DNA鑑定の倫理学的考察

伊勢田哲治

第1節 序論--ヒトゲノム解析の応用と規制--

本稿ではいわゆるDNA鑑定の現状と諸問題について、とりわけヒトゲノム計画との関わりに注目しつつ、若干の考察を行う。

人間の遺伝子の構造が解明されてくるにつれ、その知見はさまざまな分野に応用されるようになってきた。そうした応用の一つがDNAによる個人識別である。DNAは個人識別に有効な以下の特徴をもつ。

まず、DNAの塩基配列の内容は人によって大きく違う。有意な遺伝情報を含む部分については誰でも大体同じ配列になっているのだが、DNAの95パーセントは有意な遺伝情報を含まないジャンクと呼ばれる部分であり、多型性が非常に高いことが知られている。そのため、一卵性双生児ででもないかぎり、二人の人が完全に同じ塩基配列を持つことはまずありえない。

次に、DNAは一生を通じて基本的には変わらない。突然変異によって若干塩基配列が変わることもあるが、その確率さえ計算に入れれば、20年前に採取したDNAの塩基配列と今の塩基配列を比較して個人の同定を行うことも可能である。

第3に、DNAは体のどこから採取しても基本的に同じである。これは、毛髪から採取したDNAと血液から採取したDNAを比べて個人の同定を行うことができることを意味する。

最後に、DNAは親子間で2分の1、兄弟間でも平均して2分の1を共有するので、血縁関係の鑑定にも使用することができる。

DNA鑑定は、以上のようなDNAの特徴を利用した個人識別・血縁関係判定の手法として発達してきた。とりわけ犯罪捜査の場面では、指紋や血液鑑定に代わる新しい犯人同定法としてDNA鑑定がクローズアップされており、すでにDNA鑑定を証拠として採用した判決もいくつか下されている。

今のところ、日本ではDNA鑑定はそれほど問題視されていないようである。しかし、DNA鑑定の基礎となるヒトゲノムの解析は現在急ピッチで進んでおり、それにともなってDNA鑑定の在り方も急速に変貌していくことが予想される。少し考えただけでも、DNA鑑定の技術は飛躍的に向上するであろうし、大幅なコストダウンも行われるであろう。また、潜在的にDNA鑑定で調べることのできる情報の種類も多岐にわたってくるであろう。言いかえれば、今後、DNA鑑定はますます身近に、しかも強力になっていくことが予想されるのである。その際に生じる問題について今のうちから予測し、議論を積み重ねておくのは無駄ではあるまい。とりわけ、DNA鑑定に対して何らかの規制を行う必要があるかどうかは、すでに現段階でももっと議論すべき問題であると思われる。

本論では、まずDNA鑑定の現状について、DNA鑑定のさまざまな手法とその実際の利用に関してまとめる(第2節)。次に国内外のDNA鑑定をめぐる現在の議論を検討し、DNA鑑定の問題点を探る(第3節)。最後にDNA鑑定の今後の展開とそれがもたらすであろう問題について、主にデータベース化の問題と有意な遺伝情報の読み取りの問題に焦点を絞って考察する(第4節)。

第2節 DNA鑑定の現状

2-1DNA鑑定の方法

DNA鑑定の方法には、有名な「DNA指紋法」を始めとしていくつかの方法がある。ここでは以下の議論に関わりのある限りでDNA鑑定の主な方法の特徴についてまとめる(以下の論述は、下郷他1992、清水1992、岡田1992a、池本1993などによる。特に下郷他1992のまとめはわかりやすく参考になった。)。

(1)DNA指紋法

最初の実用的なDNA鑑定法はジェフリーズが1985年に『ネイチャー』に発表したDNA指紋法である。これは、制限酵素切断長多型(RFLP)と呼ばれる性質を利用した個人識別法の応用である。

DNA上には、ある特定の無意味な塩基配列が何度も繰り返す部分があり、しかもその中には繰返しの回数が人によって違うことが知られているものがある。これをVNTR(variable numbers of tandem repeat)ないしミニサテライトとよぶ。DNA指紋法はこのくりかえしの回数によってDNAのその部分の長さが変わることに着目した方法である。まず、特定の塩基配列を切断する酵素を使ってDNA全体を細かく切断する(ただしVNTR部分に対しては影響を与えない酵素を選ぶ)。次にこのDNA断片混合物をゲル電気泳動法で長さの順に並べる。(ゲル電気泳動法とは、ゲル状の物質の中にDNAの断片をいれて電気を流し、陽極側に引き付けるという方法である。短くて軽い断片ほど速く移動するので、しばらく泳動させると短いものほど陽極に近づくことになる。)次に、VNTR部分とのみ結び付くプロープと呼ばれるDNA断片を使ってVNTR部分を特定する。VNTR部分の長さは人によって違うのだから、同じ時間だけ電気泳動させれば人によって違う場所でVNTRが検出されることになる。検出の結果は何本かのバンドが現れるという形で視覚化される。

DNA指紋法は、使用するプロープの種類によって、シングルローカスとマルチローカスに分類することができる。シングルローカスとは染色体上のある特定の部位にあるVNTRだけを検出するもので、通常両親のそれぞれに由来する2本のバンドが検出される。マルチローカスとは染色体全体にわたって同じ配列のすべてのVNTRを検出するものであり、検出の結果は多数のバンドが並ぶ形で検出される。マルチローカスプロープを使うと、偶然の一致の確率は非常に低くなる(この方法を開発したジェフリーズによれば、血縁関係のない二人の「DNA指紋」が一致する確率は10のマイナス19乗まで下げることができるという。Jeffreys et al.1985, p.77.)が、正確な頻度の計算が難しい、再現性が乏しい、どの程度まで誤差の範囲としてよいかの判断が難しいなどの問題点が指摘されている。また、この方法による検出は数値化が難しく、基本的には二つの資料を並べて同一性の判定を行わなくてはならない。シングルローカスプロープを使うと偶然の一致の確率はそれほど低くはならないが、上にあげたような問題点はかなり克服することができる。日本の科学警察研究所では、シングルローカスプロープのみを用いており、第2染色体上のYNH24という名称の部位と第14染色体上のCMM101と呼ばれる部位に関する鑑定を行っている。

この他DNA指紋法の特徴として、DNAがある程度多量に使用可能なときにしか使えないことが挙げられる。したがって現場に残された僅かな血痕から検出を行うには不向きである。

(2)PCR増幅法

PCR増幅法は、PCR法と呼ばれる方法を使ってDNAを増幅してから鑑定を行う方法である。日本の科学警察研究所で採用されているMCT118法はこの一種である。

PCR(Polymerase chain reaction)法とは、染色体の一定の区間を短時間で何十倍にも増幅させる手法のことである。この方法を用いてVNTRであることがすでに知られている特定の部位を増幅する。そのあと、DNA指紋法と同じようにゲル電気泳動法によって増幅したDNA断片を長さ順に並べる。VNTR部分以外のDNAは含まれていないのでプロープを使わなくても検出することができる。科学警察研究所ではこの検査を第1染色体上のMCT118と呼ばれる部位に対して行う。この鑑定全体を「PCR法」と呼ぶこともあるが、鑑定の一つのステップとしてのPCR法と紛らわしいのでここでは一応区別する。

PCR増幅法の特徴は、僅かな資料からでもDNA鑑定ができるという点である。清水論文によると、鑑定に必要な量は、血痕で2ミリメートル四方、精液斑で1ミリメートル四方、毛根鞘のついた毛髪なら1本から2本とのことである(清水1992、p.20)。また、プロープを使わないため、それほど設備がなくても鑑定が可能であるという利点もある。そのかわり、PCR法で増幅できるのはある程度短い部位だけなので、YNH24やCMM101などの部位はこの方法では鑑定できない。また、少しでも別のDNAが混入すると混入したDNAまで増幅されて結果が狂ってしまう可能性もあるので、資料を慎重に扱う必要がある。

(3)HLA-DQα法

以上の二つはDNAの長さによる鑑定であったが、何らかの形で塩基配列自体を読むことによって鑑定する方法もある。HLA-DQα法と呼ばれているのは、ヒトの白血球の種類を決定する遺伝子を読み取る方法である。この遺伝子は免疫のメカニズムに関わっており、塩基配列がかなりの程度まで分かっている。そこで、遺伝子のこの部分だけをPCR法を使って増幅し、どの制限酵素によって切断されるかによって分類する。現在この方法で21通りの分類が可能だということである。

(4)ミトコンドリア法

これもDNAの配列を直接読み取る方法だが、核のDNAではなく、ミトコンドリアのDNAを読み取るところがポイントである。ミトコンドリアは一つの細胞にも多数含まれているので、(2)や(3)の手法よりもさらに少ない資料からでも検出可能である。ミトコンドリアは完全に母親のみから譲り受けるので、そのDNAは母親と基本的には同じ配列である。このため、ミトコンドリア法は元々は血縁鑑定に使用されてきた。しかし、核のDNAに比べてミトコンドリアのDNAは突然変異をおこしやすいので、母子、兄弟間でも必ずしも一致するとは限らず、個人識別のために使用する方法が研究されている。もっとも、ミトコンドリアDNAの塩基配列はそれほど多くのタイプが知られているわけではないので、あくまで補助的な手段として研究されているようである(Tsukamoto et al.,1994)。

(5)マイクロサテライト法

これは原理的にはPCR増幅法と同じであるが、STR(short tandem repeat)と呼ばれる2から4塩基を周期とする短い繰り返しに対して検査を施す方法である。ミトコンドリア法と同様、非常にわずかな資料からでもDNA型を調べることができる。ただし、まだ実用化には至っていないようである。

(6)MVR法

これは、DNA指紋法の開発者ジェフリーズらが1991年に発表した方法である(Jeffreys et al., 1991. また、下郷他1992のp.96も参照のこと)。彼らはMS32というシングルローカスプロープ検出される遺伝子座D1S8は2種類の非常に良く似た繰返し単位から構成されており、しかも人によってその配列が違っていることに注目した(この部分がMVR minisatellite variant repeat と呼ばれる)。彼らはそれらの繰返し単位をaタイプ、tタイプと名付け、遺伝子上でのその配列を記録することによって個人の識別ができるのではないかと考えた。その記録は例えばattaatt………といった形で記録される。ジェフリーズらによればこの配列は非常に多型性が高く、従来の方法よりもはるかに個人識別の精度が高いということである。ただし、まだこの方法は実用化されていないようである。

以上、まだ実用段階に至らないものも含めて6つの方法を紹介したわけだが、ここで注意を促しておかねばならないポイントが二つある。

まず第一に、DNA鑑定について非常にしばしば強調される、「DNA鑑定は遺伝情報の含まれている部分を扱うものではないので、遺伝病が解明されたり、その他の遺伝形質の有無ががDNA鑑定によって明らかになったりする心配はない」という主張の当否が問題となる(注1)。まず、現在科学警察研究所で実用化されている方法を例にとっても、上の(3)に挙げたHLA-DQαの配列を調べる方法は明らかに意味のある遺伝情報を対象にしている。というのも、この検査によって免疫の型の違いがある程度わかることになるからである。また、(1)や(2)の方法に関しては確かに直接意味のある情報を読み取っているわけではないが、その結果の記録は個人識別以上の意味があることに注意すべきである。というのは、ここで得られる情報はそのまま血縁関係の判定に使用できるからである。具体例にそって考えてみよう。たとえばMCT118には現在27種類の型(つまり繰返し回数の種類)が確認されている。鑑定の結果は「MCT118:23-27型」という形で記録される。これは片方の繰返し回数が23回でもう一方が27回であることを示している。このうち一方が父親由来であり、もう一方は母親由来である。この時、父親のDNA型が「MCT118:16-37型」であったとすれば、はからずも父親と血縁関係がなかったことが明らかになることになる。このようなわけで、DNA型鑑定は血縁関係に関する情報をも読み取っているといってよいのである。さらに、VNTR部分については今のところ確かに意味のある情報は含まれていないとされているが、今後の科学的知見の進展によりこの見解が覆される可能性は否定されていない。この最後の点に関しては現在の科学的知見を一応信頼するとしても、最初の二つの点に関しては、DNA鑑定は個人の特定以上の情報を読み取っているといってよかろう。ところで、実は、ジェフリーズが当初開発したDNA指紋法にはこれらの問題点はほとんどない。言い替えれば、技術の進歩につれて、DNA鑑定はより有意な情報を集める方へ「すべって」きているという言い方もできるのである。

もう一つは、DNA鑑定は統計的鑑定であるという点である。これは指紋と違い、DNA鑑定で同じと判定された場合でも、常に偶然の一致の可能性が残されているということを意味する。例えばさきに挙げたMCT118は27通りの型があり、一人につき二つづつこの部位を持つので、その組合せは378通りになる。逆に言えば、379人の人がいれば必ずその中に同じMCT118型を持つ組み合せがあるということである。もちろんいくつかの鑑定を並行して行うことによって偶然の一致の確率はかなり下げることができるが、さらに気をつけなくてはならない点がいくつかある。まず、そもそも各々のDNA型の出現頻度を前もって調べておかなくては、偶然の一致の確率を計算することができない。しかも、この頻度は人種や地域によって異なると思われるのでかなり大規模で詳細なデータを集めておく必要がある。

また、計算の結果の取扱も慎重を要する。これに関して、「訴追者の誤謬」と呼ばれる過ちがある(Balding and Donnellly 1994。 以下に挙げる例もこの論文によるものである)。よく、DNA鑑定の報道などの中で「偶然の一致の確率は100万分の1」といった数字が使われる。この数値からその容疑者が無実である確率が100 万分の1 であるという結論を下すのが「訴追者の誤謬」である。これがなぜ誤謬なのか具体的な数字を挙げて考えてみよう。仮に、ある犯罪について現場に残された血痕のDNA型以外に証拠となるものがなく、その犯罪を犯すことのできた立場にいる者が容疑者以外にも50万人いて、犯人である確からしさは(DNA型の一致を除けば)全員等しく500001分の1と見なせるとしよう。そして、そのDNA型の出現頻度は100万人に一人であるとする。この時、ベイズの定理を使って、「DNA型が一致したという条件下でその容疑者が有罪である確率」を求めることができる(注2)。計算の結果は3分の1となる。つまり、犯人であると推測される事前確率(DNA型鑑定を行う前の確率)が十分に低ければ、結果として得られる「DNA型が一致したという条件下でその容疑者が有罪である確率」もそれほど大きな値にはならないのである。もちろん通常の訴追の場合には他の情報が加味されることになるが、少なくともDNA型だけでは決定的な証拠とはならず、しかもDNA型の出現頻度はそのままでは犯人である確率にはつながらないことを理解しておく必要がある。

以上2点のポイントは以下の議論においても重要な役割を果たすことになる。

2-2DNA鑑定の具体例

DNA鑑定が実用化されると、世界各国で実際の犯罪捜査への応用が進められていった。

イギリス

イギリスではいち早くDNA指紋法が実用化された。その有名な実例がピッチフォーク/ケリー事件である(村井1993 p.16、シャピロ1993 p.276-277)。イギリスのレスタシャーで起きた2件の強姦事件について、一人の男性が逮捕され、自白もしたが、ジェフリーズが依頼を受けてDNA指紋を調べたところ、現場に残された精液斑痕と容疑者のDNA指紋は一致しなかった。そこで、警察が近隣の16歳から34歳までの男性すべてに血液の提出を依頼した。まず、血液型の鑑定により496人まで容疑者を絞った後、ジェフリーズがDNA指紋法による鑑定を行った。この時の検査では精液斑痕と一致するDNA指紋はものはなかった。しかし、数カ月後、イアン・ケリーがコリン・ピッチフォークに頼まれて自分の血液をピッチフォークの名で提出していたことがわかり、改めてジェフリーズが検査したところピッチフォークの血液と精液斑痕のDNA指紋が一致した。(この事件で集められた血液は検査後すぐに破棄されたということである。ニュートンspecial issue1990、p.62)。この事件はDNA指紋法を一躍有名にし、DNA指紋法は犯罪捜査以外の分野へも応用が行われるようになった。たとえば、イギリスの内務省は1986年に国内に住むパキスタン人とバングラデシュ人の母子の移住申請を受け付けたが、その際に母子関係の証明にDNA指紋法を使用している。

アメリカ

アメリカでは3つの企業がDNA鑑定を商業化し、裁判での鑑定もこれらの民間企業が行っているようである。1987年に起きたカストロ事件ではDNA鑑定の証拠能力自体が問題にされて、話題となった(田淵・川口1990)。この事件では、容疑者の時計についていた血痕と被害者の血液の鑑定がライフコード社に依頼され、ライフコード社は二つのDNA指紋は一致し、偶然の一致の確率は1億分の1だと回答した。しかし裁判の途中で検察側と弁護側の専門家が法廷外で異例の共同会議を開き、ライフコード社の鑑定は証拠能力がないという声明を出した。結局被告は無罪となった。

日本

日本では当初東大法医学教室などがDNA鑑定を行っていたが、その後科学警察研究所が独自に研究を進め、92年の4月には警察庁が「DNA型鑑定の運用に関する指針」を制定した。1994年10月末までに警察で行われたDNA鑑定は277件で、内52件が裁判の証拠として提出されたという(アエラ94年12月26日号)(注3)。とりわけ、いわゆる足利事件に関して宇都宮地裁が93年に出した判決は、DNA鑑定をほとんど唯一の証拠として下された判決として話題になったが、この鑑定の信頼性を疑問視する声もある(三浦1994)。

第3節DNA鑑定を巡る議論

3-1DNA鑑定は禁止すべきか?

DNA鑑定を禁止すべきであるという論者はほとんどいない。わたしの目についた限りで、藤原静雄氏らが紹介しているドイツのクリスチネ・ラーデマッハがほとんど唯一の禁止論者である(藤原1992(3)p.39、田淵・川口1990(2)p.21)。しかし、ラーデマッハの提示する懸念の多くは慎重派の多くの論者とも共通しており、その論点を分析することは、DNA鑑定を取り巻く問題の状況を見るためにも有益ではないかと思われる。そこで、以下、ここでの関心に関係がある限りでラーデマッハの議論を検討する(以下の紹介は藤原論文および田淵・川口論文からの孫引きであるので、関心のある方は直接原典にあたられたい。(注4))

ラーデマッハの反対論の主な論拠は以下のようなものである。(1)DNA鑑定はまだ学問的に確立したものとはいえず、証拠としての能力には疑問がある。(2)DNA鑑定はDNAのコード化されていない部分を分析するものであるといわれているが、すでに、DNAのコード化された部分のプロープの開発が進められている。一度歩み出した道を引き返すことや途中で立ち止まることは科学技術に関しては信用できない。(3)DNAのコード化された部分のデータをとることは憲法に保障される個人の尊厳を侵害することになり、コード化されない部分のデータをとって保管するのは個人情報の自己決定権に反する。

以上の紹介はいずれも簡単なものなので、ここからラーデマッハ自身の議論の評価を行うのはフェアとはいえない。それにしても、このような方向からの議論では、DNA鑑定を禁止する説得力のある立論をするのは難しいように思われる。以下、順番に検討していこう。

(1)については、あたらしい科学技術の法廷における証拠能力に関する以前からの議論がある(田淵1993 p.42、村井1992 p.114、安富1994b p.64等を参照)。いわゆる「フライ基準」は、1923年のFrye v. United Statesの判決で示された基準で、その方法が属する専門分野の研究者の間で一般に受け入れられているか否かによって証拠として許容されるかどうかが決まる。具体的には専門家を法廷に呼んで「フライ審理」と呼ばれるヒアリングを行い、その結果によって証拠として採用するかどうかを判断する。これに対し「関連性基準」は必ずしも科学者一般に受け入れられていなくても、その事件に関係があると認めた場合には証拠として採用するというものである。ここでいう関連性のある証拠とは、「訴訟の決定にとって重要な事実の存在の蓋然性を、その証拠のない場合よりも高めたり、または低めたりする傾向のある証拠のことである」(村井前掲。なお、この引用文は、アメリカの連邦証拠規則401条の条文である)。ただし、その証拠が偏見を助長するなどの混乱の原因になると思われるときには裁判官はその証拠を却下してよいことになっている。日本の裁判所では事実上関連性基準の方が採用されている。

現在、DNA鑑定を証拠と認める判決は世界各国で下されており、その多くは上記の二つの基準のいずれか、ないしは両方を根拠にして証拠としての採用を決定している。すると、ラーデマッハの主張が正しいとすれば、上記二つの基準が誤っているということになる。「フライ基準」と「関連性基準」の違いは、結局のところ、証拠としての関連性の判定を科学者共同体に委ねるか、裁判官自身が下すかという点にある。もしもどちらの基準でもだめだというのであれば、ラーデマッハは誰が認めれば新しい技術を証拠として採用してよいのかを示す必要がある。確かに、科学者共同体や裁判官の判断に異を唱え、議論を戦わせるのは可能であるし、必要なことでもある。しかし、とりあえず今すぐに判決を下さなくてはならない状況において、限られた情報の中で最善の選択を行おうとするならば、「フライ基準」や「関連性基準」は十分に筋のとおった原則であるといってよいと思われる。ただし、日本の現状に目を向けるならば、裁判官に、「関連性基準」にもとづいてDNA鑑定の証拠能力を判定するだけの能力があるかどうか疑問である。しかも、今のところ警察の提出するDNA鑑定に対して、追試をすることさえままならない状況であり、ほとんど警察側の主張が一方的に通ってしまいかねない状況にある。理念的には「関連性基準」で十分であるにしても、それを実行するための条件の整備は当然必要となるところであろう。さらにいえば、仮に関連性について裁判官が正しい判断を下したとしても、さらに証拠の解釈のレヴェルで前述の「訴追者の誤謬」に陥らないように気をつける必要がある。実際のところ、判例などから見る限り、裁判官がこの問題について理解しているかどうか、怪しいものだといわざるをえない。

(2)の議論はいわゆる「すべりやすい坂道」の論法に依存している。ここで注意しなくてはならないのは、「すべりやすい坂道」の論法はきちんと制限をつけて使わなくては粗雑な議論となってしまうということである。あるステップを踏み出すことによって不可避的につぎのステップを踏み出さざるを得なくなるのは、第一のステップを踏み出すのと全く同じ理由が第2のステップに対してもなりたつ場合だけである。単に行為として似ているというだけではすべりやすさの証明としては不十分なのである。この観点からDNA鑑定がすべらないことを論じた議論としてオランダのタックの議論がある(タック1992、p. 197以下)。彼の議論はおおむね以下のようなものである。現在行われているDNA鑑定は、遺伝情報を読み取るものではない。そして、オランダではDNA鑑定で遺伝情報を読み取らないように規制を行う法案が審議されている。これらの条件がそろえば、DNA鑑定で遺伝情報を読み取ることと現在のDNA鑑定の間には明白なギャップが存在することになる。したがってすべりやすい坂道の議論は成り立たない。

以上がタックの議論であるが、これを考察するにあたっては、オランダと日本の状況の違いを少し考慮にいれなくてはならない。タックが念頭においている鑑定方法はいわゆる「DNA指紋法」であり、確かにこの方法については「DNA鑑定は遺伝情報を読み取らない」という主張はある程度正しい。しかし、例えば、日本で実用化されているHLA-DQα法は、前に述べたように明らかに遺伝情報を読み取るものである。確かにそこで得られる情報はたいしたものではないかもしれない。しかし、すべりやすい坂道の議論にとって重要なのは、HLA-DQα法を認めれば「遺伝情報を読み取ることになるから」という理由ではDNA鑑定の方法を規制することができなくなるという点である。言い替えれば、HLA-DQα法を認めるならば、同じ理由で、もう少し重要な他の遺伝情報を読み取る鑑定法も認めざるを得ず、さらにもう少し重要な情報まで、という様にだんだん鑑定してよいものの範囲が拡大していくことになるのである。結局、このすべりやすい坂道を避けたければ、HLA-DQα法の使用を取りやめるか、HLA-DQα法で読みとられる遺伝情報は他の遺伝情報と本質的に違うのだということを示さなくてはならない。さらに、この坂道のすべりやすさを考慮する上で重要な要素となるのが、血縁関係に関する情報を読み取ることとの関わりである。PCR増幅法などでDNA型を分析するときには血縁関係の情報もある程度判明してしまうということは前にも述べた。これは遺伝情報を直接読みとっているわけではないので、一見ここでの「すべりやすい坂道」には関係がないように思える。しかし、「血縁関係に関わる情報を読み取ることが許されるのなら、なぜ遺伝情報を読み取ってはならないのか」という問いに答えることができないならば、すべりやすい坂道に歯止めをかけることはできないだろう。これは簡単に片付く問題ではないので、節を改めて第4節でもう一度この問題に戻ってくることにする。

さて、結局、以上の「すべりやすい坂道」の議論に関する考察によって何が分かったのだろうか。まず、ラーデマッハの提示する懸念は、日本の現状に照らす限りでは、むげに切捨てることはできない。というのも、日本のDNA鑑定の現状は、坂道が「すべる」条件を満たしているからである。しかし、この坂道がすべりやすくなっている原因は、日本においてHLA-DQα法や血縁関係の情報の読み取りに関して真剣に議論がなされていないことにある。逆にいえば、この問題について議論の末に何らかの結論が得られるならばすべりやすい坂道は解消するだろう。その解決は、例えばHLA-DQα法はすべりやすくする原因であるから規制すべきだというものになるかも知れないし、あるいはHLA-DQα法は他の遺伝情報の読み取りとは違うのだということが確認されることになるかも知れない。ひょっとすると、検討した結果この「すべりやすい坂道」は全く問題はなく、犯罪捜査のためならどんどん遺伝情報を読み取るべきだという結論になるかも知れない。いずれの結論になるにせよ、このような議論が行われたなら、すべりやすい坂道はDNA鑑定に対する反対論としての効力を失うであろう。

最後に(3)の部分についてだが、結局この部分がラーデマッハの実質的な価値判断を表明した部分になっている。まず、前半の「個人の尊厳」を巡る部分については、この議論を認めたとしてもDNA鑑定自体の禁止にはつながらないのでここで考察する必要はない(第4節でこの問題をあつかう)。そこで、後半の個人情報の自己決定権にまつわる議論の方から考えてみよう。「個人情報の自己決定権」とは、自分に関する情報が誰にどのように流通するかについては自分が決定権を持つという考え方であり、プライバシーの権利の現代的な規定として1970年代にあらわれた考え方である。しかし、この権利を全く無前提に認めるわけにはいかないということにはほとんど異論はないであろうと思われる。というのも、犯罪捜査を効率的に行うことによって守られるべき犯罪被害者の権利というものは当然考えられるし、また、犯罪者を確実に捕まえることによって社会が安定する利益というものも確かに存在するからである。個人情報の自己決定権は場合によってはこれらの権利・利害と葛藤することになる。今のところ、こうした葛藤は、裁判所が令状を出さねば強制的な捜査はできないという形で処理されているようである。たとえば、身体検査を行うためには身体検査令状が必要であるし、血液鑑定を行うためには鑑定処分許可状が必要である。また、強制処分法定主義といって、行ってよい強制的な捜査の内容は前もって法律で定められていなくてはならないことになっている。確かに、こうしたチェック機構が有効に機能しているかどうかについては疑問がある。しかし、だからといって個人情報の自己決定権に反する捜査はすべてだめだというのであれば、それは被害者の側の権利や社会の安定による利益をあまりに軽視した議論であろう。現に権利同士の葛藤が生じている以上、問題はどれだけ有効な葛藤処理機構を作れるかという点にあるはずである。したがって、個人情報の自己決定権を盾にとってDNA鑑定を一律に禁じることはできないことになる。

以上の結論から、DNA鑑定を禁止する根拠は薄いということが言えたのではないかと思う。しかし、検討の過程で明らかになったのは、DNA鑑定を規制のないままにしておくのもまた問題があるということだったように思う。

3-2 DNA鑑定にさらなる規制は必要か?

さて、次に問題になるのは、現行の規制でDNA鑑定に対する規制として十分だろうか、ということである。そこでまず、関連する法律等を整理し、検討しよう。

まず、刑事訴訟法には捜査に関する規定がある。前述したとおり、身体検査に対しては身体検査令状が必要であり、鑑定を行うには鑑定処分許可状が必要である。しかし現在のところDNA鑑定をどちらに含めるかについては刑事訴訟法の中では定められていない。実務上は鑑定処分許可状と身体検査令状を両方ともとっているとのことである(岡田1992b、p.8)。しかし、そもそも現行の令状の制度をDNA鑑定にそのまま当てはめることができるのかどうかが問題になっている。そうした論者の言い分によれば、DNA鑑定は従来の血液検査とは本質的に異なるので改めて立法するなどの措置が必要であるとのことである(福井1993、p.52)。さらにいえば、前に見たようにDNA鑑定は個人情報の自己決定権と抵触する面があり、個人情報保護法によって保護されるのが望ましい。しかし、現行の個人情報保護法は犯罪捜査に関しては大幅な例外を認めており、事実上規制力がない(森田1993、p.62)。さらに、警察側の関係者の発言として「犯罪捜査というものは、必然的にある程度プライバシーとのかかわりを持たざるをえない」といった発言が見られ(岡田1992b、p.7)、情報保護が有効に行われるかどうかは、はなはだあやうい状況にある(ちなみに、プライバシー権を個人情報の自己決定権としてとらえるならば上の発言は誤りである。なぜなら任意捜査だけを行うならば、基本的には個人情報の自己決定権には抵触しないからである)。

また、その他の点については「DNA型鑑定の運用に関する指針」がほとんど唯一の規制である(この指針の内容は清水1992に詳しい)。この指針では、鑑定者の資格、鑑定機関の要件、資料の採取の方法と検査後の処置などに関して、かなり詳しい規定がなされている。この指針の内容についてはいくつか疑問が呈されている(特にブラインド検査を行わない点に関しては強い反論がでている。佐藤1993や村井1993を参照のこと)。しかし、より大きな問題は、これが警察の指針にすぎないという点にある。警察は、言うまでもなく、DNA鑑定をめぐる利害関係の一方の当事者であり、そもそも指針を制定するには望ましくない立場にある。しかも、警察はこの指針を一方的に変更することができるので、この点でも問題である。

この他、現在の日本の状況は「すべりやすい坂道」の議論がちょうどあてはまるあやうい状態にあるということは前にも述べた。この状況を解消するためにも、どのDNA鑑定が許されてどのDNA鑑定が許されないのか、明確な根拠にもとづいて示す必要がある。

以上のような状況を見る限り、一刻も早くDNA鑑定を規制する法律を制定することが必要だという結論は避け難いように思われる。

第4節 ヒトゲノム解析の進展と犯罪捜査

現在、ヒトのDNAのすべての塩基配列を調べようというヒトゲノム解析計画が進展中である。このヒトゲノム解析の進展に伴って、犯罪捜査におけるDNA鑑定のありかたが変わっていくことは十分予想できる。そこで、最後の節においてはヒトゲノム解析の進展とともに新たに可能となるであろう捜査方法とその倫理的含意について考えてみたい。

ヒトゲノム計画が進展する中で塩基配列の決定の技術は飛躍的に高まってきている。今後、より安価で確実な塩基配列の決定法が開発されるであろうことは疑いない。そして、当然ながらそのような技術の進展があれば犯罪捜査にも応用されていくことになるだろう(PCR法の導入などはいい例である。PCR法はもともと犯罪捜査とは何の関係もない分野で塩基配列決定のために考案された手法である。シャピロ1993、p.218以下)。また、ヒトゲノム解析の直接の結果として、よりDNA鑑定に適した部位が発見され、個人識別の精度が上がっていくことは間違いない。先に述べたようなマイクロサテライト法やMVR法が新しい鑑定技術として開発されてきているのはそのいい例である。

こうした新しい技術の進展とともに、これまで真剣に考慮されてこなかったような問題が生じるであろうことは想像に難くない。以下では、そうした今後予想される事態の中から、データベースの問題と遺伝情報の読み取りの問題を取り上げてみたい。

4-1 DNAデータベース

日本では、指紋に関しては1968年以来データのコンピューター管理が進められてきており、とりわけ1982年以降は「指紋自動識別システム」の導入により指紋の登録と検索を一体化したデータベースが作られてきている(金1987 p.117以下およびp. 184以下)。このデータベースにより、現在では、犯行現場から採集された指紋が断片的なものであっても検索を行うことが可能となっている。また、このデータベースは、指紋から身元と犯歴が分かるようになっているので、ビザ発行の際の犯歴調査や、行方不明者の身元確認にも使われている。

こうしたデータベースの犯罪捜査における有用性は一見して明らかであろう。ある種の犯罪(性犯罪など)は一度その犯罪を犯した者が再犯する確率が高いことが知られている(Baechtel et al. 1991, p.356-357. Bereano, P. L. 1992, p.121)(注5)。そのような犯罪者のデータが残っていれば次に同じ犯罪を犯したときに即座に犯人を特定することができる。必ずしも再犯率の高い犯罪でなくとも、犯行の現場に残った指紋がたまたまデータベースにあった指紋と一致すれば、犯罪捜査の手順が大幅に短縮されることになる。

このような指紋データベースは、問題点は指摘されつつも、すでに10年以上の実績があり、社会的には承認されていると言ってよいだろう。では、はたして、DNA型に関して同じようなデータベースを作成することは許されるのだろうか(注6)。

まず、指紋とDNA型の類似点と相違点を確認しよう。(1)指紋もDNAも基本的には一生変わらない(DNAは突然変異を起こすことがある)。(2)指紋が基本的に万人不同であるのに対し、DNA型は統計的処理を必要とする。もっとも、現行の方法の組み合せでも数千万人に一人というオーダーまでの特定はできるので、データベースの作成自体が無意味となるほど同じ型を持つ人が多いわけではない。(3)指紋は個人の特定以上の情報を含まないが、DNA型は潜在的に血縁関係等の情報を含むし、HLA-DQα法による分類のようにそれ以上の情報を含むものもある。

(1)と(2)の点からいえるのは、DNA型でデータベースを作った場合、指紋ほどではないにせよ犯罪捜査にそれなりに役に立つ情報がえられることが見込めるということである。ただし、(2)の点から、DNA型だけからデータベースにもとづいて犯人を割り出すといった使い方はできないことが分かる。また、統計的処理を行うために、統計的データベース、すなわちあるDNA型の出現頻度はどれだけかを計算するためのデータベースが必要となる。さらに、(3)の点からDNA型のデータベースの運用は指紋データベース以上に注意深く行う必要があることが分かるであろう。もっとも、指紋のデータベースでも犯歴などの情報が検索できるのだから、運用に注意するという点では程度の差があるだけである。

これらの点だけから見る限り、もし指紋のデータベースが容認可能なら、DNA型データベースを作ること自体に関してはそれほど問題がないように思われる。むしろ、DNA鑑定をする以上は統計的データベースを作ることは不可欠であるといってよいだろう。しかし、指紋データベースとの比較だけでは見えてこない問題があるかも知れない。そこで、アメリカで実際に構築されつつあるDNAデータベースを例にとり、問題点を探ってみよう。

アメリカではCODIS(Combined DNA Index System)と呼ばれる全国規模のDNAプロフィールに関するデータベースがつくられている(安富1994a p.17-19。また、Baechtel et al.1991も参照のこと)(注7)。CODISのデータバンクは主に二つに分かれている。一つは統計的データベースであり、匿名のDNAプロフィール情報が集積されている。これによって、あるDNAプロフィールの出現頻度がどの程度か知ることができる。もう一つは個人の同定のために使うデータベースであり、現場に残された遺留体液などから検出されたDNAプロフィール、有罪宣告を受けた者のDNAプロフィールや行方不明者のDNAプロフィールが登録される。行方不明者については、行方不明者の近親のDNAプロフィールと、身元不明の遺体から採集されたDNAのプロフィールが集積されている。このデータベースのためのデータの集積は州ごとに行われてきたが、1994年の9月には連邦政府によってDNA鑑定法が制定され、FBIが有罪判決を受けた犯罪者のDNAデータベースをつくることが認められた(アエラ1994.12.26日号、p.11)(注8)。

このデータベースのうち、統計的データベースに関しては、DNA鑑定を行うからにはこの種のデータベースは必要であることは容易に認められるところであろう。問題は個人の同定のためのデータベースである。

このデータベースに対して現在表明されている危惧の最大のものは、データ供出の対象が有罪宣告を受けたものから他の人々へと拡大されていくのではないかという点である(Bereano1992)。指紋のデータベースのところで確認したように、この種のデータベースの設置目的は、第一義には再犯率の高い犯罪について再犯時の犯人同定に役立てるためであった(この目的がDNAデータベースなどでも踏襲されていることはBaechtel et al.1991等から確認できる)。この当初の目的からいえば、再犯率の低い犯罪や、犯行現場にDNA鑑定のできる資料が残らないような犯罪(窃盗など)で有罪を宣告された者は、別にDNAを提出する必要はないはずである。つまり、DNA鑑定法自体においてすでに拡大は始まっているのである。たしかに一律にDNAプロフィールを集めればデータベースは大きくなり、より効率的に犯罪捜査を進めることができる。しかし、その理由が通るのならば、容疑者や被告の段階から集めることもできるはずだし、さらには犯罪を犯しかねないものにまでDNA提出義務が及ぶことも考えられる。実際、ピッチフォーク/ケリー事件においては、調査後すぐに破棄されたとはいえ、まったく事件に関係ない人々からのDNAが調べられたのである。最終的にはすべての人が出生と同時にDNAを提出することになるかもしれない。

この議論が、前にも検討した「すべりやすい坂道」の議論に依存していることは容易に見てとれる。では、この坂道はすべりやすいだろうか。とりあえず、アメリカの「DNA鑑定法」については、有罪宣告を受けた者に対象を限った立法がなされており、この法律自体によってすべりやすさに歯止めがかかっているという見方はできる。しかし、なぜ有罪宣告を受けたものだけがDNAを提出させられるのか、といった問いが今後生じてくることは十分予想されるし、その時に法律を改正しない理由を示すことができなければ結局われわれは坂道をすべることになるだろう。

しかし、前に「すべりやすい坂道」を検討したときに指摘したように、もしも十分な理由が示せないのなら、実はその坂道をすべることは何も悪くはないのではないかという疑いが生じる。では、一体このような事態の何が問題なのだろうか。ベリーノによれば、このような情報を当局が握ることは、社会の画一化を促し、市民的自由を圧迫することになるという(Bereano1992、pp.121-122)。しかし、そもそも、なぜDNAプロフィールを当局が持つことが社会の画一化を促すのか。とりあえず当局が自らと対立する考え方を弾圧する傾向があるということは認めてもいいかもしれない。おそらくベリーノが考えているのはDNAデータベースによって個人の同定がより効率的にできるので、その分、弾圧も効率的にできるようになるということなのであろう。しかし、社会の構成員全体のDNAデータベースができていたところで、DNAデータベースの情報が弾圧に使えるのは非常に限られた場面にすぎない。DNAデータベースは画一化を促進するかもしれないがそれだけで社会が画一化するというものでもないのである。さらにいえば、画一化が生じる中心的な原因は当局の施策方針の方であって、DNAデータベースは副次的な原因に過ぎない。もしも画一化を本当に憂えるのであれば当局の方針の方を問題にすべきではないだろうか。以上のような反論に対して、ベリーノの側から再反論があるとすれば、おそらく次のようなものだろう。ここで問題なのは当局の方針自体ではない。当局の方針が変わったときに弾圧を行える力を当局に与えることが問題なのであり、社会的なDNAデータベースは正にそのような力を当局に与えるのである。

とりあえず、この、最後にでてきた懸念はすべりやすい坂道への歯止めとしてそれなりの効果のある議論だと思われる。しかし、この根拠からどの範囲までのデータベースならよいのかを明確化することは難しく、さらなる議論が必要なところではないかと思われる。

4-2有意味な遺伝情報の読み取り

今のところ、犯罪捜査の場面では有意味な遺伝情報を読み取るべきではないということに関しては、警察当局をはじめ、大方の論者の一致がとれているようである。とりわけ、警察庁の「DNA型鑑定の運用に関する指針」において、DNA型鑑定は遺伝形質の有無やその内容を分析するものではないという明確な規定を行い、しかもそうした利用の可能性をなくすために、鑑定のために採取した資料は鑑定後即座に廃棄する旨定めている(村井1993p.25、清水1992p.31)。警察がこのような自主規制を行う理由はいくつか考えられる。一つにはもちろんプライバシーの保護や個人の尊厳を求める立場からの反論が予想されるからだという理由があるだろう。しかし、第二の理由は、おそらく、塩基配列に立ち入った調査は今のところ非常に高価で実用的でないという点だろう。さらに、今のところ、遺伝形質を読み取ってもそれほど捜査のたしにならないという点も考慮すべきだろう。しかし、第一の理由については、感情に訴える直観的な議論は散見されるが、きちんと理詰めで説得力ある分析を行っている議論は見られないので、本当に警察が方針転換したときに強力な反対が行えるのかどうか疑問である。第二の理由については、ヒトゲノム計画の進展とともに急速に改善されているところである。そして、第三の理由に関しては、ヒトゲノム計画の進展の直接の結果として、DNAから読み取ることのできる情報が飛躍的に増えているところである。最終的には人間の形質で遺伝的に決まる部分のすべてがDNAから読み取れることになる。

このような状況を見る限り、警察が指針を変更して有意味な遺伝情報を読み取りはじめる可能性をまったく排除することはできないだろう。そこで、まず、有意味な遺伝情報を読み取ることにした場合の犯罪捜査に与える影響を考察した後、このような利用の一体どこが問題なのか、もう一度考え直してみたいと思う。

有意味な遺伝情報の利用は、ゲノムの解析が進めば犯罪捜査に革命的な影響を及ぼすことだろう。たとえば、犯行現場に犯人のものと断定できる数本の毛髪があったとしよう。この毛髪から、まず、犯人の髪の色、目の色、おおよその体格や容貌が判明する(体格や容貌は環境要因が大きいのであまり当てにならないかもしれない)。これだけ分かれば、犯人を指名手配するのに十分である。また、どのような病気を持っているかが分かれば、病院のデータから犯人を捜すこともできる。さらに、これはまったくの可能性にすぎないが、犯罪行動との正の相関のある遺伝子、すなわち「犯罪遺伝子」が発見される可能性は皆無とはいえない。もしこのようなものが発見されれば、そうした遺伝子を持つ人間が優先的に容疑をかけられることになるだろうし、予防拘禁に利用されるおそれもある。

前にも見たように、この領域に手をつけることは個人の尊厳をおかすという議論がある。しかし、このような理由での禁止は正当化できるだろうか。まず、最初に指摘すべきことは、個人の尊厳とは何かということについてわれわれは非常に漠然とした直観しか持っていないという点である。しかも、「個人の尊厳」という言葉にはかなり強い情動的な意味があり、これを根拠とした議論に対しては、反論すること自体が道徳的な非難の対象になりかねない。このような言葉に依拠して議論しようとすれば、感情的で非生産的な議論にならざるをえないだろう。そこで、まずはこの言葉を使わずに、「危害」や「権利」といった内容のはっきりした言葉を使って議論を組み立て直すことを試みてみよう。

では、正確にいって、意味のある遺伝情報を読み取ることによって一体どういう危害を加えられていることになるのだろうか。ここでは、遺伝情報の種類をいくつかに分けた方がよい。まず、見れば分かる遺伝情報がある。皮膚の色、髪の色、目の色などはおおよそ外見から分かる。次に、見ただけでは分からないが、その情報を知ること、知られることによって特に困ったことが生じるわけではないものもある。たとえば免疫反応の型はそれ自体として(移植でもしようというのでない限りは)大して意味のある情報ではなく、別に知られてもそれほど困るわけではない。最後に、その情報に強い関心が働き、しかも見ただけでは分からないような情報がある。たとえば遺伝病の有無に関する情報はこれにあてはまる。さて、このように分けてみると、前2者は、個人情報の自己決定権の範囲内で処理できるように思われる。そして、個人情報の自己決定権で処理できるのであれば、前節に述べたような形で問題解決をはかることができるはずである。

まず、見ただけで分かる情報は、多少情報を得る過程が違っていても、結果として得られるのは目で見ても確認できることにすぎない。問題は、情報がどのルートを通ったかという経路の問題であり、これは正に個人情報の自己決定権の問題領域に属しているといえる。もしDNAからその情報をえることが禁止されるべきだというのなら、目で見て確認することも同じように禁止されないのはなぜかという疑問が生じるだろう。また、見て分かるわけではないが、血液型もこの同じ部類に含めてよいだろう。、血液型については、現在でもすでに塩基配列からABO式やRH式、MN式の血液型を読み取ることができるようになりつつあるが(池本1993pp.32-33)、血液型は令状さえあれば調べることができる。それならば、同じ条件下で同じ情報をDNAから読み取るのがなぜ悪いのか。もしこの情報をDNAから読み取ることが個人の尊厳を侵すことになると言うのであれば、今度は逆に、なぜ直接血液型を調べることが個人の尊厳を侵すことにならないのか、という疑問が生じてしかるべきであろう。

また、それ自体では特に関心を引くわけでない情報については、結局、自分の許可もなくその情報が相手に伝わることが問題なのであり、これもまた個人情報の自己決定権で処理できる問題である。

結局、最後に残った3番目のタイプだけに個人情報の自己決定権を越える問題があることになる。こうした関心の中には、ほとんどその人の人格の根幹に関わったり、存立の基盤に触れられたりするような重大な影響のある情報も含まれるだろう。しかし、これも利害関心である以上は基本的には他の権利や利害と比較考量することが可能である。もちろんある程度以上強い利害関心については、それを常に保護する(この場合ならその部分のDNAの情報を読み取ることを禁止する)ことにした方がよい結果を生むことがあるのは確かである。しかし、これもまた他の利害との比較によってはじめて下すことのできる判断である。「個人の尊厳」といった「絶対に保護されるべきだ」というニュアンスを持った言葉を持ち込むことは、こうした考察を不可能にするものであり、かえって議論を混乱させる危険性すらある。

確かに、遺伝的情報を読みとられることに対して、われわれが一種の気持ち悪さを感じるのは確かである。もちろんこの感情自体も保護に値するわけだが、それは他のさまざまな利害関係との関わりで決まることなのである。

第5節 議論の方向

以上、DNA鑑定の現状とこれからについて一通りまとめてみたわけであるが、まだ議論は端緒についたばかりとの感が強い。本稿でも、実質的な議論に至らず、議論の方向の検討で終っている部分が多い。今後議論を深めていく必要があると思われるのは以下の諸点である。

(1)許容されるDNA鑑定と許容できないDNA鑑定の間の線は、いかなる理由で、どこに引かれるべきか(とりわけ「すべりやすい坂道」との関係で)

(2)個人情報の自己決定権とその他の権利や利害とのDNA鑑定にまつわる葛藤はどのような方法で解決すべきか。

(3)データベースはどのレベルまで許容されるのか、どのように運用されるべきか。

(4) 有意な遺伝情報を読み取ることの問題は本当のところなんなのか、具体的にどの程度まで規制課されるべきなのか。

これらの点について今後益々議論が深まって行くことを期待したい。


(注1) この種の主張は枚挙に暇がないほどだが、とりあえずタック1992p.187、岡田1992a p.24、岡田1992b p.6などの推進派の側に多く見られる。

(注2) まず、ここまでに述べた背景情報をGとし、この背景情報の下でのXの確率をPg(X)で表すことにする。「容疑者が犯人である」という事象をH、「容疑者が犯人ではない」という事象を~H、「容疑者のDNA型が現場に残されたDNA型と一致する」という事象をIと置く。この時、「容疑者のDNA型が現場に残されたDNA型と一致したという条件下で容疑者が犯人である確率」すなわちPg(H, I)の値はベイズの定理により次のように表される。

Pg(H, I)=Pg(H)Pg(I, H) / {Pg(H)Pg(I, H) + Pg(~H)Pg(I, ~H)}

このとき、Pg(H)すなわち容疑者が犯人である事前確率は500001分の1、 Pg(~H)すなわち容疑者が犯人でない事前確率は500001分の500000と置くことができる。また、容疑者が犯人であればDNA型は必ず一致するので、Pg(I, H)=1となり、背景情報により、容疑者が犯人でないのに偶然一致する確率すなわちPg(I, ~H)は1000000分の1である。以上の数値を代入して計算するとPg(H、I)の値はちょうど3分の1となる。

(注3) なお、92年4月の指針制定以前に行われたDNA型鑑定は73件で内8件が裁判の証拠として使われたという。佐藤1993参照。

(注4) Vgl., Ch. Rademacher, Zur Frage der Zul郭sigkeit genetischer Untersuchungsmethoden im Strafverfahren, Stv (1989), S. 548f.; ders., Verhinderung der genetischen Inquisition, ZRP (1990), S.381f.

(注5) 日本では犯罪の種類別の再犯率の統計は存在しないようだが、『犯罪白書』の平成6年版によれば監獄を満期で出た者のうち6割近くが5年以内に再入所しているそうである。

(注6) 厳密にいえば、DNAデータバンクには二通り考えられる。すなわち、DNA自体を集積するものとDNAを分析した結果を集積するものである。しかし、日本で当面予想されるのは後者のタイプであり、したがってここではもっぱら後者のデータバンクの分析に終始する。

(注7) なお、日本の警察では単一のDNA上の部位における繰返し回数を使った型番表示を行なっているので「DNA型」という名称が使われるが、アメリカの場合はDNA指紋法が中心で、総称としては「DNAプロフィール」という語が用いられているようである。

(注8)1995年4月11日付毎日新聞によればイギリスでも同種のデータベースが全国規模で作られたとのことである。

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Last modified: Tue Sep 22 13:41:24 JST 1998