ベルクソンにおける神秘主義の二つの意義本　田　裕　志「神秘主義」という言葉を耳にして、われわれが心に思い描くのは、通例いかなるものであろうか。それは何か、われわれの毎日の日常生活とは縁のない、現実離れした非合理な異次元世界のことに囚われたような思想や境地、といったものではなかろうか。少なくとも、現実世界の中でわれわれが直面している具体的諸問題の解決の道を示すことや、現存する社会のありかたを変革するための力となることを神秘主義に求めるのは、的外れで笑止な、あるいはむしろ危険な注文のように思われよう。しかし、ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』を一読するや、われわれはかかる見方を根本から改める必要性を感じる。なぜなら、そこでは神秘主義 ( mysticisme ) が、まさに既存社会の変革の原理、社会の進歩の原動力として、また現代社会における火急の諸問題を解決に導く指導精神として意義づけられているからである。本稿は、同書に示された神秘主義のこの二つの意義を、具体的に論じ、明らかにしようとするものである。しかしこの問題に向かって進む場合、最初から方法上の大きな困難が待ち受けている。神秘主義に関するベルクソンの所説は、純粋持続と自由の問題に出発する彼の哲学的思惟の行程の終局に至って初めて到達されたものだ。それゆえここでは、問題の核心をなす『二源泉』の神秘主義論を直ちに論議の俎上に載せることができないのはもちろん、本来ならば、そこに至るまでの彼の全哲学思想の輪郭を予め順を追って明らかにしておくことが要求される。しかし本稿は、この予備作業を可能な限り簡略化し、『創造的進化』以後のベルクソン哲学の中枢をなす「創造 ( cr斬tion ) 」および「生命 (vie) 」の概念を出発点として、漸次問題の核心に迫るという方法をとりたい。 1. 創造と生命「創造」とは何か。それは、何か「新しいもの」を生み出すことである。しかしこの「新しいもの」とは、既存の要素に、随意に反復可能な一定の操作を加えることによって機械的に生産されうるもののことではない。かかる操作は永遠不変の法則に従って行なわれ、未来永劫この通りであることが予知されうる。そこから生まれるものは、実は既に予め与えられていたのであり、決して真に「新しい」とはいえない。真の創造とは既存のものとは根本的に不可通約的な、絶対に予知されえない何かを生み出すことでなくてはならない。そして、かかる創造 ---- それは真の「変化 ( changement )」あるいは「動き ( mobilit)」と言いかえてもよい ---- がなされることは、真の時間、「純粋持続」が経過することに他ならない。なぜなら、すべてが永遠不変の確たる法則性を持って決定されているところでは、時間の経過は無意味かつ無効であり、結局存在しないのと同じだからである。それゆえ、時間 t を一変数として含む数式で表わされた物理法則は、時間が何倍速く、いな無限に速く流れたとしても、相も変わらず妥当するであろう。時の経過が意味を持ちうるのは、何であれ予め決定されていない全く新しいものの生起がある限りにおいてのみである。さらに、創造があり、時の流れのあるところには、必ず「自由」がある。なぜなら、そこでは所与の既存条件によっては決して規定されない何かが起こっているからである。---- ベルクソンの言う「創造」が端的に意味するのは、以上のようなことである。ベルクソンによれば、われわれの意識的・精神的生のあり方は本質的に「創造」である。われわれの意識の各瞬間の諸状態は、さながら一つのメロディーのように互いに有機的に浸透し合っており、私の現在の意識状態は、過去の私のあらゆる意識状態を反映している。それゆえ各々の意識状態は、常にその都度全く新しく、二度と反復されることも、前もって予知されることもできない。つまり意識とは、精神とは、常にそれ自身が持っている以上のものをそれ自身から引き出すものであり、創造であり、自由である。同様に、意識的存在者をそのうちに含む宇宙、すなわち実在界そのものもまた、創造であり、自由である。宇宙の中では、あらゆる瞬間に真に新しいものが誕生し続け、宇宙は絶え間なくその姿を変える。それゆえ、絵具・画材・技法等の諸条件がすべて予め知られていても、画家がそこからいかなる絵画を描き出すかを、そのあらゆる独創的な点をも含めて予知することが不可能かつ不条理であるように、将来のある瞬間における宇宙の状態を、そのあらゆる独自の色合いに至るまで予知し尽くすなどということは、不可能かつ不条理なことであると言わねばならない。しかし、宇宙が創造であり自由であるということは、あらゆる実在がわれわれの意識と同じほどに自由な創造活動をなしつつある、ということではない。宇宙の中には物質が存在する。物質は惰性的・必然的な、言いかえれば創造性の稀薄な実在であり、物質に関わる出来事は反復可能・予知可能である。周知のように、ベルクソンは創造的な意識と惰性的な物質という二実在を、それぞれ上昇と下降という二つの運動にたとえた。すなわち、意識は打ち上げられたロケットや噴出した蒸気のようなものである。そしてロケットが燃え尽き、蒸気が凝結するとき、そこから直ちに燃え殻の、あるいは水滴の落下が始まるように、意識という上昇運動の中断は直ちに物質という下降運動を生み出す。それゆえこの宇宙において、意識は絶えず自己の燃え殻のような物質の抵抗を被り、自らの前進を妨げられながら、逆に物質の下降を遅らせつつ上昇を続けようとする運動、言いかえれば、惰性的物質の中に身を投じ、トンネルを掘鑿するようにこれを貫通しつつ、物質中に不確定性を導入しようとする自由な努力として現れているのである。それゆえ宇宙は、その中で創造的実在と惰性的実在が共存し闘い合いながら、全体としては創造的実在たる意識の努力によって絶えず予見不可能な新しい相貌を呈しつつある、と言うべきである。ところで、上述のようなものとしての意識、物質中に入りこみ、それを貫き、惰性的物質にそれ自身の不確定性と自由を導入・刻印するものとしての意識を、ベルクソンは生命一般の本質と見、これを「生の躍動 ( 四an vital )」と呼んだ。「生命の根底に存するのは、物理的な諸力の必然性に、可能な最大限の不確定性を接ぎ木するための努力」なのである。そして生命のかかる努力こそが、それなくしては一切の出来事が予知可能であり、したがって全き必然そのものであったろう世界 ---- 物質界に、予知不可能な思いがけない出来事や何か新しいものを生み出している。それゆえこの努力はまさしく創造である。ベルクソンが、生命とは創造の努力に他ならず、「生命の役目は創造することである」と述べるのは、このゆえである。 2. 生命の創造活動の二つの局面と人間性の本質さて、われわれはここで「創造」という語のベルクソン的用法に関して、ある重要な区別が必要なことに気付く。それは、生命の努力ないし活動としての創造、すなわち物質界へ不確定性を導入する働きとしての創造と、前節の初めに述べたような純粋かつ端的な意味における創造とが、その内実を異にしているからである。両者の相違は、先に述べた上昇・下降運動のたとえを用いて言い表わせば、後者が純粋な上昇そのもの、もともとの上向きのベクトルであるのに対して、前者は自己に敵対する下降運動に出会い、抵抗を受けて遅らされつつ下降を上界に転じさせる運動、上向きのベクトルと下向きのベクトルとの合成運動である、という点にある。生命の努力ないし活動としての創造は、ただひたすらなる「真に新しいものの生起」としての純粋な自由ではなく、自由と必然の総合、言いかえれば、物質の惰性に譲歩しそれ自身惰性を帯びつつ、逆に惰性的物質からも譲歩を引き出してゆく自由なのである。「生の躍動は絶対的な創造を行なうことはできない。なぜなら、それは自分の前で物質に、すなわち自分の運動とは反対の運動に出くわすからである。しかし生の躍動は、必然性そのものであるこの物質を捉える、そしてそこに可能な最大限の不確定性と自由とを導入しようとめざすのである。」この点を今少し掘り下げよう。生命として物質中に身を投じた意識は、なおもその上昇を続け、予知不能な真に新しい何かを生み出してゆく。この働きがなければ、そもそも生命には物質に挿入すべき不確定性の持ち合わせがないであろう。この意味において、生命の働きは純粋かつ端的な意味での創造を含んでいるのであって、だからこそ「創造」と呼ばれるのである。けれども、こうして生み出された不確定性や「新しさ」を物質中へ挿入するためには、生命は物質に適応し、取り入り、調子を合わせねばならない。言いかえれば、「自然の決定論が張りわたした網の目をすり抜けるために、この決定論を用いる」という働きを、生命は行なわねばならないのである。それゆえ、生命の活動としての創造には二つの局面がある。第一に、真の「新しさ」そのものを生み出す純粋かつ端的な創造の働きという局面。そして第二に、惰性的・必然的な物質界の法則に服従しつつ、これを逆用して物質にこの「新しさ」を刻印し、いわば「新しさ」に物的な形を成さしめる働きという局面である。「それゆえ、生命が新しい形態の創造へと向かう働きと、この形態がはっきり形を表わす働きとは、二つの異なった、しばしば敵対することのある運動である。」生命の活動としての創造のこの二つの局面が最も鮮明な形で見られるのは、われわれ人間が行なう創造的活動、すなわち発明や芸術的創作の仕事などの例においてであろう。かかる仕事に際して、われわれはまず、通例「着想」「霊感」「インスピレーション」等の語で表わされるような、その仕事の独創性の本質をなす「これまでにない何か新しいもの」を心の中に獲得し、次いでそれを所与の、あるいは既存の技術や素材を用いて具体的な発明品や作品へと形成し、表現し、制作する、というプロセスに従う。このプロセスの二つの段階が生命の活動としての創造の二つの局面に該当することは、きわめて見やすいことであろう。ベルクソンは、『精神的エネルギー』所収の「知的努力」という論文と、『二源泉』の中のいくつかの箇所とにおいて、人間の創造的活動に現れたこの二つの局面について、克明な叙述を行なっている。 ( i ) まず「知的努力」の中では、「着想」「霊感」「インスピレーション」に当たるものは「動的図式 (sch士a dynamique) 」と呼ばれ、具体的な発明品や作品に当たるものは「イマージュ」と呼ばれている。動的図式はいわば「理想、言いかえればある獲得された結果」であり「それを実現することが問題である目的」であって、われわれはそこへ「一飛びに身を移す」(第一の局面)。しかしこの図式は、このままでは単純で抽象的な「手段なき目的、部分なき全体」にすぎないので、今度はこれを諸要素の判明なイマージュという具体的なものへと物質化する過程、すなわち「飛びこえた間隙をみたし、改めてこの同じ目的に、今度はそれを現実化する諸手段の連続的な道筋をたどりつつ、到達するための試み」が、それに続かねばならない(第二の局面)。その際、動的図式はイマージュの逆作用を受けて変容をとげながら、イマージュを呼び起こす作業に常に現前して働き、仕事が終わると呼び起こされたイマージュの背後の消えてゆく。 ( ii ) 次に『二源泉』においては、「動的図式」に該当するものが「創造的情動」と言いかえられている。この情動は、芸術や学問における偉大な創造の起源に必ず存する、その分野において唯一独自の新しい情動であり、「ある特定の問題を解くことの、前もっての喜び」であって、われわれの精神は創造に際し、この「一にして同時にかつ唯一独自と見えるもの」へと一挙に身を移す (第一の局面)。次いでこの「表現不可能と思われながら、表現されようと欲」する情動は、予め与えられている多にして共通な要素へと何とかして自己を繰り広げようとし、作者はこれら既存要素を配列し選択し組みかえるという作業を通じてこの表現を試みる(第二の局面)が、その間作者は絶えず創造的情動へと遡り、作業の進むべき方向をこの情動に求めるのである。付言すれば、上述の過程と似た過程は、発明や学問や芸術的創作ばかりでなく、他のさまざまなレベルの独創的行動にも見られることが、「知的努力」の中で示されている。ところで、このように人間の活動のうちに生命の活動としての創造の二つの局面がそろって現れることは、生命界における人間の「特権的状況」をなすものであり、人間性とはまさにこの点にあるとベルクソンは言う。なぜなら、人間以外の諸生物の活動には、意識の自由な働きによる純粋な創造性の発揮が見られず、それゆえ第一の局面が欠如していることは明らかだからである。それは、人間以外の諸生物が全く物質的作用のみからなる惰性的存在だ、という意味ではない。生命として物質中へ身を投じた意識は、物質の抵抗と戦いながら進んでゆく過程で、幾多の分裂や逸脱や停滞を被り、生物進化の系統図が示すような、複雑多岐な進化路線と種々雑多な生物種を生み出した。これらの生物種はいずれも、それらが生み出されるまでに生の躍動が物質との対決の中で獲得した創造の成果であり、生命の本質たる自由と創造性は、芸術作品のようにその出現以前は予知不可能な無数の種の形態が出現したということ自体のうちで達成されているといえる。しかし、個々の生物個体を見ると、その活動や行動は状況に応じて自動的に反復されており、自由な選択や創意に基づく活動・行動は一般に見られない。そこでは、自然の決定論の網の目をすり抜けるためにこの決定論を逆用しようとした意識が、かえってこの網に捕えられてしまっている。言いかえればそれら諸生物の活動は、その生物種を生み出すという働きにおいて生の躍動がもたらした「それまでにない新しさ」を、物質界の惰性的メカニズムに順応した活動を通じて物質界に印しつづけるという、生命の活動としての創造の第二の局面の働きしか含んでいない。しかし人間においては、ただ人間においてだけは、生命の本質たる意識がその本来の純粋な創造性を発現させている。この特殊な意味において、人間は生命進化の目的であり、生命界全体の存在理由であるとさえ、ベルクソンは言う。人間の人間たる所以、人間性の本質は、生命の活動としての創造の二つの局面がその活動・行動の内にそろって現れうる唯一の生物種であること、言いかえれば、一人ひとりの個人が自己の内なる精神的創造と、それに基づく外なる物質界の創造的改変とを通じ、絶えず新しい何かによって自己の精神と外の世界とを豊かにしつづけることのできる存在者であるということに、存するのである。 3. 知性と社会上述のような人間性の本質は、人間の認識能力と生活の基本構造にもはっきりと刻印されている。人間を他の生物から区別する根本的特徴として、前者が「知性的動物」であり「社会的動物」であるということがしばしば言われてきたが、人間の知性と社会の本性に関するベルクソンの議論は、この二つが人間性の上述の本質と深く結びついたものであることを明らかにしている。知性とは何か。第一に、認識のありかたとしての特色という点から言うと、知性的認識は一切の変化や動きに目を塞ぐような「ものの見方」である。知性は変化や動きを、不変不動な諸状態や諸要素の並置・配列としてしか捉えようとしない。これらの諸状態や諸要素は、実は不断の変化・動きに対して外部から間をおいて飛び飛びにとられた「眺め」でしかなく、変化・動き自体はそれらの間の移行にこそ存する。しかしこの移行は、決して知性の捉えるところとはならない。その結果知性にとっては、時間もまた不動な諸瞬間の連鎖にすぎないことになる。知性はかかる諸瞬間の対応関係や同時性に着目し、それを数えあげて時間を量的に処理することに関心を示し、瞬間から瞬間への間隔としての時の流れそのもの、すなわち純粋持続に対しては無関心である。かくて、知性によって認識された世界は、フィルム上の不動なシーンが一コマ一コマ提示される映画の如きものとなり、そこには真の時間がないために、映画のあらゆるシーンが予めフィルムに写されてあるのと同様、過去・現在・未来の一切の出来事は予め与えられてしまっており、いかなる創造もないかのようである。ここから第二に、知性的認識の持つ限界が明らかとなる。それは、創造そのものである実在一般、わけても意識と生命は、知性によっては正しく捉えられない、ということである。知性が正確な、相対的でない認識を行なうことのできる対象は、その惰性的・非創造的本性のゆえに知性の分節に適合する実在、物質のみである。もっとも、物質とて完全に無持続・無変化なのではなく、ただ著しく弛緩した持続と変化しか持たないというにすぎないので、その認識は相対的ではないとはいえ、近似的性格を免れないともベルクソンは言っている。それでは、かかる知性は一体何をその本質的機能とするのか。それは、われわれが物質に働きかけ、これを操作するための手段という機能以外にはない。惰性的・必然的な物質を支配し、創造的活動の素材とするためには、われわれは物質のかかる性状に適応する必要がある。知性とはまさにこの適応に他ならない。言いかえれば、知性はわれわれの創造的活動における第二の局面の手段である。ベルクソンはその諸著作の中で、知性とは行動や製作を導くものであって、その本領は思弁や純粋認識にではなく実践にある、というテーゼを倦むことなく繰り返しているが、これはまさしく知性が上述のような本質的機能を持つことを述べたものであって、「行動」「実践」という広い意味を持つ語は、この場合は人間の創造的活動における第二の局面としての対物質的活動という意味に解されなければならない。次に社会について。知性の場合に比べると、ベルクソンが社会生活の意義や機能に言及した例は少ない。しかしその数少ない言及箇所で彼は、社会が製作や行動の能率を高めるという実践的機能を持つことを仄めかしている。実際、人間が製作や行動を通じて物質界を改変しようとするとき、各人が自分一人の力にしか頼れないとしたら、実現可能なことはごく僅かであろう。しかし、一人では岩一つ動かせない人間も、多数が協力すれば山を崩し大河をせきとめることができる。社会生活は、物質に対する人間の影響力を飛躍的に高めるのである。したがって社会生活の本質的機能は、人間の創造的活動における第二の局面を支え、その能率と能力を高めることにある。知性と社会性という人間の二つの根本的特徴は、創造的活動の第二の局面の遂行という共通の目的によって一つに結びついているのである。しかし先に明らかにしたところでは、ベルクソン哲学において、人間性の本質は生命の活動としての創造の二つの局面を共に行ないうる唯一の生物であることにあった。それならば、その第二の局面 ---- これは他のあらゆる生物もまた行なっている ---- に役立つにすぎない知性と社会性が、どうして人間種の根本的特徴とされうるのか。その答えは、知性を本能と、人間社会を膜翅類社会と対比することによって明らかになる。ベルクソンによれば、知性と本能は惰性的物質に対する働きかけの二つの異なった方法であり、生の物質から何物かを獲得するために道具を用いる二つの手段である。言いかえれば、本能もまた知性と同様、生命の活動としての創造の第二の局面の手段という機能を持つ認識能力である。両者の違いは、本能の用いる道具は動物有機体の一部であり、その結果本能は動物の活動を身体機構に規定された閉鎖的・固定的なものにしてしまうのに対し、知性は無機的な道具を絶えず新たに製作して用いる能力として、製作者の活動を自由と創意に対して開かれたままにしている、という点にある。つまり知性は、生命の活動としての創造の第二の局面の手段でありながら、第一の局面を遂行する心的活動を排除してしまわない点を特色とする。そして本能と知性の発達は、それぞれ節足動物と脊椎動物という動物進化の二大主要路線に沿ってなされ、その進化の頂点で膜翅類と人類に到達したが、進化の傾向はともかく成果としては、いずれの路線から出た動物もその対物質的活動を圧倒的に本能によって制御されており、ただ人間においてだけ、知性が優位に立っているのである。さて、上述の二大主要進化路線の頂点に位置する膜翅類と人類は、いずれも高度な社会生活を営む。しかしこの二種類の社会の間には、本能と知性との違いに対応した違いがある。蟻や蜂の社会においては、個々の成員はその行動を発達した本能によって完全に制御され、一つの有機体の諸細胞さながらに、個体としての自由な活動のいかなる余地もなく、それゆえ社会の形態は本質的に不変である。これに対して人間社会は、その成員が本能によらず知性によって、それゆえ独創性発揮の可能性をもって行動するような社会である。したがって、それは個々の成員にある程度の自由を許し、社会自身の形態も、その中に住む人々の創意のふくらみに対して絶対的桎梏にならないだけの可変性を持っている。それゆえ人間社会についても、その特色は知性と同じく、生命の活動としての創造の第二の局面に役立つことを機能としながら、個々人が第一の局面を遂行することを不可能にしない点にある。この意味において、知性と人間社会は前節で示した人間性の本質と深く関連した人間の根本的特徴と言ってよい。 4. 人間性喪失の危険性しかしながら、知性と人間社会の上述の特色は、ややもすれば失われやすい、非常に危い特色である。なぜなら、物質の惰性に調子を合わせることを本領とする知性が、精神の自由な独創を妨げないことも、諸成員を統制して共同の目的へと束ねることを本領とする社会が、個人に自由の余地を残すことも、共に一種の自己矛盾を孕んだ微妙な働きだからである。ベルクソンは「知的努力」の中で、 ( i ) イマージュの他に常に動的図式の表象を伴って行なわれるような知性の働きと並んで、 ( ii ) 固定した輪郭を持ったイマージュだけに対して働き、過去の単なるやり直しか、過去の諸要素のモザイク的組み換えのみを事とするような知性の働きがあることを述べている。 ( i ) は、個人の精神が創造的活動の第一の局面を行なった結果生み出した「新しいもの」を物質的に表現し製作するという本来の第二の局面の働きであり、ここでは知性は人間の創造的行為への忠実な奉仕者である。しかし ( ii ) は、「新しいもの」抜きに物質的対象を操作し既存のものを反復的に製作するという惰性的な働き、第一の局面なき第二の局面であって、知性は人間の創造性に敵対してしまっている。さらに『二源泉』では、この二つのケースが文筆を例としていっそう具体的に述べられる。 ( i ) のケースは、創造的情動を抱き、絶えずそこへ遡りながらなされる文筆であって、この場合著作者の知性は、この唯一独自の情動を言語という既存の素材によって何とか表現しようとして、冒険的な苦闘を繰りひろげる。 ( ii ) のケースは、先人の仕事や社会通念から摘みとられた出来合いの諸観念を配合し直すだけの文筆であって、安全・確実なやり方ではあるが、これではいわば「年収の増加」にすぎず、知性は「同じ元金、同じ有価証券で食べ続けている」だけである。 ( ii ) のような働き方は、いわば知性の独り歩きであり、かかる知性は、人間精神を惰性に陥らせ、人間性の本質そのものを逸失させ、人間活動を他生物と同質のものにおとしめるものになっている。社会にもまた同様な危険が見られる。人間社会は知性的動物の形成する社会という意味では知性的社会と言いうるが、本能的動物の社会である膜翅類社会がまさに本能の力によって社会として維持されているのとは異なり、人間社会を社会として維持・保存する力は知性の力ではない。社会的結合の維持は、個々の成員をその成員自身の自由な意志に委ねず、集団の共同的意志の下に従属させることによって可能となるのであるから、個々人の自由に道を開く点に本能と異なるその固有の特色を持つ知性は、むしろ社会的結合の解体力であって、その維持力の役割を果たすことはできない。膜翅類社会では本能が果たしているこの役割を、人間社会において果たしているのは習慣である。ただしそれは、社会の限りない個々の要求に応じる個別的・偶然的習慣ではなく、それらの習慣を身につける習慣、社会の要求ないし命令一般に従う習慣である。これをベルクソンは「責務の全体 (tout de l寶bligation) 」と呼ぶ。この「責務の全体」としての習慣の圧力 ( pression ) こそは、個々の社会的な道徳的責務にその拘束力を付与する根本の力であり、この圧力を拘束力の本質とする道徳は、「閉じた道徳 (morale close) 」と呼ばれる。ところでこの「閉じた道徳」は、本能とは異なるとはいえ、社会の維持・保存のための圧力として本能に匹敵する力を発揮する。それゆえこの道徳は、これと対抗する他のある力によって抑制されることなく生のままの純粋な状態で機能するならば、個人の自由と創意を排除し、厳格な規律をもって個々人を統制する、強固な固定的社会を形成するであろう。かかる社会を、ベルクソンは「閉じた社会 (soci師close) 」と呼ぶ。このように、人間の創造的活動の第二の局面の重要な支柱である社会は、社会の維持・保存を可能とする「閉じた道徳」の力のゆえに、本能的動物の社会と似た社会に変質し、個人の自由な創意を圧殺して創造的活動の第一の局面の遂行を不可能にすることにより、人間性の本質を失わしめる危険を、常に孕んでいるのである。 5. 現代世界の危機 ----� 科学・機械文明・産業主義の異常増殖知性の独り歩きによる人間性喪失の危険について、今少し具体的に考察しよう。ベルクソンはこれを、『二源泉』の第四章において、科学の急速な進歩に基づく機械文明 ( machinisme ) と産業主義 ( industrialisme ) の問題として捉え直し、先見性に富んだ洞察を示している。われわれも彼に従って考えよう。科学は発達した人間知性の営みであり、第3節で知性の特色・機能として論じたことは、そのまま科学にもあてはまる。科学は、時には生命や精神をその対象とすることもあるが、その場合、生命や精神をその本質たる持続と創造性において捉えるのではなく、物質的対象との類比によって相対的に認識するにすぎない。また科学は、しばしば物質の純粋認識に徹しようとするかに見えるが、しかしそれは当面の直接的関心においてのことにすぎない。畢竟、科学は知性の働きを大幅に推し進めたものであり、その本来の役割は、物質を、それに対するわれわれの影響力・支配力を拡大することをめざして認識することにより、われわれの行動・製作を助けることにある。それゆえ、科学は必然的に技術と結びつき、その急速な進歩の結果、ついに今日見られるような高度の機械文明を生み出すに至った。機械文明はわれわれに、生得の有機的身体とは到底比較にならないような強大な威力を持ったもう一つの身体器官を与え、これによって、物質を操作し支配するわれわれの能力は想像を絶するほどに拡大され、強化された。このように、科学と機械文明は、創造的活動の第二の局面における強力無比な援兵として、人類の前に立ち現れたのである。しかしながら科学と機械文明は、人間にとって有益な役割のみを果してきたわけでは決してない。それらはその驚異的な生産力によって、われわれの欲求を次々にみたし快適さをもたらしてはくれたが、まさにそのゆえに、かえってわれわれの欲求を加速度的に、際限なしに増大させ、われわれ人間をして、物的欲望の満足と便利・快適・快楽の追求とに血道をあげしめるという事態を招いた。その結果台頭したものは産業主義であって、それは真に役立つものよりも売れるものを作ることに専念し、万人が等しく必要とするような物質的障害からの解放 ---- 飢餓・貧困・人口過剰・自然災害などの克服 ---- をなおざりにしたまま、なくてもすむ奢侈・娯楽や過度の安楽に対する欲望を人為的に助長し、一部の人間にだけこれらを無際限に提供し続けるという、重大な倒錯と不公正をもたらした。科学・機械文明・産業主義は、いわば人間性の論理の要求 ---- 万人が安全な生存の保障の下に創造的活動の二つの局面を遂行しうるように、という要求 ---- を無視し、それ自身の論理に従って勝手に独走し、それ自身の自己目的的発展の奔流にわれわれを引きずり込んだのである。かくてわれわれは、物質支配の手段たるべきものによって逆に支配され、人間本来の創造性と自由を喪失し、自らの本質を見失ってしまっている。ベルクソンの死後半世紀以上を経た今日、われわれは産業社会に対する彼のこの批判の先見性に、改めて思いを致さずにはいられない。今日の世界においては、物的な不自由に苦しむ生活を送る人々がなお多数に上り、その中には食糧や薪炭などの基本的な生活必需物資にすら事欠く者も少なくない一方で、比較的少数の「先進」国民が、モノやエネルギーの大量消費に明け暮れる日々を過ごしている。この大量消費は、人間生活の質を有意義に高めるための実質的必要に根差したものでは決してなく、モノやエネルギーの生産・流通・供給に関わる諸産業の利潤のために、産業社会とその代弁者たるマス・メディアが大衆の欲求・嗜好・感性・通念の操作を通じて人為的に作り出した「消費のための消費」に他ならない。「先進」国の大衆は、かかる大量消費が地球環境への重大な加害や資源の涸渇を招くことを感知しつつも、それを思い止まる決断を下すことが非常に困難な状況の下に置かれ、自らはそうと気付かぬままに大量消費を強いられている。ベルクソンは産業社会の嗜好を象徴する奢侈として、肉食中心の食事と自動車の所有とを挙げているが、今日いみじくも食肉と自動車の大量生産・大量消費は、さまざまな不公正、再生不能資源(化石燃料エネルギー)の過剰な使用、環境への甚大なダメージ ( 温暖化・森林破壊・大気汚染など)その他の代表的原因として多大なデメリットをもたらしていることが専門家によって指摘されながら、大衆の求めに応じて飽くことなく続けられている。われわれはこれらと同質のものとして、クーラーやパソコンなどの種々の電化製品、ファッション製品、旅行産業その他を付け加えることもできよう。いったいなぜ、大衆は一切のデメリットに目をつむってこれらのものの大量消費に執着するように駆り立てられるのか。何のために、社会は ( 例えば自動車道路網の拡張によるモータリゼーションの推進のような ) 公的政策を通じてかかる消費を助長し、マスメディアはこれらの消費のもたらすデメリットについてはほとんど黙したまま、その利便のみを声高に宣伝し続けるのか。それは、需要の人為的確保によって関連諸産業の利潤を守り、産業社会の「繁栄」を保つためでしかないのである。その結果人々は、これらの多様かつ高価な消費財の獲得のために、多忙とストレスに満ちた苛酷な生活を強いられ、いわば産業の繁栄 z隷と化し、自由な創意に基づく創造的活動の余地などすっかり奪われてしまっている。これが科学と機械文明と産業主義の自己目的化でなくて、また手段と目的の逆転でなくて、いったい何であろうか。かかる事態を私は、ベルクソンの用語の転用によって、科学・機械文明・産業主義の「異常増殖 ( prolif屍ation )」と呼びたい。ただし、この転用については多少の弁明が必要である。ベルクソンがこの語を用いたのは、彼のいわゆる「静的宗教 ( religion statique )」のうちに見られる、種々の荒唐無稽な迷信・禁忌・魔術等の氾濫について語るときである。彼によれば、知性的生物である人間は、利己的行動に走って社会を解体の危機にさらしたり、自己の死の不可避性の表象や不測の偶然的原因による自己の行動の失敗の可能性の表象によって、生活や行動への意欲をそがれたりするという、他の生物にはない固有の危険を持っており、静的宗教の根幹を形作る種々の宗教的表象は、元来、かかる危険に対する防衛機構という積極的で有益な役割を担っている。しかしこの宗教的表象は、しばしばこのような本来の目的とは無関係に勝手に自己拡大し、際限なく誇張され複雑化してゆくことによって、いわゆる未開社会のうちに見られるような、不合理で奇怪で度外れな迷信や禁忌や魔術を生み出すに至り、これらは何の役にも立たないどころか、人間生活を呪縛し、あらゆる不便を忍んででもそれら自身に奉仕するよう人間を強制しているかのような観を呈している。この現象を、宗教的表象の「異常増殖」とベルクソンは呼ぶのである。ところでこの現象は、現代の科学・機械文明・産業主義が、人間の創造的活動の協力者としての本分を逸脱して限りなく自己拡大し自己目的化してゆく有様に、驚くほど酷似していないであろうか。いや、それらは単に似ているばかりでなく、本質において同一の現象だといえる。なぜなら、それらはいずれも、社会的生・日常の生活および行動・対物質的な活動といった人間の創造的活動の第二の局面をなす活動を、支えることを本来の役割とする人間精神の所産が、その役割を超えて独り歩きし、人間を呪縛・支配して創造性の発揮を妨げているという現象に他ならないからである。それゆえ、現代の科学・機械文明・産業主義の状況を「異常増殖」と呼ぶことには正当な理由がある。それらは今や、いわゆる未開社会の人々にとって度外れな迷信・禁忌・魔術の類が持つのと同じ意味を、現代文明社会の人間にとって持ちつつあるのだ。 6. 現代世界の危機からの救済 ----� 神秘主義の第一の意義かかる状況から人類を救い出す道はないものか。それを知るためには、文明社会がいかにして宗教的表象の異常増殖を回避しえたかを知ることがヒントになろう。ベルクソンによれば、それは少数の卓越した先導者の創意に、間をおきながらも社会全体が追従し、度重なる革新への努力によってその質的水準を高め続けたことによってである。社会や集団によって、ある有益な目的をもって始められた行為が、その目的を離れてそれ自身の威信によって惰性的に続けられる悪しき慣習と化そうとするとき、これに反対し、その行為の当初の目的を思い起こさせ、この目的にいっそうよくかなった新たな行為を提唱することによって異常増殖を防ぐのは、かかる少数の先導者である。それならば、科学や機械文明や産業に関しても、その異常増殖に立ちはだかり、それらを本来の役割と正しい方向へと立ち返らせ、人類にとって真に有益なものたらしめる先導者が現れる可能性はないであろうか。ベルクソンはこの問いに肯定をもって答え、その先導者とは「神秘家 ( le mystique )」であると主張する。『二源泉』において、真の神秘家とは、その魂が神の働きに浸透され、それと全面的に一体化しているような人、あるいは、種の物質的限界を越えて神の働きを継続し延長する個性的人格、と規定されている。ところで、ここに言われている「神」とは何であろうか。『創造的進化』によれば、神とは「生命の無限な貯蔵庫」であり、物質を貫く意識の上昇運動がそこから噴出する源に他ならない。言いかえれば、神とは生の躍動の根源そのものであって、それゆえ真の神秘家とは、この根源へと遡り、欠けるところのない完全な生の躍動、創造的努力の本質そのもの、言いかえれば、物資の抵抗に会う以前の意識の純粋な上昇力そのものを、自己の魂の働きとして体現した人なのである。あるいはまた彼らは、「地球の中心にある火が火山の頂上にのみ現れる」ように、生の躍動が物質に妨げられながらめざしている生命進化の理想的頂点に立つ存在者である、と言ってもよい。「真の神秘主義 ( le vrai mysticisme ) は、物質を貫いて突進した精神の流れが、おそらく行きつこうと欲したが、行きつけなかった点に位置する。」ちなみに、『二源泉』において、神の本質そのものであるこの混り気のない上昇力、一切の抵抗を捨象した十全な創造の働きが「愛」と呼ばれ、神秘家の体現する神的な愛としての全き生の躍動が「愛の躍動 ( 四an d宦mour )」と呼び換えられていることは、周知のことであろう。かかる存在としての神秘家は、何ゆえに、科学・機械文明・産業の異常増殖を阻止し、それらに従属した人類をその本来の生き様に連れ戻す先導者たりうるのであろうか。それは、人類がかかる異常増殖に呑み込まれた結果目を塞がれ忘却してしまった自己の人間性の核心、すなわち真に「新しい」ものの自由な創造という働きを、彼ら神秘家が自己の存在するという事実そのものによって、最も混り気のない姿で生き生きと体現し、いかなる物的障害も物ともせずにひたすらその神的人格の個性に従って振舞う英雄的行動によって、これを人類の目に焼きつけるからである。科学のための科学、機械のための機械、産業のための産業の発展に奉仕し、その代償としてそれらが次々に得させてくれる利便と快楽を際限なく享受し追い求めること以外になす術を知らなくなってしまった大衆に、人間らしい生とは自由な創意ある生であること、科学・機械文明・産業やそれらのもたらす種々の利便は畢竟かかる生の補助手段に他ならず、それを離れては無価値であることを、神秘家は身をもって示し、悟らせるのである。いや、単に悟らせるのみではない。彼らは人類を、実際に創造的な生活や行動へと駆り立てる力さえ持つのだ。既述のように、芸術家や発明家の精神のうちで真に新しい何かが創造されるとき、それは創造的情動という形をとる、と『二源泉』は主張する。とりわけ神秘家の体現する純粋な創造の働きは、可能な最大の創造的情動を発する。そしてそれは、神秘家の周囲のあらゆる人々へと広がりゆき、これらの人々のうちに、神秘家に倣い従わずにはいられぬ熱望 ( aspiration ) を惹起する。なぜなら、情動のうちには常に行動の要求があり、情動に浸透された者は、抗し難い傾向性の力により、この情動に従って行動せずにはいられないからである。それは、楽曲がそれを聴く人々を、ダンスの輪の中へと引き込まれる通行人さながらに、その楽曲固有の情動へ引き込むさまに似ていると、ベルクソンは言う。いわば神秘家は、その存在自体が人類を創造的生へと呼び招く魅力 ( attrait ) ないし引力 ( attraction ) であるような存在者である。人類は、神秘家のかかる力によってこそ、人間本来の創造的生に目覚め、そこへと復帰するのであり、その結果科学・機械文明・産業は、人類を不当に支配する僣主の座から、人間の創造的活動の第二の局面の援兵という正当な地位へと退くのである。この意味で神秘主義は、それらの異常増殖を本質とする現代世界の危機を、根本的解決に導くという意義を持つといえる。 7. 人間社会の変革 ----� 神秘主義の第二の意義われわれは先に、人間社会が未開状態に停滞することなく文明社会へと発展しえたのは、少数の先導者の創意に社会全体が従い、革新への努力を重ねた結果だ、というベルクソンの主張に言及した。この先導者とはいかなる人々か。今やそれを明らかにすべき時である。第4節に論じたように、人間社会の結合・凝集を維持する力は、「責務の全体」と呼ばれる一種の習慣の圧力であり、この圧力は、そのまま放っておけば、個人の自由と創意を排し、新しさや変化を受けいれない固定的社会を形成する。かかる社会の行きつくところは、いわゆる未開社会 ---- 自己目的化した多くの迷信や禁忌に囚われ、その体制や生活様式には長い間進歩がなく、ごく小規模な集団で、内に対しては専制的、外に対しては常に戦闘的な社会 ---- のような社会である。それゆえひとたび文明化したわれわれの社会も、この圧力のみによって生きるようになれば、自己目的化した科学や機械文明や産業のもたらす利便と快楽に囚われ、既成の制度や既得の利権を他の社会から守ることに熱をあげ、成員の自由を抑圧し、科学技術の力を用いて互いに戦い合い滅ぼし合うような社会に堕するであろう。この事態を避けるためには、既述のように、習慣の圧力に対抗する別種の力がなければならない。この力こそは、「閉じた道徳」に対して、「開いた道徳 ( morale ouverte )」の本質をなすものである。この力はいかなるものか。それは他でもない、神秘家の体現する創造的情動の力である。神秘家の存在に接してこの創造的情動を吸い込んだ人々が、楽曲を聴いてそれに固有の情動へと引き込まれる人のように、抗し難い傾向性によってこの情動に突き動かされ、神秘家に倣おうとする欲望ないし憧憬を抱くということに関しては、既に言及したところである。このいわば神秘家の人格そのものから発せられる魅力ないし引力こそが、「開いた道徳」の持つ人を従わせる力の根本性格であって、それは「閉じた道徳」の圧力という性格とは対照的である。しかもこの創造的情動は、物質の障害を捨象した欠けるところのない生の躍動、すなわち純粋にして十全な創造の努力そのものから発するのであってみれば、それは真の変化と革新の響きそのものであり、これが社会の保存と固定化・不動化をめざす「責務の全体」の力に抗して、社会の進歩・変革へと人々を駆りやる力たる所以も明らかであるといえよう。それでは、「開いた道徳」の力による社会の進歩はどのようにして行なわれてゆくのか。それを明らかにするためには、「閉じた」ものと「開いた」ものとの関係を述べた、ベルクソンの次の言葉に注意しなければならない。「 (動的) 図式は、開いた状態において、イマージュが閉じた ( ferm) 状態においてあるその当のものである。図式は、イマージュができあがったものとして静的状態でわれわれに与える当のものを、生成の観点から動的に示している。図式はイマージュの喚起という仕事のうちで現前して働き、その作品が完成されたあかつきには、ひとたび喚起されたイマージュの背後に消えて行く。」すなわち、社会の進歩は芸術作品の創造と同様な一つの創造なのであり、「閉じた道徳」の力によって維持・保存される「閉じた社会」は、イマージュ化された現実の社会であり、いわばできあがった作品である。これに対して、神秘家は、その人格から発する情動の力、すなわち「開いた道徳」の力によって、人々を「開いた社会 ( soci師ouverte )」へとさし招くと言われるのであるが、この「開いた社会」とは動的図式の状態における社会、実現されるべき新しい社会のインスピレーションに他ならず、それを思い描く神秘家は、新しい社会の創造という仕事における第一の局面の遂行者である。さらに、彼の発する情動に動かされて彼につき従う人々は、この動的図式の実現=イマージュ化、すなわち新しい社会の現実世界における建設という、社会創造の第二の局面 ---- 神秘家一人ではこれを成し遂げることはできない ---- を、その集団的行動により遂行する。ただし、この新しい社会も、ひとたび現実のものとなれば、「閉じた道徳」の力によって維持される「閉じた社会」と化し、「開いた社会」は決してそのまま実現されることはなく、できあがった「閉じた社会」の背後に消え去る。それゆえ実現されたこの新しい社会もまた、やがて次なる創造によってさらなる新しい社会へと変革されねばならない。この繰り返される変革のダイナミズムを失ったが最後、そこにはいわゆる未開社会が陥ったような、また現代社会も陥る危険にさらされているような、因習と停滞と異常増殖の支配する、非人間的社会が出現する。したがって神秘家は、人間社会が絶えざる自己変革によって人間的・創造的社会であり続けることを可能にする原動力であり、真の革命家であって、神秘主義とは社会革命の原理に他ならない。人間社会が、長い歴史を通じてともかくも今日に見るような民主主義的近代社会へと進化し来ったのも、神秘主義の力があればこそであり、また今後さらなる進歩によって、科学・機械文明・産業主義の異常増殖の産物たる資源・環境危機や核戦争による絶滅の危機などを克服しつつ、より多くの人々に真の創造的・人間的生を可能にする高次の創造的社会へと生まれかわるためにも、神秘主義の力が欠くべからざるものであることを、ベルクソンは示唆しているのである。 (ほんだ　ひろし　龍谷大学非常勤講師)