医療におけるインフォームド・コンセント(以下ICと略)とは、「十分 な説明を受けた上での同意」すなわち患者が医師からその医療方針について十 分な説明を受け、十分な情報を与えられて納得した上で一つ一つの治療行為な いし処置を受け入れる決定を自分で下し、同意することである。医師はこの同 意なしには当該処置を行ってはならないというのがIC原則である。
一方、 この原則と相入れないものとして挙げられるのがパターナリズム (父権主義、 温情主義)である。パターナリズムとは、 言葉どおりには、 「父親が自分の子供に対してするような仕方で、 ある人に対してふるまうこ と」 を指す。[注] 医療においては、 患者に対して、その人のためになるとし て医師(又は、その他の患者以外の人々)の裁量で処置をすることを指すこと になる。 これはもちろん患者のICを得ずに処置することを意味する。 IC とパターナリズムとは共に 「患者の利益」 という医療の基本を守ろうとする 点では同じである。 では、 なぜこの同じ基本から異なる二つの立場が生まれ てしまうのか。 それぞれの立場が言わんとするポイントは何か。そして、こ の二つの立場を合わせ見た上で、われわれの医療システムはどのようなもので あるべきか。本論はこうした主題を扱う。
患者からICをとるという立場は、人は(正常な大人であれば)同意なし に他人から干渉されるべきではないという倫理原則に基づくものである。手術 や実験に見られるような処置は身体への暴行とも見なされうるものであり、全 くの同意なしに行われるとしたら多くの人々にとって脅威となる。それでなく とも基本的に医療は患者への干渉であり、それがたとえ善意からのものであれ、 いかなる同意もなしに行われるべきではない、というのである。
ところで、同意は、十分な情報をうけて、理解し、納得したのでなければ 有効な同意とは言えない。そこで、単なる同意ではなく「十分な情報を与えら れた上での同意」つまりICという形で語られるようになったわけである。
人によっては、診療に来ること自体が治療への暗黙の同意だと考えること もある。しかし、医療が進歩して危険な処置や医学実験を含め多種多様な処置 が行われうるようになった今日、診療への初めの同意のさいに患者が抱いてい た予測を越えた処置をとられることが起きてくると、それに対して患者側から 改めて同意をとるべきだとの要求が出てきたのは自然なことと言えよう(こう した現代の傾向については、患者の権利意識が強まったのだという説明もなさ れている)。そこで、ICを個々の処置であらためて取るべきであり、また明 確な同意はとらないとしても普段からなるべく情報を知らせて患者の確認を取 りながら処置をするべきだということが重視されはじめたのだと考えられる。
ここで、「同意なしに干渉するべきでない」という倫理原則の根拠をあら ためて吟味してみる。この根拠として決まって挙げられるのは、自己決定こそ が結局のところ本人にとって最善なのだという考え方である。R.M.ヘアの 言い方を借りれば、「一般に正常な大人であれば、自分の将来の幸福ないし利 益については、当人よりもよく知っていると思い込んでいる他人より、自分の 方が正しく判断できるということは事実であるように思われる」。[注]今風に言 うならば、QOL(生命の質)の判断は患者にしかできないのである。
しかし、これは一般的に言えることである。問題は、医療という特殊な現 場でもこれが常に言えるかどうかである。この理由が成立しない場合があると すれば、 同意原則も見直す余地が出てくる。 そこにパターナリズムが入って くるのである。
パターナリズムの厳密な定義には諸説ある。意識不明の患者や幼児や緊急 時の場合など「自発性のない」患者の場合は除かれたり、さらに「合理的判断 能力があるにもかかわらず、その意思を聞かず処置する場合」や「患者の拒否 があったにもかかわらず、それに逆らって処置する場合」などに限定されるこ ともある。 しかし、 これらはこの語の一般的な用法を完全にカバーしている とは思われないし、 医師の行為を大きくICとパターナリズムに二分して見 たいわたしの議論にとっては都合のよいものではない。 また、 定義だけで同 意を得るべきか否かという肝心の問題が解決するわけではない。そこで以下で は、 患者のICを得ない処置のうち 「患者の利益を推測しての処置」 と称 する最も包括的な意味で語ることにする。
パターナリスティックな医療処置を認める論者たちの多くも、「人は同意 なしに干渉されるべきではない」という一般的な倫理原則を認めないわけでは ない。[注]同意を得ないで処置してよいと主張されるのは、まず一つには、話を ほとんど理解できず、そもそも同意も拒否も与えることができない---従って この倫理原則を適用することには意味がない、 とされる幼児や意識不明の患 者などの場合である。しかし、これはIC主義者も認めうる(し、これにパター ナリズムという名称を適用することを拒む人までいる)。そもそもIC原則は 自己決定ができる正常な大人について述べられていたのであって、この場合に はIC原則が放棄されたわけではなく、この原則は維持されたまま、この原則 が本質的に適用できない場合の次善の策としてパターナリズムを認めたのであ る。しかし、パターナリズムとIC原則との深刻な対立の焦点はここにあるの ではない。「成人であれば、 本人の利益は本人が一番よく判断できる」 とい う理由が成立するのかしないのかが論議される灰色の部分が医療現場には見ら れる。 ここにおいて、 IC原則とパターナリズムが激しく対立することにな る。
パターナリズムの側から主張されるものとして、以下の二種の議論を取り 上げることができる。
「本人のことは本人が一番よく決定できる」のは、彼が自分の性格や生き 方の好みや志向を知っているからである。しかし患者はそのままで具体的な治 療方針についての最善の判断を下せるわけではない。実際に最善の選択をする には、好みだけでなく、その選択肢をとればどうなるかという事実情報も必要 であることは言うまでもない。(それこそが、 ICの「インフォームド」の部 分にこめられた意味でもあったのである。) そこで、患者の最善の決定には医 師から情報を得ることが必要である。しかし、医師の専門的情報を完全に理解 してもらうことは不可能であり、最善の決定を下すことも完全に妥当なICを 与えることも不可能である---そこである程度は医師の裁量にたよらざるをえ ないのではないか。これがパターナリスト側からの一つの議論である。
しかし、この論点はある程度回避できる。患者に必要なのは決定と同意に とって必要な情報であり、専門知識はそれほど必要ない。具体的には、その処 置によって自分は今後どうなるのか、どのような状態になりどのような生活を することになるのかが患者のレベルで分かれば十分なのである。また一度の説 明でわからなければ、何度かに分けて対話しながら患者の本意を反映させた同 意もしくは拒否を引き出せればよいのである。ただし、 医師には、 一人一人 の患者がどのような情報を 「決定にとって必要なもの」 として欲しているか は分かりにくいと言われるかもしれない。 しかし、 ある程度は、 それも丁 寧な対話によって徐々に確かめていくことができるものと思われる(そのため の時間が医師にはない、というのは、 また別の、 実務上のシステムの問題で ある。 これも将来の改善の余地はあるように思われる)。 患者の側も、 自 分がどのような情報を欲しているのかをできる限り積極的に医師に伝えること は必要であろう(これは患者の責任だと言ってもよいだろう)。 いずれにせよ、 情報を伝えきれないからといって医師の裁量に完全に任せる方がいいという結 論は簡単には出て来ない。
次に考えられるのが、自殺未遂者の拒絶をふりきって救助するときのよう に、患者が一過性の興奮状態ないし熟慮のなさから処置を拒否する場合、ある いはがん告知などのように情報を与えること自体が患者の動揺や抑鬱といった 不利益を生んでしまう場合を引き合いに出す議論である。
カルパーとガートは、 一時的にひどい興奮状態になって自殺しようとした 人を、本人の拒否にもかかわらず強制入院させるという例をあげ、これは正当 化可能なパターナリズムであると主張する。この患者の自殺には十分な理由が なく、一過性であるとよく知られている状態にある。この場合には、長い目で 見れば、たとえIC原則に違反しても医師が干渉する方が、本人が死ぬよりは はるかに小さな危害を与えたことになるはずだというのである。(そしてこれ は、一般にIC原則を認めている全ての理性的な人々にも公認されうる処置で あるだろう、 というのがもう一つの彼らの論点である。)
彼らの他には、あとから感謝されることが確実に見込まれる場合には正当 化される、という議論もある。
以上の議論では、熟慮をもって患者の利益を考えるならば、患者の現在の 主張とは違う場合もありうるということが主張されている。このことは、医師 の専門的知識というより、医師の数々の臨床経験から推測できるのだと主張す ることもできる。そういう処置をとることで後から患者の利益となったことが 判明する例が経験的に多いのであれば、医師がそれらの経験に基づく直観をもっ て患者に対処するのはよいことであり、一般的にも認められるのではないだろ うか、というのである。
患者のその場その場の判断が患者の利益を反映したものだと見る強い意味 でのIC原則を守ろうとするならば、自殺患者がその場で拒否すれば医師は干 渉できない。一方、一過性と知られている患者の判断については「患者が熟慮 したならこういう判断は下さないだろう」と考えて救命措置や強制入院させる ことも可能だ、と考えるならば、成人についてもある限定された状況ではIC 原則は成り立たないこともあると認めることになる。このどちらの立場をとる かは、われわれの選択の問題である。私なら、この「限定された状況」は明確 に限定され確実な根拠をもたなければならない、という条件で、後者をとりた いように思う。ただしその場合、 「限定」 の仕方が問題である。
先の例は、自殺という、常識的な直観にかなり訴えかけるものであったが、 その他の「非合理的に思われる成人の判断」一般についてはどうだろうか。こ れも、それが一過性の感情ないし偏見によるものであって熟慮に欠けている、 という理由で、医師の干渉を許すことがあってよいだろうか?
一般の「非合理的に思われる」判断にまで広げてパターナリズムを認める ことの問題点は、 医師の 「この患者は非合理的だ」 という判断の方が実は 偏見であったという場合がでてくる可能性があるということ、 またその場合 の医師の 「患者のためを思っての行為」 が実は患者にとって耐え難いもので あったという事態がおこる可能性があるということにある。 もちろん患者自 身も自分の判断を誤ることはありうる。 しかし、 一般に、 他人が誤ったお かげで害を被るよりも、 自分の判断のせいで害を被るほうがまだ我慢ができ るように思われる。 そのようなわけで、 非合理的とみなされる判断一般にま でパターナリズムを拡張するよりも、 一般的にはIC原則を採用することに しておいた方がよさそうである。
一方、自殺未遂の例は一般の非合理的な判断と比べて幾つかの点で特徴的で あり、区別して考えることが可能ではないかと思われる。まず、一般の非合理 的な判断の場合には、医師がパターナリスティックな干渉をしなかったおかげ で後から本人が後悔したとしても、それも人生経験の一部としたり、 失敗か ら学ぶといった多少の利益はあるかもしれない。ところが、自殺の場合は一度 死なれてしまったら確実に取り返しがつかない。また、 自殺を救うという医 師の干渉が、 手術による右足切断にも匹敵するほどの決定的なダメージを患 者に与える例---つまり、 患者のその後の生き方の選択肢を狭めることになる ような実例は、相対的に見れば、少ないように思われる。 また本当に一貫し た覚悟のある自殺なら、一度助けたあとでも医師に自殺幇助の汚名を着せると いう迷惑をかけないところで再び自殺することができるし、そうするべきであ る(ただし、これは健康な人の一般的な自殺未遂について述べているのであっ て、入院患者の安楽死についてはやや事情が異なるため別に考える必要がある)。 これらの特徴に加え、 もし、一般に、自殺未遂者の多くはしばらく経てば思 い直すものだということが経験的事実として十分に多いのだとしたら、 医師 が一時的に干渉するのは今かつぎ込まれた患者にとってもよいことである可能 性が十分にありうるのであり、 また我々一般にとっても医師がそのような態 度をとることは安心感を与えるように思われる。
自殺未遂以外のいくつかの場合---がん患者への告知など---で 「限定され た状況」 に含められるものがあるかどうかは、 もっと議論がいるだろう。 本論文では紙数の都合でこれ以上立ち入ることができないが、 限定範囲に含 めるには適当な経験的データがなければならない、 ということは言えるだろ う。 そして、 難病告知については、 最近は 「長い目で見て告知しない方が よかった」 という患者ばかりではない、 というデータがあるならば、 この 場合にまでパターナリズムを一様に適用することは考え直すべきだということ が指摘できるだろう。
以上述べたことから、 基本はIC原則で、 一部の限定された状況にのみ パターナリズムを認めるシステムに落ち着くだろうというのがわたしの予測で ある。
基本的にIC原則を採用することには、医師が独断で判断したのが実は患者 にとって利益ではなかった、 という事態がおこる可能性を防ぐ作用がある。 もちろん、IC原則を重んじるあまり、患者が本当は一過性の感情から判断し たのにそれを文字どおりに受け取られて患者が不利益を被るような場合も時に はありうることになるが、基本原則としてIC原則とパターナリズムのどちら かを選ぶとすれば、他人の判断のお陰でひどい目にあうよりも自分の判断の失 敗でひどい目にあう方がまだ我慢できるというならば、ICシステムの方を選 ぶことになる。ICシステムをとることにより、一貫した断固たる判断であれ ば、患者の意志を重んじることはまず確実に保証されることになる。
この基本方針をとる一方で、 ICシステムを脅かさない程度の明らかに限 定された状況で、 明らかに熟慮ある判断が下されえないことが経験から知ら れる場合には、成人であってもパターナリズムを採用することを認めてもよい、 という態度をとることも可能である。これは、一時の激情よりも熟慮をへた判 断の方を重んじたいという、おそらく大抵の人々にとって承認可能な思いを一 部に限り反映するものである。その限定された事例の中でもなお、 医師のとっ た行動に対して後で患者からクレームがつく事も時にはありうるが、万が一ク レームが起こったとしても、それを正当に訴えることができるというのもIC システムを基本として採用しておくことの一つの利点である。
ICシステムを基本としておくことのもう一つの大きな利点は、医師と患 者の対話が促されるということにある。ICの根拠はひとり患者の自己決定と いうことだけにあるのではなく、患者にとって最もよい決定は医師の専門的な 知識と患者の利益についての知識との協力によって得られるということにある のである。そこで、患者の意見が定まらない、あるいは一度決定してもすぐ気 が変わる、といった場合には、できれば説明と対話によってしっかりとした同 意に至ることが大事である。この点に関連してもう一つ、医師に「お任せしま す」という患者に対するパターナリズムも語られることがあるが、これについ てもやはり、患者に判断を下しうる能力があり、 医師が患者の利益について の判断を誤りうることを思えば、よく説明し対話しながらIC原則を採用する 方向に向かった方が確実に熟慮のある判断に至ることができるであろう。
ICとパターナリズムとの釣り合いについてはまだ論じるべき点がいくら でもある。 また、 本論のものとは全く別の考え方、 論じ方もあるだろう。 今後、 さらに多くの立場から活発な、 そして説得的な議論が提出されること を期待している。
注 @マイケル・ロックウッド編著『現代医療の道徳的ディレンマ』, p399
@同上書、 R.M.ヘア 「@.小さな人間モルモット」 , p.163, l.1-3
@これは カルパー& ガート『医学における哲学の効用』 p.214の記述を受けて論じた ものであるが、 もし、 これとは違った立場のパターナリストがいたとすれば別の議 論が必要である。 Mason & Smith, Law and Medical Ethicsの9章も参照されたい。文献
「説明と同意」についての報告 日本医師会生命倫理懇談会 1990.1.9
「説明と同意」についての講演・質疑速記録集 〃
「説明と同意」に関するアンケート集計結果報告集 〃
アメリカ大統領委員会 生命倫理総括レポート 篠原出版 1984
『生命倫理』 Vol.3 No.1 日本生命倫理学会 1993.Jul.
C.M.Culver& B.Gert, Philosorhy in Medicine, Conceptual and Ethical Issues
in Medicine and Psychiatry, Oxford Univ.Press 1982
(邦訳 岡田雅勝監訳 『医学における哲学の効用』 北樹出版)
J.K.Mason, R.A.McCall Smith, Law and Medical Ethics, Butterworth&Co Ltd. 1987
塚崎 智・加茂直樹編 『生命倫理の現在』 哲学の現在@ 世界思想社 1989
マイケル・ロックウッド編著 加茂直樹監訳『現代医療の道徳的ディレンマ』
晃洋書房 1990
中川 米造編 『哲学と医療』 講座 人間と医療を考える@ 弘文堂 1992
塚本 泰司 『判例からさぐる医療トラブル』 講談社 1994
(奥野 満里子)