東京大学大学院医学系研究科国際保健学専攻
大井玄
ヒトゲノム解析と倫理問題研究会が加藤尚武京都大学教授の主導の下に発 足して、まことに欣快です。この問題については、アメリカやヨーロッパにお いてすでに取組まれてきており、日本でも真正面から対応する必要が感ぜられ てきました。
「ヒトゲノム解析と倫理」に現れた問題の本質は、いうまでもなく、科学 技術の発達に伴ってヒトに新しい選択が許されるようになったことにあります。 すなわちヒトはその選択を導くべき倫理的規準を持ち合わせておらず、またあ る選択を行なった時に生ずる新しい問題への対応をも迫られています。今後こ の研究会に集まった優れた頭脳により、種々の難題が見出され、整理され、提 言がなされていくことでしょう。さて私は人類の80%が住む途上国の健康に主 な関心を寄せる国際保健学という領域におりますので、その立場から二、三の 懸念を表明させてもらいます。
第一にヒトゲノムに関する倫理は、最終的には全人類的生存に資するもの であることが期待されています。このためには、関連する情報が公開されてい る必要があります。しかし一部の国では、ヒトゲノム解析により得られた知識 情報の特許権を取得することにより、公開されるべき情報を占有化しようとし ています。
第二にいうまでもなくゲノム解折は医療に利用されることでしょう。しか し私は「よき医療」とは有効で安価で多くの人々の健康を守ることが期待され るもの、と考えます。ポリオワクチンやペニシリンはその好例です。ゲノム解 析に関連した医療はたしかに遺伝子的疾患に悩む患者に利益をもたらすにせよ、 高価であり、貧しい途上国の人々にとっては高嶺の花に終わる可能性がありま す。
最後にアメリカ、ヨーロッパのこの問題に関連する文献を読む限り、ヒト はいわゆる合理的思考をなし得る存在であり、自分の欲望を制御できる存在で あるかのような前提を置いているように思われます。しかしヒトの欲望を制す ることはきわめて困難に見えます。
一方においてはヒトゲノム解析より生ずる問題の倫理的解決を試みている アメリカ自身が、他方では得られた情報を特許により金銭化し、占有しようと しているのは、全人類による倫理的解決を妨げていると思われるのです。
どのような法律(や規準)をつくったところで、自己の欲望を制することが できないヒトには意味がないように見えます。たとえば、日本ではお巡りさん 一人の交番があるだけで街の治安が保たれているでしょう。しかしニューヨー クのある地域ではパトカーが右往左往しているのに麻薬の密売、強盗や殺人が 日常茶飯事のごとく行なわれています。自己の欲望を制御できないヒトは、厳 しい規則のもとでも、その行動を規制しがたいのです。
ゲノム解析というパンドラの箱を開けることにより、ヒトの欲望や貪り心 が自制できないほどまで刺激されるのを懸念するのは、杞憂というものでしょ うか。