出典:Diane P. Michelfelder, 'Our moral condition in cyberspace', in Ethics and Information Technology, vol. 2, no. 3, pp. 147-52, 2000.
本稿にて紹介する論文の著者、マイケルフェルダーは、ユタ州立大学ローガン校にて語学哲学部長を務める哲学科教授である。彼のプロフィールページによると、現在は哲学的解釈学にも関心があるとのことである。
さて、この論文においてマイケルフェルダーは、近代の科学技術が我々の道徳の下敷きとなる条件(=道徳的条件(moral conditions))を大きく変質させ、それによって従来の倫理が機能しなくなる、というハンス・ヨナスの見解を引き合いに出し、それがオンライン情報技術(あるいは、サイバースペース技術)にも適用されうるのかを検討している。その際、彼は、オンライン情報技術による(1)我々の因果的効力(causal efficacy)への影響、及び、(2)自己同一性(self-identity)への影響という2つの側面から論じる。彼の結論は、オンライン情報技術に伴う哲学的難題の存在を認めつつも、この技術に固有の新しい「サイバースペース倫理」が必要になるわけではない、というものである。以下、論者自身の章立てにしたがって議論を追う。なお、原文に章タイトルが付されていないため、紹介者によって独自に章タイトルを付すことにした。また、文中のアンダーラインは紹介者による強調である。
マイケルフェルダーはまず、ハンス・ヨナスの見解を以下のようにまとめている。ヨナスは、その著書『責任という原理』において次のように議論している。近代の科学技術の力は、その範囲と射程の恐るべき広さゆえに、新しい道徳的条件を生じさせる。我々は、その新しい道徳的条件のもとで、原子力エネルギー、自然資源の過剰消費、生物工学の革新による新たな脅威に直面する。この条件のもとで拘束力を持つような道徳的枠組みを案出することは、道徳哲学に突きつけられた大きな難題である。ヨナスの言によれば、「行為する新しい力は、新しい倫理規則を要求する(novel powers to act require novel ethical rules)」。
しかし、人類はこれまでずっと何らかの技術を用いて生存条件の物質的基礎を改善してきたはずであるのに、どうしてこの科学技術時代にだけ特別に新しい倫理規則が要求されるのか。その答えの一つとして、近代の科学技術が、「因果的効力(causal efficacy)」という人間の行為能力を大幅に変化させる、というものが考えられる。伝統的な倫理学は、「今、ここ」という射程の中で成立していた。しかし、近代の科学技術によって、我々の能力は「今、ここ」の射程をはるかに越えて拡張されてしまう。そして、近代の科学技術が将来の人々に破壊的で不可避的な害悪をもたらすがゆえに、得られた新しい行為の力の影響をしっかりと見張っておかなければならない。また、我々の新しい行為の力は、倫理的考慮の新しい対象を生み出すがゆえに、新しい倫理規則を要求する。このように、新しい道徳的条件の核心は、自然全体(及び将来世代)を倫理的考慮(及び責任)の新しい対象として捉え、かつ、そうした対象に及ぼす我々の力が我々の帰結予測能力をはるかに越えているという事実を謙虚に認知する必要がある、ということである。ここから、ヨナスは、「人類全体の将来を危うくする結果をもたらすいかなる行為もしてはならない(Do not take any course of action that might have the outcome of jeopardizing the future of humankind as a whole.)」という、科学技術時代のための倫理の「第一原理(first imperative)」を導くのである。
続いてマイケルフェルダーは、ヨナスの見解が、オンライン情報技術の時代にどの程度うまく当てはまるのかを吟味する。一つの答え方として彼が挙げるのは、情報技術は、時間と空間の制約を大幅に減少させて我々の行為能力を増強する点で、ヨナスの言う科学技術と同様の影響力を持つ、というものである。例えば、ウェブ・カメラなどによって、誰もが自分の直接的な環境をはるかに越えて遠方にある景色を見ることができる。さらに、見ている者がカメラを操作できるようにすることで、我々の因果的効力はますます拡張される。しかし、他人のコンピュータを自由に操作できるようにするプログラムなどのように、因果的効力の拡張によって良からぬ結果がもたらされることも少なくない。そして、情報技術の成長もまた、ヨナスの言う科学技術と同様に、我々の予測能力をはるかに越えている。
こうした議論は、オンライン情報技術によって新しい道徳的条件が要求されるという考えを支持するように見える。しかし、サイバースペースには、ヨナスが近代の科学技術に見いだしたような道徳的責任の新しい対象に相当するものがない、とマイケルフェルダーは指摘する。「サイバースペースでは、我々の「ヴァーチャルな自己(virtual selves)」に対して新しい義務と責務が生まれる」、という議論もあろうが、知覚力も認識能力も関心も持たないような「自己」が倫理的考慮を要求するのは困難である。また、マイケルフェルダーは、電子情報技術が人間の行為の範囲を凄まじく広げる一方で、同時にその技術は「人間の行為の伝統的な空間的時間的背景(traditional spatial and temporal settings for human action)」を補強する、という事実に対して注意を喚起する。「ここ」や「今」の射程が変化したとはいえ、「今」も「ここ」もその重要性を失っていない。マイケルフェルダーによれば、もしオンライン情報技術が、我々に地球規模の範囲の因果的効力を与える一方で、「今」「ここ」という制限条件を保持するのなら、この新技術は、伝統的な倫理が失効するような新しい道徳的条件を生み出すことはない、と言ってよいのである。
次に、マイケルフェルダーは、サイバースペースが倫理的考慮の新しい対象を要求するような我々の新しい行動能力を生じさせない、ということを受け入れたとしても、サイバースペースが新しい倫理規則を要求するという考えを支持するような別の側面を探すことはできる、と述べ、一つの視点として、オンライン情報技術が「自己の本質(the nature of the self)」に根本的な影響を与える、という見解をとり上げる。マイケルフェルダーによれば、サイバースペースの非物理的な性質を強調し、ヨナスの用語を若干変形すれば、「行為の新しい環境(environment)は、新しい倫理規則を要求する」という主張に行き着く。
さて、この主張もまた、「新しい行為能力が新しい倫理規則を要求する」という主張の場合と同様に、ある暗黙の前提を置いている。すなわち、「サイバースペースという新しい環境の中で行為能力を有する自己は、物理的な意味における自己ではまったくない」という前提である。そうした自己は表象であり、体積、質量、定位(orientation)、痛みを感じる能力などを欠いている。ところが、慣習的な倫理規範や原理は、物理的に具現化されている自己に対して拘束力を持つ。例えば、伝統的な意味での同一性の概念がサイバースペースにおいて疑わしいものになるなら、カントの自律の概念も、個人の権利という考え方も、アリストテレス的な意味での徳も疑わしくなる。これらは物理的な自己同一性を拠り所としている。同じことは、ヨナス流の個人の責任という考え方にも当てはまるし、果ては、道徳的観点という考え方そのものにすら当てはまりかねない。
そこで、マイケルフェルダーは次のような問いを提起する。サイバースペースが、その中で交流する「自己」の同一性を疑わしいものにして、そうした自己の本質を掘り崩すのなら、サイバースペースは通常の道徳的推論が機能しないような新しい道徳的条件を生み出すのではないのか。マイケルフェルダーによれば、この問いに対する答えは、「サイバースペース」をメタファーだと考えるか、実在物として捉えるのかに応じて異なる。彼は、サイバースペースを物質的世界とは根本的に異なる新しい環境だと考えたくなる気持ちに対しても理解を示すが、ここはノー(生み出さない)と答えるのが合理的である、と断言する。なぜなら、イエス(生み出す)と答える場合、「サイバースペース」という言葉によって想起されているのは、限りがなく、継ぎ目がなく、領土化されない、大洋の如き環境であり、そこにいる自己の同一性や境界は流動的で不安定である、というイメージなのだが、実際にはそんなことはまったくないからである。例えば、インターネットのユーザにとって、サイバースペースは境界のない流動的な環境としては経験されていない。サイバースペース内部の多くの「場所」は、パスワードによって保護されていたり、特定のユーザにしか認められていないのである。
以上より、「サイバースペースが物理的世界とは「別のもの」であり存在論的に区別される新しい現実である」という考えが疑われるのであれば、我々は、サイバースペースが「行為の新しい環境」を生み出すという考えをも疑うことができる。そして、それによって、情報技術の発展が新しい道徳的条件を要求するという考え方にも疑義を差し挟むことができる。
さて、ここでマイケルフェルダーは、本論文の主張の有望な指標となる著作を二つ挙げ援用している。一つは、アルバート・ボーグマンの『現実にしがみつくこと:千年期の変わり目における情報の本質(Holding on to Reality: the Nature of Information at the Turn of the Millennium)』である。マイケルフェルダーは、ボーグマンの見解を以下のようにまとめている。我々は「情報革命」や「情報時代」について新しい現象であるかのように語る傾向があるが、いつの時代もある程度は情報時代だと考えられる。というのも、石を積み上げたり木の枝を折ったりすることが目印として使われていた口述文化(oral cultures)から始まって、いつの時代にも言語は現実に関する情報を伝えるために用いられてきたからである。ボーグマンは、我々の時代を「科学技術による情報(technological information)」の時代と名付け、この情報は、多義的で壊れやすく、それを解釈するのに必要な科学技術の老朽化にさらされているという特徴を持つ、と考えている。さらにボーグマンは、「科学技術による情報は、寄生虫の生命と同じように、文化的に壊れやすい。この情報は、その生命に必要な血液の多くを現実の伝統的な文化から得ている」と述べている。
そして、二つ目の著作は、ピエール・レヴィの『ヴァーチャルになること:デジタル時代の現実(Becoming Virtual: Reality in the Digital Age)』である。マイケルフェルダーは、レヴィの見解を以下のようにまとめている。「ヴァーチャルになること(becoming virtual)」は、「あらかじめ内部化されていたものを外部化する活動(the activity of externalizing what had previously been internalized)」だと理解されれば、電子情報技術が出現するずいぶん前から我々が時折携わってきた活動に他ならない。例えば、何かを記憶にとどめずに書き記す時にはいつでも、我々は、記憶されていたものをヴァーチャルにしているのである。この説明によれば、「ヴァーチャル」は、「リアル」の代替物(alternative)ではなく様相(modality)である。何かをヴァーチャルにすることは、その物質的側面を消失させることではない。レヴィによれば、「身体のヴァーチャル化は現実性消去(disembodiment)の一形態ではない。」こうして、サイバースペースの電子環境(e-environment)の新奇性という考えは重大な難問に突き当たる。
マイケルフェルダーはその他に、サイバースペースでの我々の経験を形成する「時間の経験」によって、日常的な物理的空間と同様にサイバースペースにおいても我々の自己は有限である、という事実を思い出すことができる、とも指摘する。彼は、マイケル・ハイムの著書『ヴァーチャルリアリティの形而上学(The Metaphysics of Virtual Reality)』の「ハイパーテキスト天国」という章を引いて次のように論じている。我々は、場所から場所へと非常に素早く移動できるため、永遠の現在の中にいるかのような感覚を抱く。しかし、どれほど素早く移動できたとしても、移動には普通の時計で計れる程度の時間がかかる。サイバースペースは空間のみならず時間についても異質な現実であるという印象に反して、我々は一度にあらゆる場所に存在することはできない。したがって、ハイパーテキストがもたらしたかに見えた「時間に対する人間の勝利」は、実際には「単に象徴的な勝利」にすぎない。マイケルフェルダーによれば、こうしたハイムの議論と同様のことがオンライン・ショッピングについても言える。オンライン・ショッピングの経験について「二つの場所に同時にいる」という分析が受けがよいにもかかわらず、実際には、メモを取ることとドッグフードを買うことは同時にはできない。人はすべきことを選ばなくてはならない。選択の必要性に直面して、我々は自らの自己の有限性に気づかされるのである。そうした自己、すなわち、有限な人間についてこそ、通常の道徳は拘束力を持つのである。
最後に、マイケルフェルダーは、ローレンス・トライブの古典的小論「サイバースペースにおける憲法(The Constitution in Cyberspace)」に依拠して、時間の推移と伝統的体制の根強さが、技術革新の新奇さの装いを上回る傾向がある、と述べる。例えば、連邦政府がかつてプライバシー保護が電話での会話には拡張されないと思っていたことは、ある時代に政府が思想の表現でなく娯楽作品であるという理由で映画を自由に検閲できたことと同じくらい奇妙な印象を我々に与える。同様に、将来、サイバースペースが従来の倫理を受け付けない独自の環境であると考えることが奇妙に思える時がくるかもしれない。確かに1970年代、種やエコシステムなど倫理的考慮の新しい対象が認知されることで新しい環境倫理が成立した。しかし、マイケルフェルダーの結論では、新しい情報技術によって生じる倫理的問題を取り扱うのに新しいサイバースペース倫理は必要ではないのである。
ただし、マイケルフェルダーは、オンライン情報技術の発展によって深刻な倫理的難題が生じてこないと言っているわけではない。彼によれば、この難題は、サイバースペースの中で(in)暮らすことから生じてくるのではなく、サイバースペースとともに(with)暮らすことから生じる。電子情報技術が現実世界の多くの側面に迅速かつ決定的に埋め込まれてきたことこそが、我々の倫理的関心や哲学的な注目の主要な原因である。なぜなら、情報技術の変化が、我々の生活の質(the quality of our lives)に多くの現実的、潜在的影響をすでに及ぼしており、そして将来及ぼしうるからである。サイバースペースの登場が新しい道徳的条件を創り出すか否かが心配なら、直接サイバースペース自体を見るのではなく、それが日常生活の中で果たす役割を見る必要がある。
マイケルフェルダーの記述からヨナスの議論の要素をまとめると、以下のようになろう。
さて、まず難点から言うと、第1章最後のパラグラフでの論証が甘い。「知覚力も認識能力も関心も持たないような「自己」が倫理的考慮を要求するのは困難である」という主張がどのような根拠から可能であるのかが説明されていない。そもそも、倫理的考慮の新しい対象として挙げられている「自然全体」とて、人間のものと同じ意味での知覚力、認識能力、関心のいずれも持たないはずである。マイケルフェルダーが望む結論を導き出すには、「倫理的考慮を要求する資格」を明確に示す必要があろう。また、直後に語られる「今」「ここ」の重要性についても論証不足である。「今」「ここ」の重要性がいかなる意味で保存されるのか、そして、「伝統的な空間的時間的背景の補強」とは具体的にはどのような内容を持つのか、が論じられていない。「因果的効力」に関するマイケルフェルダーの議論は、枠組みとしては筋が通っているが、細部において議論が開かれたままの状態であり、全体としていささか不十分である。
上記の点を含め論証不足な点が目立ち、すでに主流となっている見解の後追いをしている感がなきにしもあらずではあるとはいえ、議論が泥沼化しがちな「サイバースペース」あるいは「ヴァーチャルリアリティ」という議題を扱いながら全体の論旨が明解であるところは素晴らしい。日本においても、サイバースペースが得体の知れない道徳的条件を我々にもたらすのではないか式の警告が無批判に垂れ流されることが少なくない。イメージに踊らされることなく地に足の着いた哲学的議論を継続してゆくためにも、本論文は適切な足がかりのひとつを提供している、と紹介者は考える。