今年4月に厚生省は「遺伝子解析研究に付随する倫理問題等に対応するための指 針」を示した。日本では、遺伝子解析研究の倫理面を重視した統一的な指針がなく、 各医療機関および研究者が独自の対応を取っているのが現状である。厚生省の指針 は、この現状を受けて、遺伝子解析研究の共通の指針となるべく示されたものであ る。この指針では、個人情報の保護と、自由意志に基づく提供者のインフォームド・ コンセントが試料提供の大前提となっている。本報告では、この指針の大前提を確認 した後で、今年2月に新聞紙上で報道された遺伝子解析に関する事件を通じて、厚生 省の指針の問題点を指摘してみたい。
http://www.mhw.go.jp/topics/idensi/tp0530-1_b_6.html#para-b
個人情報のなかで、個人の氏名・身元など、人物を特定する情報は個人識別情報と 呼ばれる。例えば、氏名・生年月日・住所・電話番号の他、患者一人ひとりに付され る診療録番号等である。試料等に関する情報の内、それだけでは人物を特定できない 情報であっても、各種の名簿など他で入手できる情報と組み合わせることにより特定 できる場合には、個人識別情報に含まれる。
研究機関は、ある人の個人識別情報を含む情報が外部に漏洩しないようにするた め、匿名化を行なわねばならない。匿名化は、個人情報の中から、個人識別情報の全 部または一部を取り除き、代わりにその人と関わりのない符号または番号を付すこと によって行われる。
匿名化には次の2種類がある。
匿名化の作業は、研究機関内の個人識別情報管理者が行う。外部の研究機関へ試料 提供される場合は、匿名化された試料が提供される。
試料等の提供を依頼する際には、十分な説明をした上で、文書で同意を取らねばな らないとされている。十分な説明がなされるべき主たる事項は次の通りである。
このような説明を受けて、提供を依頼された人は自由意志に基づいて同意するか否 かを決定することになる。
国立循環器病センター(大阪府吹田市)が吹田市民約5000人を対象に実施している健 康診断で採取した血液を用いて、受診者の同意を得ないまま遺伝子解析をしていたこ とが今年2月に明らかとなった。ほぼ同時に東北大学医学部(仙台市)と九州大学医学 部(福岡市)でも遺伝子の無断解析が行われていたことが分かった。新聞記事による と、概要は以下のとおりである。
A) 国立循環器病センターでは、96年5月から98年2月にかけて健康診断とは別に血液 を採取し、98年5月から99年8月にかけて高血圧の発病に関係している可能性のある13 種類の遺伝子を解析した。健康診断とは別に血液を採取する際に、高血圧に関する研 究試料として用いることを説明して文書で同意を取っていたが、それが遺伝子解析に 使用されることや解析される遺伝子の種類についての説明はなされていなかった。 (毎日新聞00/2/2~3)
B) 東北大学医学部は、94年から岩手県大迫町民の健康診断で採取した血液約250人分 について、99年11月までに遺伝子解析し、特定の遺伝子情報と高血圧の関連性などの 研究に使用した。健診の会場で住民に配布された同意書には、(1) 血液や生活習慣と 脳卒中との関連を明らかにする研究であること。(2) 採血して検査済みの血液を保管 し、将来の調査研究の試料にすること。(3) 迷惑をかけないように個人名は絶対に出 さない。以上の3点が示されていたが、遺伝子解析を行うことは説明されていなかっ た。(毎日新聞00/2/3)
C) 九州大学医学部は、99年春に福岡県久山町民約2000人から採取した血液を使って 無断で遺伝子解析を実施した。同医学部は約40年にわたって同町で集団健康診断を 行っていた。「健診を通じて長年の信頼関係があり、特に遺伝子解析についてイン フォームド・コンセントはとらなかった」と、解析を行った第二内科講師はコメント している。(毎日新聞00/2/3)
以下では、上記の厚生省の指針を基に事例A・B・Cについて私見を述べたい。
3つの事例で問題になっているのは、インフォームド・コンセントである。
まずここでは、試料提供の大前提であるはずのインフォームド・コンセントが行わ れていない。確かに、遺伝子解析を実施した研究者達に悪意があったわけではないだ ろう。また、町民が具体的な被害を受けたわけでもない。しかし、だからといって、 インフォームド・コンセントを行わなくてよいことにはならない。悪くいえば、信頼 関係を逆手に取って、患者の自己決定権を無視しているともいえる。患者の自己決定 権は現在の医療において最も重要視されるべきものの一つである。この事例では、こ うした認識が徹底されていないことが問題である。
この場合、インフォームド・コンセント自体は行われている。問題は、それが十分 な情報を与えていないところにある。結果として、提供された試料は、インフォーム ド・コンセントの際に提示され提供者が同意していた範囲を超えて研究に使用されて いる。
厚生省の指針のなかで、特に事例A・Bに関連してくるのは、研究の目的および方法 の部分である。厚生省の指針によれば、提供者が同意する際に、目下の使用目的に加 えて、将来、解析される遺伝子が追加されたり研究の目的や方法が変更される可能性 も含めて同意すれば、以後は個別に同意を得なくても他の研究に使用することが可能 になる。これは、「包括的同意」と呼ばれる概念である。
「包括的同意」を事例A・Bに当てはめてみると、試料提供を求める時点で、その試 料を遺伝子解析にも用いる可能性が予測できており、インフォームド・コンセントの 際にその可能性も説明して同意をとったなら、問題はなかったことになる。
まず、研究計画の拡大や目的・方法の変化などが、試料提供を求める時点でどの程 度具体的に予測できるものなのか、という点が問題になる。例えば、次のような場合 を考えてみよう。過去に採取した試料を新たな研究に用いれば、有益な結果が得られ ると予測できる。しかしその試料を採取した時には、そのような新たな研究に用いる 可能性が予測できず、それについては提供者の同意を得ていなかったとする。このと き、上の指針に厳密に従えば、「包括的同意」は得られていないのだから、過去の試 料を新たな研究に用いることは許されない。得られるであろう有益な結果はあきらめ るしかない。これは研究の進展を妨げることになるだろう。(ただし、厚生省の指針 が適用されることになった場合、指針が出される前に提供された試料は、原則として 実験に用いることができなくなるが、研究機関の倫理委員会が研究内容や提供者に与 える影響などを審査した上で承認すれば同意を得ていない範囲での使用も可能とされ ている。指針が出される前に提供された試料の扱いは問題になるだろう。)
このような事態を回避するために、「包括的同意」を緩やかに用いることが考えら れる。すなわち、「包括的同意」を得る時点で、新たな研究の可能性を広く設定して おくということである。これにより、指針に厳密に従う場合よりも、採取した試料を 結果として有効に利用できる機会は増えるかもしれない。
しかし、どの程度まで試料の使用の拡大が許されるのか。研究者にとっては、試料 の使用拡大はより有効な研究結果を得るための手段であり、そこに悪意があるとは限 らない。しかし、結果として、試料のなし崩し的な拡大使用につながりかねない。逆 にいえば、提供者は最初に同意してしまえば、以後は提供試料が何に使われても文句 は言えないということにもなりかねない。
研究機関が研究計画の拡大の可能性をどの程度予測できるものなのかという実際問 題と、「包括的同意」をいかに解釈して上の予測をどの程度具体的に示すかという解 釈の問題があるといえる。指針の運用に当たって、これらの問題を慎重に検討するこ とが非常に重要な課題である。
他方、試料提供者側も次のことに留意すべきである。すなわち、遺伝子解析によっ て得られる情報は非常に有用なものである。しかし、それは厳重に管理されなけれ ば、自分が知りたくない情報を知ってしまったり、悪用される可能性もある。例え ば、ある特定の疾患にかかりやすいという理由で、(就職や保険の加入などの際に) 差別されることもおおいにあり得る。もちろん研究機関は個人情報の保護に全力を尽 くすであろうし、尽くさねばならない。それを信頼し、万が一のリスクも十分考慮し た上で、我々は医学研究に協力を求められた際に試料を提供するかどうかを判断する 必要があろう。