伊勢田
現在、脳死体からの臓器移植が新しい医療として提唱されており、その実現の ために「臓器移植法」の制定が急がれている。しかし、臓器移植の実現の緊急 性を強調するあまり、必要な議論がおろそかになっているきらいがあるように 思われる。ここでは現在提出されている「臓器移植法案」が脳死臨調の答申を 受けて提出されていることに注目し、脳死臨調に対する批判との関連で問題を まとめようと考える。ただし、以下における批判の多くは内容に立ち入ったも のではなく議論の手続きに関わるものである。哲学者のこうした論議における 大きな役割の一つは、議論の交通整理を行ってより実りある論争を可能にする ことではなかろうか。以下はそうした交通整理の一つの試みである。
脳死を人の死とするかどうかという問題や、脳死体からの臓器移植の是非、脳 死判定基準の問題などについては以前から議論がなされてきていたが、そうし た議論の収拾を目指して発足したのが「臨時脳死および臓器移植調査会」、い わゆる脳死臨調であった。脳死臨調は2年近くに及ぶ審議のすえ、91年6月に中 間報告、92年1月に最終答申をだして解散した。まずこの答申について特徴を 押えつつまとめながら、同時に批判をくわえていく。
この答申の大きな特徴は、脳死臨調内部での多数意見と少数意見を両論併記と いう形で提示している点であろう。多数意見は、人間が死ぬということは有機 的統合体でなくなるということであり、脳死とはまさに有機的統合体でなくなっ たということなので、脳死を「人の死」と見なしてよい、という立場をとる。 したがって彼らは脳死体からの臓器摘出には原理的な問題はなく、死亡時刻の 確定や社会的合意の形成などに若干の問題が残るだけであるとする。一方、少 数意見によれば、多数意見の提示するような有機的統合体説は特異な哲学的見 解であって説得力がなく、脳死は人の死とはとうてい認められない。ただし、 伝統的なキリスト教・仏教の中に見られた愛の行為や菩薩行として捉えるなら ば、脳死という「限りなく死に近い状態」に限っては臓器摘出を認めることが できる。この場合、臓器摘出は殺人になってしまうのではないかという問題が 生じるが、それは法学でいう違法性阻却によって回避できる。以上のように、 両者は脳死の基本的な取り扱いについて立場が異なっているにも関わらず、最 終的な結論として脳死体からの臓器移植を認めている。そして、これを理由に、 答申全体の結論としては、脳死を人の死とするかどうかについて最終的な結論 がでなくとも臓器移植に踏み切ってよいという見解をとっている。
この両論併記式は、とくに臨調内の少数意見の側から高く評価されている点で あるが、わたしはここにこそ最大の問題点があると考える。より正確に言えば、 両論併記としながらも、どちらの立場でも脳死体からの臓器移植は認めている のだから臓器移植に踏み切ってよい、としている点が問題である。
まず第一に、脳死を人の死とする場合とそうでない場合には、臓器移植を認め た場合の(「滑りやすい坂道の議論」でいうところの)「滑りやすさ」と「滑る 方向」に大きな違いがある。脳死を人の死とした場合、臓器移植の対象となる のは死んだ人であり、死んでいるからこそ心臓の摘出が可能なのである。それ ならば、明白に生きている植物状態の人や障害者にまで臓器摘出の対象が広が る可能性は(死の定義自体が再度変更されるというのでない限り)あまり考慮し なくてもよいのではなかろうか。そのかわり、脳死体を人格でなく物体と捉え ることにより、脳死体を臓器工場として利用するなど、現在の常識的な見解か らは抵抗のある脳死体の利用法が広まっていく方向への滑りやすさが増すであ ろう(誤解のないように付け加えれば、ここではカント的人格主義を自明の前 提としているのではなく、そうした考え方との結び付きを考慮する必要がある と言っているのである)。他方、脳死を人の死としないで臓器移植を認めた場 合、脳死体に対する扱いは丁重なものとなるだろうが、植物状態の人や障害者 からの臓器摘出に反対する強い根拠がなくなる。というのも、「愛の行為」や 「菩薩行」として「限りなく死に近い状態」の人からの臓器摘出が認められる ならば、同じ理由で脳死ほどではないが死に近い人から臓器を摘出するのも程 度の問題に過ぎなくなるからである。臓器移植を行うという前提で考えれば、 この二つの滑りやすさのいずれがより望ましいかという問いに答える必要があ る。
また、この点に関する態度の違いは、本人の同意をどの程度必要条件とするか という問題に対する立場の違いとなって現れる可能性がある。脳死体を死体と 見なす場合、死者の生前の意志が尊重されるのはもちろんだが、遺族の意見を 反映させることも、死体を遺族の所有物と考える立場から言えばもっともだと 言える。逆に脳死体は生きているとする場合、自己の身体に関する自己決定を 認める立場からは本人の同意は絶対必要だということになるだろう。このよう にほかの前提とのかねあいがあるので一概にはいえないが、脳死を死体と見な さない立場の方が本人の意志を尊重する側に傾きやすいといえるのではないだ ろうか。実際の答申では、基本的にはドナーカードがあるのが理想だが、本人 の意志がはっきりしていればドナーカードがなくても摘出してよい、というあ たりで多数意見、少数意見とも一致している。しかし、多数意見が家族の同意 のみによる摘出に関して積極的な否定を行なっていないのに対し、少数意見の 側は明確に家族の同意のみによる摘出に反対している。これは、「家族の同意 のみによる摘出」への滑りやすさの違い、と表現することもできるだろう。
以上のように、二つの見解は、臓器移植の大まかな点では一致しても、細部を 明確化していく際に考慮すべき問題がかなり違う。したがって、具体的な法制 化を考えるならば、脳死を人の死とするかどうかという問題を疎かにはできな いのである。
しかし、当然ながら、「脳死臨調内部での意見の対立が収束できなかった以上、 次善の策としてこうせざるをえなかったのだ」という反論が(特に臨調関係者 から)返ってくることが予測される。しかし、本当に臨調は対立を収拾するた めの十分な努力を行なっただろうか。
そもそも脳死臨調の答申においては「脳死は人の死か」という問いに答える手 順に混乱があるように思われる。多数意見は「死」というものは医学的・生物 学的現象なので、「人々の価値観を前提としたいわば一つの文化的現象」とし ての死に対する理解の基礎にも医学・生物学の知見が必要であるとしている。 そして、社会的には反対意見も多く残っていることを認めつつ、「こうした国 民感情も今後かなりの程度解消していくことも予想される」と言う。しかし、 このような議論は、死の判断がある種の規範的判断を下すということでもある という点を十分理解せずに行われているように思われる。
われわれがある人について「死んだ」と判断するときには、その判断が下され るまではその人に対してしてはならなかったようなこと--たとえば葬式をする、 埋葬する、その人の財産を縁者に分配する、など--を今後は「してもよい」な いし「するべきである」ということも同時に含意している。こうした「しても よい」ないし「するべきである」という判断はそれを受け入れた人の行為につ いての指令を含むという意味で規範的判断としての性質をもつ。そして、脳死 を人の死とするかどうかという議論において問題になっているのは、人工呼吸 器を止めてよいか、その個体から臓器を摘出してよいか、というまさにこの規 範的判断の部分である。一方、倫理学で広く認められているとおり、事実判断 だけから規範的判断を導出することはできないのであるから、生物学的事実だ けをいくら積み重ねてもある人を死んだものとして扱うべきかどうかについて の答えはでない。先ほどの答申の表現に引き付けて言えば次のようになる。人々 の価値観を前提とした文化現象としての死にとっても医学・生物学的知見は重 要だが、それは前提となる価値観から具体的な価値判断を導き出すために重要 なのであって、前提となる価値観自体が医学・生物学的知見から導きだせるわ けではないのである(もし導き出せるのならば、それは単に、さらに前提とな る価値観が存在しているということを示しているに過ぎない)。
さて、多数意見が「脳死を人の死と認める」と言うときに主張しようとしてい るのは、この前提となる価値観自体の変更だろうか、それとも前提となる価値 観は温存して、そこからの事実を使った導出のレヴェルでの変化であろうか。 実のところこの点についてはほとんど議論がなされていない。まず問題なのは 一体彼らのいう「有機的統合体」説を規範的判断の一種と捉えてよいものかど うかという点である。たしかに有機的統合体でなくなったときが死であるとい うのは生物学的な定義としての側面が強い。しかし、それ が結果的にさまざまな医療的措置という形での行為に対する指令性を持つのな らば、この定義が規範的要素を暗に含むか、別の規範的判断が導入されている のでなくてはならない。後者の場合はその規範的判断を明示しようとしない (おそらくは意識していない)多数意見の不十分性は明らかだが、前者の場合と とっても、ではこの規範的判断は従来の判断への対案として提示されたのか、 従来の判断の明確化として提示されたのか明らかでない。あえて新しい規範的 判断を導入しようとしているというのであればなぜその新しい判断を受け入れ なくてはならないか、というより高次の規範的判断、いわば「規範的判断につ いての規範的判断」のレヴェルでの議論が必要となるだろう。そうでなく、わ れわれが現に有機的統合体説を受け入れているというのであっても、なぜそれ をそのまま維持すべきかという高次の規範判断は必要だし、その上に立って有 機的統合体説の受容に関する事実に関する議論と有機的統合体説から規範的判 断としての脳死判断が導けるかどうかの議論が行われなくてはならない。結局 はこうした考察の欠如が、脳死臨調における二つの意見を無意味に対立させた ままにした原因ではないのだろうか。もし脳死臨調の委員が事実問題に終始せ ずにもっと大胆に規範的議論に踏み込み議論していたならば、少なくともどの 点で両者が対立しているかは分かったはずであり、対立の解決ないし妥協の方 向性ももう少し見えていたのではないかという気がする。
さらに、上の議論をつくして脳死は人の死であるという結論を下したとしても、 なおその判定基準には注意を要する。脳死臨調はいわゆる竹内基準をほとんど 検討しないまま妥当な基準であるとして是認した。議事録を見る限り、竹内基 準に関する具体的な調査は、竹内基準を満たしていながらも反応があったとさ れる事例についての調査が主である。この調査によれば、報告された事例はす べて、脳幹の反応とも解釈できるが脊髄等からの反応として解釈することがで きる、という。この調査自体は必要なものであり、十分に評価できると思うが、 立花隆の批判を考慮するならば他にやるべき調査があったのではないか、と思 われる。立花隆の批判の本質的な論点は、竹内基準は直接には脳機能の単なる 停止を検査しているに過ぎず、それが現に不可逆であることをいうためには器 質的な裏付けが必要なはずである、ということであった。つまり、脳血流検査 や聴性脳幹反応は本当に必要ないのか、言い替えるとこれらのテストをパスし ないような事例でも脳死の定義を満たしているといえるかどうかの調査が必要 だというのである。脳死臨調がこうした批判をきちんと理解していたならば、 たとえば竹内基準を満たしながら脳血流や聴性脳幹反応が残っている患者(そ うした患者がいること自体はすでに立花隆の著書で明らかになっている)に対 してより綿密なチェックを行う必要があっただろう。そこで単に機能が停止し ているだけでなく不可逆に止まっていることの傍証(たとえば顕微鏡レベルの 器質変化でもよい)をえることができれば竹内基準は信憑性をますことになる。 こうした検証を行ってもなお不可逆性に関する疑問は残り、結局そこが立花説 の根底にあるわけだが、ここで述べたような調査はする価値があったろうと思 われる。もっとも、答申で全脳死と脳幹死は実質的な違いはないといったいい 加減な議論がなされているところから見ても、彼らがこうした原理的な問題に どれほど関心を持っていたか疑わしい。
さて、脳死臨調に対する批判の主な点は以上の通りだが、こうした問題点と、 今度提出された臓器移植法案がどのような関係になっているかを検討してみよ う。
まず事実経過をまとめると、92年1月の臨調の答申を受けて法制化の動きが始 まり、同年12月に「脳死および臓器移植に関する各党協議会」が国会議員の間 で設置された。各党協議会は1年後に臓器移植法の要綱案を示し、これが各党 からの反対意見なども考慮して修正され、94年4月に「臓器の移植に関する法 律案」として国会に提出された。この法案は、この論文を執筆している94年8 月現在ではいまだ成立していない。内容的には、「死体」からの臓器移植一般 に関する規定を行いつつ、「死体」の中に「脳死体」も含めて脳死体からの臓 器移植も認める形になっている。この法案に対してはすでに新聞紙上に反対意 見広告が出されるなど、活発な批判がなされているが、ここでは脳死臨調との 関連で問題になるところに的を絞る。
脳死臨調答申との対比でこの法案を見たとき、すぐに目につく相違点が二つあ る。一つは「脳死体」を「死体」の中に含めることで事実上脳死を人の死と認 める立場をとっている点であり、もう一つは本人の意志が不明でも家族の意志 によって臓器摘出が可能だという点である。もちろん答申から2年以上の月日 がたっているのだから議論の深まりがあってもよいのだが、問題は、どういう 議論をへて答申の見解と異なる内容となったかが不明だという点にある。とり わけ、脳死を人の死とするかどうかという問題については、独断的に答申の少 数意見を切捨てたような印象を受ける。もっとも、答申に対する批判のところ で見たように、どちらの根拠で臓器移植をするかによって細部がまったく違っ てくるのだから、法案という形で具体化しようと思えばこの点をまず決定せざ るをえないのである。しかし、このままこの法案が可決されれば多数意見が少 数意見を強引に押し切った形となるであろう。その前に、もう一度基本に立ち 戻り、どこに行き違いがあったかを確認する作業が行われてしかるべきなので はないだろうか。
もう一点の家族の同意に関しては、脳死臨調の内部でも繰返し討論されていた 点である。その際、家族の同意でもよいとする立場の主な根拠はそうしないと 実質的に移植ができなくなる、というものであった。しかし、この見解は臨調 内部で多数派となるにいたらず、家族による本人の意志のそんたくによる同意 についてはついては「それでもよいという意見もあった」という形で答申に組 み込まれている。本人の意志と関係のない同意については言及すらされていな い。また、少数意見は本人の明確な意志表示なしには臓器の摘出を認めない立 場をとる。それなのに法案がなぜあえてこの見解をとったかの説明はない。推 測するとすれば脳死臨調内であげられていたのと同じ理由、すなわちそうしな いと十分な量の臓器提供が望めないという理由によるのであろう。しかし、多 くの人にとって、自分の身体が死後あるいは脳死後にどのように扱われるかと いうことは大きな関心事である。そしてこの関心が家族の意向と一致しない場 合も多いであろう。現在の日本で家族の同意による摘出を認めてしまえば、こ うした関心・選好はほとんど無視されることになるであろう。さらにいえば、 このように本人のためになるとはいえない事例において自己決定がおかされる ことは医療における自己決定のルール全体に影響を及ぼすだろう。確かにこう した選好を尊重することと、その選好を無視しても臓器移植を行うことのメリッ トとを比較することは可能であろう。しかし、問題なのはそうした比較考量が 本当になされたのかどうか疑わしいという点である。そうした前提抜きにこの 法案が可決されるならば、「医者は移植をするためにはわれわれの権利を少々 無視してもよいと考えている」といった医療不信を拡大する結果をもたらすで あろう。
以上の議論はいずれも内容に立ち入った議論というよりは、手続き的な面に注 目した批判である。議論をつくした結果、現在提出されている法案と同じ内容 の法律がよいということになるかもしれない。しかし、現状でこの法案を通そ うというのはあまりに拙速の感がある。確かに脳死臨調の発足から数えて4年 以上の歳月が過ぎ、決して短くはない時間がながれている。しかしその間にど れほどの議論の進展があったかと考えると、この歳月は十分に活かされてこな かったのではないかという気がする。
本文では交通整理に徹して具体的な論点に関する私見を述べなかったが、あま りにも傍観者的に過ぎる気がするので最後に少し脳死の問題について私見を述 べる。わたしには脳死を人の死とする議論がそれほど説得的なものとは思われ ない。たとえば、脳死を人の死の基準とする理由として、三徴候死が基準とし て使用に耐えなくなったという議論がある。この議論が根拠として上げるのは 人工心肺の発達である。直観的にはどう考えても死んでいる人が、人工心臓だ けが動き続けていることにより、三徴候による基準では生きていることになる。 逆に、人工心臓が動いているのは心臓が動いているうちに入らないとするなら ば、今度は、全く同じ瞳孔散大と無呼吸の反応を示している二人について、一 方の心臓が人工心臓であることをもって一方を死と判定し、もう一方を生きて いると判定することになるだろう。いずれにせよ三徴候による死の判定では人 工心肺の関わる事例にうまく対処することができないことになる。しかし、同 じような難点は全脳死説や脳幹死説にも生じるだろう。少し空想的な例になる が、人工脳幹というものを考えてみるとよい。この脳幹も体のほかの部分が朽 ち果てても動き続けることが可能である。そうすると大脳死や脳幹死の基準で はその人は死なないことになり、死についてのわれわれの直観に反する。おそ らく、このような置き換えのきかない唯一の器官は大脳だろう。仮に大脳の機 械による置き換えが可能だったとしても、(つまりある人の記憶や人格を機械 に移すことができたとしても)その場合には、この機械の大脳だけが機能して いる状態を生きていると呼ぶことにはそれほどためらいはないであろう。それ ならば、大脳死がわれわれの求める死の基準だろうか。しかし、これはあらゆ る論者が否定する見解である。理由として一つ考えられるのは、死の判定が相 手に対する扱いを極端に変える規範的判断である点である。このような極端な 判断は、安全性のために、明確で、かつ、かなり大きな落差を伴う変化に関し てなされるのでなければ正当化が難しいという考え方ができるだろう。このよ うな思考の流れからわれわれは大脳死を死と認めないのではないだろうか。も し、このような思考の流れからわれわれが大脳死を認めないのであれば、生き ているものを死者と判断しないような基準で、大脳死と近く、かつ明確で落差 のはげしい基準が次善の策として求められることになる。三徴候死はこのよう な観点から支持されてきたものではなかろうか。しかし、このように考えると、 概念上、脳死の心臓死に対する優位はほとんどないことになるだろう。以上は 一つの思考実験で、なぜわれわれが大脳死を死と認めないかという点について はいくらでも他の根拠が考えられるが、ここで取り上げたものももっともらし い説明の一つだと思われる。いずれにせよ、われわれのもつ死の概念をその規 範的側面まで含めて明確化していくのでなければ、この問題に対する見通しは えられないであろう。