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ジョセフ・ウエストフォール「サイバーウーマンとは何か?:サイバースペースにおける第二の性」

鶴田 尚美

著者: Joseph Westfall (Boston College)

出典:'What is Cyberwoman? : The Second Sex in Cyberspace', Ethics and Information Technology 2, pp.159-166, 2000.

本稿の著者ウェストフォールは、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-1986)の見解をもとに、サイバースペースにおける人々の自己同一性と人間関係を論じる。彼が主張するのは、オンラインのチャットルームで会話を交わそうとする人々は、自分の身体的側面を否定せねばならなくなるということである。この身体性の否定によって、人々は自分自身を非本質的で二次的なものとする。ボーヴォワールは、これは自分自身の自由を否定することであると言った。このボーヴォワールの見解に従えば、サイバースペース上のコミュニケーションは自己抑圧となる、とウェストフォールは結論する。

本紹介は、基本的に原著を要約したものであるが、見出しの一部は紹介者が加えた。

ボーヴォワールの主張

まず、ウェストフォールは、ジェンダーに関するボーヴォワールの主張を以下のようにまとめる。ボーヴォワールは『第二の性(1949年)』で「女とは何か」と問うた。女性には、明らかに男性とは異なる生理学的特徴や身体的構造がある。だが、ボーヴォワールが求めたのは、そのような答えではない。彼女は「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」という言葉に、女性すなわち第二の性の構造を見出した。つまり、女性の二次性は、生理学的特徴それ自体にではなく、男性との生理学的差異の社会-歴史的な取り扱いに根づいている。ボーヴォワールはこう書いている。

「彼女は男性との関係で定義され差異化されるのであり、男性が彼女との関係で定義され差異化されるのではない。彼女は本質的なもの(the essential)に対する偶然的なもの(the incidental)、非本質的なものである。彼が主体あるいは絶対的なもの(the Absolute)なのであり、彼女は他者である。」

さらに、意識ある存在者として、女性は、「女性であることを自ら選択した女性」として自分自身を定義する。彼女は女性に生まれることを選んだわけではなく、また特定の社会的文脈のなかで成長することを選んだわけでもない。だが、彼女は、性(sex)に基づいて社会的に決定された自分の状況を甘受するか、それともこの状況に反抗するかの責任を負っている。女性は、特定の社会的、経済的歴史によって特徴づけられた身体を通して自分の世界と交渉し、選択する存在者である。このように女性の絶対的な他者性は社会的に構築されたものであるが、それでも女性の身体は、女性を理解するのに重要である。ボーヴォワールは身体についてこう書いている。

「というのも、身体は世界をわれわれが把握する道具である。そして世界は、ある仕方で捉えた時と別の仕方で捉えたときとでは、非常に異なって見えるように束縛されている。このことは、生物学的事実に関するわれわれの長い研究を説明する。すなわち、生物学的事実は、女性を理解する鍵のひとつである。しかし、これらの事実が女性に固定された不可避的な運命を定めるということを私は否定する。」

つまり、女性的な本質、「永遠の女性(eternal feminine)」などといったものは存在しない。ウェストフォールは、このボーヴォワールをもとにサイバースペースのコミュニケーションを論じる。本稿で議論されるのは、チャットルームなどリアルタイムの電子的コミュニケーションが、ジェンダーバイアスとジェンダーアイデンティティを破壊しうるかということである。

ジェンダーとサイバーパーソン

サイバーパーソンとは、各ユーザーがサイバースペースに現れた姿を言う。サイバースペースにアクセスするのに身体は必要であるが、チャットルームでのコミュニケーションに身体そのものは必要ない。また、サイバースペースでは、かなり高い程度の匿名性が保たれる。ユーザーは社会的、経済的、歴史的に特徴付けられた身体から解放されており、自分のアイデンティティをどのようにでも示すことができる。つまり、ユーザーは、ボーヴォワールが女性を作ると考えた生理学的特徴と社会的要素の両方から解放されている。仮に、女性を「社会的に特徴づけられた特定の身体」と考えるのならば、サイバーパーソンは女性ではない。

かといって、サイバーパーソンは男性でもない。ジェンダーを決定する身体の存在しないサイバースペースでは、人々はジェンダー化されないからである。ユーザーは現実世界の自分のジェンダーを対話者に知らせることができるが、ジェンダーを偽ることもできる。さらに、ユーザーたちは究極的には数行の文章にすぎない。このような状況下では、ジェンダーの真偽は、相手を信用するかどうかという問題となる。だが、アイデンティティを確認すべき要素がないのだから、相手の信用を確実に得ることはできないだろう。

ユーザーは一方で、自分が現実に身体とジェンダー化されたアイデンティティをもつ社会的存在者であると認識しているが、他方では、自分の対話相手が、身体も名前もジェンダーももたない存在者だと認識している。このように確固としたアイデンティティを欠くサイバーパーソンは人格(human person)として不十分である。彼らは、インターネットに接続され、チャットルームの会話が続いている間だけ存在している非-人格(non-person)である。

また、相互交流がおこなわれているとはいえ、サイバースペースにユーザー同士が出会う「場所」が実際に存在するわけではない。ユーザーがコンピュータの前に座り、インターネットのチャットルームをみつけ、自分のユーザーネームとパスワードを入力したときのみ、その人にとってだけサイバースペースが存在しうる。もしも全てのユーザーが端末から離れれば、サイバースペースは存在しなくなる。さらに、チャットルームにはユーザー本人とサイバーパーソンとの関係しかないのだから、二人のユーザーが同時に存在することはありえない。仮に、現実世界の同じ場所(たとえば同じサイバーカフェ)に対話の相手がいるのを知ったとしよう。そのとき、彼らのコミュニケーションはサイバースペース上だけでなく、現実世界でもなされるだろう。しか、現実世界では、彼らは互いに相手をサイバーパーソンとしてではなく、ひとりの人格として認識する。

さらに、サイバーパーソンは、主観的に存在しえない。従って、サイバースペースに存在する唯一の主体は、ユーザー本人である。主観性を持ちえないサイバーパーソンは、ユーザーにとって絶対的な他者である。ここでウェストフォールは、ユーザー-サイバーパーソンの関係は、ボーヴォワールが論じたのと同じ種類の関係であると言う。つまり、ユーザーは、その人自身の一次性(primariness)において本質的なものである。なぜなら、ユーザーなくしては、サイバースペースも、コミュニケーションも、コミュニケートすべきサイバーパーソンも存在しないからである。だが、この人格であるユーザーに対して、サイバーパーソンは非本質的なもの、二次的なものである。ボーヴォワールが、ジェンダーという観点から男性が女性を定義し、それによって女性が絶対的にジェンダー化されることを示したのと同じように、サイバースペースでは、自分自身をジェンダー化された存在者として見なすユーザー達が、絶対的にジェンダー化されていないサイバーパーソンとコミュニケートしている。

とはいえ、他者の他者性にもとづいた関係には、ジェンダーだけでない。他にも人種、宗教、国家など多くの関係がある。そこで、「なぜ人種や宗教の関係ではなく、ジェンダー関係だけを問題にするのか」という問いが生じるだろう。それは、ボーヴォワールにとってジェンダーだけが根本的な関係だったからである。たとえばアフリカ系アメリカ人やユダヤ人が他者だと見なされたのは偶然的な歴史的出来事に由来するのであり、彼らは絶対的な他者ではなかった。だが、女性はそうではない。ボーヴォワールは、マルクスを引用してこう書いている。

「人間の直接的な、自然の、必然的な関係は、男性と女性の関係である。…。この関係の本質は、男性がどのような点で自分自身を一般的な存在者(a generic being)すなわち人間(mankind)であると考えるかを決定する。」

ジェンダーの関係は最も基本的な人間関係であり、最も基本的な他者性のカテゴリーがジェンダーなのである。そして、ユーザーに対するあらゆる実質的なアイデンティティを欠いたサイバーパーソンは絶対的な他者(the Other)となる。

だが、自分が他人からサイバーパーソンとして見られていることを自覚しているユーザーもいるだろう。この人は自分が本質的なのは自分自身に対して現れる時だけであり、他のユーザーからは絶対的な他者であることを認識している。この他者性は、現実世界のジェンダー関係にもとづく女性の他者性と対応している。「女性の状況は、常に自己を本質的なものと考えている、あらゆる主体(自我)がもつ願望と、彼女が非本質的なものとなる状況からうける強制の衝突にある」とボーヴォワールは言う。ウェストフォールは、このような自覚を持つユーザーを、サイバーウーマンと呼ぶ。サイバーウーマンは女性ではないが、女性に似ているからである。そしてサイバーウーマンを、サイバースペースにおける第二の性であるとする。

サイバーウーマンと自己抑圧

ウェストフォールによれば、ボーヴォワールとサルトルにとって、自己の自由は必然的に他者の自由と結びついている。より明確に言うと、根本的に自由なものとして人間を認識する時にのみ、人間は自由でありうる。ボーヴォワールは『両義性の倫理(1966年)』の中でこう述べている。

「自分自身が自由であると意志することは、他者が自由であると意志することである。この意志は、抽象的な決り文句ではない。この意志は、各人に、成し遂げられるべき具体的な行為を指し示す。」
だが、ボーヴォワールの考えでは、自由は常に、個々人の物質的、社会-経済的、文化的状況によって抑制される。とはいえ、この抑制によって、人は自分自身の自由を保証し促進することへの責任から解放されるのではない。仮に、ある人が外部の力によって抑圧されるのならば、この人は、その抑圧された状況下の自由の表出を、自分自身がもつ自由の最大限の表出として見るよう定められている。すなわち、抑圧された人が、その抑圧に対して何か為しうるにも関わらず何もしなかったならば、この人は抑圧に対して反抗しなかったことにおいて道徳的過ちをおかしている。

ウェストフォールは、意識してサイバースペースに入ろうとするユーザーは、サイバーウーマンになることを選択している、と言う。このユーザーは、自分が他人から非本質的で二次的なものと見られることを知りつつ、ボーヴォワールの言う被抑圧者になることを選んでいるからである。だが、抑圧を容易に根絶できない現実の女性とは異なり、インターネットの接続を切れば、抑圧からは容易に解放される。だから、ユーザーの中には、現実世界のアイデンティティをもつよりもサイバーウーマンになることを好む人がいるのである。

多くの人々は、サイバースペースに入ることは解放だと言う。たとえば、サイバースペースのコミュニケーションでは、社会的に特徴づけられた身体は無視されるのだから、身体によって経験されるすべての抑圧は消滅すると言われる。身体も名前もジェンダーももたないサイバーパーソンは、ジェンダー、人種、宗教、国籍など、あらゆるカテゴリーから解放され、身体とアイデンティティの制限を受けない。だが、本質的な非物質的自己を表現するときに身体が障害物となるのなら、ユーザーは自分の身体と対立するようになる。ウェストフォールによれば、これはデカルト的二元論への逆戻りである。このユーザーは、自分自身の本質を抽象的な自我だと見なしている。そして、身体や身体的特徴は、非本質的な付随物であり「真のコミュニケーション」に必要ない。このような二元論をとるのは、逃避不可能な人間存在の両義性から逃げようとすることである。人間とは身体に収められた心ではなく、身体と心の両義的な統一である。そして身体の社会的特徴とさまざまな要素は、ユーザーの人格を構成し、特性をつくる。

自発的にサイバーウーマンになろうとするユーザーの試みは、偏見や抑圧のない共同体へ参入する試みだと考える人々もいるだろう。しかし、ウェストフォールは、ボーヴォワールの見解にしたがえば、このような試みは解放ではなく現実逃避である、と言う。なぜなら、主体としての自己理解と、絶対的他者になることの選択との間に挟まれた人は、ユーザーとサイバーパーソンの両方を否定しているからである。サイバーウーマンになることを選ぶことによって、この人は、自分自身を非本質的なものと見なそうとする。すなわち、自分自身を抑圧することを選んでいるのである。ボーヴォワールは、このような自己抑圧への荷担を道徳的非難に値するとした。この自己抑圧の根底にあるのは、有限の自己に無限を確保しようとする試みである。自分の有限性を認識することで得られる唯一の喜びは、その人が自分自身の自由に見出す有限性である。ボーヴォワールはこう書いている。

「われわれの周囲にある世界の途方もない大きさや、われわれの無知の深さや、来たるべき破滅の危険や、巨大な集団の中にいるわれわれ個人の弱さにもかかわらず、もしも自らの有限性の中に存在しようと意志することを選択したならば、今日われわれは絶対的に自由である。」

自分が身体として経験する社会的制約を消し去ろうとする試みの中で身体としての自分を否定することは、自分自身を完全に否定することであり、真正な自己を捨て去ることであり、自由という自己超越的な行為の可能性を消し去ることである。サイバースペースでコミュニケートしようとする人々は、空間的有限性から解放された者として自分自身を表現する手段として、自分自身を抑圧することを選択している。したがって、サイバースペースのコミュニケーションは、しばしば想定されているような自由な超民主主義的共同体ではなく、孤立した自己抑圧から始まるのである。現実のコミュニケーションは相互的なものでなくてはならないが、サイバースペースのコミュニケーションはそうではない。

サイバースペースのコミュニケーションに内在する二元論を仮定するなら、「女性とは何か」というボーヴォワールの問いは、ユーザーにとって不必要なものである。男性と女性は同一のもの、すなわち身体で覆われたジェンダーのない心を二つの言葉で表現しているにすぎないのである。

紹介者コメント

(1)ジェンダーとは無関係な内容である。

ウェストフォールは、ユーザー本人と、チャットルームで会話する相手(サイバーパーソン)との関係を、「ジェンダー関係」と呼ぶ。しかし、この関係がなぜジェンダー関係と呼ばれなければならないのか、まったく理解できない。本稿が論文タイトルから予想された内容からかけはなれた内容であるのも、その理由によるだろう。そして、本論文の内容自体に矛盾が含まれている。

まず、ウェストフォールは、ボーヴォワールの見解から、女性の二次性(他者性)は「女性の、男性との生理学的差異に対する社会的-歴史的取り扱いに根づく」と述べる。つまり、男女の身体的特徴の差異に基づく社会的な待遇の違いを「ジェンダー」と呼ぶのである。この前提に従えば、サイバースペース上の性別不明な人々に対して「ジェンダー」という語を適用するのは不適切である。

ユーザー-サイバーパーソンの関係を「ジェンダー関係」と呼ぶ理由は、ウェストフォールの説明によれば、「ジェンダーの関係は、人種や宗教ではなく、ジェンダーの関係が最も根本的な関係であり、ジェンダーが他者性の最も基礎的なカテゴリーだから」というものである。しかし、この「ジェンダー関係」は、上に述べたように「男女の性差による社会的な待遇の違い」である。それならば、やはり男女の性差が介在しないサイバースペース上の他者性をジェンダーと呼ぶことはできないのは明らかである。もし、これをジェンダー関係と呼びうるならば、人種や宗教上の他者との関係もジェンダー関係と呼べることになるだろう。

(2)サイバーパーソンを、ユーザーから独立した人格として想定する必要があるのか

ウェストフォールは、チャットルームにアクセスする本人を「ユーザー」と呼び、それを第三者が見た姿を「サイバーパーソン」と呼び、両者を区別する(ただし、本文中ではこの言葉の使い分けが不明確であったので、本紹介では紹介者が適宜整理した)。そして、サイバーパーソンは人格として不十分な存在であると言う。しかし、それならば、最初からサイバーパーソンを現実のユーザーとは別個の人格として想定する必要はない。むしろ、ユーザーの人格の延長、あるいはユーザーと連続した人格として考える方が自然であろう。実際、多くの人々は、サイバースペース上のメッセージそのものを独立した人格だとは考えず、背後にそれを入力する実在のユーザーがいることを想像しているだろう。ウェストフォールの議論は、実在しないものの実在を想定しておいて否定する、いわばマッチポンプの議論になっている。

(3)本当にジェンダーフリーなのか。

本当に、サイバースペースはジェンダーフリーなのだろうか。もちろん、交わされる情報量が少ないために事実を偽るのは容易である。したがって、性別を特定するのは困難であることと、相手が自称する性別の真偽を確定する手段がないことは事実であろう。しかし、チャットルームでジェンダーがまったく問題にされていないだろうか。

ジェンダーの真偽を知りえないからこそ異性を騙る人々が存在する。その場合、たとえば女性であると偽るのなら、単に言葉づかいだけでなく、発言を通じて、自分の容姿の美しさや体のサイズ、性的魅力など、現実社会で女性に割り振られている性的役割、特徴づけを強調する傾向があるだろう。また、実際に女性である場合も、人々の関心を集めるために、女性的なジェンダーを強調する人もいるだろう。これらの場合、サイバースペースでは、ジェンダーという概念が現実世界よりも強化されていると言いうる。

また、サイバースペース上でジェンダーを知ることは不可能なのか、という点も疑問である。これは経験的に調査すべきことではあるが、もしも、私的な親密な会話を続けようとするのなら、双方の性別を明らかにせねばならないかもしれない。多くの場合で、性別を知るか否かによって、交わされる話の内容に影響が出るだろう(たとえば、恋愛について会話するなら、相手が同性であるか異性であるかによって、あるいは相手の性別を知っているかどうかによって、話の内容は大きな差異を生む)。逆に、親しく会話を交わしていくうち、その内容によって、相手の性別はおのずから判明していくようにも思われる。抽象的な議論を交わし続けているならばともかく、私的な話をしているのなら、交わされる話の内容や相手のもつ関心によって、おおまかな推測ができるかもしれない。いずれの点から考えても、間接的なコミュニケーションだからジェンダーフリーであるという結論は簡単には出ない。さらに、間接的であり匿名性があるからこそ、サイバースペースでは性差別的な発言や表現が容易であるとも言いうる。サイバースペースのジェンダーを問題にするのなら、むしろこれらの点を真剣に考えるべきであろう。


(つるたなおみ 京都大学大学院文学研究科)
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