ヒトゲノム解析計画そのものを問うこと---解析後の諸問題を検討する前に---

松王政浩

ヒトゲノム解析に伴う倫理的問題を考えるときに、多くは、解析の結果として出てくる種々の問題に焦点が当てられるが、その一歩手前の議論として、そもそもヒトゲノム解析を今後も積極的に押し進めていくべきかどうか、すなわちヒトゲノムを解析することそのものの倫理的是非を問う議論がある。

確かに、今後ゲノムの解析を進めなければ人類の遺伝病(あるいは「すべての」病気)からの解放という長年の夢は潰えてしまうだろうし、また学的価値の面から言っても、昨今飛躍的な進歩を遂げる分子生物学のより一層の進展を期待することができなくなるであろうから、そうした損失を考えると解析作業を直ちに凍結することなど、現実には考えにくい。しかし、ヒトゲノムがもつであろうわれわれ人間に関する情報の広範さと、それをわれわれ自身が手にすることの意味を問題にするとき、果たして解析・研究を無批判に認めて、倫理的問題を単に「研究成果の受容」という応用レベルにだけ限定してしまっていいものかと問われたら、すぐにはYESと答えられないのではないか。

YESと答える根拠になりそうなものとして、たとえば、「知ること」がすぐに「行うこと」にはつながらないではないか、だから「知ること」については無批判にOKだという議論があるが、この議論は人類の核兵器開発の事実の前に、どれほどの説得力をもつものだろうか。また、すべての科学的研究は何らかの危険性をもつものだから、ヒトゲノム解析だけを問題にする必要はない、という発想もあるだろうが、余りに楽天的なものであってこれもそれほど有効ではないと思える。

すでに遺伝子診断などに伴う職業差別や保険加入の問題、出生前診断と中絶の問題など、遺伝子に関する問題で、現実の問題としてわれわれの身にふりかかってきていることがらが色々とある。そのような具体的問題はもちろん無視することはできないし、早急な対応が要求される。しかし、いわばそのような事後処理的な対応ばかりでなく、おおもとの解析・研究をも倫理的に問題にしようという態度は、それほど不用意に捨て去れないものだと思う。ところが、現在の議論の趨勢を見てみると、ヒトゲノム解析そのものを問題視することは意味がない、という考え方が大勢を占めていて、この問題が閉め出されつつあるような感じがある。果たしてその反駁は本当に有効なのだろうか。

本稿では、ヒトゲノム解析そのものを問題にする主な立場と、それを意味がないとする立場を対置し、後者による反駁が必ずしも有効だとは言い切れないことを示し、ヒトゲノム解析に伴う問題の困難さの一面を照射したい。

神を演ずる

人の「全設計図」に比せられるヒトゲノムの解析を進め、その設計図に変更を加えようとすることは、人の分を越えた振る舞いをすることになるのではないか、人が神を演ずる(play God)になることになるのではないか、という危惧がある。たとえ信仰をもたないものにとっても、これは直ちに一笑に付すことのできない意味を持っていると思われる。すなわちこの危惧が、ヒトゲノム解析そのものを問題にしようとするときに直感的に受け入れやすい、第一の足がかりとなるだろう。(ことさらヒトゲノム解析を問題にしようとしなくても、ヒトゲノム解析について初めて聞いた人の多くが、これに類した感情を少なからず抱くのではないかと思われる。)遺伝子がわれわれの目の色や身長、あるいは病気の因子というような身体的特徴だけでなく、知能や性格などといった精神的特徴をも多分に支配している可能性があるのだとすれば、人の遺伝子の総体であるヒトゲノムをすべて解析し、操作しようとすることは、正にヒトの「創造」に人自身が関与することだと言える。もちろん目下のヒトゲノム解析計画の主眼は遺伝子診断や遺伝子治療のための有効な情報を得る、ということにあるわけだが、計画の究極においては間違いなく「創造」に関与することになるだろう。(1)

これが直ちにヒトゲノム解析批判につながるわけではないが、少なくとも宗教的には何か問題がありそうに見え、そこに一つのヒントが潜んでいるのでは、と考えたくなる。実際、アメリカでは大統領の諮問機関が3人の主要な宗教指導者に、遺伝子操作に関する宗教的な反論を検討するように依頼したことがある。ところが案に反して、その答えは次のようなものであったという。

「神学者たちの見解では、分子生物学の昨今の発展は、人間が所有すべきではない力を不法行使しているから禁止じるべきものだというのではなく、むしろ責任の問題を生じさせている。聖書に基づく宗教では、人間もある意味では創造主とともに創造するもの(co-creators with Supreme Creator)だと教えている。それゆえ…自然に関する知識の増大は、その知識に対する責任ある使用と同様、賞賛され、勧められるものである。(以下省略)」(2)

すなわち遺伝子の解明、操作は宗教的(神学的)観点から否定されるどころか、むしろどちらかといえば推進するかのごとき判断がなされたのである。

しかし宗教者が容認的態度をとったからといって、それは、信仰の対象である神への不遜にはならないだろうということが確認されただけだとも言える。つまり、「神を演ずる」ということでわれわれが(たとえ直感的にでも)危惧することは、信仰の問題にとどまらない倫理的な奥行きをさらにもつ、と考えられる。というのも、上の宗教者の言葉だけでは、われわれがはじめに抱くような危惧が必ずしも十分に払拭された気がしないからである。

信仰の問題・神学的問題を離れるなら、「神を演ずる」という言葉で他の問題を浮き彫りにしようとするのはとうてい無理である。言葉の許容範囲を広げてやれば、「われわれが皆ここにいるのは、二人の人間が生命を創造するという神を演じてきたからである。」(3)というようなことが簡単に言えて、問題の焦点がぼけてしまう可能性があるし、また、「『神を演ずる』ことに対する抽象的な警告は、研究にショックを与え、それを遅らせるかもしれないが、避けなければならない具体的な危険がどのようなものであり、どんな政策を採ればいいかということをほとんど教えてくれない」という批判を簡単に招いてしまうことになるからである。(4)

そこで、「神を演ずる」という言葉を別の3つの言葉に翻訳し、改めて問題を捉え直すことにする。

進化への危険な介入

「神を演ずる」ということに、一つには、これまで不可侵であった聖域を侵すことになる、という意味を与えることができるだろう。その「聖域」のイメージをもつ具体的なものは何かといえば、それは「進化の過程」である。すなわち、ヒトゲノム解析計画は進化の過程への危険な介入になるのではないか、という危惧として、解析計画自体を倫理的に評価しようとすることが、まず一つ可能ではないかと思われる。

この立場をサポートする見解は、だいたい次の考え方に集約される。すなわち遺伝子は進化の過程での生成物であり、遺伝子を操ろうとすることは、進化への人為的な介入である。何百万年というヒトの進化の過程(特に遺伝子レベルでの変化)の生成物に、部分的な変更を急に加えようとすることは、ゲノムの中の「他の遺伝子との調整」(5)や「地球環境との関わり」(6)に取り返しのつかない重大な問題を生じる可能性がある。遺伝子操作の誤りは修復がきわめて困難であろうし、影響が何世代にも及んで、もしかすると種としての人間の存亡に関わることが出てくるかもしれないからである。そこで、ヒトゲノム解析計画自体の性質が問題になり、計画にマッタをかける必要が場合によっては出てくるのではないか、と。

さて、これに対して次のような反論が直ちに出てきそうである。遺伝子への介入を遺伝的疾患の遺伝子「治療」に法的に限定するなどすれば、進化論上の問題など出ないのではないか、それゆえ解析自体を阻止する理由は全くないのであると。ところが治療だからと言って、DNA断片をゲノムの特異な位置に導入したことによるゲノムの他の部分の形質発現がどうなるかは全く分からない、という点では変わりがないし(7)、また「治療」の概念の曖昧さゆえに、それがどんどん拡大解釈されて、それが文字どおり「種の改善」につながる可能性もなくはない。(この問題については、後の「滑りやすい坂」の議論で取り上げる。)それゆえこのような反論は、ここでは取り合わない。かわりに、P. SingerとD. Wellsの議論を反論の代表的なものとして取り上げよう(8)。

彼らの主な論点は次の二点である。まず一つは、人間の進化への介入は今に始まったことではないということ。人間は既に家畜の交配や植物の品種改良などで、長いあいだ進化のプロセスに介入してきている。先進国における社会保障も、それがなければ貧しい子供達が生きられないのだから、進化への介入である。そして今、最新の技術(遺伝子操作)によって、重度の欠陥をもつ赤ん坊を救うなら、これもまた進化への介入である。

第二点は、進化それ自身は決して聖なるものでも賢明なものでもないのであって、それ自体が我々の苦しみを軽減してくれるものではないということ。すなわち進化を神聖視する必要は必ずしもない、ということである。

この二つの点を理由として、遺伝子操作による進化への介入を禁じる必要はないのだとしている。ここでは直接ヒトゲノム解析計画について言及しているのではないが、この主張はもちろん解析計画が倫理的判断を免れているという主張につながっていくものである(9)。(もっとも彼らは進化への介入について、オーストラリアへの兎やブラックベリーの移入が生態系に重大な影響を及ぼしたことを挙げ、介入には慎重にならなければならないことをつけ加えてはいる。)

おそらく第二の点についてはその通りで、大きな問題はないだろう。問題は、第一の点である。第一の点をさらに踏み込んで解釈すれば次のようになるだろう。われわれ人間はこれまでも進化に介入してきたが、「これまでは」この介入がそれ自体で問題になることはなかったし、むしろわれわれに幸福をもたらすものですらあった。「それゆえ」遺伝子操作も、これが進化に介入するということだけでは、それを捨て去る理由にはならないのだと。つまり、これまで人間の営みの中でなされてきた進化への介入と、遺伝子を解析し操作することによる進化への介入は、「進化への介入」という点では「同じ」ものであり、両者に質的差を認めなくてよい、あるいは差があるとしても、今の場合無視してかまわない、というのが前提になっていると思われる。(質的差に関しては論文の中で全く言及がない。)そしてそれ以外には、遺伝子操作を一般に行うこと自体が、あるいはゲノム計画そのものが、倫理的に問題にはならない、ということの「積極的」理由は示されていない。

これを果たして有効な反駁とみなすことができるだろうか。「質的差」というものを、そう簡単に今の議論で無視することができるのだろうか。

実はこのような議論のたて方は、他の二つのタイプの反論にも全く共通していると思われる。このことを確認してみよう。

不十分な知恵

「神を演ずる」という言葉で象徴されるわれわれの危惧の、もう一つの具体的な意味は、「(神の全能omniscienceに対して)人間の不十分な知恵と知識で遺伝子を操作し、人の創造に関与することは、われわれがプロメテウスになることであって、神罰に値する取り返しのつかない惨事を招きかねない」というものである(10)。

これは先ほどの「進化への介入」の話と重なり合う部分もあるが、(神との対比で)人間の知恵が本来的に不完全であることをはじめから前提しているという点で、進化の議論より、ある意味で「強い」論の立て方であると言える。進化の議論では、ヒトの進化の全容が解明されることに伴って--このようなことはまず考えられないと思うのだが--ヒトゲノム解析計画に対する危惧が排除される可能性をまだわずかに残しているが、今の場合はそのような種類の「完全な知」をえる可能性をはじめから「永久に」認めないからである。つまりヒトゲノム計画の、少なくとも現時点で予想されるような将来的展開の規模、あるいはその影響の大きさに鑑みて、この計画には「内在的」限界があることを主張している。確かに、人を創造することは「全能」によらねばならない、という定式がこの主張には前提としてはじめから入っていることは事実だが、人の知識・知恵が現実に、そして将来的にもおそらく不十分だということを認めるなら、あながちこのような考え方も、「極端だ」「独断だ」として即座に排斥することはできないだろう。すなわちヒトゲノム計画自体を問題にする一つの契機にはなると思う。

ではこの主張に対してどのような反論がなされるか。K.Bayertz (GenEthics)の場合を取り上げてみよう。

彼はまず、人間の知識の不十分さを十分に認める。「われわれは自分自身に関して、この種の知識(全知)をもたず、また将来も決してもたないことを知っている。どれほど科学が進んでも、人間の判断はつねに不十分な情報でしかなされない。」(p.175)そして、これまでのわれわれの「自然の征服」が世界的な規模の生態系の破壊を招いてきたことに触れながら、こう言う。「人類は大災害を避けるのに十分な、自然を扱う知恵をもたなかった。それゆえ、人間の本性(human nature) に関わる部分(遺伝子)を扱う場合にも、同様の帰結を招くのではないか、と恐れることは理にかなっている。」(pp.175-176) さらに、「一歩前進して、その結果を評価する」という作業を繰り返して、誤りを最小限にしようというGrobsteinのpragmaticな戦略も、「現在の生態系の問題から十分明らかなように、たった一歩踏み出しただけでも、全体に及んでしまう新たな影響、未知の結果をつけ加えてしまうことがあり得る」(p.177)ので、必ずしも有効ではないとし、また「他のテクノロジーと違い、遺伝子と生殖に関するテクノロジーについてのあり得そうな結果は、たとえ控えめな結果であっても、人間に直接的な影響を及ぼす」として、はっきりと、遺伝子操作と他のテクノロジーの間の質的差にさえ言及している。

しかし、である。Bayertzは、一方でまず、われわれの知識の不十分さを擁護する。「われわれは予め行為の全ての結果を査定することはできない…が、これまで、あらゆる人間の行為の帰結に関する不確かさが、人間の活動に対する正当な反対意見として受け取られたことは決してなかった。」(p.176) そして、上でせっかく認められた「他のテクノロジーとの質的差」も、次のようにしてその意味あいを薄められる。「遺伝子と生殖に関するテクノロジーに含まれる危険性の特有の側面は、それが人間の生命と健康に与える直接的な影響に帰すことができるかもしれない。しかし、この点では、遺伝子技術と他の『医学的』テクノロジーとの間に違いはないのである。」(p.177) つまり、遺伝子のテクノロジーと従来の外科手術や移植手術との間には有意な差はない(質的差はない)とし、そのあと結局は、これを理由として、一般に遺伝子レベルで人間自身に介入することそのものに反対することはできない、とするのである。そしてBayertzはさらに後の議論で、問題はこのような介入の「事実的な帰結」を判断するわれわれの価値観だ (p.178) と述べているので、ゲノム解析のような「事実的な」研究は何ら問題がない、という結論に至ることになる。

ゲノム解析をはっきり「事実的」と捉えるところ以外、結局先の進化の議論と論旨展開の上で大きな差はない。ただ人間への介入の幅が狭まっただけで、「これまでのものと差がないのだから反対はできない」という論法は変わらない。それゆえ、「本当に遺伝子テクノロジーを行使すること自体(あるいはゲノム計画)を問題にしなくてもよいほど、他の『医学的』テクノロジーとの差は小さい(またはまったくない)と言っていいのだろうか」という先ほどと同種の疑問をここでも出すことができる。

ところで、ゲノム解析を純粋に「事実的な」ものとして考えることができるか(実用可能な科学研究において、知ることと行うことを完全に分離することができるか)、ということについては本稿の冒頭でも少し触れたように、私は「できない」という立場をとる。それゆえ上記の主張に含まれるような、ゲノム解析自体は「事実的」だから倫理的に問題になることはない(11)、という部分については、ひとまずここでは棄却しておく。この問題に関しては、次の節の中であらためて触れることにする。

滑りやすい坂 ( Slippery Slope)

「神を演ずる」ということの、残るもう一つの具体的な意味づけは、いわゆる「滑りやすい坂」の議論である。これはヒトゲノム計画そのもの、あるいは遺伝子操作を行うこと一般を問題にした議論としては、これまで扱われる機会が最も多かったのではないかと思う。少し詳しく論じてみたい。

「滑りやすい坂」は、何もヒトゲノム解析問題に適用される固有の議論ではない。様々な問題に適用されるこの議論の骨子は、だいたい次のようなものである。

「われわれが、ある特定の分野で何か新しいことを行うことになると、それは始めのうちは罪のないものに思えるのだが、最後には必ず道徳的に非難されるべきことを行う、あるいは容認することになる。」(12)

これはあたかも人間の「原罪」に根ざしたかのような主張にも見えるが、これが実際に適用されるときには、そのような宗教的意味あいは全くといっていいほどないだろう。人間が侵してはならない「聖域」を想定したり、「神の全知」を背後に要請したりすることは、この議論にはない。むしろ、「ことの本質として」行為の帰結が上のようになることは免れない、これは必然的真理だ、ということを主張しているのである。そしてそのような「事柄の必然的本質」を曲げようとすることなど神にしかできないではないか、という意味で、つまり「全く不可能なこと」=「神にしかできないこと」というような皮肉な意味で、この議論もまた「神を演ずる」ことを否定しようとするものなのである。

もちろんこれが、もしわれわれの行為「すべて」に適用される考え方だとすれば余りに悲観的なものの見方になってしまうので、実際にこの考え方が適用される場合には別の条件が付け加わり、適用される範囲はかなり限定されたものになるだろう。今はこの一般的な適用という問題には関心がない。ではこれがヒトゲノムの問題、あるいは遺伝子操作の問題に適用されるとどのようになるだろうか。この種の議論の主唱者とも言うべきJ. Rifkinは次のように述べる。

「われわれがいったん、遺伝子工学のプロセスを開始しようと決めると、それをやめることは実際、論理的に無理である。もし糖尿病や鎌型赤血球貧血、ガンなどが人の遺伝子組成に変更を加えることによって治るのだとしても、そこから他の『異常』(disorders) に手を加えることへと進んでいかないことはあり得ない。つまり、その次には近視を、色盲を、そして左利きを治す、というように。実際、社会がある種の肌の色を異常であると決めるのを、いったいどうして妨げることができるであろうか。」(13)

また、ニューヨーク・タイムズの社説は次のように論じている。

「欠陥をなおすというのは、確かに一つの言い分である。しかし、いったんそれが日常的なことになってしまうと、より健康であるとか、より見栄えがよいとか、あるいはより頭がよい、というような望ましい性質を与える遺伝子をつけ加えることに異議を唱えることは、はるかに難しくなるだろう。遺伝子の欠陥を治療することと種の改善をすることの間に、識別可能な( discernible) 線を引くことなどできないのである。」(14)

この二つの主張(どちらも主張内容に大きな差はないと思うが)は、意味を強くとると、「それゆえ遺伝子工学、ひいてはヒトゲノム解析計画を全面的にやめてしまうべきだ」という主張であるとも受け取れる。しかしわれわれはとりあえずそこまで踏み込まずに、これらを「ヒトゲノム計画自体を問題視しようとする一つの可能な議論である」と判断するにとどめよう。そしてこの主張に対する反論がどのようになされるかにむしろ注目することにしよう。本稿の関心は、ヒトゲノム計画を否定することにあるのではなくて、あくまで「ヒトゲノム計画自体は倫理的問題の対象外である」という主張の妥当性を問うことにあるからである。

ではこの「滑りやすい坂」議論に対してどのような反論がなされているのか。N. Holutugの"Human Gene Therapy: Down The Slippery Slope?"が非常に典型的で、かつわかりやすいと思うので、ここではそれを例として取り上げよう。

Holutugは、まず上のような「滑りやすい坂」の議論に対して二つの可能な解釈を示し、そしてその各々に反駁を加えている。

第一の解釈は、logical version と呼ばれるものである(15)。これは上のslippery slope の議論が次のようなタイプの議論であると解釈するものである。「AとBの間に有意味な(relevant) 道徳的特性(moral property) の差がないときに、Aを認めるならば、われわれはBも論理的に認めるなければならない(Bを拒否するいかなる論理的な理由もない)。」例えば上のRifkinの主張にこの解釈を当てはめると、この主張はこうなるだろう。「鎌型赤血球貧血に遺伝子治療を行う場合と、左利きを「治す」遺伝子治療を行う場合とでは両者に有意味な違いはないので、前者を認めるならば、後者を認めない合理的な理由はない。」

このversionに対してなされるHoltugの反論の要旨はこうである。この場合、もし鎌型赤血球貧血を治す遺伝子治療と、左利きを右利きにする遺伝子操作の間にrelevantな違いがあることが示されれば、Rifkinの主張は成り立たないということになるが、これを「治療」(corrective therapy)か「改造」(enhancement therapy)かという二分法で処理しようとしてもダメである。というのもこの線引きは曖昧だし、また必ずしも「改造」がダメだとは言えない場合があるからである。(例えば、エイズにならないという遺伝子を全く健康な子どもに組み込むことは明らかに「改造」であるが、これはむしろ推奨されるべきである。)しかし「公平さ」fairnessだとか「福祉」welfareという観点からすればrelevantな違いが出てくると言えるのではないか。(Holtugはここで、典型的な遺伝病の治療と、子どもの知能を高くする遺伝子操作とを例に挙げてこのことを示しているが、この詳細はわれわれの後の議論に関係ないので省く。)relevantな違いを生じさせる基準が「公平さ」なのか「福祉」なのか、あるいはまた別のものなのか、ということで線引きは確かに恣意的(arbitrary)であって、決してdiscernibleな確固としたものではない。しかし、このような恣意性は従来応用倫理にはつきものであって、このこと自体を責めることはできない。恣意的なものの中で議論をつくせばよいのだ。それゆえ、恣意的な部分はあれrelevantな差は生じるのだから、「滑りやすい坂」のlogical versionは成り立たない。(それゆえ倫理的に問題になるのは、この線引き作業であって、ヒトゲノム解析などの研究そのものは問題にならない、とHoltugが主張するだろうことは明らかである。)

以上がおおよその反論内容である。さて、これが十分な反論になっているだろうか。たとえば上の議論では、いくつかの遺伝子操作の中で「どれが一番公平か」というような、つねに二つ以上の遺伝子操作を比較することが前提となっているのではないか(これは奇妙な気がする)とか、時間の観点が入っていないのではないかとかいうことも気になるのだが、最も問題にしたいのは次の点である。恣意的な線引きが何らかの社会的合意の元に可能である、というのはいいとしよう。しかし、研究自体がどんどん進められれば、線引きのために考慮しなければならない対象が増加し、そうなるとたとえ線引きの基準をクリアするものであっても、それを実行することにより予想だにしなかった事柄が生じる可能性も格段に大きくなるだろう。(当然、線引き自体も困難を極めるであろう(16)。)けれどもその影響の大きさは、これまでの応用倫理の対象である他のテクノロジーの影響と隔絶した質的差をもたない、といえるのだろうか。ゲノムの問題を線引きのレベルだけで捉えようとする上の立場は、「質的差をもたない」と答えることだろう。「これまでの」応用倫理が恣意的な基準で何とかなるのだったらゲノムもそれでなんとかなるだろう、ということを言っているのだから。もし質的差があるということになれば、もはや線引きだけが問題だとは言えなくなる。果たして質的差はない、線引きだけが問題だと言い切れるのであろうか。このように、ここでもやはり、先ほどまでと同じような問題に出くわすことになるのである。

「滑りやすい坂」の第二の解釈に移ろう。第二の解釈はempirical versionと呼ばれるもので、この解釈に従うと、その意味するところは「想定される行為と、滑りやすい坂の端にある望ましくない結果との間には因果的な関係が成り立つ」ということになる。この「関係」というのは、logical versionのようにたとえば「鎌型赤血球貧血症の治療」と「左利きを治すこと」の間の関係を言うのではなく、このそれぞれの遺伝子操作とそれぞれが招く結果との間の関係を言っている。つまりいずれの遺伝子操作も、いったん行われると、それが明らかな治療的意味あいをもつと認められるものでさえ、最後には好ましくない結果を招くということが、因果的に成り立つという主張である。

すべての新しい科学技術は、はじめは必ず「好ましいもの」「誰かの利益になるもの」として導入される。遺伝子操作もそうである。「左利きを治す」ということもそのような名目で導入されないとも限らない。しかしそれらが「好ましからざる結果」を招くことは、これまでの科学技術の実施から経験的に知り得たこととして、「因果的」に避けられないことなのである。そして遺伝子操作に関しては他の科学技術とちがって、その好ましからざる結果が当初の好ましさをはるかに凌ぐと予想される。それゆえ「左利きを治すこと」だけでなく、一切の遺伝子操作にマッタをかける必要がある。こうした主張は、その中の「因果性」をどう考えるかが難しいところだが、われわれがこれまで疑問として出してきたことをかなりストレートに表していると思われる。

この解釈に対するHoltugの反論は、因果性に対する次のような解釈を通して行われる。ここでの因果性は、ふつうtechnological imperativeと呼ばれるある考え方に基づいている。technological imperativeとは、「いかなる科学技術が生まれてきても、われわれはそれを使う(あるいは誤用する)ようになる」という考え方である。すなわち、科学技術に関する「知」は決して純粋な「知」のままにとどまっていることができずに、必ずそれは実際に実用化される(あるいは往々にして悪用される)のであると。

さてHoltugはこれを二つの点から反駁しようとする。まず一つはこうである。仮にtechnological imperativeのようなものがあるとしても、「それはすべての科学技術に同様に当てはまるであろうから、遺伝子操作が他のものより誤用されることが一層免れないということをtechnological imperativeのせいにすることはできない。」(p.418)そして結局、外科手術や移植手術も多くの望ましくない結果を招くことがありうるのだから、もし遺伝子操作が、考えられる望ましくない結果のために捨て去られなければならないのなら、外科手術や移植手術も捨てられなければならない。しかしそんなことは誰も支持しないだろう。このような展開である。

続くもう一つの反対理由は、technological imperative自体が非常に怪しい考え方である、というものである。もしこのようなものがあるなら、それは経験的に証明されていなければならないが、「外科手術や移植手術に関するわれわれの経験は、この存在を確証してはいない。」(p.418)そして、Stephen Stitchの次のような言葉を引用する。「われわれが乳牛を飼育するように人々を飼育することが可能だと言うことを、われわれが単に知っているからと言って、technological imperativeが社会にそれを促すという証拠はないのだ。」(17)結局、「われわれの道徳的仕事は、知識を正しく使っていることを確かめることであって、それを捨て去ることではない。」(p.419)

上の一つめの反対理由に対するわれわれの疑問は、もう明らかであろう。ほとんど繰り返しになるが、確認すると、外科手術や移植手術と遺伝子操作を「好ましくない結果」において同程度だと考えることができるのか。あるいはその差があるとして、それは今の議論で無視してもかまわない要因なのか。少なくともこの点を曖昧にして、遺伝子操作そのもの、あるいは解析・研究が倫理的判断を免れていると言い切ることはできないのではないか。倫理的対象になりうる可能性、つまりそもそもの計画自体の見直しを計らなければならない可能性は決してゼロになってしまったとは言えないのではないのだろうか。

二つ目の反対理由に対してはこのように言いたい。「知ること」が「行うこと」に因果的に結びつくということは、確かに厳密に立証できないであろうし、またそれに対する反例はいくらでも挙げることができるかもしれない。しかしだからといって、知ることがいかなる場合でも行うことと独立であるとか、いかなる場合でも知ることは行為者によって完全に統制されているのだ、ということも同様に立証できないであろう。逆に知識の種類によっては行為と切り離しがたく結びついているものがいくらでもある筈だし、科学的知識の中にそのようなものがあっても不思議ではない。特にヒトゲノム解析計画は、「ヒトゲノム解析プロジェクトとはどんなことをするのか--ヒトゲノムの担う遺伝情報を全部解読します。そしてそれを我々の健康と幸福に役立てます。」(18)と唱われている。「知ること」だけで健康と幸福になれる人はいないのではないか。

このようにempirical versionに対する反論も、前までの議論と本質的な部分では同じ問題を呈示している。

まとめ

ヒトゲノム解析計画自体は倫理的判断を免れているということを擁護する代表的な意見は、本質的な部分で共通していると考えられる。もう一度念のために整理しておくと、遺伝子操作も人類のこれまでの人類自身への介入・干渉と質的に異ならない、遺伝子操作がダメならこれまでの科学もみな否定しなければならない、それゆえヒトゲノムの解析や研究自体は無批判的に継続すればよく、倫理的判断は「そのあと」のところですればよいのだ、という論法である。そしてすでに繰り返してきたように、これに対して、「遺伝子の問題はこれまでの介入、科学技術と本当に有意味な質的差をもたないのか」という疑問をぶつけることができる。それは、もしこの疑問にはっきりと「質的差をもたない」と答えられないのであれば、計画や研究自体が倫理的に問題にならないことが保証されないことになるからである。ところが、おわかりのように、今の段階では「質的差がある」とも「ない」とも全く分からないのである。これが研究のどの時点で判明するか、ということすら全く予想がつかないだろう。それゆえ、これまでみてきた論は必ずしも有効でない、つまり、ヒトゲノム計画自体が問題にされる「余地」が十分にある、ということである。

もちろん、だからといって計画の即見直しということは考えられない。それは、「もし今日われわれが遺伝子テクノロジーと生殖医学の分野のさらなる研究開発をやめてしまったしても、将来重い遺伝病をもってこの世に生まれてくるすべての人々に対するわれわれの責任がなくなってしまうことにはならない」(19)からである。しかし、研究を無批判に続けて、「他のテクノロジーと隔絶した質的差をもつものであった」ということが分かったときにはもう遅いのである。ここにジレンマがある。ヒトゲノム問題の難しさがある。

そこで、このジレンマに対処するために、少なくとも「ヒトゲノム解析研究自体は、どこまでも無批判に続けていって問題はない」という一種の信念のようなものはもたない、というのが賢明であるように思われる。つまり、どこかで研究を打ち切ることになるかもしれない、という覚悟が研究を続けていく上で必要なのではないかと思うのである。今は研究が始まったばかりで、そんなことは一見ばかばかしいような気もするのだが、今の研究姿勢が次の世代、また次の世代へと受け継がれていくと考えると、今このことに意識を向けておくことはあながち無駄にはならないのではないだろうか。

(1) 「現在記載されている遺伝的疾患は4000ほどですが、その大部分はまだ原因遺伝子の研究に辿りいません。しかし仮にこれらが全て明らかにされたとしても、さらに膨大な数の遺伝子がゲノム研究からみつかって来る筈です。(中略)ゲノム解析計画は究極において、これらの遺伝子全てを明らかにします。」(「ヒト・ゲノム 全遺伝子の解読を目指してー」p.40 , 文部省科学研究費補助金創成的基礎研究費「ヒト・ゲノム解析研究」総括班 発行. 1993.3)

(2)P. Singer & D. Wells, Genetic Engineering; ETHICAL ISSUES IN SCIENTIFIC RESEARCH, 1994, P.311.

(3)K. Bayertz, GenEthics, Translated into English by Sarah L. Kirkby, Cambridge, p.176.

(4)R. N. Proctor, Genomics and Eugenics; GENE MAPPING, Oxford, 1992, p.66.

(5)クリストファー・ウィルズ「シャーロック・ホームズ、ヒトゲノムに出会う」中村 定/山本啓一訳 ダイヤモンド社 p.445.

(6)安田徳一「人のための遺伝学」裳書房 p.203.

(7)遺伝子治療は今端緒についたばかりで、全くの模索状態である。ADA(先天性免疫不全症)の治療など一部、今のところ順調な成果を挙げている例もあるが、今後別の治療でどんな重大な弊害が出てこないとも限らない。

(8)Genetic Engineering, pp.312-313.

(9)P.Singerはヒトゲノム・プロジェクトに関して、優生学に触れた文脈で次のように述べている。「結局、ヒトゲノム解析は、優生学的プログラムを将来導入するかどうかについて、ほとんど影響をもたない。これは、より多くの遺伝的情報にではなく、むしろ政治的社会的要因に依存するのである。」つまりヒトゲノム解析自体は何の問題ももたないことを認めている。The Human Genome Project: for better or for worse?(THE MEDICAL JOURNAL OF AUSTRALIA, Vol. 152, May 7, 1990) p.485.

(10)この種の論を展開する論者には、Ramsey, Grobstein、Kassなどがいる。

(11)このような考え方は、非常に多くの人に浸潤してしまっているのではないかと思われる。例えば Loane Skene の"Some thoughts for those who say `There should be law on it'"( MAPPING THE HUMAN GENOME) などはその典型的なものではないかと思う。

(12)N. Holtug, HUMAN GENE THERAPY: DOWN THE SLIPPERY SLOPE? (Bioethics, Vol. 7, Number 5 1993) p.402.

(13)J. Rifkin, Algeny (New York), 1983, p.232.

(14)" Whether To Make Perfect Human Beings", New York Times, July 22, 1982. なお、13. 14の引用部分は、いずれもN. Holtug, HUMAN GENE THERAPYに引用されているものである。

(15)Holutug はさらにこのヴァージョンを二つに分けているが、それほど大きな差はないと思うので簡単のためにここでは一つにまとめておく。

(16)例えばBayertzは、こう言っている。「それゆえ違いは、このような点にある。生態系の問題や核兵器のテクノロジーの場合には、われわれは『単に』既存の同意された道徳的基準を実際の使用の教示とともに具体的な場合に機能させるという問題に直面するだけであるが、われわれは生殖の技術(遺伝子工学)に対しては、対応するような基準をもたないのである。GenEthicsの助けを借りて、それらを創出しなければならない。」GenEthics, p.188

(17)"The Recombinat DNA Debate", in Contemporary Issues in Bioethics, 1982, p.597 (18)「ヒト・ゲノム 全遺伝子の解読を目指してー」p.8 (19)GenEthics, p.184


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