アトミズム

すでに総論において述べられていたように、共同体主義の基本的な主張は、リ ベラリズムの「個人主義」、つまり個人の「権利」を出発点とする思想に対し、 ある一定の共同体を優先することにあるといってよい。こうした潮流を代表す る人物として、マッキンタイアー、サンデル、テイラー、ウオルツアーらの名 が挙げられるが、彼らの主張にはもちろん違いがある[注]。しかし、彼らにおお よそ共通しているといってよいであろうことは、リベラリズムの前提している 「個人」というものが、実際にはさまざまな道徳的紐帯に結びつけられ、共同 体の中に織り込まれているにもかかわらず、そこから切り離され、抽象化され てしまっていると批判する点である。すなわち、リベラリズムの主張する「個 人」というものが、社会的な紐帯から分離、抽象化された「原子論的(アトミ ステイック)な個人」であるとして批判することが、いわば共同体主義のリベ ラリズムに対する批判のオーソドックスな手法となっていると言いうる。

しかしながら、共同体主義のリベラリズム批判のひとつの中核をなすともいえ るこの手法、すなわち自然権を持つ個人を「アトム」とし、そうした自由な個 人の契約により一定の社会的秩序が形成されるとする社会契約論を「アトミズ ム」と定式化して批判するというこの手法には、どの程度まで批判としての有 効性があるのかという問題がある。ここでは、この問題のすべてについて網羅 的かつ詳細に論ずることはできないが、リベラリズムの基本主張を「アトミズ ム」として再考に付し、その問題点を浮き彫りにしようとしているテイラーの 議論を取り上げながら、すすめていくことにしたい。そうすることで、共同体 主義がリベラリズムの何を批判しようとしているのかを、あらためて浮き彫り にしてみたい。

テイラーは、その論稿「アトミズム」[注]において、主にノージックを念頭にお きながらリベラリズムの社会契約論的な個人主義を「アトミズム」として批判 しようと試みている。しかしながら、ノージックが自らの立場を「アトミズム」 と呼んだことはなく、むしろ「個人主義」という表現をとっていることからも、 リベラリズムの立場を「アトミズム」という問題圏に設定してしまうこと自体 に無理があるかもしれない、とテイラー自身も述べている(Taylor,1992, p.29)。では、それでもなおリベラリズムを「アトミズム」として批判する意 義はどこにあるのか。

彼は「アトミズム」という術語を、それが用いられているコンテクストに着眼 して次のように分類している。(1)いわゆる17世紀に誕生した社会契約論の 学説を特徴づけている場合、(2)その社会契約論を継承した学説をも含めて呼 ぶ場合、(3) 社会契約論のなかに功利主義まで含んでいる場合、現代的には、 (4)社会よりも個人を優先させて個人の権利を擁護しようとする学説をさす場 合、(5)社会とは個人が目的を実現させるための道具でしかないという見解を 提示するような学説をさす場合。おおよそ以上のように分類した上で、「ホッ ブス、ロックをはじめ、社会契約論を展開した思想家たち」が遺産として残し、 かつ今日ロールズによって急速に隆盛をはかられた現代の社会契約論にも共通 する「権利の優先(the primacy of rights)」という術語に着眼する。そして 彼は、ここにこそ「わたしがアトミズムと呼んでいるものがある」(Taylor, 1992, p.30)のだと言う。

「権利の優先」を主張するリベラリズムは、人間には生まれながらに自己の生 命を守り、自由に行動し、己れの財産を自分で処分するという自然権があるの だという「確固たる」理論的基礎から出発するというが、しかしそれではいっ たい何故われわれは「権利」を有し、かつまた他の人々の「権利」を尊重する のか。彼らは「権利の主張」ということの背後にある概念的背景をまったく無 視しているとテイラーは指摘する。この概念的背景を浮き上がらせるにあたっ ては、よく引き合いに出されるアリストテレスの「社会的動物としての人間」 というテーゼを再検討することが、ひとつの手がかりになると言う。このテー ゼによれば、人間は決してただ一人で自足することはできない、換言すればポ リスを離れて自足することはできないのであるから、この言葉を用いてアトミ ズムを再定義するならば、「アトミズム」とは、人間がただ一人で自足できる ということを肯定する学説であることになるという(Taylor, 1992, p.32)。し かし、この批判はリベラリズムにとっては心外であるだろう。社会契約論的な モデルを使って共同体の構成を考えるということは、ただ一人で人間が生きる ことが可能であるということ、あるいはまた「個人」が人間的生の全体を網羅 するほどの完成した能力をもっているのだと主張することとイコールではない と反論するだろう。「権利の優先」を主張するからといって、人間が社会を離 れて生きることが不可能だという極めて常識的なことを否定するつもりもない し、する必要もないのであると。

しかしながら、問題はまさにこの「生きる」ということ、「自足する」という ことの人間的な意味にある。テイラーはその「意味」を明確にするために、 (1)グレートスレーヴ湖の例と、(2)マッドサイエンティストの例を挙げて、次 のように議論を展開する。第一の例は、「もしも人間がただひとりでグレート スレーヴ湖の北側に、手斧一本とマッチ箱1個だけで放り出されたとしたら、 一週間も生きられない、だから人間は社会的動物なのだ」という自由主義者た ちの誤解である。「社会的動物としての人間」というテーゼは、人間が一人で 生き残ることが物理的に不可能であるということ、別言すれば、社会を離れて は生命的有機体として生存不可能であるというような「生物学的な」意味での 生命の存続を表現しているのではない。そうではなく、社会を離れては人間が 人間として有している固有の能力を開花、発現させることができないという生 命的主体としての自己形成が問題とされているのである。

リベラリズムの主張する「権利の優先」ということの背後には、いっさいの社 会的命題を排除するような、いわば「生物学的な誤解」があることを、テイラー はさらに第2のマッドサイエンティストの例を挙げることで論陣を張る (Taylor, 1992, p.37)。ある科学者が、あなたに向かってこう言う。「あなた の身体はもうダメです。その代わりにわたしが新しく開発した機械を使って、 あなたの個性と記憶を完全に保存して、生かし続けてあげましょう。」確かに こうした台詞は言葉の上でのことでしかない。しかし、このB級映画に出てく るようなマッドサイエンティストの台詞を聞いて、「いったい誰がそれを生き ることだと呼ぶのか」と思うのが標準的な反応であるだろう。リベラリズムが 出発点とする個人の生命に対する権利というものは、ホッブスの場合がそうで あったように、自然権にある生命の尊重という権利を、人間的な能力の社会的 開花という次元から切り離してしまう(Taylor, 1992, p.39)。ホッブスが主張 するように、なるほど確かに人間は「欲求する存在」である。しかし、人間を 欲求する存在としてしか、あるいはまた快楽と苦痛を感じる存在としてしか捉 えないのであれば、そうした人間のために主張しうる権利とは、せいぜいのと ころ欲求の充足と、苦痛の回避に対する権利にとどまるだろう。したがってテ イラーによれば、リベラリズムの主張する「権利の優先」ということのうちに は、彼らの意に反して、極めて貧弱な権利の概念しか生まれてはこないのであっ て、主としてそれは彼らの理解する「人間の社会性」ということにおける「生 物学的誤解」にあることになる。

しかし、なおリベラリズムの立場からは次のような反論があるかもしれない。 なるほど確かに人間の生命というものは、単なる「生物学的な意味」につきる ものではないかもしれないし、君のいうように人間的な成長を果たすためには 「他者」というもが必要であるだろう。しかし先にも述べたように、人間が社 会を離れて生きることができないということが、なぜ人間的な能力の開花とい うことが社会の中でのみ果たされるということを認めることにつながるという のか。仮に、個人の自由意志ではどうにもならない社会的紐帯があるとしても、 それは家族関係やある特定の友人関係ぐらいであって、君の言うような人間的 能力の開花ということは、こうした家族関係などの身近な人間関係の内部で充 分であり、社会(特に政治社会)の一員という意味での社会的紐帯とは無関係 でありうるではないか、と(Taylor, 1992, p.42)。これに対しテイラーは次の ように反論する。何度も指摘したように、社会契約論的な個人主義を「アトミ ズム」として批判する際、そのポイントは「権利の由来」を問うこと、換言す ればリベラリズムの根底にある「人間観」を問い直すことにある。それを代表 するものは「選択の自由ほど重要なものはない」という人間観(Taylor, 1992, p.34)である。しかしながら、ここで言われている「自由に選択する能力」と いうものが、夕食にヒラメを食べるか、牛肉のカツを食べるかを「自由に」決 定するといったようなものではないことを、自由主義者たちも当然認めるだろ う。問題とされている「自由に選択する能力」とは、自分の人生と向かい合う ことにおいて行使できるような自律性のことでなければならない。このような 意味での自律の能力が、はたして家族や狭い仲間うちだけで育まれるだろうか、 とテイラーは問う。彼によれば、そうした能力は文化全体の中でしか開花しな い(Taylor, 1992, p.44)[注]。

では、われわれはどのようにすれば、自律的な行為者であるとはいかなること なのかを知ることができるのか。それこそはアイデンティティーの形成という ことに他ならない。アイデンティティーとはここでは、さしあたっては自己理 解の方法であるという。しかし、人間はそれを生まれながらにして身につけて いるのではなく、それを獲得しなければならない。「自由な個人」ということ も、あるいはまた「自律的な道徳的行為者」ということも、ある一定のタイプ の文化の中でしか育まれることはない。またそうした文化のあり方やそのあり 方を支えている経済活動や諸様式は、自然発生的に維持されているのではなく、 諸々の制度や社会的紐帯を通じて自発的に維持されているものなのである。文 化の存在様式というものは、道徳的通念として支持されているだけでなく、物 質的(例えば美術館や交響楽団、大学、研究所、政党、法廷、代議制議会、新 聞、出版社、テレビ局など。あるいはまた、建造物や鉄道、下水道設備、送電 線といった基幹施設の一般的な要素)にも支えられているし、支えられなくて ならない。というのも、それらなくしては高次の文化的活動もなしえないから である。複雑でありながらも統合された社会は、こうした要素によって(自然 発生的にではなく)自発的に維持されなければらないし、されているものなの である(Taylor, 1992, p.44-45)。

それゆえに、西洋的な意味での「自由な個人」というのも、それを生み出し育 んでいる社会および文化全体の力によってはじめて可能となっていることに注 意しなければならない。リベラリズムは、このことを見落としている。だから 家族というものもまた、こうした文化全体の中に位置づけて理解されなくては ならないのであって、この文化的脈絡から切り離されているような家族(例え ばかつて実在した家父長制のような家族)は、決して自由な個人を育みはしな いのである。決定的に重要なことはしたがって、リベラリズムの言うような 「自由な個人」としてのアイデンティティーもまた、特定の社会のあり方、そ の文化的脈絡の中でしか維持できないということである。「自由な個人」とし てのアイデンティティーを支えてくれる諸活動と諸制度が社会の中で繁栄して いるということ、そしてまた、こうした基盤の上でこそ、個人の選択が開かれ もすれば閉じられもし、豊かになりもすれば貧弱になりもするのである。「自 由な個人」の多様性といったことも、その価値が広く承認されているような社 会の中でしか繁栄できないのである(Taylor, 1992, p.45-47)。

以上、テイラーの主張を要約しながら、社会契約論的な個人主義を「アトミズ ム」として検討することの意味をみてきた。リベラリズムの立場を「アトミズ ム」として批判するという手法は、何を明らかにしたのか。彼は論稿をまとめ るに際して、次のように述べている。アトミズムという論点から、リベラリズ ムと共同体主義の論争を語ることは、「人間主体の社会的本性とは何か」とい う哲学的な問題に結びつくことにならざるをえず、この点に関して両者がすれ ちがいをみせることはやむを得ないことであると(Taylor, 1992, p.49)。 テ イラー自身はやや悲観的に両者のすれちがいを強調してはいるが、「アトミズ ム」という論稿における両者の「対話の試み」はしかし、論争の収束方向が 「自律的個人 vs 社会的共同性」という対立図式にあるのではなく、「自律を 可能にする社会的結合のあり方はいかにあるべきか」という問い方の内にある ことを示していると、ひとまずは言えるのではないだろうか。

(いたい こういちろう 博士後期課程二回生)



©(copy right) 1994, 実践哲学研究会、板井孝一郎
『実践哲学研究』第18号所収
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Last modified: Tue Mar 12 07:24:59 JST 1996