水谷雅彦「インターネット時代の情報倫理学」

貸川聡子

この論文は、越智貢･土屋俊･水谷雅彦編『情報倫理学　電子ネットワーク社会のエチカ』の第一章に収められている。「情報倫理学」とは何であるのか、そこでは具体的にはどんな問題が扱われているのか、ということを概観するのが本章の目的である。

情報倫理とコンピュータ

「情報倫理学」は、応用倫理学の各領域を情報という観点から総合的に研究しうる、基礎学としての性格を持つべきであり、いわゆる「コンピュータ・エシックス」とは概念上必ずしも一致しない、ということを筆者は強調する。このことに留意しつつ、とくにコンピュータに関わる倫理問題について、その主な原因となるコンピュータの特質を取り上げて論ずる。

現代社会におけるコンピュータの「遍在化」は、コンピュータへの無意識的依存を増大させている。そして問題なのは、そういった依存の対象であるコンピュータ・システムが「欠陥」を前提とされたものであり、必然的にコンピュータに対する「責任」も希薄になっている、ということである。責任の希薄さはコンピュータの「専門家」の存在を疑わしいものにする。ある技術に対する義務や責任に関わる「職業倫理」(Professional Ethics)を担うべき専門家が、情報技術の領域には存在しないのである。

情報倫理の諸問題

プライバシー

(1)プライバシーとはいかなる権利か

プライバシーの権利とは、一般に、個人の私生活に関する事柄がみだりに他人の目にさらされない権利、あるいは「ほおっておいてもらう権利」（right to be let alone）だといわれている。ただ留意すべきは、プライバシーとは他者との関係性の中で成立する相対的な性質のものであり、絶対的に私秘的な領域というものは想定されてはいない、ということである。また、プライバシーの権利は自己に対するアクセス権を自らコントロールする権利という側面も持つが、この権利は当人の自覚なしに阻害される場合がしばしばある、という問題がある。　　

(2)電子ネットワークとプライバシー

電子ネットワーク時代においては、従来の社会よりもプライバシーに関する問題は大幅に広がっており、この時代に即した形でのプライバシーの権利の再検討が必要となっている。またそれは同時に、この時代における｢公と私｣という大きな問題にもつながる。ここでプライバシーに対する脅威となる具体的な要素として、筆者は(1)保存可能なデータ量の増大、(2)データ処理速度の増大、(3)情報の転送速度の増大、(4)情報の流出可能性の増大、の4点を挙げている。

｢有害｣なコンテンツとその規制

　これまでになされてきたポルノグラフィーや名誉毀損、プライバシー侵害などの表現の自由に対する規制についての議論は、各国の既存の実定法レベルでの議論にすぎなかった。しかし、インターネットのような国際的な情報流通が容易である現在において、電子ネットワーク上の｢有害｣コンテンツの規制にこれまでの議論を適用するには無理がある。そこで、国際化と新しいテクノロジーへの対応が必要となるが、現在では未だそれぞれの国が既存の法律や新立法によって対応しているだけのように思われる。ここではその例として、日本とアメリカにおけるコンテンツ規制についての考察がなされている。

(1)現行刑法の適用の問題（日本の場合）

日本におけるコンテンツの法的規制で典型的なのは、ネットワーク上での猥褻画像頒布の容疑で逮捕される、というものである。ここでは、電話会社あるいは放送局を対象とする規制をプロバイダなどコンテンツの管理者に適用したり、リンクという概念が引用やコピーなどの概念とのアナロジーで考えられるなど、既存の法や概念では説明しきれないものに対する相当に無理な適用がしばしば試みられている。

(2)新法立法の問題(アメリカの場合)

アメリカでは、この問題について｢1996年通信品位法｣Communication Decency Act of 1996(CDA)という新法の制定による対処が試みられた。これに対しては大きな反対運動が起き、最終的に連邦最高裁が97年6月に違憲判決を出しCDAは廃棄された。一般に表現の自由に対する法的な規制が認められる条件としては、(1)検閲などによる事前規制でないこと、(2)｢明白かつ現在の危険｣(clear and present danger)という基準を満たしていること、(3)同様の目的の達成のために表現の自由に反することがより少ない手段が他にないこと、(4)曖昧な表現による規制でないこと、が挙げられる。CDAは広範すぎる規制であり、その表現も曖昧であるという点でこれらを満たしていなかったと考えられる。[1]

(3)新しい対処法(情報フィルタリングの問題)

CDAの違憲判決などをうけ、｢有害｣コンテンツへの対処法は、最近では受信者がソフトウェアなどを使ってフィルタリングする、という方向に変化しつつある。ただソフトウェアのデータベースによるものには限界があるため、考えられたのが発信者による自発的なレイティング(格付け)をもとにしたフィルタリングである。これは、発信者の自発的レイティングと受信者による自主的選別という点で、｢民主的｣でかつ電子ネットワークの特性を考慮したもののように思われる。が、この方式にも管理者側の恣意的なフィルタリングの可能性など問題はある。また、根本的に考えるべきなのは、情報というものにレイティングをつけるということはどういうことか、ということである。猥褻な画像といったものはまだしも、例えば同性愛についての議論や文学作品などにみられるような｢言葉｣そのものなども基準の対象とするのはかなり危険なことであろう。

(4)管理者の憂鬱

個々のウェブサーバの管理者が抱える、コンテンツ規制の問題に対する現実的対処法について考察する。よく用いられる手段として、利用規程を作り利用するメンバーに周知徹底しておくことがある。しかしこれも規制の対象の線引きなど、微妙な問題を含んでいる。情報倫理学のさらなる射程

今後の情報倫理学の射程は、個別問題の列挙だけでなく基本的な点から｢情報｣という概念を考察すること、そして情報化時代に対応した新たな倫理学理論をさまざまな領域において構築することにあろう。情報技術は発達することが絶対的な理想だとみなされているため、生命倫理や環境倫理においてあるように、テクノロジーそのもののあり方が問題にされることは情報倫理においてはあまりない。そこではいまだ、テクノロジーの善用／悪用論が問題にされているにすぎない。しかしここでもやはり、既存の規範システムを個々の新しい問題に当てはめるというだけでなくて、｢情報｣という概念に関する踏み込んだ考察と再検討が必要であると思われる。

例えばそれは、コミュニケーションという領域にもあてはまる。電子ネットワークは、ファイル転送や電子メールの利便性について見れば、コミュニケーションを確実に促進している。ここではこのことに対する根本的な批判と賛同が取り上げられている。前者は、ポール・ヴィリリオの「速度」論である。彼のユニークな批判は、テクノロジー善用／悪用論にとどまらず、かつ素朴なテクノロジー全否定でもない、情報倫理学の中で新しい役割を担いうるものである。後者のマーク・ポスターは、電子ネットワーク上のコミュニケーションは直接民主主義の理想の実現を可能にする、とまで主張する。電子ネットワークには、これまでコミュニケーションの阻害要因となってきた人間的属性(人種、性別、財産など)から解放されうる、という特性があるからだ。確かにこうした形式上の平等によって、一部の権力に独占されてきた公的な場への情報発信が、少数者・社会的弱者にも可能になる。しかし、これにも問題がある。まずこれの｢匿名性｣という特性が、情報の信頼度や情報発信の責任の所在という点で問題を引き起こしうる。それから、社会的弱者の解放という点も、障害、貧困、高齢などの理由による社会的弱者である人々は、現在のコンピュータ・システムでは逆に｢情報弱者｣となって一時的にせよ格差が増大してしまうかもしれない、という問題がある。しかしまた、こうした問題を考えることは高度情報化社会の将来的デザインを考えることにつながるだろう。

今後増え続けるであろう個別問題をすべて予測するのは不可能である。だからこそ、情報倫理学には、問題の考察を通じて将来の情報社会への提言を行なっていくという課題も存する。

註

[1]　98年7月には、未成年保護に特化し規制を商用目的のサイトに限った「児童オンライン保護法」Child Online Protection Act(COPA)が成立しているが、これも本年6月、非ポルノのサイトにまで影響を与えかねない点などで違憲と裁定されている（政府の見解は現在出ていない）。

(かしかわさとこ京都大学文学部)

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