出典:Charles W. Harvey and Carol Zibell, “Shirinking selves in synthetic sites: On personhood in a Walt Disney World”, Ethics and Information Technology, No.2, 2000, pp.19-25.
この論文は、われわれの自我の傾向性が、技術的に構成された場所、すなわち「人工的状況」に おいてどの程度変化するのかについて述べたものである。「人工的状況」と呼ばれる技術的に統制の とれた環境と、個人のアイデンティティを認知及び行動の両面で制御する技術との連携が本論では 試みられている。そこでまず、経験を強化し自我を構成するという、ミハイ・チクセントミハイの 戦略について論じられる。そして、ウォルトディズニーワールドが、自我の収縮を通じて、秩序付け られた経験を促進する人工的状況の非常に優れた一例としてあげられる。最後に、「人工的状況」の 集合(archipelago)とみなしうる現代世界の人間生活の問題と可能性について、手短に考察が加えら れる。以下、論文を要約するかたちでまとめたが、文中の章立ては紹介者によるものである。
チクセントミハイによれば、善き生の本質的要素は、集約的かつ組織的な意識にあり、意識 をそのように秩序付けるためには、秩序化された情報のインプットが必要である。情報は 意識の組織化の手順を決定する力や構造を与える、とチクセントミハイは主張する。また、 高度に秩序化された情報を処理するためには、意識ができる限り集中していなければならない。 意識と世界の間のそのような相互作用は、チクセントミハイが「最適な(optimal)」と呼ぶ、 強化された経験である。最適な経験が起こるのは、ある人の技能(skills)がある状況における 挑戦(challenge)と均衡のとれた関係にあるときである。このような経験は、「フロー(flow)」と 呼ばれ、退屈と不安という二つの感情の間に位置付けられる。退屈な状態では、ある人の行為能力が、 ある状況に必要な挑戦に比して、あまりに大きすぎる。他方、不安な状態では、状況がある人の 行為能力にとってあまりにも複雑すぎる。フロー経験は、情報という環境(状況)がわれわれの 技能や特殊な能力に働きかけてくるとき、これら二つの間のダイナミックな接点において生ずる。
最適な経験の特徴として、(1)思考と行為が生じている、(2)時間のゆがみが生じている、 (3)活動の目的が明白である、(4)目的への手段が明白である、(5)行動の連続の中で継続的な 調整や再調整を可能にするような、フィードバックが明瞭である、(6)自己意識の喪失がある、 という六点があげられる。チクセントミハイによれば、自我の意図がフロー経験の間に成し遂げ られると、自我は、次に意識のうちに表れるときにはより強烈なものになっている。自我は、 最適な経験を通じて秩序化され、豊かになり、自我のもつ技能は成長する。
本論では、「フロー」を認知的な限定(cognitive narrowing)あるいは自我の収縮の条件 として用いることにする。本論で用いられる「フロー」概念は、最適な経験において到達する 集中(focus)により、自我の注意は最小限のものへと狭められ、自我という感覚も捨てられる、 ということを意味する。ここでわれわれが用いる概念規定は、ロイ・バウマイスターや ジョセフ・ボーデンのものとは異なる。バウマイスターによれば、自我の収縮の動因は、整合的な アイデンティティを維持するために、自我を苦しめ、圧迫するような諸要素を減少させることにある。 彼にとって、自我の収縮は、極めて複雑かつ抑圧された、恥ずべき自我からの「逃避」である。 ここで、チクセントミハイの用いる「フロー」概念をバウマイスターのそれで補完すると、 「フロー」に達することができるのは、意識を活発化させたり、抑制したりすることによる、 といえるだろう。そして、最適な経験を生み出す行動が善とみなされるか悪とみなされるかは、 おそらくその行動に促された結果、自我が長期的に豊かになるか、乏しくなるかにかかっている。
チクセントミハイもバウマイスターも、すべての意識が環境との相互作用を通じて形成される という。自我を収縮させ、最適な経験を促進する主要な手段は、環境の内部にすでに存在している。 これはまた、意識の内容を制御するために作られた場所に自らを置く、ということことでもある。 我々が自我であることから休養しようと、休暇地ですごすのは、そのような休暇地が、自我である ことからの休養を効果的に促進するような所だからである。このような場所においては意識の内容が 制御され、減少する。われわれはこのような場所を人工的状況と呼ぶ。人工的状況とは、意識の 内容を制御することを目的とし、技術的に集約され、主題化された物理的な環境のことであり、常に 最適な経験を促進するという目的を持っている。それは完全に新しい場所であり、最初から作り上げ られたものである。例えば、映画館、美術館、動物園、アーケードが含まれる。ここでは、 アミューズメントパークという主題化された世界のなかでも、その聖地とみられる ウォルトディズニーワールドに焦点をあてる。
人工的状況は、「『現実的なもの』よりも現実的」な現実についての感覚を我々に与える。その ような状況は、現実的な事物よりもよい。それはジャン・ボードリヤールがハイパーリアリティ と呼ぶものの一例である。このような状況は、細部にわたるまで構成されており、その印象は強烈で あるために、多くのものが基盤にしている現実のモデルはしばしば、それらのコピーのぼんやりと したイメージになっている。いまやオリジナルはそれ自身が真実とみえるように、コピーをコピー しなければならない。そして、人工的状況は、決して存在しないオリジナルが ハイパーリアリスティックな具体的イメージを通じて、ノスタルジックに思い出される場所と なってきている。いまや人工的状況は、その現実性と強烈なイメージゆえに、我々にとって自然な ものに感じられる空間になっているといえよう。
人工的状況において、意識は、組織化され、視覚的、聴覚的に複雑な情報で満たされている。その 情報は非常に複雑でわれわれを退屈にさせず、われわれの不安を引き起こすようなことはない。そこ では、短期的だが、苦痛のない最適な経験が促進される。われわれのポストモダンの世界が不安な 場所、すなわち多様で、構成的ではなく、膨大な情報の増殖であるのにたいして、 ディズニーワールドは統一、整合性、秩序、安全の聖地である。われわれは、ディズニーワールド にいるときに、技術的に統合されたオアシスに身を置くことができ、そこは他と比較できない ぐらい、われわれの自我を形成し、狭め、集中させる、鮮明な物語を与えてくれる。
ウォルト・ディズニーは、最初のテーマパークついて「人々がパークにいる間は現実に住んでいる 世界を見せたくはない。彼らには他の世界にいることを感じてほしい」と言った。彼は、 ハブ・アンド・スポーク方式のレイアウトという革新的なデザインとパークを土塀で取り囲み、 実際の地平線を取り除くことにより、その目的を達成した。また、パークには、全ての訪問者が セントラルハブに至るために通らなければならない回廊がある。ウォルトはこの回廊を メインストリートと名付けた。このメインストリートを通ることにより、われわれは外的世界から 内的世界への集中的な推移を鮮明に目に焼き付け、われわれの関心は、平凡なものから魔法的なもの へと収縮する。われわれの体を大きくし、自我を収縮させるという、メインストリートの構造は、 子供の体がおもちゃの町との関係から大きくなる方法と同様の構造を持っている。われわれが メインストリートを横切り、パーク内の神聖な場所に入る準備ができると、われわれは、今いる 場所が子供のころに実際よりも大きいと感じていた子供のころの記憶へと縮められる。そして、 われわれの子供のころが実際にどのようなものであれ、メインストリートにおいて、秩序、安全、 鮮明さ、明瞭さ、そして完成というフィルターを通して、われわれはノスタルジーを感じる。
ディズニーランドの訪問者は、単なるアミューズメントパークに訪れているだけではない。 彼(女)は一つの物語に参加しているのであり、その物語は、鮮明で、一体的かつ、広がりのあるもの であるために、アナハイム、オーランド、東京、パリという実際の場所を超えたものになる。 このとき、ディズニーワールドの物語に成功をもたらすためには、パーク内の細部にわたる部分まで も利用することが重要である。この目的を達成するために、ディズニーワールドの内部にあるものは、 どれほど細かなものであっても、物語の一部として構成されている。そして、物語を構成する 諸要素は、実生活からコピーされただけではなく、最大限に色彩豊かで鮮明なものとなっている。 こうして、われわれの感覚は高められ、ディズニーワールドにおける全体的な没入感が保証される。 また、特殊な能力を試すために特別に作られた環境において、直面する大量の鮮明な情報に秩序を 与えようとするたびに、最適な経験に到達する。このときの最適な経験は、われわれが他者の労働の 成果を高く評価し、それを楽しんでいるということから、相対的には受動的なものである。
さて、ディズニーワールドのような人工的状況においてフロー経験した後に、われわれの自我は 以前よりも豊かに、より複雑になって現れ、加えて、今後のさらなる最適な経験に備えた新しい 技能を持っているのであろうか。ディズニーワールドを経験したのち、人々は日常の生活を送る ためによりよい準備ができるのだろうか。自我は、沈滞するのか、それとも活発化するのか、 それとも以前と同じままなのか。そして、それはどのような問題なのだろうか。以下ではこれらの 問題を考察する。
自我が人工的状況の聖地を訪れることによって豊かになると言うことはできるかもしれない。 フロー経験をすることにより、自我は活発化し、また、ものの見方に新しい技能が加わるかも しれない。新しいものを新しい方法で見ることにより、古いものを新しく見て、それにしたがって 古いものを変える能力は高められるであろう。人工的状況のもたらす効果がウィルスのようであると 言われるのは、このような理由による。
ディズニーワールドのような人工的環境に生じるであろう利益には、挑戦がうまくいきそうな ときに生じる達成感も挙げられる。ジュディス・アダムスが書いているように、われわれは、 スペースマウンテンのようなスリルある乗物を降りるとき、「挑戦に応じて高まっていく具体的な 感情」を持つ。ディズニーワールドのようなテーマの設定された環境には安全と秩序、挑戦があり、 そこには自我が探し求めるものが備えられている。すなわち、それは複雑だが集中した秩序ある 状況のことである。その状況において、自我は、明白な目的と瞬間的なフィードバックに支配される ことにより、成長へと導かれる。ウォルトディズニーワールドのような、成功した人工的状況は、 自我を収縮させ、その作用を助けるという効果を持つ。
最後に、人工的状況が自我にもたらす利益について考えよう。多くの人工的状況を訪れ、生活する ことにより、柔軟で、可変的な自我が生み出されるかもしれない。そのような自我は、ポストモダンの 世界では必要とされている自我である。というのも、人工的状況は、われわれが自我の一部を 分散させ、その残りを抑圧することを常に要求しているからである。人工的状況は、こうして 自我分散の仕方をわれわれに鍛えさせ、ポストモダンの世界で生活するために、比較的安全な訓練の 場をわれわれに与える。そのような場所が存在することによって、われわれは、人工的状況の集合 へと急速に変化している世界へと入り、そこで適応して暮らす方法を身につけることができる。
それでは、次に人工的状況に関して、どのような問題があるのかを考察する。さて、人工的 状況は、人間にとって十分豊かで深いのか、また挑戦に値するものなのか。反対に、人工的状況は、 常にあらかじめ処理された情報をわれわれに与えることによって、自我を究極的には狭めるの であろうか。そして、最終的には、自我分散の技能は持つべきよいものなのだろうか、と問うことが できる。一度それをもつと、我々はそれをいつ分散させるか、させないのかを選べるのだろうか。
経験が全く受動的であることはないけれども、人工的状況の中で可能な経験は、ほとんど コントロールされている。そして、実際にウォルトディズニーワールドの作成者による最適な経験の 幅と深さは、その参加者による現在の最適な経験の幅や深さよりも大きい。すなわち、作成者的 フローは、参加者的フローよりも、よりよい最適な経験を生み出しやすく、人工的状況の作成者の 作業によるフィードバック効果は、人工的状況への参加者のそれよりも大きい。このとき、 あらかじめ作られた人工的状況で生活することにより、人工的状況が、究極的には相対的に受動的な 消費者的自我に依存し、さらに受動的フローしか経験できないような自我を生み出すという危険が 生じるであろう。また、もし世界が実際に人工的状況の集合になるとすれば、他の問題は、古典的 観点または近代主義者的観点からみると、おそらく、それほど賞賛すべきではない人間、すなわち、 浅薄な自我を人工的状況が生み出すかもしれないということである。しかしながら、人工的状況が 自我を分散させることを要求することがある以上、自我を変形させる能力は、徳であって悪徳 ではないとみなされるようになるかもしれない。
それでもやはり、状況に応じて自我を変形させることができたとしても、自我の耐えられる変形 の幅には限界があり、われわれは、統一された自我、すなわち、それ自体快適で、成長可能な自我に とどまったままであるように思われる。実際、自我を変形させることの耐性に関して、人々には 幅広い変化の幅があることがわかっている。しかし、環境的な条件がこの能力の発揮に関しては 大きな役割を果たしているとはいえ、変幻自在な自我にも耐えうる変形の幅には限界があるように 思われる。そのような限界を超えていくことには、不安や孤独、疎外、絶望が伴うからである。 このような状態は、生における物語的統一や方向性、自我、世界を欠いている。そして、このような 欠如からの帰結として、長期的な最適な経験の喪失があげられる。最適な経験が長期的に得られない とき、自我は、フローを与える他のものに依存するようになる。このとき再び思い出さなければ ならないのは、「作成者的フロー」と比較される「参加者的フロー」が、成長を高める複雑な 活動の形式であるというよりもむしろ、究極的には善き生をうみだしにくいものである、ということ である。
最後にもう一つの問題点をあげておこう。人工的状況にいる時間や、そこでわれわれになされる 特殊な要求は、我々の自我に生気を与えることができるが、反対に、人々は「ディズニー後症候群 (day after Disney syndrome)」にかかることがある。これは、ハイパーリアルな人工的状況での 最適な経験の後に現れる自我が、毎日の生活のどこかにあるわずかな善に気づきにくく、それへの 感受性に乏しくなる、ということである。人工的な環境での過剰な刺激は、日常生活をあまり意味の ないものにするというのはもっともなことである。というのも、情報的に強烈な人工的状況で 過ごす人生よりも日常生活は強烈ではなく、劇的ではないからである。このような懸念は、 われわれにとって奇妙な心配ごととして後に振りかえられるかもしれないが。
ここまで、筆者の議論をまとめてきたのだが、本論最後で筆者は、人工的状況の集まりとなった 現代に関して、人工的状況の集まりには外部があるのだろうか、という問いを投げかけている。 もし、人工的状況の集まりに「外部」が存在しなければ、その「内部」にあって現状を批判できる のだろうか、と筆者はいう。我々の周囲が情報的に強烈で、あらかじめ計画された人工的状況になり つつある現在、われわれは再び、自然の世界や現実性とは何か、という問いに戻ってくるのである。
最後に、本論の紹介者によるコメントを付け加えておく。
(1)人工的状況とフロー経験とのつながりが筆者によってはっきりと示されなかった。筆者に よれば、人工的状況は、意識の内容を制御し、最適な経験を促進することを目的にしている。 しかし、人工的状況が、最適な経験を促進することを目的としているということの根拠はどこに あるのか。たとえ、人工的状況が最適な経験の促進を目的にしていたとしても、実際に人工的状況 では最適な経験を得ることが不可能な場合も多くあると考えられる。人工的状況よりもむしろ、 それとは異なる自然な状態においてこそ、最適な経験が可能になる、ということもできる のではないか。
(2)また、ポストモダンの世界で必要とされる能力としての自我分散や、自我を状況に応じて変形 させることのできるような浅薄な自我という筆者の主張にも多少の疑問が残る。なぜ、ポストモダン の世界においては自我分散や浅薄な自我が必要となるのか、ポストモダンの時代は、それ以前と 度のような点で異なるのか、そして、そもそもポストモダンとはなんであるのか、これらの点が 筆者によって明確に言及されていない。ポストモダンにおいて必要とされる自我やその根拠について、 より詳細な説明が必要であったように思われる。