出典:Anderson, J. G., and Aydin, C. E., (1998) "Evaluating medical information system:social context and ethical challenges." In: Goodman, K. (ed.), Ethics, Computing, and Medicine: informatics and the transformation of health care, Cambridge Univ. Press, pp. 57-74.
コンピュータによる(computer-based)医療情報システムの開発がすすめられているが、医療記録の大部分は紙面によった(paper-based)ままである。システムの導入(implemenation)と使用の主たる障害は、その評価基準と評価努力の欠如である。本論文では、歴史的、社会的文脈に即しながら、コンピュータによる医療情報システムが、(1) 職業上の役割や業務体系 (2) 個人と集団の職業上の関係 (3) 患者と患者のケア、にどのような影響を及ぼしているのかが分析される。そして、アンダーソンとアイディンは、質の管理や危機管理や財政効率性とは関係なく、システムを評価する倫理的な要請があることを論じる。以下、論者の章立てにそって議論を見る。
医療におけるコンピュータ利用(medical computing)は、医療やコンピュータ利用だけではなく、確立された社会規範や実践を持つ環境へ新たな道具を導入することにも関わる。その影響は、正確さや性能のみならず、使用者による受け入れや社会とのやりとりおよび職業上のやりとりに及ぼす帰結や使用の文脈の分析も必要とする。医療におけるコンピュータ利用に関するシステム評価は社会的、倫理的問題を明るみにし、患者のケアの向上にも役立つ。
臨床データ(clinical data)と研究データ(research data)をコンピュータ化する試みは1950年代に始まったが、多くの臨床情報システムは1960年代から70年代に生まれた。1980年代までに、コンピュータ技術は統合された医療情報システムの開発を可能にした。これらのシステムは、多くの場所から患者の情報を受け取り、処理し、臨床や財政に関するデータベースを整備し、システムを通じてこれらのデータを利用できるようにするものである。
1990年代の医療情報の収集、記録、蓄積、伝達の大きな進歩によって、コンピュータによる患者の記録システム(patient record system)が実用可能になった。このシステムの利点として次の三点が挙げられる。
(1) 医療記録(medical record)の管理およびそれへのアクセスが改良されて患者のケアも向上すること。
(2) 患者記録の自動的な閲覧(automatic review)によって、臨床上の意思決定の支援がもたらされ、経費が抑制され、ケアの質も向上すること。
(3) 臨床および財政に関するデータベースの分析によって、医療の業務と方針が導かれること。
医療の改革と管理医療(managed care)の成長によって情報技術の医療への導入が促進されている。医療の管理経営者(administrator)が、主に経費を削減する目的で、医療情報システムに大量に投資するからだ。彼らは同時に、こうしたシステムの利用によって患者のケアの質を向上させ得るとも考えている。しかし、医療記録の大部分は依然として紙面によったままであり、患者データの内容、フォーマット、アクセス、検索、リンクに大きく制限がかかり、多くの時間も割かれている。
医療研究所(IOM)の報告によると、コンピュータによる患者記録は患者のケアの質およびそれにかかる費用とに次のような影響を与え得た。
(1) 臨床データの質とそれへのアクセスが改良される。
(2) 患者が今までに様々な所で受けた(over time and among practice settings)ケアのデータが統合される。
(3) ケアするにあたって医療従事者(practitioner)が使う医学的知識へのアクセスが容易になる。
(4) 余分な検査やサービスを減らし、職員にかかる経費を削減する。
しかしながら、ある調査によれば、これらのシステムの使用が経費節約につながるという証拠は乏しい。また、ほとんどの医療施設ではシステムの潜在的利益を引き出せていない。加えて、使用者の抵抗によってシステムの功率性が損なわれている。実際、かなりの数のコンピュータシステムが使用されていないという調査結果も出ている。医療における技術革新の多くは、その費用効果(cost-effectiveness)が立証される前に、現場にすばやく広まるものだ。ところが、医療情報システムに関しては、医師たちが、患者のケアがもたらされるという利点を認識しているにも関わらず、限定的にしか採用されていない。これを評価するのは重要なことである。
コンピュータによる医療情報システムをうまく導入して使用するには、技術の詳細を伝達すること(the transmission of technical details)とシステムの設置可能性(the availability of systems)が重要だが、これだけでは足りない。この技術は重大な社会的、倫理的問題を生じさせるものなので、厳格なテストと評価の手続き(evaluation procedure)を欠かすべきではない。
システム評価研究は、システムの導入と社会的、倫理的問題との相互作用に焦点を合わせており、医療提供に及ぼす影響を予測するのに役立つ。初期の研究では臨床医療におけるコンピュータの採用や普及や使用や衝撃などに影響する要因を対象としていた。近年では、システムが、組織の構造や個人と専門家集団の業務状態や医療の費用効果に及ぼす影響を評価するための指針を提供している。システム評価の指標には次のような10個の質問が用いられてきた。
システムは
次節からは、コンピュータによる医療情報システムが、(1) 職業上の役割と業務様式 (2) 個人と集団との職業上の関係 (3) 患者と患者のケアにどのように影響するかを示すことで、多くの社会的、倫理的問題に光を当てる。そして、そこから、システム評価の倫理的な重要性が明らかにされる。
医師が情報システムを採用するのが遅い理由として次のことを挙げる論者もいる。
(1) 医師は、臨床経験に基づいて判断を下すことに強い信念を抱いており、自分の経験の外側にある標準化された規則や基準に従うことに抵抗感がある。
(2) 医療記録は医師の思考過程を表し、医師それぞれの臨床の流儀と密接に結びついており、それを電子化することは臨床での推論過程に影響する。
(3) 医師の多くは勤務医であり、病院からあまり自律(autonomy)を発揮しないように求める。彼らはコンピュータ化された医療記録を使用することでさらに自律が損なわれることを恐れている。
特に(3) に関しては、臨床での決定が直接抑圧または管理されることになるかもしれない。たとえば、患者を入院させるかどうかの決定に第三者の承認が必要になるだろう。医師は、患者の代理人として治療する一方で、組織の(organizational)規則を固守することに倫理的ジレンマを抱えている。
伝統的に、医師の職務遂行についての情報が入手できないことによって、医師の自律は支えられてきた。そして、管理経営者や一般の人々は、医療の費用効果を決定する術を持たなかった。その結果、多大な医療費に関して医師の責任を問うことはできなかった。しかし今や、コンピュータ技術の進歩によって、個人の業務歴(individual practice profiles)の作成と臨床プロトコル(clinical protocols)や業務ガイドラインの実行が可能になり、医療従事者の臨床における業務を監視し規制できるようになった。
医療組織の管理者は、生産性を向上させ経費を削減するために、医療業務を管理するシステムを使用することに積極的である。システムを導入し組織を合理化することによって、臨床業務の管理は、医師自身が課す専門職上の規範や基準の管理から、業務をチェックし構造化し標準化するようにつくられた組織の取り決めへと移行した。
業務歴を一般的な基準や標準と比較することで医師の業務は評価されるが、業務歴の使用に関しては次の問題点が挙げられる。
(1) 病院や管理医療組織は、業務歴をケアの質を保証するよりも経費を管理する目的で使用している。
(2) データベースには不正確なデータ、情報の紛失などが含まれる。これは、ほぼ払い戻し請求 (reimbursement claims)から生じている。
(3) 医療の質を測る努力に乏しく、成果も得られていない。
(4) 誰が医師個人や健康管理組織のデータにアクセスするのか、また、一般の人々が医師や組織の質を査定するためにどの程度使用されるべきなのか、という点が明らかでない。
医療情報システムは他の医療従事者にも広く影響をおよぼす。医療が効率的であるためにはシステムデザインが個人および組織単位で遂行される業務にとって適切なものでなければならない。医療情報システムの評価研究は、その導入の成否が、適切な訓練および支援、職場の状況、組織構造にどれほど依存しているのかを調べるのに必要とされる。すなわち、医療情報システムが導入された場合に社会システムに及ぼす影響や相互作用を調べるシステム評価研究が必要なのだ。
統括された医療情報システムは、医療組織において、費用効果に重きを置く管理経営者と専門家として自律して業務を行うことに重きを置く現場の医療従事者との関係に影響を及ぼす。これがシステムや情報技術の利用の障害となっている。主要な問題は、医療情報システムが医療業務の様々な側面を標準化するために用いられることから生じる。医療の特徴は、その場その場に応じた判断と対応であって、それは組織化された構造や形式化された規則とは無縁かもしれない。
医療組織の管理者は医療従事者の業務を計画して整える責任がある。多くの管理者は医師であるが、医師が他の医師に従うような状況は、医療従事者間の関係を変化させる。管理者としての医師と現場の医師とでは医療についての考え方が異なるのであって、この違いから職業上の対立や緊張が生まれるのだ。
組織化された情報システムの使用にあたっては、部署同士でデータを共有する必要がある。その結果、医療の手順(work process)が管理されてしまう恐れもあるが、業務の効率化は進むであろう。患者のケアには様々な専門家が関わっている。医療情報システムがうまく機能するためには、専門家集団間での話し合いが重要である。
医療情報システムの使用は、患者と患者のケアに思いがけない影響を及ぼしている。不十分なシステムのデザインや失敗によって、患者は、生命、幸福、生命の質の点で新たな危険や被害にさらされている。こういう場合、システムの開発や利用にあまりに多くの人が関わっているため、個人や組織の責任追求には限界がある。たとえば、放射線治療を管理するコンピュータが故障して患者が死傷した事例では、システムの信頼性や医療現場の怠慢など広く責任が問われた。また、コンピュータによる調剤システムを導入した病院が調剤ミスを恐れてシステムの使用をやめた事例もある。これは、このコンピュータシステムと医療従事者のやりとりに問題があり、医療ミスが起きた場合にその責任の所在が特定できないためであった。
一方、コンピュータが臨床での決定や結果の予測等に利用され始めたことで、医療における意思決定の責任の所在も変化している。一つの問題は、コンピュータの判断がどれほどの客観性を持つものなのかという点である。コンピュータの判断基準も様々な文脈で解釈される。システム評価は、これがどれほど客観的かを判断する必要がある。もう一つの問題は、患者にどういう情報を与えるかという点だ。患者もコンピュータ技術によって診断や治療の選択に関する情報を与えられて戸惑っている。患者は、情報を得ることで自己決定の権利を獲得することにもなり得るし、無責任な情報によって責任を負わされることにもなり得る。与えられる情報によって患者の決定は変化する。システム評価の研究には、患者に実際によりよい結果をもたらす意思決定をさせるシステムを判断することが求められる。
コンピュータによる医療情報システムを医療組織に導入することはサイバネティックスの過程と考えられる。医療の専門家達が動的に(dynamic)平衡を保とうとする一方で、コンピュータによる医療情報システムの使用の広まりは、これまで患者のケアについて決定を個々の現場の人々や部署へと分散していた組織の社会構造を変えてしまう可能性がある。部署内での関係と同様に資源や権力の分配にも影響を与えるだろう。医療従事者は、システムがもたらす業務の遂行における変化と有用性を認識した上で、自分達の業務や職業上の規範の継続した管理をうまく切り抜けようとしている。
いまだに医療情報システムの受容と普及の障害になっているのは、システム評価の基準がないことと評価の努力がなされないことである。これらのシステムは患者、医療を提供する人・組織、第三者、国や州の機関そして社会全体に影響を及ぼす。ほかの医療革新と較べて特に、医療情報システムをうまく導入することは職業上の価値や規範にとって重大であるように思われる。包括的なシステム評価研究は、組織が、システムの治療にもたらす潜在的利益とそれが及ぼす否定的な影響とを比較考量するのに役立つだろう。