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「遺伝子検査の社会的、法的、倫理的含意」

神崎宣次

出典: "Social, Legal, and Ethical Implications of Genetic Testing"(Lori B. Andrews , Jane E. Fullarton, Neil A. Holtzman, Arno G. Motulsky(ed.), Assessing Genetic Risks : Implications for Health and Social Policy, 1994, ch.8.)

キーワード: 遺伝子検査(genetic test)、遺伝子スクリーニング(genetic screening)、自律(autonomy)、守秘、(confidentiality)、プライバシー(privacy)、平等(equity)

以下で紹介する文章は、(米)国立衛生研究所(National Institute of Health)およびエネルギー省(Department of Energy)から資金を受けた「遺伝リスクの評価に関する委員会」のレポートの一部である。ここでは、新たな遺伝子検査法が開発される毎に生じる公衆衛生や社会政策上の問題が取り扱われている。これらの問題の解決は、自律、守秘、プライバシー、そして平等の四つの倫理学的かつ法的原理がどのような重要性を与えられているかにかかっている部分がある。そこで、これらの概念の意味、および現行の法の下でこれらの概念がいかに保護されているか、を概観することが、この発展中の問題領域における政策分析の出発点となる。

具体的には次のように議論が進められている。1)上に挙げた四つの原理について、それぞれ倫理学的な観点と法的な観点から、その概念を分析する。2)現行では遺伝に関わる領域においてこれらの概念の保護は、どのようになされている(あるいは、なされていない)のか。3)四つの原理を遺伝子検査の問題に適用する場合に、個人の権利が他者に対する危害にどこまで優越するのかを、伝染病と対比することで検討する。4)四つの原理に関連して生じる個別的な問題の検討。6)これらの問題に対する委員会の勧告、及び結論。

以下でこの文章をレビューするが、紙面の制約上、4)以降の部分の紹介は省略した。この省略によって、ここでは元の議論全体から、遺伝子に関連する領域における個人の権利に関する理論的分析を行っている部分を抜き出したことになる。省略した部分に関しては、この文章のより詳しい紹介が「情報倫理の構築」プロジェクトによる『情報倫理学資料集3』(2001年春頃発行予定)に収められる予定であるので、そちらを参考していただきたい。

1) 鍵となる定義

1-1) 自律

倫理学的分析

遺伝子検査や遺伝子スクリーニングの文脈では、自律の尊重とは、検査を受けるかどうかについて、また、検査を受けた場合にその結果の詳細を知りたいと願うかどうかについて、情報を得た上で独立した判断を行うという個人の権利に関連する問題である。自律はまた、個人が遺伝情報を信頼するかどうかにかかわらず自分の運命をコントロールする権利でもあり、人生の重要な決定に関して、それが遺伝情報やその他の情報に基づくかどうかには関係なく、他者に干渉されることを回避する権利でもある。自律の尊重はまた、特定の目的(遺伝子試料自体およびそこから引出された情報が、DNAバンクやDNA登録ファイルといったのような、将来の分析のために貯蔵されるという場合もふくまれる)のための分析用に提供された試料の将来的な利用をコントロールするという個人の権利をも含んでいる。

われわれの社会においては、自律の尊重は中心的重要性を持っている。しかしながら、それは絶対的なものではない。自律の尊重が覆されうる状況は、いくつかある。たとえば、フェニルケトン尿症に対する強制的新生児スクリーニングは、深刻な危害が生じることを回避するために強制的に行なわれる。

法的問題

自律は、法的な概念としては、人格の全一的な統合性を保持するような決定のための基盤という役割を果している。特に、判断能力を有する成人は医療行為を受けるかどうかを選択する権利を有することが、判例では主張されている。また、そのような選択を行う以前に、選択に必要な事実(たとえば、自分の状態や診断、控えている検査や処置の潜在的なリスクと利益、あるいはその医療行為に対する代替的選択肢、等)を知らされる権利を有している。遺伝に関連していえば、医療従事者は遺伝子検査に利用可能な情報を提供しないという責任を負っている。

人々は、自分の体から採集された組織が(当初の目的に用いられた後に)継続的に利用されることに関して情報を得たり、そのような利用をコントロールする権利も有している。人間を実験対象に含む研究を規制する合衆国連邦規則では、遺伝子検査用に提供された血液サンプルを用いて、それ以外の研究を行うことは不可能ではない。すなわち、サンプルが匿名であり、収集された段階では継続利用が予期されていなかった場合に限り、継続的利用は許される。が、継続的な利用が最初から予期されていたなら、サンプルの収集に先立って、その件に関するインフォームドコンセントが得られていなければならない。

1-2) プライバシー

倫理学的分析

プライバシーとは、シェーマン[Ferdinand F. Schoeman]によれば「ある人物へのアクセスが限定されている状態、または条件」である。遺伝子検査との関連で言えば、プライバシーには、自分のゲノムについての詳細を他人が知るかどうか、また、どの他人(保険者、雇用者、教育機関、配偶者またはその他の家族、研究者、社会機関、等)が知るのか、に関する判断を情報を与えられた上で独立して行う権利が含まれる。

プライバシーに対して、さまざまな正当化が提出されてきた。例えば、

  1. プライバシーとは人格権と財産権からなる権利の束を短く表現したものにすぎないのであって、そこに含まれる個々の権利についてはプライバシーの概念に言及することなく説明することができる、というもの。
  2. プライバシーに対する権利は、信頼や友情といった親密な関係を含めた他の善に対する重要な道具あるいは手段である、というもの。
  3. 個人の自律という観点から基礎付けるもの。決定に関するプライバシーは、しばしば個人の自律と密接な関係がある。

正当化の議論とは別に、プライバシーの権利の射程と重みに関する議論が続けられている。その射程は無制限ではないし、他者の利害のような競合する他の全ての権利に必ずしも優越するとは限らないのである。

法的問題

法の領域では、プライバシーは自律と守秘の両方を含む包括的な概念である。自分自身の医療に関する決定を行う権利は、合州国憲法で保証されたプライバシーの権利によって保護されている場合がある。そこには、遺伝子検査を受けるかどうかといった生殖に関わる選択を行う権利や、治療を拒否する権利が含まれている。

憲法上のプライバシーの原理に基づいて個人情報が保護されるという判例もあるが、より一般的には、個人情報の開示に対するプライバシー保護はコモンロー上の不法行為原則に基づいてなされる。さらに、プライバシーを保護する州法や連邦のプライバシー法も存在している。

1-3) 守秘

倫理学的分析

守秘とは、情報の中身には繊細な取り扱いを要求するものがあるので、それらに対するアクセスは管理されなければならないし、アクセスを許される関係者も制限されるべきである、という原理である。特定の関係の圏内で提供された情報は、秘密を前提として与えられたものであり、他者に公開されない、あるいは公開される他者が制限されていることを期待している。こういった状態あるいは条件は、権利や責務の用語で表現される、倫理的、社会的、あるいは法的な、原理や規則によって保護される。

医療や種々の諸関係において、われわれは自分の身体に対する他者のアクセスを許可する場合がある。このような場合には、プライバシーは必然的に減少することになる。守秘の規則によって、このようなアクセスによって生じる情報をコントロールし、アクセスを制限する権限が当人に付与される。たとえば守秘規則によって、医者が患者の許可なしに保険会社や患者の雇用者に医療情報を公開するのを禁じることができる。

守秘規則は、医療関係の実質的に全ての規約集にみられる。なぜなら、その規則は道具的な価値を持つからである。もし医療従事者の守秘が期待できなければ、患者は診断や治療を行うために必要な身体への十分なアクセスを許可したがらなくなるだろう。このことは、守秘規則の一つの正当化となっている。

もう一つの正当化は、自律とプライバシーの尊重の原則に基づいている。人格を尊重することには、その人物のプライバシーの区域を尊重すること、その当人に関する情報へのアクセスのコントロールに関する当人の決定を受けいれること、が含まれる。人々が医療従事者によるアクセスを受け入れる場合、その関係において生じた情報に対して他の誰がアクセスできるかについて決定する権利を、その当人が保持しているべきである。

守秘義務は、しばしば関係における明示的あるいは暗黙の前提から引出される。医療従事者の倫理綱領が情報の守秘を約束していて、個々の医療従事者がそれを拒否していない場合には、患者には個人情報が守秘の対象として扱われることを期待する権利がある。

守秘義務は少なくとも二つの意味で制限を受けるということは、広く認識されている。

  1. ある種の情報は保護されないことがある。全ての情報が守秘の対象となるわけではない。銃創や性病や結核のような伝染病の患者を報告するように法が定められていることは、よくある。
  2. 他の諸価値を保護するために、守秘義務が無効とされる場合がある。重大な危害が生じるのを防ぐために守秘規則を破る道徳的あるいは法的権利が(あるいは、そうすることが責務でさえある場合も)あるかもしれない。

守秘規則に対する違反が正当化されるには、いかなる場合にも、自律の尊重の原理に対する正当化される違反の議論で示された条件[紹介者註:インフォームドコンセントのことを指していると思われる]が満されているべきである。

法的問題

守秘の法的な概念においては、人々が医者に提供する情報に焦点が置かれている。守秘を保護することは、人々が医療へのアクセスを求めるのを後押しするという点で、重要な公衆衛生上の目的に貢献すると考えられる。もし守秘が保証されなければ、患者は医療を求めようとはしないかもしれない。そうなれば、共同体にも当人にも潜在的な危害が及ぼされることになる。実際、1828年のニューヨークにおける天然痘の流行の間に初めて、人々が医療を受けるのを後押しするために医者-患者間の守秘を定めた法令が可決されたのである。それ以降、さまざまな法的決定が医療における守秘を保護するようになってきている。

医療において守秘が保護されるもう一つの理由は、ある人物の医学的状態を公開することがその人物に危害を与える可能性があるからである(たとえば、差別)。

1-4) 平等

倫理学的分析

正義や公平や平等の問題に関して、現在では、実質的な正義と形式的な正義を区別することが一般的である。社会は、医療のような希少資源を必要や社会的価値や支払い能力といった人々の間の差異に基づいて配分するかどうか、を決定しなければならない。

決定的な問題の一つは、遺伝的な障害や傾向は、雇用や健康保険といった社会的善に対するアクセスから締め出すための根拠となるか、という問題である。ほとんどの正義の概念は、特定の任務を効率的かつ安全にこなす能力に基づいて雇用がなされることを命じている。そのような概念によれば、能力はあるが遺伝的障害を持つ人物の雇用を拒否することは不当である。

こういった雇用の問題はしばしば、健康保険の問題と重なっている。現実の健康保険は、しばしば「保険統計上の公平 actuarial fairness」と呼ばれるものが計算に入られている。すなわち、同程度のリスクを抱えている顧客をグループ化することで、保険者は正確にコストを予測して、公平で十分な保険料を設定することができる、とされている。これは直感的には正しいと思えるかもしれない。しかし、これに対しては、道徳的あるいは社会的公平が表現されていないという批判がある。ダニエルズ[Norman Daniels]によれば、医療へのアクセスのための資源を提供するという点において、「保険引き受けの実態と健康保険の社会的機能との間には明らかな喰い違い」が存在するのである。

健康保険における遺伝的差別を排除するための根本的な議論は、医療に対する権利を確立するための議論に帰着する。医療の配分に関する中心的な問題は、「自然による抽選 natural lottery」、とりわけ「遺伝による抽選 genetic lottery」、という見解である。抽選という比喩は、健康上の要求 needsは大部分非個人的な自然による抽選に帰結によるものであり、したがって必ず与えられるというものではない、ということを示唆するものである。しかしそうであるとしても、それらの要求に対する社会の責任は、エンゲルハート[H. Tristram Engelhardt]が記しているように、それらの要求を社会が不公平とみなすか、不運とみなすかによって変化する。不運であって、不公平ではないとすれば、その要求は、個人あるいは社会の同情の対象にはなるかもしれない。しかしながら、不運であると同時に不公平でもあるとみなされるなら、社会はこれらの必要を満すよう努める正義の義務を負うことになる。

最低限の医療に関する社会的規定に対する重要な議論の一つは、一般的にいって、健康上の要求は、災害と同じように、誰の身に振り掛かるかわからないという点にある。このような特徴から、医療を各人の功績や社会的貢献に基いて分配することは、あるいは支払い能力に基づいて分配するのさえ、不適切であると論じる者は多い。公平に基づいて公平な医療の分配は主張するもう一つの議論として、健康上の要求は正常な種の機能からの離反を示しており、それを負っている人々から機会の公正な平等を奪っている、という主張がある。これによると、公平は機会の公正な均等を保証するために、「正常な機能を維持、回復、補正」することを医療の規定として要求することになる。

これらの議論は次のような事実によって幾分主張を弱められる、と主張されることがある。すなわち、多くの病気は偶然の出来事の結果ではなくて、喫煙や飲酒のような不可避ではない習慣によって悪化させられる。しかし社会には、教育や課税によってこれらの習慣をやめさせよう試みがある一方で、いったん病気になったとしたら医療に対する十分なアクセスが保証されなければならないという一般的な合意が存在している。

法的問題

平等の概念は、さまざまな法のための基盤として役に立つ。医療上の必要を抱えた人物には、メディケイドのような政府の計画の下に、遺伝子に関連するものも含む医療が提供されることがある。それに加えて、遺伝子型に基づく差別を禁止するための立法努力がなされてきた。たとえば、遺伝子に基く雇用差別を禁止している州がいくつかある。また、65歳以上の殆ど全ての人がメディケアの下でケアを受ける権利をもつと考えられる。

2) 遺伝に関わる領域でのこれらの原理の保護は、現行上どのように行われているか

これまでのところ、ほとんどの遺伝子検査は生殖に関わる場面か、または新生児に対して、行われてきた。その場合には、胎児や幼児に影響を及ぼす蓋然性の高い、あるいは即座に影響が現われるような、深刻な障害を発見することが目的とされる。しかしながら潜在的には、検査することができる遺伝的素因はもっとたくさんある。たとえば、性別や身長のような病気以外の特徴や、ある特定の環境刺激下での病気の罹りやすさや、今のところ症状がなくてもハンチントン舞踏病みたいな衰弱を伴う病気によって後の人生に苦痛を受けることになる人物を判別するもの、などが挙げられる。これらの検査可能な遺伝子の異常には、徴候、重大さ、どの程度治療できるか、そして社会に対して持つ意味合い、等の点においてかなりの幅がある。人々が自分自身を規定し、自分の人生や自己概念を管理する能力は、自分及び他者が自分の遺伝的特徴を知るかどうかに関してコントロールに大部分依存するだろう。

ほとんどの医学的検査は、医者-患者関係の中で行われる。しかし、遺伝子検査は、より幅広い文脈において行われる可能性がる。すでに、公衆衛生に関連して、毎年四百万人以上の新生児が代謝異常の検査を受けている。また、研究者達は家族研究に参加し、遺伝子検査を受けるよう人々に呼び掛けている。それには、現在あるいは将来の分析に用いるためのDNAサンプルの収集も含まれている。医学とは関係の無い分野での遺伝子検査の応用も増えている。たとえば、犯罪加害者の特定のためにDNAが用いられるような場合がそうであり、少なくとも17の州で重罪犯人のDNAフィンガープリントを収集する計画がある。また、軍隊では戦死者の特定のために全兵士のDNAサンプルが収集されているし、雇用者や保険者は不適格者を排除する目的で遺伝子検査を用いようとするかもしれない。こういった遺伝子検査の応用法を肯定しようとする論法には、次のような論法がある。すなわち、先に挙げた四つの原理に関連する既存の判例は伝統的な医者-患者においてのみ適用される、とするものである。

自律や守秘やプライバシーに対してどの位の注意が払われるかは、機関や事業者によって大きく異っているように思われる。

遺伝子検査の結果に関する守秘にどの程度の重きを置くかは、遺伝学者によって異っている。ヴェルツ[Dorothy Wertz]とフレッチャー[John Fletcher]の研究によれば、守秘を破り、患者の許可無く(あるいは患者の反対があったとしても)遺伝情報を開示する場合が少なくとも四つあることを多くの遺伝学者の回答が示唆している。

  1. ハンチントン舞踏病のリスクを親類には開示する。(回答の54パーセント)
  2. 血友病のリスク。(53パーセント)
  3. 患者の雇用者に遺伝情報を開示する。(24パーセント)
  4. 患者の保険者に遺伝情報を開示する。(12パーセント)

一般開業医は、より情報を開示しやすいかもしれない。医療従事者は前もって開示に関する方針を説明すべきであり、そこには親類への開示に関する方針も含まれるべきである。

DNAサンプルや遺伝子検査の結果を保管している機関も、プライバシー等をどれ位尊重するか、それぞれの機関によって異っている。勝手に余分な検査を行うところもあるし、他の機関とサンプルを共有したり、サンプルや情報を匿名にではなく、識別情報と一緒に保管したりするところもある。実際、保管条件自体が機関によって全く異なっているのである。温度管理や保全装置がしっかりしている場合もあれば、適当に山積みになっているだけのこともある。また、サンプルや結果がどれ位の期間に渡って維持されるかも異っている。

一旦DNAサンプルが提供されてしまえば、本来の目的とは異る利用あるいは将来の利用を予防する措置はほとんどない。このことは次のような問題を生み出すことになる。追加的または継続的な利用(特に、新生児スクリーニングでは先に同意が得られることは、決してないといってもよい)に関して同意を得る必要はあるのだろうか。同様に、DNAを抽出する新しい検査技術を用いることによって障害が発見されるかもしれないと警告する義務があるのだろうか。

遺伝情報に関する守秘の問題は、光学的記憶カードの導入によって強調されることになるだろう。カード上には個人の遺伝情報を記録するだけの容量が既にあるし、将来的には個人のゲノム全体を記録することができるようになるだろう。

全ての患者がこのようなカードを使うことを要求する議会立法が既に提出されたことがある。この法案、すなわち医療および健康保険情報改正1992年法案 the Medical and Health Insurance Information Reform Act of 1992 、は医療従事者と保険者間の完全に電子的な通信システムを強制しようというものであった。

3) 遺伝子検査にこれらの原理を適用する

先に挙げた四つの原理は、干渉を受けずに個人的な決定を行う個々人の権利に大きな重みを持たせる。このことは、ある程度は、個々人に重要性を付与する我々の文化や法体系から来ている。しかし、個々人の権利は無制限に認められるものではない。遺伝に関わる領域では、個々人の権利がどこで終り、家族やより大きな集団に対する責任がどこで始まるか、という問題が生じる。

通常、医学は個々人の権利という文化の範囲内で行われる。しかし、医学モデルが、病気を予防するという公衆衛生モデルで置き変えられる状況は、これまでもあった。たとえば、ワクチンのようなある種の医学的介入を受けることが要求されたり、健康に関わるリスクについて個々人に警告したり、というような場合である。遺伝に関わる領域にも公衆衛生モデルを適用して、遺伝子スクリーニングを強制し、深刻な障害を負っている胎児は強制的に人工妊娠中絶さえしてもよい、と論じられたことがある。それと似たような手段でもって、人々に対して、その当人が負っている遺伝的障害の危険性が警告されるかもしれない。

しかしながら、公衆衛生モデルを遺伝に関わる領域に適用することには、いくつかの難点が存在する。ある種の伝染病は短時間で大量の人数に伝染されるので、社会全体を即座に危険にさらす可能性がある。それに対して遺伝病が伝わることは、社会に対する即座の危険を意味しない。むしろ、将来の世代の潜在的なリスクを生み出すものなのである。基本的権利を扱った米国最高裁判決では、将来の危険は目の前の危害ほどには国家の関心をひかない、とされている。

さらに、「予防」という概念そのものが、ほとんどの遺伝病に対しては容易には当てはまらない。フェニルケトン尿症に対する新生児スクリーニングの場合、処置によって精神発達の遅滞を予防することができる。しかしながら、今日における多くの遺伝病では、遺伝病自体防ぐことができない。むしろその病気を持った特定の個人の誕生が防がれる。このような種類の予防は、麻疹や梅毒を予防することと同じこととはみなせない。機能障害に関する見解、及び、ある障害を「予防」すべきものであるとするのは何であるかに関する見解、には人々の間で大きなばらつきがある。多くの人々は、自分の家族にダウン症児や嚢胞性線維症の子供が加わることを歓迎するだろう。さらに、宗教的あるいはその他の個人的な道徳的反対論を、中絶に対して持っている人もいる。また、特定の障害や遺伝的リスクを負った人々は、それらの障害に対する遺伝子検査を、自分たちの種族 kindを絶滅させようとする試みであるとみなしたり、自分たちの価値を否定することであるとみなすかもしれない。

強制的な遺伝子検査はまた、検査を受けた個々人を打ちのめしてしまうかもしれない。(その当人にとって外因的であるとみなすことができる)伝染病とは違って、遺伝病はその患者の本性の内の処置のしようのない部分であるとみなされるかもしれない。自分が欠陥のある遺伝子を持つことを自分の意志に反して知った人々は、自分のことを欠陥あるものだとみなすだろう。その人々が自発的にその情報を知ることを選択しなかったのなら、この危害は複合的なものになる。個人の同一性に対するこの攻撃は、伝染病ではあまり起らない(エイズや性器ヘルペスは自己イメージに否定的なインパクトを持つが)。さらに、ほとんどの遺伝的欠陥は、ほとんどの伝染病とは違って、現在のところ直すことができない。したがって、強制的な遺伝子検査によって起る、頼んだ覚えのない欠陥の暴露は、その当人を生涯に渡って悩ます可能性があり、また家族にも様々な面での影響及ぼすかもしれない。家族には、リスクを負っているかもしれない、あるいは当人のパートナーとしてそのリスクの影響を受けるかもしれない、ような他者が含まれているのである。遺伝情報は個人に対する差別の根拠を与えてしまう可能性を持っている。

さらに、遺伝病の伝達を止めようとする試みによって生じさせられる政策上の関心は、伝染病に関するものとは異っている。なぜなら、遺伝病ではそれぞれの人種や民族的背景を持つ人々に与える影響が異っているからである。この理由から、遺伝的障害に関する統治行動に伝染病モデルを用いることに反対をする者もある。

政府は、どの伝染病に取り組むかについての自由裁量権を持つ。たとえば、どのような予防接種が必要であるかを決定することができる。遺伝病に関しては、それとは大きく異っていると考えられる。特に、効果的な処置が存在せず、必然的に、それを負った胎児の人工妊娠中絶が可能な唯一の医学的処置であるような障害に関してはそうである。過去に差別されてきた少数集団は、自分たちの集団で生じる障害のみを標的にするスクリーニング計画を更なる迫害とみなすかもしれないし、遺伝情報を基にした生殖の回避や子孫の中絶を虐殺とみなすかもしれない。

伝染病という先例が強制的な遺伝子スクリーニングを正当化すると論じる者達は、伝染病の場合でさえ成人に対してとられた強制的処置はほとんどないということをきちんと認識していない。成人は、治療可能な伝染病にかかっている場合でさえも診断と治療を受けるよう強制されないのである。

遺伝的障害に対する診断や処置を強制することは、病気の概念がどうとでも解釈できるような場合には、とりわけ問題となる。

公衆衛生モデルが遺伝病には当てはまらないという事実があるにもかかわらず、個々人の権利モデルは絶対視されるべきではない。深刻な他者危害を予防するために四つの一般的原理が譲歩すべき状況は存在する。しかしながら、これらの原理の例外を決定するのは簡単なことではない。これらの原理の一つを破ることによって危害を予防することができる場合があるかもしれないが、これらの原理を維持することの価値が危害を避ける機会をそれでもなお上回るというような場合もあるかもしれない。どちらの場合においても、いくつかの要因を評価することが必要となるだろう。すなわち、その危害はどれ位深刻で避けるべきか。あるいは、原理を破ることの医学的、心理学的、その他リスクは何か。あるいは、原理を破ることの財政上の負担は何か、等の要因が評価されなければならない。


(かんざきのぶつぐ 京都大学大学院文学研究科)
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