出典:Kenneth W. Goodman(1998), "Bioethics and health informatics : an introduction",in Goodman, K.(eds.), Ethics Computing, and Medicine: informatics and the transformation of health care, Cambridge Univ. Press, pp. 1-31.
将来、医療専門職はコンピュータ化される。
これは、未来の電脳病院で働く人造医師やロボット看護婦というような不吉なものを必ずしも示唆するものではない。それが示唆しているのは、情報の獲得(acquisition)、保管(storage)、処理(processing)、検索(retrieval)についての医療の標準(standards of care)が急速に変化しており、医療従事者たちはその変化に対して迅速に対処するか、それを追い抜いていく必要があるということである。苦痛(pain)、生(life)、苦しみ(suffering)、健康(health)、死(death)という文脈における医療の標準というまさにその考えは、膨大な倫理的諸問題を指し示している。世間一般に正当であると認められている医療の標準を守ることに失敗することは、我々を危険にさらし、損害を与えるものである。そして、最も優先される理由付けや根拠なしには、それは非倫理的でもある。
我々は、医療におけるコンピュータ使用に際して、より高い標準に従うことができたとしても、同時に、プライバシーや守秘などを含む倫理的諸問題を生み出してしまう。我々は、一つの難問に応ずることで、別の諸問題を創り出してしまうのである。こういった事実は、ほとんどいつも、健康科学において新技術が我々にもたらし、我々に強い、我々を引きつけるものである。例えば、透析、臓器移植、人工臓器、生命維持、遺伝子治療などは全て、社会的、財政的、倫理的な重い負担を伴うのである。
倫理学(ethics)、コンピュータ(computing)、医療(medicine)という、3つの非常に広い研究領域について、我々はメディカル・エシックス(medical ethics)、バイオエシックス(bioethics)、メディカル・コンピューティング(medical computing)、コンピューティング・エシックス(computing ethics)という2つの領域の共通部分については既に考察の対象にしてきた。しかし、ここでは3つの領域の共通部分を考察の対象にする。もちろんのことであるが、我々の関心は、その共通部分の大きさにあるのではなく、その重要性にある。
バイオエシックスはこの25年間に、非常に大きな成長を遂げてきた。そして今日、多くの人々がバイオエシックスやその関連領域に関心を持ち、様々な議論が繰り広げられるようになった。しかしそこには次のような一般的な傾向が見られる。それは、哲学者ではない人々は問いを次々と提起するのだが、その問いに対して解答を出すことができていないというものである。また、見たところ彼らは、倫理理論、中心となる概念、メタ倫理に関する議論やそれぞれの相違点に対して、全く無知であるようだ。しかし、そのような議論やその成果は、専門的な医療の実践に非常に密接に関係しているのである。
世界中の医療従事者にとっての概念的、実践的な基準として登場した、ビーチャム(Beauchamp)とチルドレス(Childress)の『生命医学倫理』の初版が出てから20年になるが、そこでは、4原則アプローチ、すなわち自律尊重原則(respect for autonomy)、無危害原則(nonmaleficence)、善行原則(beneficence)、正義原則(justice)、がとられている。以後、これらの原則は当然受け入れられている知識として広く用いられることになるのだが、これらに代わる他の重要な理論にも目を向け、考察することは、バイオエシックスの形を変容させつつある議論がどんなものかを知るのに役立つだろう。その理論には、バーナード・ガート(B.Gert)の道徳性のシステム、決疑論(casuistry)、事例に基づいた類比的な推論(case-based analogical reasoning)、徳倫理(virtue ethics)、権利に基づく理論(rights-based theories)、共同体主義(communitarianism)、フェミニスト倫理(feminist ethics)、看護におけるケア倫理(care ethics)などがある。
これらのアプローチは、現代のバイオエシックスにおける主要な問題に適用されてきた。幅広く議論が行われる中で、次のような問いも議論の対象になる。我々が最も関心を寄せている諸問題に関する重要な観点から見て、どのアプローチが最も良いのか。それぞれのアプローチはどれだけ異なるのか。これは、医療情報学をバイオエシックスの土俵に加えようと努める我々の試みにとって喜ばしいものであるといえる。
“バイオエシックスは健康情報学について何ができるか?”という問いには次のように答えることができる。まず、バイオエシックスは学際的な枠組みと豊富な理論の選択肢を我々に提供する。また、現実の諸問題に対する解決法の発見、考案に成功してきた実績があり、さらに、教育カリキュラムの開発にも確固たる実績を持っている。しかしまた、バイオエシックスには理論が様々に存在していることで、我々の目的に適った、明らかで議論の余地のないアプローチを見つけ出すことが難しくなっているということにも注意しておかなければならない。
これより後の部分では、医療や看護におけるコンピュータ利用と倫理的諸問題が生ずる領域についての暫定的な類型を示していくのだが、それは必ずしも完全ではありえない。というのも、健康情報学の領域は急速に変化しているからである。また、様々な分野にまたがって繰り返し生じるような問題がある。例えば、遠隔医療の実践における問題は、それとつながりを持つネットワークの領域においても生じてくるであろう。類似した倫理的諸問題が異なる分野において生じることも時々ある。これについては、グループ・スティグマ(group stigma)を考えてみればよい。グループ・スティグマに対する懸念は、疫学と遺伝学において生ずる。このようなつながりは、倫理学とコンピュータと医療の共通部分が豊富であることを表している。
医療や法律、看護、技術作業、心理学などの実践において、エラーの起こり方は様々に存在する。しかし、すべてのエラーが一様に生み出されるのではない。例えば、医療過誤というものはしばしば様々な標準に訴えることで確定される。医師が適切な処置を取らず、異なる方法を用いたので結果が悪いものになった場合、医師は適切な処置を取らなかったことに責任がある。医師が標準に沿った処置を試み、それをやり損なった場合は、医師は標準に沿ってうまくできなかったことに責任がある。何が標準を構成しているのかは興味深い問題であり、それを解くことで興味深い結論を得ることができる。
医療従事者の半数が、望ましい効果を得るために医療コンピュータを使用するようになったことを考えてみる。それでは、コンピュータを使用しない人々は、標準以下の医療(care)しか提供していないのだろうか。医療責任保険会社の中には、コンピュータシステムを採用する医師には保険料の割引を行う会社があり、それは、医療現場においてコンピュータを使用することは、危機管理に役立つことを示唆している。また、コンピュータ化された機器を用いることで、許容できないレベルの人為的エラーを低減することができるという指摘もある。これらは全て、医療の標準に変化が生じている証拠として理解されなければならないのだろうか。この問いは、我々の目的にとって重要なものである。というのも、少なくとも最低限の医療の水準を提供しなければならない倫理的な理由が存在するからである。患者のために望ましい結果を最大化するため、または、少なくともそのような最大限の望ましさに漸近的に近づけるために、医療従事者には標準レベルの医療を提供する倫理的な義務がある。
しかし、臨床医が精通し、または少なくとも処理しなければならない情報の量が膨大なため、専門的な医師業務に支障をきたすようになっているということもまた事実である。
技術がまだ導入され始めたばかりの時は、我々は標準が本当にそれに値するかという概念的な確信を欠きがちであるため、おそらく、標準のバーを下げるのにベストを尽くすだろう。バーを最初に設定するのに望ましい場所の一つとして考えられるのは“安全性”である。
社会は医療(health care)の標準に関心を持っている。例えば、社会は意思決定支援システム(decision-support system)が幅広く使用される状況に直面すると、ある種の標準を守るために、そのプログラムを法律によって規制され、法律に従って作られるべき装置とみなすかもしれない。意思決定支援システムは公式に医療装置(習慣的には政府によって規制されている)として承認されるべきなのか、またそうであるならばどのようにしてなのかという問いは、かつては議論のトピックであった。
標準についての問いは、様々な場面において生じてくる。例えば、ネットワークやそのメンテナンス、セキュリティという文脈や、情報科学機器を使用する者に対する教育について考えるときに生ずる。さらに、まず第一に標準について考えるためのデータを提供する評価プロセスにおいてさえも生じてくる。医療の標準に寄与する技術水準(technical standards)の果たす役割を強調しておくことも重要である。例えばコミュニケーションの技術水準が所有者のものである(proprietary)か“開かれている(open)か”は、工業においては大きな議論の源になる。同様に、工業や学界などにおける様々な勢力は、知識の表出、意思決定、データ交換などの諸機能についての技術水準の開発と、その採用をサポートしている。よく洗練された水準はエラーを最小化する。それゆえ、使用者、製作者、政府、などには、そのような水準を開発する倫理的な義務がある。
エラー、特に医療におけるエラーは、帰納推理(inductive inference)、ルール・フォローイング、公益(public policy)などについての魅力的な問いを生じさせる。エラーとされるもの、起こりうるエラーの種類、エラーを発見し回避する方法は重要な研究と考察の源となる。コンピュータ化された医療や看護が進歩していく中で最も恐れられていることは、コンピュータ化された機器を(適切な使用か不適切な使用かを問わず)用いることは、患者を悲しませることになってしまうのではないかということである。しかし、それを恐れて我々がその使用に際して、他人よりも慎重に、もしくはゆっくりと行動しなければならなくなるということは、倫理的に言うと、それはただとても悪いことである。そこで取るべき最も適切な方針は、我々が“段階的な警告(progressive caution)”と呼ぶだろうものである。
この10年の間に、医療に関連する領域において電子リンクは驚異的に増加した。そして、それらはインターネット上やWWW上において運用されている。また、ネットワークのリンクは都心にもおかれるし、僻地にもおかれる。患者の秘密の情報を含んだ電子メールは、ネットワーク上でオフィス間や世界中に送られることになる。
さて、この情報の適切な使用とはどういうものであろうか?また、HIV検査の結果はまだ出ていない。つまり、HIV検査がオーダーされたという事実のみが記録されている。)医師は、この情報を彼(彼女)に安全なセックスについて助言するのに用いるかもしれない。保険会社は、検査費用を医師に支払う際に用いるかもしれない。しかし、医師は抗レトロウィルス薬を売ろうとする薬局、または行動医療研究のデータを求めている大学とも、この情報を共有するかもしれない。また、保険会社は、この情報に基づき、彼(彼女)との契約を打ち切るかもしれない。さてこのような場合、ネットワークの開発者や所有者、それを整備する者、使用する者が、倫理的問題に直面しているのだろうか?それとも、ネットワークへの照会を行ったり、ネットワークの情報を研究に用いたり、ネットワークの情報を用いて検査費用の支払いを行う者だけが問題に直面しているのだろうか?
また、ネットワークや様々な情報保管メディアは、制度のもたらす結果や、科学的な結果、経済的な結果、政策遂行の結果の調査に必要な多くのデータを提供する。例えば、マネージド・ケア団体(managed care organization)が、諸結果を算出するために、また、それゆえ臨床的な照会がきちんとしたものかどうかについての意思決定を導くためにネットワーク化されたデータベースを使用するとすれば、以下のことを注意深く、重要視する必要があるのは明らかである。
ここで生ずる問題は次のようなものである。 健康情報システムの設計、構築、使用において、どのような価値が中心となるのか。どのようにすれば危害の責任をもっともうまく確定することができるのか。十分な評価がなされたと言えるのはいつの時点か。
公衆でも利用可能な、健康に関するネットワークや意思決定支援システムに対する考え方は、次のように両極端に分かれる。(1)医療を分散させ、患者に権限を与えるような、すばらしい、そして民主的なサービスである。(2)人々が免許なしに医療や看護を行うことを許すという、ばかげた危険な方法である。
このような形での医療はとても人気がある。例えば、アメリカ合衆国では、国立ガン研究所(NCI)のサイトには月に20万人が訪れる。オンライン・サービスの調査報告では、6パーセントのユーザーが医療情報サイトのおかげで救急センターを訪れずに済み、26パーセントが医師のもとを訪れずに済んだという報告が出されている。また、3万人の人がてんかんの薬を筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治療に使い始めた。その薬をALSに用いることは許可されていないが、オンライン上の会議室(discussion group)で褒めちぎられたためである。
オンラインにおける患者向けの知識や情報データは、医療の供給者から患者に配布されるか、患者によってインターネットから直接アクセスされる。広範囲(comprehensive)で、容易にアクセスでき(easily accessible)、最新で(up to date)、重要な(salient)、患者に対するこの情報の今後の見通しは素晴らしい。しかし、そこでは次のことに気をつけなければならない。それが、治療に役立つような供給者−患者関係の代わりに用いられず、またはその関係の妨げとならないこと。危険な誤解を招かないこと。安全に対する誤った感覚を引き出さないこと。Web上のサイトの中には、未完成なもの(unfinished)、放っておかれているもの(abandoned)、時代遅れのもの(outdated)が多数存在するが、ここで扱っているような患者に対するWeb上の情報については、ジャーナリズムの形式で考えるのが最も良いだろう。それは、情報の質を保ち良い評判を獲得することで、多くの購読者を得ることができるというものである。そして、ここで生ずる倫理的問題は、そのような情報における質の管理とエラーの回避である。
これらの問題を扱うための一つの仕組みは、仲間による批評(peer review)である。しかし、どれだけの批評が必要で、それらをどのように評価すればよいのかが明らかではない。また、いったい誰が適切な仲間といえるのだろうかという問いも生じる。
これと似たような問題がオンライン・サポート・グループについても出てくる。ここでの問題は、無知な人、もしくは非現実的な希望を抱いている人が、慰めやうわさをきちんとした医療、看護、心理学的な助けであると誤解してしまい、必要な治療を受けなくなってしまうのではないかというものである。
では、適切な専門家によるオンライン上での診察はどうであろうか。次のような注目すべきケースがある。北京大学の学生が、昏睡状態の患者の診断を電子メールを使って世界中に求めた結果、2000以上の返事が届き、その中には正しい診断が下されていたものもあった。
患者を触ることもできず、聞くことも、見ることもできない状態で診断を下すことは、果して診断しているといえるだろうか?もし専門家が、少なくとも正確で、従来と同じ質を保って、遠隔診断を下し、電子アドバイスを与えることができるなら、我々はこの事態の好転を道徳的に喜ぶべきである。だが、そのようなシステムを、どのように倫理的にテストできるのかという問題は置いておくとしても、まず第一に、どのような理由であえてそういった診断を出そうとするのかはよく分からないままである。様々な理由が考えられるにせよ、電子メールによるドバイスや診断には、その性質から考えて、どうしてもエラーを犯すリスクが存在する。このような技術からは独立して発展させられた医療の標準から逸脱するためには、我々はより良い、申し分のない理由を必要とする。
遠隔医療(telemedicine)は、ここ10年に満たないほどの間に途方もない国際的事業に成長した。当初、よく引用された調査報告書には、遠隔医療を用いることで何百万という人々に医療を供給し、数億ドルもの経費を節約することができるということが示唆されていた。遠隔医療を利用することによって、医療を受けるのに恵まれていない人々にも、それを提供することができる。(例:田舎、戦場、宇宙)また、専門家同士が別々の場所にいながら、お互いの医療活動を助け合うこともできる。(例:田舎の開業医と都市のX線技師)医療において最も視覚を用いる放射線学、皮膚病学、病理学では、定期的に遠隔医療機器がすでに用いられている。(例:囚人の診察)
手術においても“遠隔手術(telepresence surgery)”、もしくは遠隔操作による手術機器の使用などが進展してきた。
ここにおける倫理的問題は何であろうか。まず、明らかに我々には、遠隔医療と医療の伝統的アプローチとを比べるのに必要なデータが不足しているということである。そして、医療の歴史の中でよくあるように、新しい機器はテストされ評価されている間に、ゆっくりと採用されていくのである。我々が、ようやく新しい機器の幅広い使用を保証するのに十分なデータを集められたそのときには、その機器の使用はすでに 既成事実(fait accompli)になってしまっているのである。
また,守秘や有効な同意(valid consent)についての懸念も主要な問題である。また、遠隔医療を安易に用いてはならないということもまた重要である。医師には、必要とされている場所に赴き、医療行為を行わなければならない道徳的義務がまさに課せられるだろうからである。これは、遠隔医療が適切に評価され、最低限の標準が厳密に表されるようになるまでは、特に重要な点である。
在宅介護(home care)に遠隔医療を導入することで、在宅介護に期待されていること、つまり医療資源の保存や、コストの抑制が現実にますます促進されるだろう。また、テレビ電話(picture-phone)技術の急速な進歩も、在宅介護を容易なものにするだろう。だが、容易さと医療行為の質とは、もちろん全く異なったものであり、別個に評価されなければならない。
ヴァーチャル・リアリティーは医療の教育現場において利用されている。例えば、外科の学生はこれを用いることでヴァーチャル手術を行うことができる。こういった装置が専門的訓練のレベルを保ち、もしくはそれを向上させることができるのかについては、疑問の余地がある。実際にそれを使用することは、リスク(risk)と潜在的な利益(potential benefit)とを微妙な緊張状態で競わせることになる。
ヴァーチャル・リアリティーは精神病理学や心理学の患者に対しては、直接に使用することができるかもしれないということもまた示唆されている。例えば、恐怖症の患者をヴァーチャル空間の中で恐怖の対象に向き合わせることで治療することができるだろう。
このような使用が安全か、もしくは有効かをテストするという厳格な試みを、倫理的に行うことがどうすればできるのかは明らかではない。テストなしに、そのような装置の価値を扱い、推定するのは議論の余地なく非倫理的である。一般的に、そういった主要な機器について考える際に取るべき正しいスタンスは、無批判的に熱烈に支持すること(slavish boosterism)や大げさな懐疑主義(hyperbolic skepticism)に陥らないように用心して、現実の研究や進展を吟味するというものである。
遺伝子研究においてコンピュータは様々に利用されている。例えば、インターネット上への研究データの公開やオンライン上の遺伝子データベースの構築に利用される。また、遺伝子配列はそれ自体、コンピュータを用いて明らかにされ、分析される。
遺伝子研究や遺伝子テスト、遺伝子治療については多くの研究がなされ、理解も深まってきているが、それらに情報学や情報検索が加わることで多くの問題が生ずる。それは、データの共有、質の管理、グループ・スティグマ、サブグループ・スティグマ、プライバシーと守秘(集団の守秘を含む)である。遺伝子情報が電子医療記録に含まれることは、バイオエシックス、コンピューティング・エシックス、健康情報学における新たな未開拓分野を切り拓くことになる。また、バイオインフォーマティックスは、ある程度は、幅広いネットワークの有効性に依拠して現在にいたる道筋をたどってきたので、ネットワークの役割の議論に当てはまる問題点は、しばしばバイオインフォーマティックスにおいても同様に当てはまる。
“コンピュータ化された疫学(computational epidemiology)”とは、できごとや行動、体質、環境、その他の生理学的、社会的、行動に関する先行条件と、病気、罹病率、死亡数との相関関係を確認するためにコンピュータを使用し、その結果を参照するものである。また、公衆衛生データの作成と分析にも、特に規模の大きいデータベースの場合には、コンピュータが用いられる。
疫学における哲学的な課題は、科学哲学からもたらされ、帰納法(induction)、確証(confirmation)、因果性(causation)を含むという傾向がある。こういった問題は、科学の不確実さによって特徴づけられる文脈で意思決定がなされるような状況を生み出す豊かな源泉を構成している。例えば、ガンの記録の統計分析により、ガンの発症率(または先天的な障害を持つ赤ん坊の出産)と廃棄物処理工場付近での生活との間に相関関係が見られたとする。科学者たちはこれらの相関関係を、住民に伝えるべきなのか?どのように伝えるべきか?住民たちは専門的な事柄(データベースの構成、統計理論など)を知る必要があるか?起こりうる危険を伝えることにおける大衆メディアの役割とは?このような問いに関しては、中心となる価値に訴え、そしてエラーが起こる可能性とその結果に注意を向ける(何らかの方法でのコンピュータ使用によるエラーを含む)ことで解決することができる。
統計分析それ自体でも倫理的問題点を生じさせる。それは次のようなものである。データの選択、管理、共有。データの発表(publication)とその作成者(authorship)。科学的解釈(scientific interpretation)と真実の伝達(truth telling)。
また、コンピュータ化された疫学はエラーの回避に加えて、守秘や有効な同意についての関心を新しいレベルに高める。例えば、患者の記録が、リンクされれば守秘や同意が問題になるのはもちろんのことであるが、たとえそれがリンクされなくても、そこには全ての疾病にわたって、集団の守秘とスティグマの問題が生じるのである。遺伝的、民族的、人種的情報についての課題は、まだ分析され始めたばかりであり、分子疫学、遺伝疫学の進歩にとって欠かすことのできないものである。
心理学や精神病理学におけるコンピュータ使用は昔から頻繁に行われてきた。(例:精神病理学者を演じ、精神療法の相互作用のモデルを作ることを試みるコンピュータ・プログラムのELIZA)今日では、コンピュータは患者や依頼者の追跡調査、評価、テスト、治療、カウンセリング、意思決定支援などの目的で使用されている。
行動情報科学において生ずる倫理的問題は、臨床医療、臨床看護におけるものと似ている。しかし、心理学や精神病理学における診療記録のとりわけ微妙な性質によって、守秘の問題は強調されるべきではある。なぜなら、心理学、または精神病理学の助力を求めたという単なる事実はそれ自体潜在的に、烙印を押す(stigmatizing)ということにつながるからである。
コンピュータ使用とメンタルヘルスの共通部分で生ずる倫理的問題への配慮は10年以上前から始まり、それは守秘とプライバシー、専門家スタンダード、セラピー、最近ではケア・マネージメントが強調される傾向があった。また、メンタルヘルスの患者は、社会的に攻撃を受けやすい集団を構成し、手厚い保護を受ける権利を与えられているとみなされている。エラーの回避や医療の標準に対する我々の関心は、ここに特に大きく現れてくる。また、有効な同意、インフォームド・コンセントに関連する問題もまた、行動医療が特に関心を寄せるものである。例えば、高度な医療機器が看護や治療において果たす役割を、どの患者にも知らせるべきなのかどうかという問題である。
事前指示(リヴィング・ウィルを含む)は、自分の意思を伝える能力がなくなったり、伝えることができなくなったりした時のために、患者たちによって頻繁に用いられてきている。電子記録にそういった文書が含まれてくることで、次のような問いを生じさせる。それらは、倫理的リマインダープロトコルとして働くことで、事前指示の尊重を向上させるのかどうか。この問いに関して、向上させると示唆する十分なデータが存在する。
しかしこれに関しては更なる研究が必要になる。問題は、電子的な事前指示によって、ただ過剰な医療手段を拒んでいるだけで、その他の治療、処置は望んでいるような患者の世話やサポートが縮小されてしまうのではないか、というものである。
病院のメインフレームにリンクしている手のひらサイズの装置や患者のモニタリング装置などによって情報の収集や保管が行われることで、医療行為や病院業務の形式は変化しつつある。機密性、医療の標準、医療従事者の技量の退化に加えて、ここでは、医師(看護婦)−患者関係への影響が問題になる。例えば、それらが直接の人間的なコミュニケーションに取って代わることで、医師−患者関係が壊れてしまうのではないかという心配がある。熟達した人間の注意力を弱めてしまうかもしれないことに患者が気づいていない状況においても問題になりうる。医療プランに患者が従っているかチェックするのにコンピュータが使用されてきたのだが、それを押しつけがましいと感じる患者もいるだろう。
ケース・マネージメントにおいて(特に糖尿病に対する)、コンピュータ化された遠隔的な方法を用いることで、その結果を向上させることができそうである。しかし、マネージメントにおけるコンピュータの地位が取り違えられることがあるのではないかという倫理的な問題が生ずる。“コンピュータ化されたケース・マネージメント”は比喩的表現に過ぎず、実際に健康状態を管理するのはコンピュータではなく、医療専門家であるという事実を忘れてはならない。
コンピュータは臓器移植に関する領域では必要不可欠なものになっている。コンピュータの記録が、希少な臓器の分配において生ずる倫理的な問題をより悪くしたり、解決したりするということはありそうにない。しかし、コンピュータ使用が投げかける客観性の幻想(illusion of objectivity)に対しては用心しなくてはならない。分配のプロトコル自体が不公正(unfair)であれば、コンピュータは分配を公正(fair)に行うことができないのである。
社会が多様化するにつれて、病院における通訳や翻訳者の需要は増大する。言語間の信頼できる、正確なコミュニケーションは医療現場に欠かすことのできないものである。(例:無作為化試験における被験者の同意を得るプロセス)コンピュータによる自然言語の翻訳もかなり進んできたが、インフォームド・コンセントのプロセスへの利用はまだこれからである。ここに生じる倫理的な問題は次のようなものである。言語の問題によって、同意のプロセス、同意の正確さや標準が衰えてしまうこと。それから、言語の問題が医療的な関係の障害となること。
世界中に、いまや医療(看護)情報学の数多くの教育課程がある。しかし、他の科学や医療の教育課程とは異なり、情報学の教育課程においては倫理的問題への配慮はほとんど含まれておらず、あるとしても守秘やプライバシー、法律的問題が強調され、中心となる価値は除外される傾向にある。
しかし、そういった状況はもはや適切ではない。
情報学の教育課程において倫理学への配慮を大きくすることについては、多くの議論が存在する。
1) 倫理的諸問題は重要なものであり、関連領域においてもそのように認識されている。だから、心理学や細胞生物学と同様に、倫理学もメディカル・スクールのカリキュラムに入れるべきである。倫理的諸問題は医療の実践に影響し、医療の領域において遍在しているものであり、それらに注意を向けることで、完成された医療専門家を育てることができる。
2) 倫理的問題は興味深いものである。倫理的諸問題は医師、看護婦、心理学者の抱える最大の課題の一つである。科学的な課題(どのように患者を蘇生させるか)と倫理学的な課題(患者を蘇生させるべきかどうか)が容易に関連付けられるということはよくある。社会的な問題をカリキュラムに含めることは、カリキュラムに刺激的な内容を加えることになる。
3) 倫理学教育は実践的なガイダンスを提供する。応用倫理学の一つの目的は、医療専門職における意思決定を改善することにある。倫理的難問の解決が困難である場合、倫理的に最適化された決定を下すのに役立つような教育の仕組みがなければならない。倫理的な討論や議論が豊富になされることで、現実世界における意思決定を向上させることができる。
大学における情報学プログラムが発展し、激増していくことで、倫理学的諸問題に対する配慮を含んだカリキュラムが最初から、少なくとも早い段階から取り入れられる機会が多くなっている。また、個々の病院においてさえ、情報学において倫理的諸問題を取り扱う機会が出てきた。(例:病院の倫理委員会の設置。)
また、専門の学界もこの動きに寄与している。例えば、アメリカ科学振興協会(America Association for the Advancement of Science)、アメリカ医師学会(America College of Physician)、アメリカ医療情報学会(America Medical Informatics Association)などの取り組みがあげられる。
既に確立されているカリキュラムに、新しい要素を組み入れることは難しいことであるが、情報学は、例えば、疫学の場合をモデルにすることができる。疫学においては、比較的短期間に倫理学的諸問題への配慮が劇的に増加し、倫理学と疫学のコースは多くの大学で受講することができるようになった。
バイオエシックスのカリキュラムは異種間移植から凍結胚に及ぶ難解な問題までをも扱うまでに成熟してきている。したがって、医療現場において遍在する新しいコンピュータ機器の使用によって生ずる問題は、バイオエシックスの規範(canon)に組み込んで考えてもよいだろう。問題の中には、例えば守秘のように、意外な展開を見せるだろうものもあれば、意思決定支援システムのように、中心的な価値や理論的スタンス、またはメタ倫理的スタンスへの刺激的で新しい課題を提供するものもある。
現在、倫理学と情報学のモデル・カリキュラムを開発する時期に来ている。そのカリキュラムは、テキストとマルチメディアの両方を用いたものになり、その相互的な経験は、倫理学と情報学のコースには、ごく自然に付随するものになるだろう。また、コンピュータ、医療、看護、哲学、心理学などから様々な学科が引き出されるだろう。
G・W・ピカリング医師の第36回アメリカ医師学会(ACP)での講演(1955)から
この講演からは、多くの点を学ぶことができるが、中でもここでとられているスタンスは重要である。それは、
良い治療と良い看護というものは人間の技量(human skills)であるということだ。この人間の技量は、情報の保管や処理システムによる補助をますます必要とするが、そのようなシステム自体はそのような技量を持ち合わせていないのである。
“遍在する医療コンピュータの使用”と呼ばれるようなものは、ますます多くの状況において、ますます多くの患者を取り巻いているコンピュータ化された覆い(cocoon)の発展にすぎないのである。