出典: Herman T. Tavani, 'The state of computer ethics as a philosophical field of inquiry: Some contemporary perspectives, future projections, and current resources,' in Ethics and Information Technology, Vol.3, no. 2, 2001, pp.97-108.
キーワード: 概念上の混乱(conceptual muddles)、サイバー倫理学(cyberethics)、開示的コンピュータ倫理学(disclosive computer ethics)、グローバル情報倫理学(global information ethics)、インターネット倫理学(internet ethics)、公正帰結主義(just consequentialism)、論理的順応性(logical malleability)、主流のコンピュータ倫理学(mainstream computer ethics)、指針の空白(policy vacuum)
本論文の著者タバーニは、リヴィエ大学哲学科の助教授であり、応用倫理学の専門家である。本論文は、哲学的な研究領域としてのコンピュータ倫理学の三つの側面を、すなわち、(1)現状、(2)展望、(3)研究資源を概観するものである。タバーニはまず(1)コンピュータ倫理学の特有性、グローバリゼーションとインターネットの影響などを考察し、つづいて(2)コンピュータ倫理学が既存の倫理学に統合されることなく将来も独立した研究領域として残るか否かを検討する。そして最後に(3)定期刊行物、学会などの現時点で利用可能な研究資源を挙げる。以下ではタバーニの議論を要約する形で紹介していく。なお本文中の各節に対するナンバリングは原文にはなく、紹介者が補ったものである。
ムーア(J. Moor)の論文「コンピュータ倫理学とは何か?('What is Computer Ethics?')」がMetaPhilosophy誌に掲載された1985年と、現在とでは、コンピュータと情報技術が社会に及ぼす影響は全く異なる。当時はWWWや今日的な意味でのインターネットも存在せず、パーソナルコンピュータの所有者もごく少数だった。多くの人々はコンピュータに対して、非友好的で大きなメインフレーム、プログラムを作成できる少数の技術指導者(technical gurus)だけがオペレーションを理解している巨大な機械、というイメージを持っていた。ところが現在では、コミュニケーション媒体または仕事の道具としてのコンピュータなしの生活を想像しえないほどである。
コンピュータ技術の大きな変化に伴なってコンピュータ倫理学の課題もまた変化する、と考えられるかもしれない。この考えは一面では正しく、別の面では誤まっている。初期のコンピュータ倫理学において議論の的になったのは、公共部門および私的部門のデータベースによる個人情報の保存と交換である。たとえば、1960年代および70年代には、連邦政府が市民に関する膨大な情報を集積した電子記録のデータベースを作成するのではないかという恐れがあり、商業用データベース上に存在する電子記録に含まれる個人情報の交換の是非が議論されていた。つづいて1980年代には個人によるコンピュータ利用が一般化したために、制作者が所有権を主張できる(proprietary)ソフトウェア・プログラムを複製することは道徳的に許容されるのか、そしてより一般的に知的財産とは何かなどの問題が議論される。さらにインターネットやWebの発達に伴ない、言論の自由や匿名性(anonymity)などのネットワーク上での行動に関わる諸問題が議論の的になる。タバーニはこうしたコンピュータ倫理学の諸問題を特有性(uniqueness)、方法、グローバリゼーションとインターネットが及ぼす影響、という観点から分析する。
コンピュータ倫理学は応用倫理学の一分野であり、その正当性が従来も問われてきたし、現に問われている。こうした正当性に関わる問いの一端は、コンピュータ倫理学の問題が特有であるか否かをめぐる議論の中に現れている。コンピュータの引き起こす倫理的問題が従来の倫理的問題と何ら変わるところはないとする極端な見解に対して、メイナー(W. Maner)はもう一つ別の極端な見解を提唱する。すなわち、コンピュータの引き起こす倫理的問題に関して「非コンピュータ(non-computer)との満足のいくアナロジーを見つけられないことがコンピュータ倫理学の特有性を証明する」。つまり、コンピュータは従来にはない新たな倫理的問題を引き起こしたのである。
こうした極端な見解の中間的立場にあるジョンソン(D. Johnson)は類/種のアナロジー(genus-species analogy)を用いて次のように論じる。コンピュータが引き起こすのは、既存の一般的な道徳的問題の新種(a new species of existing generic moral problems)である。そして、コンピュータ倫理学の役割は、技術の利点と人間の価値との両方に焦点を合わせつつ、技術による「人間行動の道具化(instrumentation)」を認識することである。
ムーアは上に見た論者とは若干異なるアプローチを採用し、次のように主張する。コンピュータ技術は論理的に順応(logically malleable)であり、人間行動に新たな可能性を生じさせた点で他の技術とは異なる。そして、コンピュータ技術は指針の空白(policy vacuum)、すなわちコンピュータにより可能になった行動に関して行動選択を指導する規範的規則が存在しないという事態を生じさせる。通常の倫理学がこの事態に的確に対処しえないので、コンピュータ技術に関わる概念上の混乱(conceptual muddles)を解消し、指針の空白に対処する研究領域としてのコンピュータ倫理学が必要になる。
コンピュータ倫理学においてはムーアのアプローチが標準的方法に採用されるが、最近ではこのアプローチを問い直す動きもある。ブレイ(P. Brey)は主流のコンピュータ倫理学(mainstream computer ethics)を批判し、開示的コンピュータ倫理学(disclosive computer ethics)を提案する。ブレイによれば、コンピュータ倫理学は多次元的で学際的な(multi-level and interdisciplinary)研究であり、(1)開示レベル、(2)理論(theoretical)レベル、(3)適用(application)レベルに分かたれる。すなわち、コンピュータ倫理学は、(1)哲学者、コンピュータ科学者、社会科学者が協力して、コンピュータシステムに組み込まれた(embedded)規範性を開示する、(2)哲学者が道徳理論を構築および修正する、(3)他の二つのレベルで行なわれた研究から適用に関する知見を得る、という三つのレベルから成り立っている。また、アダム(A. Adam)によれば、ジェンダーに関わるバイアスがプライバシーや権力などの問題に対する我々の態度と指針とに影響するので、これらのバイアスを強調することがコンピュータ倫理学の適切な方法と見なされる。
ムーアが述べているように、コンピュータ倫理学は既存の政策を改めるだけでなく、新たな政策を正当化しなければならない。しかし、コンピュータ倫理学の主題のいくつかは特有なものであり、功利主義、義務理論、徳倫理など既存の倫理学理論をこうした主題に適用するのは容易なことではない。それゆえ、多くのコンピュータ倫理学者は既存の倫理学理論の結合や変容、あるいは新たな理論の構築を目論む。たとえば、ファン・デン・ホーフェン(J. van den Hoven)は、ロールズによって最初に提起された広義の反省的均衡(wide reflective equilibrium)が新たな指針の正当化に利用される実践的な道徳的推論の最良のモデルである、と論じる。また、ガート(B. Gert)はコンピュータに関わる倫理的問題を解消するために一般道徳(common morality)を重視した方法を提案し、ムーアはガートの議論に主張に依拠しつつ公平性(impartiality)の概念を取り入れた公正帰結主義(just consequentialism)の理論を構築する。さらにアダムは、伝統的な倫理学に立脚したコンピュータ倫理学がジェンダーに関わる問題を考慮しそこなうことを強調し、ケアの倫理やフェミニスト倫理に基づきつつハッカー問題などのコンピュータ倫理学の主題に関して従来とは異なる理解(alternative reading)を形成しなければならない、と論じる。
コンピュータ技術と通信技術がグローバルな影響力を持ち、しかも変化しつつあるために、コンピュータ倫理学もまた過渡期にある。そのためにコンピュータ倫理学と呼ばれる領域が現在生じている問題の本質と範囲を的確に捉えているか否かが問われることになる。まさに現在生じているコンピュータおよび情報通信技術に関わる倫理的問題を扱う領域を指示する言葉として、バイナム(T. Bynum)とロジャーソン(S. Rogerson)はグローバル情報倫理学(global information ethics)、ファン・デン・ホーフェンなどは情報通信技術倫理(information and communications technology ethics)、という表現を用いる。 インターネットがコンピュータ倫理学に与える影響も、人々の関心を集めている問題の一つである。たとえば、ジョンソンは、インターネット技術の注目すべき特徴として、グローバルで双方向的な射程(scope)、匿名性を伴なう通信能力、媒体上にある情報の再現可能性(reproducibility)、を挙げる。ジョンソンによれば、インターネット技術はこれらの特徴ゆえに、電子ネットワーク上の行動をネットワーク外での行動から道徳的に異なるものにしている。少なからぬ論者がインターネット技術の引き起こす倫理的問題を研究する領域にインターネット倫理学(internet ethics)、サイバー倫理学(cyberethics)などの表現をあてることは、インターネットが全く新たな倫理的問題を生じさせており、こうした問題を従来のコンピュータ倫理学とは別個に検討する必要があることを示唆している。
インターネット技術が新たな倫理的問題を引き起こしたか否かを検証するために、タバーニはプライバシーとコンピュータおよびインターネットの関係を分析する。ニッセンバウム(H. Nissenbaum)によれば、ネットワーク上で利用可能な情報は公共空間(public space)または親密圏以外の圏域(sphere other than the intimate)にある情報として扱われるので、ネットワーク利用者の一定の行動はプライバシー規範によっては保護されない。プライバシーに関する従来の規範的考察においては、公共の場でのプライバシーが理論的な盲点になっていたのである。この点に関して私(タバーニ)は、ムーアの提唱したプライバシーの管理/制限アクセス理論(control/restricted access theory)が公共空間における個人情報のプライバシーに関わる問題に拡大適用されうる、と論じたことがある。確かにインターネットは個人情報保護に関する問題を生じさせたのだが、インターネット・プライバシーとでも呼ばれるべき純粋で新たなプライバシー問題を生じさせたわけではない。すると、インターネット倫理学と称するコンピュータ倫理学とは別個の研究領域が必要だとする主張にも説得力がない、ということになる。
タバーニは以降の箇所で、コンピュータ倫理学が将来消滅するというジョンソンの見解に対する反論を試みる。
ジョンソンによれば、現在コンピュータ倫理学と呼ばれる領域は将来、通常の(ordinary)倫理学に統合され(integrated)、独立の研究領域としては消滅する。なぜならば、我々はいずれコンピュータを我々の住まう世界の一部と見なすようになるだろうし、コンピュータ技術による人間行動の道具化という論点も通常の倫理的思考に背景条件として組み込まれるだろうからである。ジョンソンの見解に対してタバーニは、コンピュータ倫理学は専門家倫理(professional ethics)または応用哲学(applied philosophy)の一領域でもあること、人工知能による意思決定に関わる倫理的問題があること、を根拠とする反論を行なう。 まずコンピュータ業界で働く専門家の責任に関わる問題が将来も消滅しない以上、コンピュータ倫理学が専門家倫理の一領域として生き残る、との指摘がコンピュータ科学者のゴッターバーン(D. Gotterbarn)によってなされている。さらに、マーチュラーノ(A. Marturano)によれば、ジョンソンの主張は(1)応用倫理学の一分野としてのコンピュータ倫理学が消滅する、(2)自律的な学問としてのコンピュータ倫理学が消滅する、という二通りの解釈が可能である。コンピュータが多くの領域に普及している現状では、そこで生じる倫理的問題もまたコンピュータに何らかの関わりを持つので、(1)の解釈を採用する場合には応用倫理学のあらゆる領域が消滅することになる。それゆえ、応用倫理学の一分野としてのコンピュータ倫理学は消滅しそうにない、とマーチュラーノは結論づける。
つぎに、人工知能やロボットなどの電子的な主体による意思決定に関わる道徳的責任の問題は、哲学者による注意深い概念分析を必要とするように思われる。そうすると、ジョンソンの見解はさほどの説得力を持たないことになる。そこで、コンピュータ倫理学の将来を正確に見通すために、以降の箇所ではコンピュータ技術の発展と収束を検討する。
タバーニによれば、20世紀後半におけるコンピュータ技術の発展は次の四段階に分かたれる。 第一段階は1950年代および1960年代であり、この頃のコンピュータ技術は巨大なメインフレーム・コンピュータを利用していた。当時のコンピュータに関わる倫理的問題の一つは現在では人工知能に関係づけられる問題、すなわち、思考機械(thinking machine)を発明することの是非である。また、別の問題として、ビッグブラザーから連想される恐怖、つまりコンピュータ技術は市民に関する大量の電子情報の政府による管理を可能にするのではないかという恐れがあった。
第二段階は1970年代および80年代であり、この時期はLANやWANなどのコンピュータネットワークが誕生し、通信装置としてのコンピュータ機器は技術的収束を見せ始める。この時期のコンピュータに関わる倫理的問題はプライバシー、知的財産、コンピュータ犯罪などである。 第三段階は1990年代から現在であり、WWWの発展によってインターネットへのアクセスが容易になった時期である。この時期にはネットワーク上における言論の自由、匿名性、裁判権(jurisdiction)、信頼などに関わる問題や、個人情報の公的性格と私的性格に関わる問題が生じた。 第四段階とは我々が現在その入り口にいる段階であり、ここではコンピュータ技術が空前の水準で収束する。我々はある意味で第二段階および第三段階においてすでに技術的収束に直面していたが、これらの段階では未だコンピュータは我々の外部にある道具に過ぎない。しかし現在ではコンピュータがある程度まで遍在(ubiquitous)し、生活の一部になっている。ハーリー(D. Hurley)によれば、いずれコンピュータは衣服の一部になるかもしれないし、埋め込みバイオチップ(bio-chip implants)のように身体の一部にさえなるのかもしれない。 2.3 哲学者は何故コンピュータ倫理学を研究しつづけるべきか? 現状ではコンピュータ倫理学という言葉は非常に拡張された意味で、すなわちコンピュータに関わる倫理的問題だけではなく社会的問題までを扱う研究領域を指示する言葉として用いられる。コンピュータ倫理学またはサイバー倫理学と称する著作においては、規範的であるとしても本質的に必ずしも倫理的ではない問題、たとえばネチケット(netiquette)と呼ばれるネットワーク上での正しい行動、コンピュータの将来に関しての訓話的な物語や仮想シナリオなどが展開されている。こうした現状では、コンピュータに関わる純粋な(genuine)倫理的問題を社会学的または記述的問題から仕分け(sort out)、プライバシー、知的財産、犯罪などに関する我々の理解を洗練することが、コンピュータ倫理学に携わる哲学者の主要な役割になる。 また、立法者の多くはネットワーク上の犯罪を、それがインターネット技術を活用して遂行されたというだけの理由で特殊な犯罪と見なし、「サイバー犯罪(cybercrime)」と呼んでいる。しかしながら、ある犯罪が純粋なコンピュータ犯罪であるのか、それともコンピュータ技術を偶然利用しただけの通常の犯罪であるのかを決定する明確な手続きがあるわけではない。こうした状況においては、コンピュータに関わる概念上の混乱を解消し、サイバー犯罪と見なされるべき犯罪を決定する明確で整合的な基準を提供することも、哲学者の役割になる。
コンピュータ倫理学が将来消滅するか否かの問いに対しては、ムーアが最も的確に答えている。すなわち、「もし哲学者がインターネットにおける概念的問題と倫理的問題とに立ち向かわないならば、誰がそうするのか?」、という答えである。哲学的な研究領域としてのコンピュータ倫理学は将来消滅することはないし、また消滅すべきではないのである。
以降の箇所でタバーニはコンピュータ倫理学の研究資源を挙げて、それぞれに簡潔な説明を加えている。ここでは紙幅の都合上、研究資源の名称と関連URLのみを記す。
コンピュータ倫理学に関する主要な学会およびシンポジウムは、次の六つである。
コンピュータ倫理学に関する主要雑誌および定期刊行物は、次の八つである。
コンピュータ倫理学に関する主要文献は、次の五つである。なお、(1)から(3)はコンピュータ倫理学全般を論じたものであり、(4)と(5)は人工知能、仮想現実(virtual reality)などの主題も検討している。
ネットワーク上の教育資源としては、コンピュータ倫理学の講義のシラバスへのリンク集(http://cecssql.cecs.csulb.edu/sigcas/course.asp)、コンピュータ倫理学の教材へのリンク集(http://cecssql.cecs.csulb.edu/sigcas/resources.asp)、1997年以前に刊行されたコンピュータ倫理学に関する文献目録(http://cyberethics.cbi.msstate.ed/biblio/)、などが有益である。また、Ethics and Information Technology誌には、最新の著作と開催予定の会議に関する情報が掲載されている。
コンピュータに関わる倫理的問題に関心を持つ人々は書籍、雑誌、ウェブサイトなどの資源を活用して本論文で検討したのよりも多くの問題を発見するだろう、としてタバーニはこの論文を結ぶ。