し い行為を自分は行わなくてよい」と判断することは許されないということにな る。
このように「正義の原理」は、道徳判断に関する一種の論理的事実を示してい るが、内容的には一種のトートロジーである。つまり正義の原理は何らかの具 体的な状況において、何をなすべきか、あるいはどのような行為原則に従うべ きかを指図するものではない。従って「正義の原理」は直接行為を導く原理と はならず、行為を決定するためには何か他の原理が必要だということになる。 そしてシジウィックはそのような決定原理として功利原理を採用することにな る。
そこで次に、ミルの功利主義的に理解された定言命法を手かがりとして、行為 の決定原理としての功利原理の意味について確認してみたい。
ミルは『功利主義論』の第5章でカントの「定言命法」を功利主義的に読みか えた方式を提示している。
まずミルは『功利主義論』の第1章で、自分なりに理解した「定言命法」を以 下のように述べている。「汝が行為の際にもとづく準則(rule)が、すべての理 性的存在者によって法として採用されうるように行為せよ」(So act, that the rule on which thou actest would admit of being adopted as a law by all rational beings. X.207)[注]。だが論理的には、すべての理性的存在者が、 全員そろって極端に利己的な準則を採用する可能性がある(X.249)。そこでミ ルは、行為者が道徳的な準則を採用し、自己の道徳性を良心的に決定するため には、行為者は人類全体のためを──少なくとも人類(mankind)のことを誰彼 の区別なく──考えている必要があるとする。そしてミルは、カントもそれを 認めざるをえないと述べた上で、「定言命法」を以下のように読みかえている。
「全体の利益となるようにすべての理性的存在者が採用するだろう準則によっ て、私たちは自分たちの行為を決定するべきだ」(we ought to shape our conduct by a rule which all rational beings might adopt with benefit to their collective interest. 強調はミル X.249)このようにミルは、「定 言命法」を功利主義的に読みかえて「すべての人が全体の利益を考えるなら採 用するだろう格率に従って行為せよ」という意味に理解する。
このようなミルによる「定言命法」の理解は、決して「正しい」カント理解で はない。しかしこのようなミルの試みには大きな意味がある。なぜなら先に述 べたように、「定言命法」そのものはどの行為原則が従うべき道徳的規則なの かを判定するための原理ではないが、功利原理はそのような判定原理だからで ある。たとえば同様の状況にあるすべての人がAという原則に従う場合よりも、 Bという原則に従う場合の方が人々により多くの幸福・効用等がもたらされる のなら、Bの方がより道徳的な原則だということになる。
そしてこのミルによって功利主義的に理解された定言命法は、「行為功利主義」 的な原理であるというよりも、「規則功利主義」的な原理である。「行為功利 主義(act-utilitarianism)」とは「功利原理」を行為の価値の判定のために用 いる立場のことであり、「規則功利主義(rule-utilitarianism)」とは「功利 原理」を規則の価値の判定のために用いる立場のことである[注]。先に引用した ミルの功利主義的定言命法は、功利原理を行為ではなく準則(行為原則 rule) に適用しているので、規則功利主義的な原理である。なおミルはどちらかとい うと規則功利主義者であると言われている[注]。
この「規則功利主義」の立場では、功利原理に照らして行為原則の道徳的価値 が評価され、一方行為の道徳的価値は、その行為が道徳的価値を認められた行 為原則に従ってなされているかどうかによって評価されることになる。つまり 「規則功利主義」の立場では、功利原理によって正当化される原則(同様の状 況にある人が皆その原則に従うと「効用」等が最大化される原則)を道徳的原 則として認め、そのような道徳的原則に従ってなされる行為が善き行為だと評 価されることになる。
ところで功利主義的に理解された定言命法は結局仮言命法であり、普遍的で必 然的に妥当する原則を与えるものとはならないという批判が可能である。しか し、ミルが功利主義的に読みかえた定言命法は、普遍的で必然的な行為原則を 与えることができると言ってよい。そこで次にその点について見ておきたい。
カント倫理学は定言命法という「無条件的命法」に立脚するのに対して、功利 主義は「全体の幸福の実現をめざすなら」という条件を伴う「仮言命法」に立 脚すると言われることがある[注]。従ってカント主義者の側からは、ミルの功利 主義的定言命法に対して、それは本来無条件的な命法である「定言命法」を功 利原理に従属させた一種の仮言命法だという批判もなされるだろう。仮言命法 は主観的・偶然的な原理にすぎないので、ミルによる功利主義的な定言命法は、 客観的(普遍的)・必然的な原理とはなりえないということになる。
しかしミルの功利主義的定言命法は確かに条件を伴った原理であるが、客観的 (普遍的)・必然的に妥当する原理である。なぜなら功利主義的に理解された 「定言命法」が伴う「全体の利益となるなら」という条件は、あらゆる場合に 前提されている条件だからである。このような命法は形の上では仮言的だが、 事実上は無条件的な命法である[注]。従ってミルの功利主義的定言命法は「全体 の利益を考えるなら」という条件を伴う仮言的な命法であるとはいえ、「無条 件的な」命法でありかつ客観的・必然的に妥当する命法だということになる。
そしてこのようなことは「定言命法」のみならず、「嘘をついてはならない」 といった実質的な内容を伴う種々の「道徳法」についてもあてはまる。カント 倫理学の立場では、このような種々の「道徳法」も無条件的な命法である。一 方規則功利主義の立場では、このような「道徳法」は「全体の利益を考えるな ら嘘をついてはならない」という条件つきの「仮言命法」だということになる。 しかし「全体の利益を考えるなら」という条件は、やはりあらゆる場合に前提 されている条件なので、功利原理を基礎とした道徳的行為原則はすべて事実上 「無条件的な」行為原則だということになる。
またカントの「仮言命法」批判、特に幸福主義批判は、基本的に「自己の幸 福を実現する怜悧さ(Klugheit)(IV.416)」(「もしも自分の幸福を実現しよう とするなら・・・せよ」)に基づく命法に向けられている。カントは「自己の 幸福」という経験的で実質的な概念によっては主観的で偶然的な原則しか得ら れず、客観的で必然的な原則は得られないと考えている。カントが倫理学上の 「経験論」として批判しているのは、このような「自己の幸福」に基づく「利 己主義」でしかない(vgl. V. 70)。従ってこのようなカントの幸福主義批判は、 「自己の幸福」ではなく「全体の幸福」を基礎とする規則功利主義に対する批 判としては妥当ではない。なお「全体の幸福」を行為原則の基礎とすることに 対して、カント的な立場から批判を加えることもできるが、そのような批判に ついては後に検討する。
次にカントの用いる方法と規則功利主義的な方法との差異を明確にするため に、マーカス・シンガーの「一般化論法」について確認しておきたい。
近年カントと規則功利主義との類似と相違について議論する論者や[注]、カント の立場から一種の規則功利主義が導けるとする論者がおり[注]、またカントは規 則功利主義者だとする主張まである[注]。このような主張がなされる原因の一つ に、マーカス・シンガーがカント等を手がかりとして展開した「一般化論法 (generalization argument)」が[注]、近年のカント解釈[注]と功利主義研究の双 方に一定の影響を与えていることがあると思われる[注]。
「一般化論法」とはM・シンガーが『倫理学における一般化(Generalization in Ethics)』(1963)等で展開した方法である。「一般化論法」とは、「もしみ んなが選挙に行かなければどうなるか」というように「もし同様の状況にある 人が皆・・・したら」という思考実験を行い、その予想される結果を理由とし て一定の行為を行ってはならないとする論法である。「一般化論法」の適用対 象は行為、規則、法、制度そして格率などである。M・シンガーによれば、 「一般化論法」の一般的な形態は以下のようになる。「もしも皆がXをすると したら、結果は悲惨な(望ましくない)ものとなる。従って誰もXをするべきで はない。」 “If everyone were to do X, the consequences would be disastrous (or undesirable); therefore no one ought to do X.”(Singer p.61)
この一般化論法は、一見したところ先に見たカントの方法と、規則功利主義的 方法の両方に類似している。カントは先に見たように、「自己矛盾」概念を用 いて「虚偽の約束の禁止」と「他者の困窮を無視することの禁止」が「義務」 であることを示すために、「同様の状況にある人が皆そのような格率に従うと どうなるか」を考えるという論法を用いている。一方規則功利主義の立場でも、 「同様の状況にある人が皆その原則に従った結果として、効用の最大化等は実 現されるのか」ということが問題になる。しかしこのような類似点はあるもの の、厳密に言えばカントの用いる方法は「一般化論法」ではなく、また規則功 利主義的方法も「一般化論法」と一致するわけではない。
まず「一般化論法」は「同様の状況にある人が皆Xを行った結果生じる事態の 価値」を問題にする「帰結主義」的な方法であるが、カントはそのような帰結 主義的な方法を用いていない。その点で、カントの用いる方法は一般化論法と は異なっている。先に述べたように、カントは「格率の自己矛盾」や「意欲の 自己矛盾」といった形で、「矛盾は生じないか」といった一種の論理的問題を 直接問題にしており(IV.422ff.)、「人が皆同様の行為を行った結果」生じる 事態の価値を問題にしていない。
一方規則功利主義は「同様の状況にある人々が皆ある規則にしたがった結果、 最大化原理は満足されるか」といったことを問題にしている[注]。このように 「同様の状況にある人々が皆同じように行為した場合に生じる事態の価値」を 考えるという点で、規則功利主義と一般化論法は一致する。しかし規則功利主 義の立場では、基本的には「幸福や効用は最大化されるか」ということが問題 にされるが、一方一般化論法ではそのような「最大化」は問題にされず、むし ろ「望ましくない結果」が生じないかということが問題にされる。このように 一般化論法では最大化原理が用いられないという点で、一般化論法は規則功利 主義とは異なっている。
このように「もしも同様の状況にある人々が皆・・・したら」という思考実験 を行うという点では、カントの用いる方法も規則功利主義的方法も「一般化論 法」に類似している。しかし結果として生じる事態の価値を問題にするという 点では、一般化論法は規則功利主義には似ているが、カントの方法には似てい ない。なおカントは「最大化原理」を用いないので、カントが功利主義者でな いことはその点から明らかだが、規則功利主義の立場では「人々がある規則に 従った結果」が問題にされるのに対して、カントはそれを問題にしていないと いう点でもカントは規則功利主義者ではない[注]。
またこの一般化論法を用いることによって、「行為功利主義」と「規則功利主 義」の相違も明確になる。先に述べたように、「行為功利主義」とは具体的な 状況でなされる個々の行為について功利原理を適用する立場のことである。従っ て「行為功利主義」は「この行為」に関してのみ、最大化原理が満足されるか どうかを問題にする。つまり「行為功利主義」の立場では、「一般化論法」の ように「同様の状況にある人々が皆同様に行為するとどうなるか」ということ が問題にされることはない。その点で「行為功利主義」は「一般化論法」とは 全く異なっている。一方、先に述べたように「規則功利主義」の立場では「も しも同様の状況にある人々が皆同様に行為したらどのような結果が生じるか」 が問題にされるという点で「規則功利主義」は「一般化論法」に似ている。よっ て「規則功利主義」と「行為功利主義」とは、功利原理を規則に適用するか、 行為に適用するかという点で異なるだけでなく、「同様の状況にある人が皆・・・ するとどうなるか」ということを問題にするのか、それとも「この行為」だけ を問題にするのかという点でも異なっている。
そこで次に「規則功利主義」と「行為功利主義」との相違について例をあげて 説明し、「行為功利主義」よりも「規則功利主義」の方が倫理学理論としては 有効であることを瞥見しておきたい[注]。
「規則功利主義」の立場では、功利原理によって正当化される原則を道徳的な 規則と認め、そのような規則に従ってなされる行為が善き行為だということに なる。このような「規則功利主義」の立場では、規則の価値に関しては、皆が その規則に従った結果として実現される効用等を問題にする「幸福主義」的で 「帰結主義」的な立場がとられるものの、行為の価値に関しては非「帰結主義」 (行為の直接的な結果は問わない)、非「幸福主義」(自他の快楽の追求を問題 にせず、規則に従うことを重視)の立場がとられることになる。このように 「規則功利主義」の立場は、道徳的規則に従ってなされる行為を正しい行為 (または善き行為)とする点で、カント的義務論とあまり違いはない。
一方先に述べたように「行為功利主義」の立場では、具体的な状況でなされる 個々の行為について、その行為から直接的に影響を受ける人々の効用などが問 題にされている。しかし功利主義は行為の決定のための理論としてよりも、法・ 規則・綱領・政治政策・経済政策等の価値を判定するための理論として有効だ とされることが多い。このことは功利主義という理論を、狭義の規範倫理学と してのみならず、一種の経済哲学・政治哲学・法哲学も含む理論として理解す る必要があることを示している。そして経済、政治制度、法律等に関する議論 の中で用いられる功利主義は、言うまでもなく「行為功利主義」ではなく「規 則功利主義」である。
また最近では、法哲学・経済理論等としてのみならず、規範倫理学の領域でも 「行為功利主義」より「規則功利主義」の方が強力な理論だとされることが多 い。例えば、「行為功利主義」の立場では正義に反する結論が導かれることも あるが、「規則功利主義」の立場では、そのような結論を回避することができ る。それを説明するために以下のような例が用いられることがある。ある開拓 者たちの小さな町で、先住民族と通じている者がいるという噂が立つ。そして その町では今にも暴動が起ころうとしている。暴動が起これば何百人という人々 が死ぬだろう。しかしある無実の人を、先住民と通じているとして、いわばス ケープゴートとして処刑すれば、その暴動を確実に防ぐことができる[注]。その 場合に「行為功利主義」の立場では、その無実の人を処刑することによって数 百人の人々の生命が確実に助かるので、「より小さな悪を選ぶために」そのよ うな行為も許されるということになる。しかし「規則功利主義」の立場では、 「無実の人が処刑されるのを傍観することが許されるという規則に人々が従う 場合と、そのようなことは許されないという規則に人々が従う場合では、どち らの方が効用は大きいか」ということが問題になる。詳細な議論は省くが、規 則功利主義の立場では、「無実の人が処刑されることを傍観することは許され ない」という規則が採用されることになるだろう。
またこのように例を用いる直観的な方法ではなく、決定理論 (decision theory)等を用いた形式的な方法によって、行為功利主義よりも規則功利主義 の方が倫理学理論として有効であることが示されることもある[注]。
ところで、カントのテキストの中には「全体の幸福」を行為原則の基礎とする ことに対する批判、つまり規則功利主義に対する批判として理解することがで きる箇所がある。そこで次に、そのようなカント的な規則功利主義批判につい て見ておきたい。
カントのテキストの中には、功利主義批判として理解することができるような 箇所が何箇所かある。カント自身は功利主義という語を用いてはいないが、カ ントが活躍した時期がベンサムの活躍した時期と同時期であり、そしてカント が影響を受けたヒュームやハチソンやベッカリーアに功利主義的要素があるこ とから、カントには功利主義的発想を批判する必然性があったと思われる[注]。 そしてカントのテキストの中には、「人が幸福を感じるものは変わりやすい」 という事実にもとづいて、規則功利主義的発想に対する批判が行われている箇 所がある。例えば『実践理性批判』のある箇所で、「普遍的な幸福(die allgemeine Gl歡kseligkeit)」を行為原則の基礎にすえたとしても、「幸福」 に関する判断はひどく変わり易い「臆見(Meinung)」に基づくので、普遍的で 必然的な行為原則は与えられず、たかだか「一般的に見てしばしば的中してい る規則」しか与えられないとカントは述べている(vgl. V.36)。なおカントは 「普遍的な幸福」という語を「理性的存在者たちの最大の福祉」と言い換える 場合もある(vgl. V.453)。一方功利主義は「普遍的幸福主義」と呼ばれる場合 もある。従って、このようなカントの記述は「普遍的幸福主義」としての功利 主義に対する批判として理解することもできるであろう。
しかし「しばしば的中することしかない一般的原則」にも十分意味があること は否定できない。ある程度以上の蓋然性で妥当する原則には、一応の(prima facie)原則として十分な意味がある。確かに各人の幸福に関する理解は変わり 易いものなので、「全体の幸福」は確定したものではない。従って「全体の幸 福」の実現をめざす規則功利主義の立場では、普遍的に妥当する行為原則は与 えられないということになる。
しかし必要最低限の生理的欲求は、そう大きく変化するものではない。確かに 高尚な幸福についてはその内容も変わり易く、各人でその内容も大きく異なる。 しかし必要最低限の欲求の満足や、自由、平等、所有権や安全の確保、プライ バシーといった基本的権利の要求に関しては、各人の間にあまり相違はなく、 また内容的にそう大きく変化するものでもない。ソクラテスと聖フランシスと ゲーテのそれぞれが「幸福」だと考えるものは異なり、また彼らの幸福に関す る理解も時に応じて変化したであろう。しかし彼らが何よりも水や食料を必要 としたという点では彼らの間に違いはない。このように幸福概念を基本的なレ ベルで捉えるなら、規則功利主義の立場でも十分普遍的に妥当する原則が与え られると言ってよいだろう。こうして幸福を各人の間であまり異ならない次元 で捉えるなら、「幸福に関する理解は変わり易いので、幸福は普遍的・必然的 な原則を与えない」というカント的な批判をかわすことができるだろう。また、 苦痛の除去について考慮する「否定的功利主義」という立場もある。「苦痛」 は幸福に比べるとさほど多様ではないと考えられるので、そのような立場では ある程度確実な行為原則を与えることができると言ってよいだろう。
それでは最後に本稿で瞥見した規則功利主義の立場では、必ずしも神のような 「公平な観察者」を想定する必要はないということを見ておこう。
功利主義に対して、以下のような批判がなされることがある。ある特定の状況 で、どのような行為が実現可能な最大幸福を結果として生み出すのかを功利計 算によって確定できるためには、「他者がどのようなことに対して幸福を感じ るか」「自分の行為が具体的にはどのような効用を生むのか」「自分の行為は 間接的にどのような波及効果を生み出すのか」といったことをはじめとして多 くの情報が必要であり、また私利にとらわれずに公平かつ論理的に判断できな ければならない。従って「正しい」功利計算を行うことができるのは、十分な 能力・経験・知識・情報と想像力を持ち、完全に論理的に思考することができ、 私情をまじえない「公平な観察者(impartial spectator)」だけだということ になる[注]。しかし神ならぬ我々には、十分な能力・経験・知識・情報等が欠け ていることが多く、また「公平な」判断を下すことがひどく難しい場合も多い。
しかし筆者の考えるところでは、規則功利主義を採用するなら、必ずしも我々 はそのような万能の観察者である必要はない。まず第一に、上のように具体的 な特定の状況でなされる行為に関して功利計算を行うのは「行為功利主義」の 立場である。一方規則功利主義の立場では、その状況の中で「どのような規則 に従うべきか」を決定するために必要な点だけが考慮されるので、行為功利主 義の立場ほど細かい情報は必要ない。また第二に規則功利主義に限らず現代の 功利主義では、いわば「正確な」功利計算を行うことではなく、種々の不確実 性やリスクのもとで、確率論的な功利計算を行うことが意図されていることが 多い[注]。現代の功利主義では、ゲーム理論に関する知見やベイズ的な確率論 (あるいは決定理論)の知見を用いて議論されるようになっている。そして人々 が個々の行為のみを問題にする行為功利主義の立場に立つよりも、規則功利主 義の立場に立った方が、他者の行為に関して予想がしやすく、従って行為の動 機も得やすいということになる。
確かに我々は規則の道徳的価値について判断するために、できるだけ多くの情 報を集め、さらに人々がある規則に従うことによってどのような結果が生じる のかをできるだけ正確に予測した上で、公平な判断を下そうとするべきである。 しかし必ずしもそのために万能の存在者を想定する必要はない。我々が道徳的 に行為するためには、自分たちが持つ情報に基づき、様々な不確定的な条件の もとで確率論的に行った功利計算の結果、最も効用を最大化すると予想される 原則を採用し、それに従って行為すればそれで十分であろう。
*慣例に従いカントの著作の対応箇所はプロイセンアカデミー版全集の巻数と ページ数を、ミルの著作の対応箇所はトロント大学版選集の巻数とページ数を 示した。またシジウィックの『倫理学の方法』については、MEという記号の後 に第7版のページ数を示した。
〈謝辞〉
加藤尚武先生からは、本稿の初期草稿に関していくつかの御感想を頂いた。ま た奥野満里子氏には本稿の初期草稿を丹念に検討していただいた上で、多くの 貴重な助言を頂いた。本稿の基本構想や構成については氏の助言に負うところ が多い。なお本稿の原形は1994年秋に長崎大学で行われた日本カント協会第19 回大会での筆者の発表にあるが、その際に新田孝彦氏(北海道大学)からは多く の得難い御意見を頂戴した。またカント研究会第86回例会では、本稿の内容と 一部重複する発表を行う機会を得たが、その際に朝広謙次郎氏(上智大学)、久 呉高之氏(いわき明星大学)、菅沢龍文氏(法政大学)をはじめ多くの方々から貴 重な御意見をうかがうことができた。また八幡英幸氏には資料提供の労を取っ ていただいた。以上の方々に感謝を表したい。
(くらた のぶお 京都大学研修員他)