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日経バイオビジネス「遺伝子スパイ事件」

石塚 泰年

[はじめに]

本稿では、『日経バイオビジネス』2001年7月号に掲載された、同年5月の「遺伝子スパイ事件」を扱った記事を紹介する。

元の記事は2部構成となっている。前半部分では、「非はどちらにあるか? “遺伝子スパイ事件”というミステリー」と題して、遺伝子スパイ事件に関して検察側が提出した起訴状をもとに事実関係を追いながら、事件に対する関係者の見方を紹介している。後半部分では、「研究者人生を守るため契約書を味方につける」と題して、今回の事件を生み出した背景は何であったか、また、再発を防止するためにはどうすればよいかという考察がなされている。

また、本稿の最後には、今回の事件から読み取れる今後の課題について、紹介者による若干の考察を付した。

[用語説明]

まず、記事中で用いられている主な用語についての簡単な説明を以下に記しておく。

クリーブランドクリニック財団

米オハイオ州クリーブランドにある民間の非営利の医療・研究機関。岡本被告が在籍していたラーナー研究所は、病院とともに財団の中で中核組織とされている。生命科学、医学分野では全米でも有数のレベルにあると評価されている。

理化学研究所

1917年東京・駒込に設立された。戦後は特殊法人化され、施設は埼玉県和光市に移っている。現在、理研は脳科学や遺伝子解析、発生・再生学、放射線の高度利用などの先端分野に力を入れている。

経済スパイ法(Economic Espionage Act of 1996)

1996年に制定された連邦法。「経済スパイ」と「商業上の秘密の窃取」の2つの条項に分かれており、企業秘密を不正入手した外国の企業や政府などに対する処罰の法的な根拠となる法律である。最高刑は禁固15年、罰金50万ドルと定められている。

デザイナー遺伝子

デザイナー遺伝子は、機能を調べたい目的分子の両端に「標識(tag)」を付けたものであると(起訴状では)説明されている。標識は発光したり染まったりする物質で、遺伝子が実際に細胞内に入ったかを調べるのに利用される。なお、この物質は市販されており、組み換え操作もマニュアルがあり、高校生でできるレベルであるという。

[事件の概要]

岡本卓被告は、1997年1月から米国クリーブランドクリニック財団(以下、CCF)のラーナー研究所で、遺伝性の早期発症型アルツハイマー病の研究をテーマとしたプロジェクトに取り組んでいた。ところが、CCF側との契約期間中だった岡本被告は1998年10月頃から日本の政府系研究機関である理化学研究所(以下、理研)の関係者との接触を開始し、翌年4月には理研での研究ポストの内諾を得た。そして、起訴状によると、岡本被告は1999年7月26日にCCFを辞めた前後に、カンザス州立大学助教授の芹沢宏明被告らと共謀して、デザイナー遺伝子と呼ばれる研究試料を試験管に入れて理研に持ち込んだとされている。

米連邦地検は、FBIによるこれらの捜査結果を基に2001年5月9日、2人を経済スパイ法違反の容疑で起訴した。起訴状においては、経済スパイ法の「企業秘密を不正に入手し、外国政府の利益をはかった」という条項が適用された。しかし、起訴事実に対して、岡本被告は5月14日に弁護士を通じて発表した声明内で容疑を全面否定、芹沢被告も同月16日にオハイオ州のアクロン地区連邦地方裁判所で開かれた罪状認否のための審理で、やはり容疑を全面否定した。また、起訴状は岡本・芹沢両個人に対するものであるが、その矛先は理研に向けられていたと考えられる。これに対し、理研は事件への関与を完全に否定している。(なお、起訴状の全文和訳(仮訳)が『日経バイオテク』2001年5月21日号に掲載されている。)

[関係者の意見]

今回の事件は、日本側からすればまさに「寝耳に水」と言えるものであり、関連する研究開発に携わる多くの関係者に大きな衝撃を与えるものであった。審理は始まったばかりで真相はまだ藪の中ではあるが、日本国内では米国に対する不審の声が強まっている。それらは、主に次のようなものであるという。

[米国の意図]

CCFのラーナー研究所の所長は、米国科学誌の取材に対して「(岡本被告の今回の研究において)特許につながるような発見はなかった」と語っているという。もしこれが事実ならば、今回の「事件」で米国側に「実害はなかった」ということになる。それにもかかわらず、今回の事件が起訴にまで発展した理由は何か。その点について、記事では以下のように説明している。

今回の事件で適用された経済スパイ法の特徴は、米国が国際的に優位に立つ知的所有権関連情報の保護に重点が置かれているということにある。これについて、国際契約に詳しい難波弁護士は「米国は、司法当局が力を入れている事件や問題には広範に法律を適用することがある。今回の、経済スパイ法の適用が、この傾向と無縁とは言い切れない。」と述べている。さらに、報道によると、米捜査当局関係者は「(起訴にいたる理由は)米国納税者の投資を守る意思を示すため」とコメントしている。これらの発言を考慮すると、国家機関であるFBIや検察が今回の出来事を「経済スパイ法違反事件」として立件したことは、米国外から来た研究者に向けた一種のデモンストレーションだったのではないかという疑いも生じてくる。

一方、アルツハイマー病の研究は現在世界中が激しい競争を繰り広げている分野である。従って、日本のマスコミ各社は今回の事件を日米ゲノム戦争の現れであると報道している。しかしながら、東京大学医科学研究所所長の新井賢一氏は、「例え米国の一部がナショナリズムを煽ってきたとしても、日本が同次元の対応をすれば日米科学戦争という、本質から外れた概念戦争に巻き込まれてしまう。その意味で、今回の事件も日米のゲノム戦争の現れであると単純化する日本のマスコミ報道に強い違和感を感じている。」と警告している。

[その後の経過]

理研は7月31日、今回の事件に関する最終的な報告書をまとめ、文部科学省に提出した。なお、この報告書は第三者の弁護士グループが行った調査に基づいている。報告書は、岡本卓被告がCCFから理研に移籍する際に、CCFの遺伝子試料を理研に持ち込んだ事実を認めた。しかし、試料が理研での研究に使用されたのかどうかについてと、理研が組織ぐるみで関与していたかどうかについては否定的な見解を示した。

また、芹沢被告に対する初公判が7月23日に開催される予定であったが、オハイオ州アクロンの連邦地裁の判断により11月に延期されることとなった。しかし、同地裁のデービット・ダウト判事は、公判の開始が今後さらに延期される可能性のあることを示唆している。

[事件の背景]

前述のとおり、今回のケースでは経済スパイ法の「企業秘密を不正に入手し、外国政府の利益をはかった」という条項が適用された。しかし、本来は「アカデミックなルール」で処理されるべきであった、という声もあがっている。確かに、研究現場ごとに存在しているなんらかのルールで処理できる問題として留めておくべき話が、司法の介入によって国際的な産業スパイ事件へと発展してしまうのであれば、そちらの方が問題である。

しかし、一言で「アカデミックなルール」と言っても、それをどのくらい重視して日々行動するかにおいては国ごとに若干の温度差があるという。例えば、今回の事件の舞台となった米国における「アカデミックなルール」は徹底した文書主義を前提として作られていて、もし日本の大学を卒業してポストドクトラルフェロー(Post Doctoral Fellow)として米国の大学や研究機関に入った場合、初日に研究試料持ち出しについての同意書(MTA:Material Transfer Agreement)に署名することが通例となっている。(なお、この文書はNIH(国立衛生研究所)のホームページにて公開されている。)米国ではどの大学や研究機関でも研究試料および研究成果の帰属が文書化されており、研究者も原則としてこれに沿って行動することになっているのである。これに対して、日本の公的研究機関においてはそのような規定は設けられていなかった。

一方で、公的研究機関や行政とは異なり、民間企業人の中には冷めた見方をする人も少なくない。というのも、これらの人たちにとっては、研究成果の帰属を文書であらかじめ明確化しておくという手続きは既に常識化していることだからである。中には「1996年に米国で経済スパイ法が成立した時点で、この法律が研究員を派遣している日本企業に適応されることを想定し、対策を立てた」と話している企業もあって、行政とは対照的に迅速な対応をとっていた企業の姿がうかがえる。

[結論]

記事では、次のような事柄についても注意を促している。

  1. 企業と企業との間ならば、試料の特許はもちろん、その試料を参考に新しい研究成果が派生した場合でも、その成果の帰属を明らかにすることまで含めて細かく契約書をかわすのが普通である。ところが大学では、気軽に研究員ベースで試料を出してしまうことがあるという。日本国内の大学にも技術移転機構(TLO:Technology Licensing Office)が誕生しているが、米国では10年以上前から特許収入を大学や公的研究機関の主用な経営資源にするスタイルが確立している。やはり、大学といえども営利を目的とすることを忘れてはいけない。
  2. 「物」については移動規約(MTA)があるが、ノウハウなどの「情報」については盲点になっているという。そして、将来的に情報の帰属が問題になる可能性は十分あり、注意しておかなけれはならない。

以上のように述べた上で、今回の騒動をきっかけに、基礎研究といえども成果の帰属をめぐって契約を厳密に解釈し遂行する流れが強くなるとの予測を示した。そして、研究者は自らのリスクマネジメントのためには契約書を味方にする術を身につける必要があると結論付けた。

[考察]

以上の記事内容を踏まえ、紹介者による問題点の指摘および若干の考察をおこなっておく。

まず、記事では、研究者が米国の研究機関に入る場合にはMTAに署名することが普通であると紹介している。だとすれば、岡本被告もMTAに署名していたのではないかと考えることができる。ところが、今回の被告の行動は、もし被告がMTAに署名していれば咎めれるべきものであるにも関わらず、「被告がMTAに違反した」とは記されていない。記事では、被告が経済スパイ法の「企業秘密を不正に入手し、外国政府の利益をはかった」という条項の適用を受けたとしか書かれていないのである。しかし、被告が一体どのような契約をCCFと交わしていたのかという疑問は当然生じてくる。今回の事件の核心もまさにこの点にあるはずであるが、そのことについて記事中ではまったく触れられておらず、今回の事件を安易に契約とリスクマネジメントというビジネスの話としてまとめてしまっているのは、本誌がビジネス誌であることを考慮したとしても、問題であろうと思われる。

次に、日本の公的研究機関や行政は具体的には何から手を付けていけばよいのか、ということについても考えてみたい。

1つの選択肢としては、民間企業と同様に、研究試料や研究成果をすべて研究機関に帰属させてしまうという方法があるだろう。この場合、研究試料や研究成果の帰属関係は明確になり、知的財産権をめぐる国際係争や研究人材の流動化にも柔軟に対応できるようになるはずである。もう1つの選択肢としては、研究成果を開示して、誰もがアクセスできるものにするという方法が考えられる。この場合は、研究者がより多くの情報を共有できることになり、新しい研究開発の促進にも貢献することができるだろう。

しかしながら、両者とも問題が無いわけではない。

前者の選択肢で問題となるのは、公的研究機関には多くの公的資金が投入されていることである。つまり、その研究成果は国民全体に対して恩恵をもたらさなければならないということだ。もし、公的研究機関による研究成果が、民間企業同様に契約と知的財産権で強固に守られることになるならば、それはすなわち公的研究機関による研究成果の占有を許し、国民は恩恵を受けられないということを意味している。これは、私たちにとって必ずしも理想的な形を示してはいない。

一方、後者の選択肢で問題となるのは、産学連携が行われる場合などである。かたやその研究成果が契約によって厳密に管理され、かたやその研究成果を公に開示しようとする両者の連携は、まず間違いなく研究成果の帰属問題を引き起こすだろう。産学連携によって私達にもたらされる利益を考慮するならば、それを阻害するような選択をすることは難しい。

このように、上で提示した2つの選択肢はともに一長一短であり、両者の長所を取り込み短所を解消するような解決策が示されるまでにはまだ時間を要するであろう。しかし、日本の研究現場では研究試料や研究成果の帰属問題について一切対策が講じられずに野放しにされてきたことは事実であり、国際社会において競争力をつけるために、一刻も早いルールの整備が必要であることは確かである。


(いしづかやすとし 京都大学文学部)
この記事終わり