ジョン・ハリス 「遺伝子治療は優生学の一形態か?」

John Harris:Is Gene Therapy a Form of Eugenics ? :Bioethics, Vol.7, No.2/3 1993. pp.178-187

キーワード

  1. 遺伝子治療(Gene Therapy)
  2. 優生学(Eugenics)
  3. 障害(Disability)
  4. 遺伝的素性(Genetic Origins)

ヒトゲノム解析の発展により、ある種の「障害」を引き起こす遺伝子的「欠陥」が突き止められる。次にその知識を用いて欠陥を修復することによりその障害を治療したり、また予防する道も開かれてくる。遺伝子治療は障害を改善するかぎりで望ましいといえる。けれどもそうした遺伝子治療は、たんなる治療を超えて人間の恣意的な改造をはかる技術になりはしないかという危惧が生ずる。また、ゲノム解析の結果を応用して「欠陥」のある遺伝的素質を排除しようとするとき、生殖の権利の制限、胚・胎児・新生児の選択的抹殺につながりはしないか。そうした方向をかつてたどった学問ないし思想に優生学があり、批判の的となってきた。本論文の筆者ハリスは、遺伝子治療はそうした悪名高い優生学の一形態なのか、と問いをたてる。ただし、ハリスは狭義の遺伝子治療に限定せず、遺伝学的知識の増大がもたらす種々の倫理問題を広く扱っている。また優生学的発想についても、旧来の観念にとらわれず平明に定式化しなおしつつ、柔軟な思考を示している。そこで、以下この論文の内容を紹介する。


ハリスは冒頭に、優生学にかんする2つの引用を置く。ひとつは『オックスフォード英語小辞典』からであり、それによれば優生学とは優良な(fine)子孫を産み出すことにかかわる科学である。他は優生学の祖とされるフランシス・ゴールトンからであり、彼によれば、現在、人類の血統を改良することが緊急の課題になっている。現代文明を支えていくに足るだけの能力を現代人は持たなければならないからである。

「遺伝子治療は優生学の一形態か?」という問いについて、2つの答え方がありうる。「そうだが、それがどうした」という答えと、「違うので、心配ない」という答えである。ハリスは、優生学にかかわらないかぎり、遺伝子治療に倫理的問題はあまりないと考えている。それゆえ、後のような答え方ができるのなら問題はない。さて、この優生学を『オックスフォード英語小辞典』流に捉えるかぎり、前の答え方ですみそうである。しかし、ゴールトンの立場では遺伝子上の問題を抱えている人は子を作ることを抑制すべきだということになる(ルース・チャドウィックはそう解釈する)のなら、そうはいかないし、遺伝子治療を支持する人はむしろ後の答えを模索しなければならないようにも思われる。

ここで焦点になるのは、「優良児」を産み出す目的である。「優良」とは、正常という程度なのか、それともできるだけ優良ということなのか。遺伝子治療と優生学のかかわりを倫理的に問うとき、2つの論点が出てくる。ひとつは、「機能不全の除去ないし修復(to remove or repair dysfunction )」と「機能の増進(to enhance function )」を区別すべきかという論点であり、他は、遺伝子治療は技術的になにか道徳的問題をはらんでいるかという論点である。以下、4項目にわたって検討する。

(1)道徳的連関

優良な子、障害のない子を望むのは自然であり、そうした希望、願望をよくないと考える人はいないように思われる。ただ、現実の場面で、そうした希望や願望があるのに、それを確かなものにするステップを踏まない人がいるとすれば、どうであろうか。そのステップが道徳上認められるものであれば、受けるのがよいといえよう。たとえば体外受精では、普通5個ほどの受精卵を得て、そのうち2ないし3を胎内に着床させる。その際、あるものに障害があることがわかれば、それを避けて別の胚を用いるのがよくはないか。ただし、こうした判断は、障害は望ましくないという前提に立っているわけである。

(2)障害とは何か

障害とは何かを定義するのは難しい。それは、我々がそうなるのを望まないような身体的または精神的状態であり、危害を受けた状態(harmed condition)であるともいえる。そうした状態に立ち入りそうな人がいれば、それをとどめようとするのがよしとされる。しかし、どのようなときに障害(disability)や侵害(injury)をこうむったといえるのだろうか。たとえば命を縮めるようなことをされたり、なにかの感染を受けやすくされたとき、障害や侵害をこうむったと言えそうである。それにより傷つきやすさ(vulnerability )が高まり、自由な行動が制限されることになる。

以上の点は、我々は病気を治療する、つまり正常な機能を回復させる義務はあるが、正常な健康生活を増進する(enhance )義務はないということに大きくかかわってくる。機能増進は許容されてもそうする義務はない。もっとも何を健康生活とするかは技術や医療の進歩に相関していて、たとえば破傷風にかからないというのは、現在では健康生活の必要条件である。またエイズの病気進行を止める最良の方法が遺伝子治療ということになったときには、そうした遺伝子治療は許容できるというよりも、なすべきものとなるかもしれないのである。たとえ治療法が優生学的である場合でも、それをやめて人々が何かの損傷に苦しむままに放置してよいということにはならない。

我々の採る障害の概念は、その境目について不確かなところがあるにしても、次の点をはっきり捉えている。すなわち障害はなにがしか能力を失わせるものであり、当人にとって危害になること、そのように能力を失わせたり、その能力喪失を取り除くことができるのにそのままに放置するのは当人に危害を加えるに等しいこと、である。こうした障害概念の利点は、第1に正常という概念を用いない定義であること、第2には当人が承認するか否かに依存しないため、潜在的な自己意識しかない人にもこの基準で対処できることである。

これをもってすれば「健康優良児を作ろうとする試みは不当である」とする非難を、ある面で和らげることができる。不当性についてはしばしば2点指摘され、それらは相関している。ひとつは障害者やその団体、彼らの支援者から出されるものである。他はそうした方策を優生学的統制だとレッテルを貼りたがる人たちから出される。障害者団体やその支援者によれば、障害を持った胎児の中絶、障害児の治療の手かげん、さらには障害新生児殺しは、障害者一般の差別である。彼らを人として認めないことになり、その存在意義を認めないことになる。アリソン・デイヴィスはそうした差別的見解を功利主義だとし、さらに注釈して、こんな見方をとると我々をランクづけ、障害者を健常者・優秀者への臓器提供者にすることにつながると言う。だが、その見方は功利主義とはいえても、それを採るような人は今日いないのではないか。万人は障害があろうとなかろうと、同じ道徳的位置を占めている。障害を取り除くのをよしとするのは、障害のない人の方をよしとすることとはちがう。優生学だという非難についてはどうであろうか。遺伝的な弱者は生殖を控えるべきだとか、道徳的価値が低いなどという想定に基づいて優生学 を実践するとすれば誤りである。「遺伝的素質のためにかなりの危害を受けるであろう子を産むのを控えるべきなのは、遺伝的弱者だというわけではなく、すべての人が控えるべきなのである。」 遺伝子治療はといえば、遺伝的弱者が遺伝的強者を産む可能性を切り開くものだ、とも言える。遺伝子治療が当人特有の遺伝的疾患を削除したり遺伝子上起こった損傷を修復するものであるかぎり、それは他の治療と変わらず、実施するのが当然である。それにより当人が健康な子どもを作ることができるからであり、遺伝的欠陥のある子どもが生まれはしないかと恐れなくてもすむことにもなる。

さて、ヒト・ゲノムにエイズやB型肝炎、マラリアなどへの抗体をコードされた遺伝子を導入する遺伝子治療が、可能になったらどうであろう。あるいは修復酵素をコードされた遺伝子の導入により、放射線被曝によって起こる欠陥を直したり、老化を遅らせたり、心臓病体質を取り除いたり、発ガン物質を破壊したりできるようになったらどうであろう。生殖細胞系にこうした防御装置が組み込まれた人を新種(new breed )と筆者は呼んだことがある。だが生殖細胞系と体細胞系とで道徳的地位の相違はないというのが筆者の立場である。ここで問題にすべきなのは、このように機能不全の治療ではなく機能を増進させる方法がよいのかどうか、当人の改良、あるいはむしろヒト・ゲノムの改良をはかる方法がよいのかどうかということである。

守ることのできる者を守らないのは、彼らに危害を与えることになると言えるであろう。たとえば他の人々が70歳の寿命が望めるときに50歳しか望めない人がいるとする。その場合、遺伝子治療にその寿命を高める効果が期待できるのに、その人がそれを受けられないのなら、それにより不利益をこうむったといわざるをえない。寿命を高めるというかたちで危害から守る、あるいは生命自体を守るように人を改良することを遺伝子治療が果たせるなら、それを優生学的といおうがいうまいが、我々はそれを支持すべきである。つまり、機能増進が生命や健康を守るものであるかぎり、機能不全の治療と機能の増進とを道徳的に区別する理由はないのである。

(3)どんな種類の増進が健康を守るのか

筆者は生命と健康を守る遺伝子治療と他の遺伝子治療を区別したが、それは美容的(cosmetic)などといわれる遺伝子治療の問題を排除するためでもあった。ただ、生殖細胞系と体細胞系の遺伝子治療の区別もそうであるが、生命と健康の維持という通常の遺伝子治療法と他の遺伝子治療法の区別は難しいことを知っていたほうがいい。イギリス政府「遺伝子治療委員会」の議会への報告(クロージア・レポート)(1992年)は、現段階では病気と関係のない特性の変更の試みは受け入れられないとしている。これは美容的遺伝子治療の排除ということであるが、そのなかには知能の操作も含まれている。いま知恵遅れの子どもたちがいて、あるグループは特定の疾患によることが明らかであり、他のグループはそうした明瞭な原因がないとする。これに遺伝子治療が適用できる場合でも、知能の改良は保健衛生とは関係ないとして治療をすべきではないのか。あるいはクロージアのように前者にのみ治療するのが倫理的に正しいのだろうか。

(4)遺伝子治療のどこが悪いのか

遺伝子治療の科学的安全性の問題があり、これに注意を払うのは当然であるが、そうした問題には倫理的論点は少ない。そこでこの点については万全だとして、その上になにか悪いところがあるのかを考えてみよう。

ルース・チャドウィックは、自分の遺伝的素性について疑問がないことを非常に重視している。両親には何かの遺伝子を付加されたていたことがわかると、その人は「アイデンティティの危機」に陥るであろうと彼女は言う。その理由の一部は自分の遺伝的由来が不確かになるためである。片親がわからないとき、子どもは不幸になる。それすると、わずかの遺伝子的「化粧」も避けたほうがよいのであろうか。チャドウィックは、遺伝的由来の混乱は子どもの帰属感を失わせるので、慎重であるべきだと考えている。そうした点から、非配偶者間人工授精、胚提供などは避けたほうがよいと言う。そうなると、ゲイのカップルや独身者が子を作る可能性を否定することになる。チャドウィックはそうは考えたがらないようだが、現実的にはそう考えざるをえないし、それを防ぐ立法を考えたほうが彼女の主張の筋が通る。もちろんそれはチャドウィツクの主張に従うかぎりということである。そのためには、遺伝的素性に疑問がある子の不幸は非常に大きく、むしろ生まれなかったほうがよかったほどだということ、そんなことまでして子どもを欲することを認めなくてもよいということの確証が必要である。今そうして生まれてきた

子への害が避けられず、またそうした例が生殖にはつきものであるとすれば、それら少数の例の人たちが問題を抱えるからといって、それを理由に彼らを差別するのはよくない。

遺伝子治療の場合がそうであるが、何かの素材の提供によって生命や健康を守ったり、人の状態を改良ができるなら、それを歓迎する理由になる。


以上が、ハリスの論文の要旨である。ハリスはマンチェスター大学社会倫理・政策センターにおり、すでに臓器移植にかんする論説(「臓器移植の必要性」、加藤・飯田編『バイオエシックスの基礎』所収)などでわが国にも知られている。その論説では、功利主義的見地からサバイバル・ロッタリー(生き残りのための籤)なるものを呈示していた。本論文は「生命倫理国際学会」(1992年、アムステルダム)の基調講演ということもあり、総論的である。本格的展開は彼の『生命の価値』(1985年)や、特に『ワンダーウーマンとスーパーマン--ヒト生命工学の倫理』(1992年)を参照すべきなのであろう。本論文でのハリスの立場は、遺伝子治療は人間の生命と健康を守るのに役立つかぎり実施してよいというものである。そして機能の修復と増進の区別、生殖細胞系と体細胞系とでの遺伝子治療の質的相違、美容的遺伝子治療とそうでない遺伝子治療の区別などは、絶対的基準にはなりえないと考える。だが、そうしたなかで遺伝子治療を認めてしまうと、歯止めがなくなりはしないかという不安が生ずる。

ハリスはおそらく近代医学が切り開いてきた新しい医療のひとつとして、遺伝子治療を位置づけているのであろう。たしかに、これまでいくつもの新しい医療がその身体的・倫理的危険を指摘されながらも、試行錯誤を重ねながら確立されてきた。遺伝子治療はまだほんの入り口にしかさしかかっていないのに、これに種々の規制の網をかぶせてしまうこと、そしてこれに優生学的というレッテルを貼って忌避することは問題かもしれない。ただ、ハリスの主張をなにがしか支えているのは、優生学の発祥の地であるにもかかわらず、ドイツやアメリカと違って優生学の害悪を比較的免れることのできたイギリスの伝統だ、とも言えそうである(ケヴルス『優生学の名のもとに』西俣訳、参照)。

(今井道夫)


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Last modified: Thu Sep 24 15:14:39 JST 1998